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第760話 忍び寄る影(第三者視点)


 「った…」


 鉛を塗った精霊破りの矢を氷の壁というスナイが思いもよらぬ方法で一度は防いだゲンタとかいう若い商人の男…。だが、その白い氷の壁を見てスナイの刺客として本能が囁く。最大の好機が今ここにあると…。


 鉛を塗った鉄の矢を空に向けて放つ時の低く重い弦の音、それが意外に大きな音を響かせた。本来なら音を立てるのは刺客としては禁忌、だがスナイは構わずに連射をする。それこそ上すら見ることなく…、今はとにかく時間が惜しい。相手に放った矢を対処する暇を与えない、ここが勝負所だ。一瞬でも早く矢を放つ、その為には首を上げて視線を氷の壁に向けるよりも早くひたすらに矢を放つ必要がある。首を上げて矢の軌道を確認をするのはその後でも遅くはない。ゲンタとやらの位置、氷の壁の高さは頭に入っている。どの角度でどのくらいの力を込めて弓を引けば良いかは体が理解していた。間髪入れずに矢を次々と放つ。


 あたりは薄暗くなっていた。雲で日が陰ったのか、スナイはそう思っていた。放ち終えた矢の軌道を追い顔を上げる、後は氷の向こうで息絶えるであろう的の様子を探れば良い。そう考えていたスナイだったがそこに信じられないものを見た、驚きで目が大きく見開かれる。


 なんと仕留めるべき的の真上…、氷の壁の上に蓋をするように土の塊のように浮いていた。それはまるで雲のようであり先に放っていた矢はすでに刺さっていた。鈍い光を反射している。そして最後に放った矢も全てそれに刺さっていく、スナイが放った必殺の矢…それが全て防がれた事になる。


「こ、こんなはずでは…」


 最大の好機…、そう思っていたのに目にしているのは的に当たらず地面に刺さった自分の放った矢の末路…。言葉を失い愕然とするスナイにさらなる事態が迫る。なんと空中に浮いていた土の塊が自分に向かって落ちてきている。


 空に浮かぶ浮島のような土の塊を目にした瞬間に全力で逃げ出したとしても助かる見込みは限りなく薄かった。それを矢の行方を見て一瞬言葉を失い反応が遅れたスナイにもはや助かる術は無かった。あの氷の壁を見て感じた最大の好機チャンス…、あれは殺害の好機ではなくなりふり構わず自身が逃走する為の最後の好機だったのか…。落ちてくる浮島のような土の塊をどこか他人事のように眺めながらスナイが最後に感じたのはそんな自分の判断の誤りだった。


⬜︎


 信じられない事が起こった。


 ゲンタたちとスナイが命のやりとりをしている戦場からおよそ半マイル(約八百メートル)離れた場所で両者の戦いを見届けた御者の男は思わず声を洩らした。


「しくじったか…」


 正確にはただの失敗ではない、刺客であるスナイは返り討ちにされている。あの巨大な土の下敷きになれば助かる見込みなど万にひとつも無い。そうと分かればここに用はない。前侯爵と若い商人の男、この二人の暗殺しようとした結果を雇い主に伝えねばならない。馭者の男はスナイの監視役であると同時に連絡役でもあった。


 取るに足らない噂だと思っていたがあの男…、エルフでもないのに精霊の力を使えるようだ。


 きっと商人とは仮の姿。どうやら風、氷、土の精霊の力を行使する術士のようだ。それもかなり大規模な力を行使できる…、おそるべき相手だ。しかし、身のこなしは素人以下に思える。接近さえ出来れば討つ機会はいくらでもありそうだと推察する、あとはこの事を侯爵様に報告すれば良い。その後の事は追って沙汰があるだろう。


「幸い奴の方に次の動きはない…、スナイを討ってもう大丈夫だと油断しているのだろう。馬鹿め、後詰ごづめというのは必ずいるのだ。今はその首…、取らずにおいてやる」


 そう吐き捨てて男は馭者台に向かおうとする、しかしなぜか足が地面に縫いつけられたかのようにまったく動かない。


「な、なん…だ…。足が…動か…ぬ…。う、うわあぁ…」


 男が自分の足元を見てみれば足がズブズブと底無し沼にはまったかのように沈み込んでいる。馬鹿な、ここは湿地ですらない場所だ。それなのに足が沈み込んでいくなんて…。


「ど、どうしてだ!?なぜ足が沈む!?ぬかるみすらないこの場所でどこに沈むというんだっ…」


「闇の中だよ」


「えっ…」


 男が声のした方を見た、斜め上を見るような格好になる。そこには十歳を少し超えたくらいの黒髪の少女がいた。しかし常人でないのが分かる、なぜなら常にふわふわと宙を浮いているのだ。


「だ、誰だ…」


 男が問いかけるその間にも体はどんどん沈んでいく、もうすでに腹のあたりまで沈んでいた。


「お前…、ゲンタを殺そうとしたな」


 黒髪の少女が呟いた、ひどく冷たく暗い声で…。誰より深くゲンタを愛する闇精霊シャルディエの少女カグヤである。


「お、お前、あの男の知り合いか!だが、やったのは…お、俺ではない!やったのはスナイで…」


 暗部に属する者がこんな簡単に口を割る事はない。しかし男は現れた少女の底知れぬ存在感と自らの身に及んでいる不気味な現象に平常心を失っていた。


「許さない…」


 黒髪の少女が静かにゆっくりと呟いた。


「許さない…。許さない。許さない、許さない許さない。ゲンタは私の全て、それを奪おうとするなら絶対に許さない」


「うわあああっ!!」


 男が悲鳴を上げた、急に巨大な手で足を掴まれ真下に引きずり込まれた感覚になる。事実、男は首から上だけを残して地面に引きずり込まれている。


「そこは闇の中だよ、もうお前にまともに生きられる日は来ない…」


 少女がそう言うと男の前には地面から真っ黒の巨大な手が現れた、その手が開かれる…。


「や…、やめっ…」


 男が懇願するような声を上げた、だがその声が届く事はない。怯えたネズミに猫が大口を開けて飛びかかるように真っ黒な手が男の頭を引っ掴みその影の中に引きずり込んだのだった。



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