番外編 あの人にもう一度
君岡美園が文化祭最終日の志望大を訪れたのは、彼女の意思によるものではなかった。ここのところ落ち込み気味の彼女を心配した両親に、行かないかと勧められたから仕方なく来ただけ。当初は母も一緒に来ると言っていたが、それは美園が断った。
隣の県から新幹線に乗って来ているので、極端な事を言えばどこかで時間を潰していても両親にはバレなかっただろう。もちろん彼女としては両親に心配をかけている自覚もあり、しぶしぶながらも了承してしまったのでそんな考えは無かったが。
(やっぱり来なければ良かった)
志望大で楽しい雰囲気を味わって受験の活力にして欲しい。両親の考えとしてはそんなところだろうと思っていたし、実際に来てしまった以上はそうなればいいと美園本人も思っていた。
しかし結局、そんな甘い思いはあっさりと砕け散った。楽しい雰囲気があっても味わう美園の気持ちが暗いままでは、自分が異物であるという事を感じただけだった。
(もう帰ろう)
大きなステージを通り過ぎ、模擬店の通りの端まで見てみようかと歩を進めていた美園は色々な物を諦めて振り返った。
「きゃっ」
「っと」
視界に青一色が広がったと思った瞬間、体に衝撃を感じて尻もちをついていた。
「あああ。ごめんなさいごめんなさい」
ずれた眼鏡も戻さずにそのままボーっとしていると、青いジャンパーを着た青年が慌てながら手を差し出してきているのが見えた。ここに来て美園はようやく自分が目の前の人とぶつかって転んだのだという事を理解した。
「大丈夫ですか? 怪我とか、痛むところはありませんか?」
差し出された手を無意識にとり、立ち上がらせてもらった美園に、青年は矢継ぎ早に質問を重ねてきた。とても申し訳なさそうな顔をして。
元はと言えば美園が急に振り返った事が悪い。だと言うのに、ぶつかられた側である青年は美園を心配こそすれど、その表情に非難の色は無かった。
それが何故か、とても情けなかった。
「ああ、ごめんなさい。痛いですよね。歩けますか? 向うに休めるところがあるので、そこまで案内します」
青年がより一層の狼狽を見せるので、美園は仕方なく頷いて、なすがまま手を引かれる事になった。手を引く青年が振り返って「痛みませんか」と尋ねるので、首を振って否定すると、彼は安堵したように笑って再び歩き出した。
首を振った事で美園は自分の頬を伝う物に気付いた。青年が過剰なまでに心配をする訳だと、どこか他人事のように思った後、我に返って申し訳なさと恥ずかしさで消えてしまいたくなった。
◇
その後、先程の大きなステージから少し奥に進んだ場所まで連れられ、美園はベンチに座らされた。
自身の醜態もあり、青年に謝罪と感謝を伝えて早くこの場を去りたかったが、青年が脱いだジャンパーを美園に預けて、「すぐに戻ります」と言ってどこかへ行ってしまったので、彼を待つハメになっている。
預けられたジャンパー――着たまま動き回ると遊んでいると思われるからと彼は言っていた――から、彼が文化祭実行委員の一員である事と、苗字が牧村である事がわかる。
彼がここまでしてくれるのは、罪悪感と心配だけでなく義務感のような物もあったのかもしれない。
「ごめんなさい。待たせてしまって」
美園がそんな事を思っていると、その牧村さんが帰って来た。両手に持っているのは、焼きそば、たこ焼き、クレープ、チュロス、それからペットボトルのお茶だった。
「嫌いな物とかありますか?」
「それ、私にですか?」
「はい。お詫びとして受け取ってもらえると助かります」
ジャンパーを返して謝罪と感謝を伝えたら帰ろうと思っていたが、そうもいかなくなってしまった。迷惑をかけてしまった上に彼の善意を断ってしまうのは、もう二度と会う事が無いだろうとは言え、美園には出来なかった。
「ありがとうございます。でも、そんなには食べられません」
「残ったら僕が食べますんで。他に何か食べたいものがあれば買ってきますよ」
「いえ、大丈夫です。それから、私は高校生なので敬語を使っていただかなくて結構ですよ」
「やっぱりそうなんですね。年下かなと思ってたんだけど、確認するのも失礼かと思って」
はは、と笑う牧村から仕方なくクレープだけを受け取り、口をつけるが正直大して美味しくなかった。
「あんまり美味しくなかったかな? まあ素人の模擬店だし、雰囲気込みで楽しんで欲しいなって……」
牧村は気まずげに笑うが、雰囲気込みで楽しむべき物を、その雰囲気に対して負の感情すらある今の自分が楽しめるはずが無い。美園は自分の心が酷く歪むのを感じていた。
