第631話 婦人外交は女の戦い?
今話が不完全な状態で掲載されておりました。
まことに申し訳ありません。
現在、修正が完了しております。
(2024.12.19 13:30)
「急ぎ妾の唇を美しく飾る物を急ぎ用意してたもれ」
ついさっき火を付けた角砂糖に染み込ませたブランデーの香りがやんわりと漂っている、鼻をくすぐるそれはややもすれば飲んでもいないのに人を酔わせる…、そんな甘美な香りであった。
「ふふふ、ゲンタにも見せてやりたかったわえ。妾の唇を見た奥方たちの…、とりわけオーグリー子爵家の先代奥方…サレーヌ様の顔は…ふふふ」
そのブランデーの風味が染みた角砂糖に紅茶を淹れたものを口を付けながらラ・フォンティーヌ様が笑みを浮かべる。初めて飲んで以来、奥方様はこの飲み方がずっとお気に入りだ。火を付けた事でブランデーに含まれるアルコールは飛んでしまっているのだろうけれど、そこは酒を口にしたという脳の理解がそうさせるのか、普段は凛としつ領を守る子爵夫人としてその責任感からか感情をあまり表に出さないラ・フォンティーヌ様が今日は珍しくその少し弾む声や笑みを隠そうともしない。
ここはヒョイさんが経営する社交場の個室の一室、ゴクキョウさんがプレオープンした宿屋に泊まりヒョイさんの劇場で観劇したりしているセレブの皆さんたちとの会合を終えたラ・フォンティーヌ様が寛いでいる。ちなみに先程出てきたオーグリー子爵家の先代夫人というのは僕がシャンプーやボディソープを買ってくれたオマケにリップグロスを渡した中年くらいの年恰好をした御婦人の事らしい。そのサレーヌ様は先日リップグロスをつけてラ・フォンティーヌ様と会ったらしい。その時の様子は侍女のコレットさんによると髪や美貌はラ・フォンティーヌ様の圧倒的勝利だったそうだが、サレーヌ様の唇だけはその存在感を物語っていたらしい。
「急ぎ妾の唇を美しく飾る物を急ぎ用意してたもれ」
それを受けてのラ・フォンティーヌ様のリクエストだったようだ。
なんでも貴族の方々はこういう旅行などお出かけの際はただ余暇を楽しむだけでなく、その地の重要人物に会うというのも大事な目的であるらしい。それはその貴族の当主や使者の任を与えられた人だけでなく、奥様方同士での面会も盛んに行われるらしい。いわゆる夫人外交というのものだろう、そこで女性ならではの様々な情報交換などが行われるらしい。
だけど、そんな夫人外交とやらも情報交換や顔合わせだけが行われる訳ではないらしい。着ている物や装飾品、香水なんかのお披露目会…そんな場になってしまう事も珍しくないそうだ。
「今回は特にそうであったわ。髪や体を洗うあの品々…、あれを手にした奥方たちは早速使い始めてのう…。ほれ、手触りが…まとまりが…そんな風に言うて喜んでおったわ…。まるで欲しがっていた玩具をようやく手に入れた…、幼い童のようにのう…」
そう言って奥方様はティーカップをテーブルに置いた、見ればカップは空になっている。僕はお代わりの用意をしようとした、そこに奥方様から声がかかる。
「注いでたも、グラスではなくこのカップに…」
奥方様から二杯目のお求めだ、だけど二杯目に欲しいのは紅茶ではないらしい。僕はブランデーの瓶を手に取った。なぜなら紅茶は淹れるもの、注いでくれと言われればそれは酒の事を指す。
僕は瓶の注ぎ口を器から少し浮かせてブランデーを注いだ、それも紅茶を淹れるのと同じようにカップの中にそれなりの量を…。
「ふふ…、この量を飲むにはまだ日が高いが…。今日くらいは良しとしよう。妾は今、とても機嫌が良い」
黒い髪、白い肌、整った顔をした奥方様がわずかに頬を上気させている。そしてブランデーに口をつけた、酒に強い奥方様はこのくらいの量ではまったく酔わない。だけど頬がわずかに赤いのはそれだけ上機嫌なのだろう。
「ゲンタ、唇に塗るあの妙薬…。誠に見事であった、サレーヌ様の唇を見た時は驚いたが…それを上回る妙薬がある事にはもっと驚いた。さらにはその中身にも…な」
