48話 ご褒美とゼロ距離の後輩
花火大会はつつがなく進んで行った。
その間美園との会話はあまり多くは無かったが、彼女は花火が見たくてここに来ているし、僕もその大義名分があるので特に気まずいという事はなかった。
夜空の光と音が一旦止んだのは終了まで残り20分程度に迫った頃だった。
フィナーレに向けて今日一番の連続花火が打ち上がる、という案内が会場に響き渡ると、周囲からは期待のこもっているであろう歓声が上がる。
右に座る美園に声を掛けようと思い視線を夜空から下ろすと、こちらを見ている美園と目が合った。
「牧村先輩」
真剣な顔をした美園の呼びかけに頷くと、彼女は深呼吸をしてから言葉を続けた。
「試験の前の約束、覚えていますか?」
「もちろん。何がいい?」
試験を頑張ったご褒美。結果は出ていないが、美園が頑張っていい結果を残すと宣言した以上出来がどうだったかなんて事は聞く必要も無い。
「はい。お願いがあります。私――」
おずおずと口を開いた美園のお願いを、一度に打ち上がった多数の花火と今日一番の歓声がかき消した。「私」から先の言葉は聞こえなかった。
美園自身も言葉が届かなかった事はわかったのだろう、少しシュンとして俯いてしまった。しかしそれも一瞬だけ。すぐに顔を上げた彼女は、その勢いのまま左に座る僕との距離を詰めた。肩が触れ合う距離、と言うか実際に触れている。
そんな事に緊張している暇も無く、美園の顔が近づいて来る。わかっている、声を届かせる為だというのは。それでも、開かれた唇から目が離せない。心臓の鼓動は否応無く高まる。
「私の頭を撫でて欲しいんです」
僕は間抜けな顔をしたかもしれない。あまりの都合の良さに聞き間違いかとも思った。美園を好きだと自覚して1ヵ月半程、僕がずっと願っていた事をお願いされたのだから。
「頭を撫でてもらいたいんです。『頑張ったね』って褒めて欲しいんです。牧村先輩に」
頬を染め、潤んだ上目遣いで僕を見る美園は、痛い程に真剣だった。
今日一番大きなはずの花火の音さえ、どこか遠くに聞こえる。
自分の欲求を抜きにしても、元々僕に出来る事なら何でもするつもりでいた。
「頑張ったね」
出来る限り優しい笑みを浮かべたつもりだが、美園からはどう見えているだろう。
右腕を伸ばし、背中越しに美園の右側の髪を撫でた。反対側とは言え、サイドアップにまとめているせいか、以前触れた時とは少し感触が違う。
触れた瞬間、美園はほんの少しピクリと反応し、ほっとしたように笑った。
「はい。頑張ったんです。ずっと、そう言って欲しかったんです」
ゼロ距離で大好きな女の子からの熱っぽい視線を受け、自分の顔が熱くなるのがわかる。
「髪、乱れちゃうな」
照れ隠しでそうは言ったが、今この手をどかしたいとは思わない。
「構いません。だから、やめないでください」
その言葉の僅かに後、触れ合っていた肩に少し重みがかかる。首筋に僅かに触れる、彼女のサイドアップの部分が少しくすぐったい。
頭を預けられた以前の寝たフリの時とは少し違う重み、今日は体ごと預けられている。
僕の服と美園の浴衣、薄い2枚の布のみで隔てられて触れ合う肩と肩、不思議と興奮は無かった。
実際は昂ぶりもあったのかもしれないが、愛おしいという思いが何よりも大きく、他の感情を全て塗りつぶしたのだと思う。
夜空に咲き誇る無数の花々に、どうかこのままずっと咲き続けて欲しいと、無理な願いを込めた。
◇
閉会のアナウンスが流れるまで、僕は自分の右手の場所を決して変えなかった。
より正確に言えば、流れてもまだ変えていない。美園が何も言って来ないのをいい事に、流石にずっと撫でていた訳では無いが20分間もずっと頭に手を置いていた。
体勢のせいで美園の顔は見えない。「撫でて欲しいとは言いましたけど、流石に20分はちょっと……」とか言われないだろうか。