「あの……文化祭、楽しくない?」
その矢先、牧村が言いづらそうにしながらそんな事を尋ねてきた。美園は「はい」と、出そうになった言葉を飲み込んだ。実際まるで楽しめていないが、原因は彼女自身にある。文化祭を作った側の彼にそれを伝えるのは、いくらなんでも失礼に当たると思う。
「そっか――」
そんな態度から悟られたのだろう、牧村が呟くように言った言葉の後半は美園の耳には届かなかったが、その悲しそうな顔に心が痛んだ。
「気にしないでください。私が悪いんですから。他の人はみんな楽しそうですよ」
自分だけが異物であると、わかっていた事ではあるが、改めて口に出すのは辛かった。
「何かあったの?」
心配そうに尋ねる牧村に、いっそ話してしまおうかと、美園は考えた。
迷惑をかけ、気まで遣ってもらっておいて、つまらないですさようならというのは心苦しかったし、何よりも心中を吐露してしまいたかったのかもしれない。
「他の人には聞かれたくありませんので、どこか人のいないところはありませんか?」
「んー。わかった、ちょっと待ってて。これ押し付けて来るから」
そう言って牧村は模擬店で買った物の残りを持って大きなステージ付近のテントに向かっていった。
◇
人のいないところ、と注文を付けられた牧村が連れてきてくれたのは近くの校舎の屋上だった。
日曜でも来る学生がいるとの事で入口は開いていたが、屋上の鍵は牧村がどこかから持って来たようだった。周囲の校舎よりも少し高いから見つかる心配も無い、彼はそう言って笑った。
「ここなら今日は流石に誰も来ないと思うよ。文化祭も全体が良く見えるでしょ」
「そう、ですね」
確かに広い範囲が良く見える。そして人が小さく見える分、区別もつかない。自分もここから見てもらったのなら、異物では無いのかもしれない。自身のそんな希望的観測に気付き、美園は苦笑した。
きっかけは本当に小さな事。予備校の冊子の中の卒業生からのアドバイスのコーナーに、「目的意識を持って勉強をしよう」という部分を見つけた事が最初だった。「将来の自分を思い浮かべて」「明確なビジョンを持って」そんなアドバイスが書かれていた。
美園自身は心理学に興味があって志望大と学部学科を選んだ。それ以上の明確な将来のビジョンは無かった。だからきっと、そのアドバイスが小さなトゲのように刺さったのだと、後から考えればそう思う。
長時間受験勉強をしていれば、当然集中力の乗らない日もある。件のアドバイスを見る前の美園であったなら、そんな日もあると切り替える事が出来ていた。しかし、トゲが刺さってしまって以降の彼女は、そんな事があるとその原因を自分には将来のしっかりとした目標が無いからではないかと考えるようになってしまった。
より悪かったのは、将来についてを何気なく相談した友人たちが全員ある程度明確な夢を持っていた事だった。
そこから崩れるのは早かった。A判定だった模試の結果がBに落ち、不安の連鎖に陥り、家族に心配と迷惑をかける心苦しさがそれを加速させた。もう11月も下旬だと言うのに、もはや勉強はまるで手に付かなかくなっていた。
そして今日、一縷の望みをかけて来た文化祭も、そんな自分の暗い気持ちが邪魔をして楽しめないでいた。
「だから、気にしないでください。私が悪いんですから」
聞かせてしまった牧村には悪いが、美園は少しだけすっきりとした気分になった。
それは諦めによるもので、今日家に帰ったら志望大の変更を両親に伝えようと、ようやく決意できた。
「こんな事を聞かせてしまってすみません。聞いてもらって少し楽になりました。ありがとうございます」
だからどうか、二度と会わない美園の事など忘れ、牧村自身に文化祭を楽しんで欲しい。そう思った。
「それではさようなら」と言って屋上から去ろうとした美園の耳に届いたのは、牧村が「うーん」と唸る声と、予想もしていない問いかけだった。
「高校生活は、楽しかった?」
「はい?」
目の前の青年が何を言いたいのか、美園にはわからなかった。ただ、高校生活が楽しかったかと言われれば楽しかった。人数は多いとは言えないが、気心の知れた友人たちと過ごした時間は大切な時間だ。
「楽しかったです」
「それなら、大学生活もきっと楽しくなるよ」
「何を言っているんですか!?」
その大学生活に辿り着けるか分からなくて苦しんでいるというのに、人のよさそうな顔をしてなんて無神経な人だろう。美園は内心の苛立ちを隠そうともせずに、牧村へとぶつけた。
冷静に考えれば、見ず知らずの美園から、あんな心情を聞かされた牧村こそ、苛立っても仕方ない場面だったかもしれないが、この時の美園にそんな余裕は無い。
