第762話 エピローグ 侯爵家に忍び寄った影(第三者視点)
「ここに」
言葉と同時に男は人差し指を弾いた、何か小さな破片が飛ぶ。
「いつっ!!」
次の瞬間、侯爵顎先のあたりに針で刺したくらいの小さな傷が付いた。
「ぶ、無礼者ぎゃァっ…あ、あがががっ!!」
大した傷でもないのにオーシ・ペドフィリーの語尾があやしいものになり仰向けにひっくり返る。
「こ…」
「侯爵様ァッ……」
側近たちの視線がオーシ・ペドフィリーに集中する。それが命取りになった、平伏の姿勢から身を起こし何かをした名も知らぬ男から視線を外してしまったのだから…。
男が再び腕を振るった。今度は側近たちの顔や首あたり…、鎧や衣服のない素肌の部分に侯爵と同じような傷が生まれた。
「なっ!?この下郎がっ!」
側近のうちの一人、鎧に身を固めた近衛の男が腰の剣に手をかけるがすぐにブルブルと体を震わせ倒れた、鎧が地面と勢いよくぶつかったのに何ひとつ音を立てない。武装をしていない他の取り巻きたちも似たようなものだ。床に倒れたり、テーブルにもたれかかったりと身を震わせ体に力が入っていない。そんな彼らに男は再度腕を振るった、またもや放たれた小さな何かが再び取り巻きたちに当たると彼らは体の震えもなくなり声さえも上げなくなった。この間、十秒もかかっていない。
「な、何を…しただがや…」
荒い息をしながら苦しげに侯爵が問う。
「これ…」
男は両手の甲を前にして侯爵に見せた。
「毒を塗った…付け爪…。ひとつ当たればいずれ死ぬ、ふたつ当たればすぐに死ぬ、みっつ当たれば腐り落ちる。残るはひとつ…」
親指の爪の上に重ねて貼り付けている付け爪を男は示した、その目に意思の光は無くその動きもどこか不自然。まるで人形師が糸を引く操り人形のようだ。
「な、なぜ…だぎゃァ…なぜ…」
「…お前がゲンタを殺そうとしたから」
聞き慣れない声が響いた、それはこの部屋にいる誰のものでもない少女のもの。部屋の片隅にやや暗い場所があった、その暗がりがどんどんと凝縮されどんどんと黒さを増していく。そしていつしかそれは人の形を成していく。長い黒髪、それと合わせたような黒い服、赤みを帯びた色の瞳が特徴的な少女が現れた。その少女がふわりと宙に浮く、どう考えても常人ではない。
「私の一番大事なものを奪おうとした…、やれ…」
少女がそう言うとそれまで静止していた男がその手をオーシ・ペドフィリー侯爵に向けて親指を畳んだ、それもゆっくりと…。先程までの電光石火の動きを見せていた男が今は妙に緩慢な動きをしている。
「ヒッ、…や、やめ…やめ…だぎゃ…」
侯爵は震えながらも広げた手をわずかに前に伸ばし待ってくれと訴える。
「お前がゲンタにしようとした事…やめない…」
男が指を弾くと付け爪が飛ぶ、もはや満足に動く事も出来ない侯爵にかわす術はない。その前に伸ばした手に放たれた爪が当たるとがくりと首が床に落ちた。
「……………」
侯爵が二度と物言わぬ体になると黒髪の少女…、闇精霊のカグヤは床へと降りていく。しかしその足が床に着く事はない、音も無く水面の中に入っていくようにその体が沈み込んでいく。そしてその姿が完全に消えた時、もはや動くものなど誰もいなくなったその部屋の中で激しい物音が起こる。武装した男が倒れ床と鎧がぶつかる音、その他にも人が倒れる音、テーブルから落ちた使用人を呼ぶ為の鈴の音…。それらが一斉に…、思い出したかのように派手な音を立てた。部屋の外からバタバタとした足音がやってきて乱暴に部屋の扉が開いた。部屋の外を守っていた衛兵たちである。
「侯爵様、いかがなさいました!?」
「今の物音はッ!?うっ!!」
部屋の中では侯爵や側近が倒れている。その誰も彼もが口元から血を流しグッタリとしており息もしていないようだ。その近くではただひとり、侯爵に向け手を向けている男がいた。唯一の生存者、その男に室内でも振るえる短槍を手にした衛兵たちが詰め寄る。
「貴様、何をした!!」
その時、男の目に意思の光が戻った。
「…なっ、こ…これはッ!?」
今までの記憶が何ひとつない男は倒れている侯爵たちを見て戸惑った、さらにその状況で短槍を持った衛兵が迫っていた。暗部として生きる長年の習慣か、男は自分に迫る衛兵の短槍の柄を払ってしまった。
「貴様ァーッ!手向かうか!!」
「ち、ちが…」
「ええい、討てェェ!!」
慌てて反抗の意志は無い事を示そうとした男だが衛兵たちは明らかに敵意だと判断した。こういう時に衛兵たちには瞬間的な判断が求められる、そこでは釈明の機会なども与えない。取り逃す事がないように即座に討ち果たす事が求められる、何本もの短槍に串刺しにされ男は息絶えた。
今回の件の原因となったゲンタを暗殺する事は現当主オーシ・ペドフィリー侯爵とその側近、そしてこの男と返り討ちにあったスナイ・ペドフィリーのみが知り得ていた事だった。前侯爵のコーイン・ペドフィリーが起こした醜聞がきっかけだっただけに詳細は他の者に伏せられていたのだ。こうして現当主とその腹心たち…、実質的に侯爵領を動かしていた者たちが全て亡くなった事で侯爵家はたいへんな混乱に陥った。
継承権を巡って肉親たちが争い、臣下の者たちは誰を担ぐか…そして担いだ者を侯爵家の主とする為に暗躍を始める。何ひとつ真相が分からないまま次の当主の座を求め、臣下たちはここで手柄をあげ己の立場をより盤石にしようと動く。侯爵家が広大な領を持つこともありその跡目争いは大きなものとなった。これまでの遺恨や野望が交錯し、もはや領外の事など気にしている暇はない。ひとまず当主たるオーシ・ペドフィリー侯爵の事を病死と王都に届け出て侯爵家はしばらくは喪に服すとも報告した、この間に跡目を決めるのだ。
こうしてペドフィリー侯爵家とナタダ子爵家のいざこざは一応の決着をみた。しかし水面下ではもうひとつ、オーシ・ペドフィリー侯爵が目論んでいたミーンの町へ放った騒動の種が芽を出そうとしていた。