「あ……」
そんな想像をしてしまい、慌てて右手をどかして美園から距離を取ると、彼女は静かな声を出した。それが少し寂しそうだと思ったのは、多分に都合のいい想像のせいかもしれない。
その時の美園の様子はわからなかったが、彼女はすぐに横座りから正座へと、なめらかに佇まいを正した。
「あの。ありがとうございました。我がままを聞いて頂いて」
真面目な顔で軽く頭を下げる美園を見て、つい今まで夢を見ていたのではないかと錯覚しそうになるが、僕の右手がそうではないと教えてくれる。
「このくらいなら全然。と言うかごめんな、ずっと触ってて」
気を遣ったつもりだが、やはり美園の右側の髪は少し乱れてしまった。
「私がお願いした事ですし、何よりも……いえ何でもありません」
そう言って美園は、乱れた部分の髪を撫でた。
言い淀んだ後半の言葉は気になったが、優しく微笑んだ彼女に見惚れてしまう。
「あー。そろそろ行こうか。少し下流側まで歩けば臨時のタクシー乗り場があるみたいだから」
実際に周囲のカップルや家族連れは既に片付けを始めている。断じて見惚れてしまったのを誤魔化す為だけに言ったのではない。
「はい」
ニコニコと笑顔を見せる美園は、返事をしてすぐに下駄を履いてレジャーシートから立ち上がってくれた。
僕たちはここでほとんど飲食をしていないので、片づけはシートを畳むだけ。それ自体は本当にすぐ終わり、シートとペットボトルをバッグの中にしまい、立ち上がった。
そこでふと、一瞬だが眩暈がしてたたらを踏んでしまう。
「牧村先輩!」
慌てた美園が僕に寄り添い、すぐに体を支えてくれた。心配をかけたというのに、申し訳ないが嬉しかった。
「ごめん、ちょっと立ち眩み。寝不足のせいかも。心配かけてごめん。ありがとう」
心配そうに僕を見る美園に笑って見せ、「もう大丈夫」と告げるが、まだ彼女は少し心配そうに僕を見ている。
「大丈夫だよ」
と、もう一度伝えても、美園は何かを考えているような難しい顔をしている。最後に情けないところを見せてしまったなと、後悔していると、左手に温かな、そして柔らかな物が触れた。
「バスでは支えてもらいましたし、今度は私が支えますね」
驚いて自分の左手を見ると、予想通り、僕のよりも一回り小さな右手が包んでくれていた。当然その右手は美園の右腕と繋がっている。
「はぐれても困りますし」
照れたように笑う美園に釣られて周囲を見れば、帰りの人の列は確かに、はぐれてしまいそうなくらいに混雑していた。
そして、至る所で手が繋がれている。カップルはもちろん、子ども連れのお父さんお母さんも。今ここで手を繋ぐ事は当然の事だと、そんな都合のいい勇気をもらった気がする。
「そうだな。はぐれたら困るな」
「はい」
どちらが先か、あるいは同時か、お互いの手に少しだけ力が入った。
◇
そこからタクシー乗り場に着いて、順番待ちの後に乗車するまで、1時間程かかった。
その間手は繋いだまま。乗り場に着いた後はその必要が無かったが、離さなかった。
「どちらまで?」
タクシーに乗車し、会場の出口へと走り出した運転手に、とりあえず大学付近までと伝え、「近くなったらまた案内します」と言ってルートを決めてもらった。
しばらく道なりに走っていると、タクシーの運転手が何やら話しかけてきた。
はっきりとは聞き取れなかったが「彼氏」「彼女」という単語が聞こえた。そう見えるのだろうか。だとしたら嬉しい……
なんだか意識がはっきりとしない、とても気持ちがいい気がする……
「お疲れでしたら着くまで寝ていてください」
ああ。優しい声、何よりも好きな声だ。
でもダメだ、この声を放っておく訳には――
「美園と、一緒だから……」
「私の事は気にしないでください。さあ」
体を支える優しい手に引かれ、そのまま柔らかな枕に頭が沈む。意識が溶けていくのを感じた。