そう言うラ・フォンティーヌ様の唇は艶やかで潤いを帯びた魅惑的なもの、実は今回ラ・フォンティーヌ様に唇に関する品を渡してあったのだがそれは例の御婦人に手渡した物よりワンランクもツーランクも上の物だ。一瓶で五千円を越える超高級リップジェルだ。それは使っている成分も違えば他にも金箔がジェルの中に仕込まれている。
潤いの他に透明感や見る人の視線を離さない輝きのようなものが加わりその唇を美しく演出する。ましてやラ・フォンティーヌ様の声はよく通る美しい声だ、その声を発する整った唇が動く度にさらに美しく魅惑的に彩られるとなれば気にならないはずがない。夫人外交の奥方様たちも挨拶や各地の情報交換もそこそこに話題は美容の事ばかり。昨日、リップグロスを手に入れたオーグリー子爵家の先代夫人サレーヌ様は全体の美貌はともかく唇の美しさは注目を集めた。それにサレーヌ夫人はたいへん気を良くしたようで今日も意気揚々とリップグロスを塗ってきたようだが今回は勝手が違っていた。
戦局を一変させる新兵器、高級リップジェルの存在である。その新兵器の威力は凄まじくサレーヌ夫人の唇は一気に注目の的を外れた。
「奥方様の美貌はつけ入るスキがどこにもなく、他家の御婦人方の羨望…あるいはやっかみの視線を一身に集めておりました。誰も彼もがそれをお知りになりたいようで…」
侍女のコレットさんが冷静ではありながらもどこか楽しそうに言った。
「それに御婦人方だけでなく殿方たちも。挨拶の他に一言でも多く奥方様と話をしたいのかそんな殿方も…、それはもう皆様ずいぶんと必死で話しかけておられましたわ…。皆様、奥方様を…、とりわけ唇ばかり見て…ふふ。」
「コレット、はしたない」
奥方様がたしなめた。
「しかしコレットさんが言うのも分かります。奥方様、いつにも増してたいへん麗しゅうございます。奥方様にお言葉を話されるたびにその唇に引き寄せられる気持ち、分からなくはございませぬ」
「そなたまでもそのような事を言うか、…ふむう」
ラ・フォンティーヌ様は呟きながらカップに手を伸ばした。そこには少し多めに残ったブランデー、それを奥方様は一気に飲み干した。
「ならば…」
カップをテーブルに置くとグッと奥方様が少し身を乗り出した。僕をまっすぐに見つめたかと思うとその目を細めた。
「其方がそこまで言うのならこの唇、与えてとらそうぞ。遠慮は要らぬ、ほれ…」
そう言いながらテーブルの向こうからラ・フォンティーヌ様が身をさらに乗り出してくる。
「え?ええっ!?」
僕は驚き慌て席から腰を浮かせかけた。
「い、いけませんっ!!」
僕の左腕がギュッと掴まれ引き寄せられた。引き寄せたのはシルフィさん、奥方様との会談の為に僕のそばについていてくれているのだ。もちろん護衛としての意味合いもある。それを見て奥方様はさらに目を細める、まるであたらしい玩具を与えられた子供のように素直に笑みだった。
「ふ、ふふふっ!戯れじゃ、戯れじゃ。妾といえどもそんな勝手はせぬ、そうでなくてはそちらの姫君に要らぬ恨みを買ってしまうわ!」
奥方様は楽しそうに笑った。
「ふふふ、いささか妾も酔っていたようじゃ。許してたも」
このぐらいじゃ奥方様は酔わないよな…、そんな事を思いながら僕は応じていた。そんな僕に奥方様が言葉を続ける。
「しかし…、これから大変になるやも知れぬぞ。女というのは欲しい物は絶対に手に入れたい…そういう生き物じゃからなう」
奥方様の呟く声が妙に深く僕の印象に残っていた。
次回予告。
今回の商売でゲンタは頑張れば頑張るほどそれに比例して儲かっていく。だが、同時に弊害も起こり始めて…。
「これは素晴らしい…。シンプルな一皿にあらゆる個性が詰まっている…。調理者を呼んでいただきたい、最大の賛辞を送りたい」
そんな一言をきっかけに表明化してきた新たな問題、それをきっかけにゲンタの身の回りが騒がしくなってくるのだった。そしてゲンタは大きな決断をする、それはひとつの終止符であった。
次回、異世界産物記。
『大反響と弊害と』
第20章のエピローグにする予定です。
お楽しみに。




