76話 別れの挨拶とおやすみの挨拶
「また来てくださいね」
「お姉さんに捨てられなかったらまたお邪魔させてもらうよ」
「じゃあ絶対ですね」
美園とよく似た笑みを浮かべる彼女は、姉が僕を捨てる事など無いと確信しているかのようで、「次はいつですかね」とそれは楽しみにしてくれている。まあ、僕が来るのを、ではなく姉が恋人を連れて帰ってくるのを楽しみにしているのだろう。
美園抜きで話をしていても、お姉ちゃんが、お姉ちゃんは、とお姉ちゃんっ子ぶりを全開にしているし、メッセージアプリのIDを渡された時も「お姉ちゃんの情報色々ください」と受け取りようによっては危なげな事も言っていた。
「それじゃあ」と言って門扉の所から玄関の中に入っていく彼女とほぼ入れ違いに、愛されている姉が外へと出て来た。
「ご両親との話はもういいの?」
「はいっ」
どんな話をしたかはわからないが、その嬉しそうな様子を見れば親子の会話が優しさに満ちた物だった事は想像に難くない。
「またお邪魔してもいいかな?」
「はい! 是非また一緒に来てください」
顔を綻ばせる美園の頭を撫でると、ふふっと笑って目を細めた。サラサラとしたその髪の触り心地が気持ちいい。
「おーい。家族の目が無くなった途端イチャつかないでよ。まだあるんだからね」
僕達を送る為に車を出してくれる事になっていた花波さんが、車中から生ぬるい視線を送って来ていた。
◇
「それにしてもごめんね。急にだったし」
「いえ。僕は今日呼んでもらえて本当に良かったです」
運転席の花波さんは少しだけしおらしく今日の事を謝ってくれているが、花波さんには責任は何も無いし、美園のご家族は温かい人達で、彼女が愛されていると再確認できた事、美園が僕を想ってくれる理由がわかった事といい、僕にとって今回の訪問はいい事尽くめだった。
「キスできたから?」
「台無しにするのやめてください」
もちろんそれも大きいが。美園はまた唇を触って顔を赤くしている。どうも「キス」がNGワードになったようだ。
「じゃあ牧村君」
「はい」
ふと、ミラー越しの花波さんの顔とその声が真剣なものになった。
「美園の事頼むね。私の大事な、自慢の妹だから」
「はい」
「お姉ちゃん……」
目元に光を反射させ、声を僅かに震わせる美園の手を取り、僕は力強く頷いた。
花波さんは小さな声で確かに「よし」と言って息を吐いて笑った。
「ああでも、あんまり大切にし過ぎなくてもいいからね。特に牧村君はアレだから」
「余計なお世話ですよ!」
ニヤケ面の花波さんに言い返すと、握った手に少し力が込められた。
「どう言う意味ですか?」
きょとんとした様子で首を傾げる美園だが、そのままの君でいてほしい。
「ええっと。花波さんに聞いて」
「言っていいの?」
「やっぱ無しで」
「……仲間外れにされているみたいでちょっと嫌です」
美園は「むぅ」と口にして拗ねかけている。可愛くて頭を撫でると「誤魔化されませんよ」と嬉しそうに笑うので、それもまた可愛い。車中でなければこのまま顔を近付けるところだった。
「その内牧村君が教えてくれるよ」
花波さんがケラケラと笑いながら無責任な事を言う。
「本当ですか?」
「……うん」
上目遣いの美園に尋ねられ、抗えない。そうでなくとも、いつかはという思いはあるのだから。
「約束ですよ?」
「ああ」
差し出された小指に小指を絡ませ、目を見て頷くと、美園は嬉しそうに微笑んだ。無知な彼女につけ込んで最低な約束をした気もするが、その意味を知った時の美園の反応を想像すると顔がだらしなくニヤケそうになる。僕がそれを教える時が想像できないが。
「悪い奴だね~」
「誰のせいですかね?」
からかうように笑う花波さんだが、一連の態度は彼女の照れ隠しなのだろう。この人が妹を大切に思っている事はよくわかるし、美園だって恐らく花波さんに対して最も心を開いている。
今回の訪問だって、仲介してくれたのは花波さんだったし、予定に無かった送迎だけでなく、随所で気を遣ってくれていた。
「まあそれでも。ありがとうございます」