「ごめんね。でも、僕なんか今でも将来のビジョンなんて無いよ」
頭を掻きながら、牧村は何でもないようにそんな事を言った。そして美園が言い返せずにいると、更に言葉を続けた。
「そりゃあさ、ちゃんとした将来の夢を持ってる人は立派だと思うよ。でも裏は違う。自己弁護みたいになるけどさ、そういうのが無くたってちゃんとした人はいるよ。僕がそうかはともかく君はきっとそうだよ」
自分が今まで悩んでいた事はそんなに当たり前の事だっただろうか。思い返してみてもわからない。誰かに心中を話したのは今日が初めて、今までは一人で悩んでいただけで、美園は誰にも相談できなかった。将来の夢も無いクセに志望大と学科を決めた事が恥ずかしく思えて、誰にも相談しなかった。
「どうして――」
悩みなんて吹き飛ばしてしまいたかった。だと言うのに、いざ目の前の青年がそれを吹き飛ばそうとしてくれている状況になって、自分が悩んできた事を小さな事だと思いたくなくて、美園はそれに抵抗してしまう。どうしてあなたがそんな事をわかるのだと。
「だってさ、高校生活が楽しかったかって聞かれて、今辛い思いをしてるのに、それでも即答出来るくらいのいい友達がいるんでしょ。君自身がちゃんとしてなきゃ、いい友達には恵まれないよ」
「それは――」
美園自身の人間性を保証する事だろうか。確かに友達には恵まれた、だからと言って――
「それに心配してくれる家族に申し訳ないって思えるのは優しいからだよ。自分が辛い時にだよ? 家族に対しては甘えも出ちゃうだろうにさ。僕なんか心配してくれた家族に見栄張って嘘吐いたよ。自分がいっぱいいっぱいで、全然相手の事なんか気遣いもしなかった」
家族は大切だ。心配をかけてしまう事は申し訳ない事だ。そんな当たり前の事を、どうして褒めてくれるのだろう。
「将来のビジョンが無い事に悩んだのも、君が真面目だからだよ。真面目で優しい君がちゃんとした人だって事は、今日初めて会った僕だってわかるんだから、君の周りの人だってきっとみんなわかってるよ」
そうだろうか? そう思っていいのだろうか?
「それで最初の話に戻るんだけど。優しくて真面目な君の大学生活は、きっと楽しいものになるよ」
自分はきっと今、酷い顔をしているのではないかと美園は思う。優しく笑う目の前の青年と比べればきっと、心の中と同じように訳の分からない顔をしているに違いない。
「楽しい事をたくさん経験して、大変な事もあるかもしれないけど、君の世界はきっと広がる。だから今、どうしても目標が欲しいならそれを目標にすればいいんじゃないかな……と思うんだけど」
「私……」
「うん」
「つまらない事で悩んでいたんですね」
「全然!」
何ヶ月も真剣に悩んだ。なのにこうやって話してみると、ひどくちっぽけな事だと思えてしまう。無駄にした時間と、周囲にかけた心配を考えると、そうは思いたくなかったというのに。
だからこそ、それを力強く否定してもらったのは嬉しかった。
「僕なんか入学した後にね、友達が出来なくて一人ぼっちになるのが怖くてさ。進路に関わる訳でも無い、君のよりよっぽど小さい悩みだけど、当時は本当に悩んだよ」
牧村は恥ずかしそうに笑っている。
「割とすぐ解決したけどね。でも解決できたからって悩みが軽かったとは思って無いよ。君のもそうじゃないかな」
「はい……ありがとうございます」
優しく微笑む牧村に、美園は笑顔で返したつもりだった。感謝の気持ちが伝わってくれると嬉しいなと思う。
彼はそんな美園を見て、一瞬驚いたような顔をしたが、その後も優しい笑みをたたえていた。
◇
見回りの時間だという事で、彼は行ってしまった。先程歩いていたのは自主的な見回りだったようで、曰く「暇だったから」との事だ。そんな時間に出会えて本当に良かったと思う。
非礼を詫びて、何度も何度も礼を言ったが、美園からしたらまだまだ感謝し足りない。
彼の着ていた青いジャンパーを目印に探していると、自然と文化祭実行委員を目で追うようになってしまった。実行委員たちは皆、見た目でわかる程疲れている。だというのに、その表情に浮かぶのは不機嫌さや不快感ではなく、充実や満足といった色であると、美園はそう感じた。
(楽しい事、まず一つ見つけましたよ)
結局、美園は牧村には会えなかったが、大学に入ったらやりたい事ができた。
家に帰ったら、家族に今までの事を謝って、改めて決意を伝えよう。絶対にこの大学に合格するんだと。
そして、もう一度あの人に会いに行こう。