「ん~。何が?」
「色々ですよ」
あくまでとぼけて見せる花波さんに、わかっているんでしょうと言う意味を込めて言葉を付け足した。
「私からもありがとう。お姉ちゃん」
隣の美園からも頭を下げられ、花波さんは「やめてよねー」と、少しだけだが初めて照れた様子を見せた。
「言葉よりも態度で示してほしいかな。私のした事無駄にしないでよ」
「はい」
「うんっ」
ミラー越しの花波さんは、優しく微笑んでいた。
◇
結局花波さんは、最寄り駅ではなく新幹線の駅まで送ってくれた。「二人きりでイチャつく時間を奪ってごめんね」などとからかってきたが、駅や電車内では流石にイチャつかない。精々手を繋ぐくらいだ。
「今日はありがとうございました」
二人掛け座席の窓側、走り出した新幹線の車内へと視線を戻し、美園はそっと僕の手を握った。
「こっちこそありがとう。花波さんにも言った通りだけど、呼んでもらえてよかったよ」
「私も、今日は牧村先輩と一緒にお家に帰れてよかったです。最初はどうなる事かと思いましたけど」
そう言って苦笑する美園だが、彼女としても予想外の事があり過ぎた訳だ。勘違いから僕に近付けたくなかった姉は迎えに来るわ、母はドレスを着ているわ、父はあんな事を言い出すわと。
「素敵なご家族だったな」
「素敵、かどうかはわかりませんけど、大好きな家族です」
「そっか」
誇らしげにそう言う美園に、自然と目が細まる。
「今度は牧村先輩のご両親にお会いしてみたいです」
「9月中はもう難しそうだな。日曜は実務あるし、土曜も結構バイト入れてるし。後期始まったら土日結構実務で潰れるし、文化祭後もしばらくは残務処理で忙しい。そうするとすぐに年末年始だし、冬休み明けたら今度は試験もある。春休みかな」
最初は可愛く微笑んでいた美園の顔が、可愛くムスッとしたものに変わっている。
「嫌なんですか?」
「そんな事無いよ」
嫌ではないがちょっと先延ばししたい気分なのは事実だ。なんとなく彼女を両親に紹介、というのが気恥ずかしい。逆は緊張こそすれど恥ずかしいとは全く思わなかったのに、不思議なものだと思う。
「せっかくだから時間の取れる時に行って、どこかで一泊でもしてきたいなって」
「あ、それはいいですね」
恋人同士の一泊旅行と聞いても、美園は無邪気な笑顔を見せている。恋人と旅行どころか、いた事すら無い僕の考えが正しいかはわからないが。
「どんな所がいいでしょうか?」
「気が早いよ」
苦笑して応じながらも、旅行に行こうと言っただけで目を輝かせる美園を嬉しく思う。
◇
新幹線から降りると既に23時近い時間だったので、タクシーを拾って美園の家まで帰って来た。
実は、最初固辞したのだが美園のご両親からほぼ無理矢理のように交通費を渡してもらっている。帰りの新幹線代はそこから出させてもらい、タクシー代も同じくだ。更に言えば行の交通費を差し引いてもまだ余る。その場で封筒の中身を確認できない事を逆手に取られた、巧妙な気遣いである。後日お礼を伝えなければならないが、次回の訪問がしづらくなるので今回限りと願いたい。
「それじゃあおやすみ」
タクシーを降りてマンションの入り口までの僅かな距離も手を繋いで歩き、名残惜しさを抱きつつも別れの挨拶をしたところ、美園はいつものような挨拶をくれなかった。
「美園?」
俯きがちで表情が読めなかった美園は、僕の言葉でその赤らめた顔を上げた。
「おやすみのキ……ちゅーをしてください」
キスと言うのが恥ずかしいのはわかるが、ちゅーの方が恥ずかしくはあるまいか。
「おやすみ、美園」
言葉とともに顔を近付け、目を瞑る彼女の唇に触れた。
「おやすみなさい。牧村先輩」
朱に染まった頬と潤んだ瞳を携え、美園は少し恥ずかしそうに笑う。
「座った時の方がしやすいな」
「そうですね」
美園の側のヒールがあるとは言え、元々の身長差約20センチ。立ったままでの初めてのキスは、中々にぎこちのないもので、お互いに顔を見合わせて笑った。
そのぎこちなさも愛おしく思えて、僕たちはもう一度唇を重ねた。




