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消極先輩と積極後輩  作者: 水棲虫
おまけ
146/201

revenGe

「少し前から思っていたんですけど、智貴さん、逞しくなりましたよね」


 お互いに風呂を済ませた後、甘い香りを強くした美園を定位置に迎えながらいつものように後ろから抱きしめていると、「そう言えば」と美園が切り出した。

 実際に1日30分程度だが筋トレを3ヶ月程続けてきた。最近は確かに体つきも本当にほんの少しだけ変わってきた自覚がある。


「年末くらいから筋トレを習慣化したからかな。しかしよく気付いたなあ」

「わかりますよ」


 頭を撫でると、美園が僕の左腕を抱く力が少しだけ増した。


「こうやって抱きしめてもらっている時も、感触が少し変わりましたし、それに……」

「それに?」

「……見ていればわかります」


 耳を少しだけ赤くした美園が、そう言って僕の左手をぺちんと叩いた。言わせるなという照れ隠しなのだろう。


「ありがとう。嬉しいよ」


 そう言って髪を梳くと、恥ずかしさが増したのか美園は僕の腕を抱く力をますます強くした。日中よりもやわらかな感触に包まれる腕のせいか、先程の会話が想起させた行いのせいか、心臓が少し跳ねた。


「ところで、どうしてトレーニングを始めたんですか?」

「頼りがいのある男になろうと思って」


 流石にお姫様抱っこが辛かったからとは言えないし、そもそも今の発言も全く嘘という訳ではない。


「元々私にとっては誰よりも頼りになる彼氏さんですよ」

「ありがとう、自慢の彼女さん」


 髪を撫でていた右手を止めて両手で美園を抱きしめながら、甘い香りの中でそっと顔を寄せ、少し振り返った彼女の頬に口付けを落とした。

 えへへとはにかんだ美園がそのまま前を向き、僕の方へと体を預けてきた。支える分には軽すぎるくらいの、自分の体にかかる彼女の体重が心地良い。


「美園。お姫様抱っこしていい?」


 これはリベンジだ。両手にすっぽりと収まる小さく華奢な恋人を、楽々と抱き上げられなくては沽券に関わる。


「構いませんよ。と言うよりもむしろ嬉しくありますけど……重くありませんか?」

「前にも言ったけど軽すぎるくらいだったよ」

「本当ですか?」


 腕の中でくるりと反転した美園が疑いの眼で僕をじっと見つめるが、嘘ではない。美園の体重を正確に知っている訳ではないが、大学内で見かける女子と比べて彼女は細いし体重だって軽いはずだ。ただ、だからと言って抱え上げるのが楽な訳ではないのだが。


「それじゃあ、準備はよろしいでしょうか? お姫様」

「もうっ。お願いしますね」


 僕から離れてカーペットの上で両膝を立てて座る美園が、こちらへと両腕を伸ばしてくれている。

 桜色のネグリジェの美園の膝の裏に左腕、その小さな背中に右腕を回して、彼女の腕を僕の首に回してもらう。


「それじゃ、上げるよ」

「はい」


 不安など無いといった風に微笑む、少しだけ頬を朱に染めた美園からの信頼が嬉しい。

 少しだけ反動をつけて持ち上げた美園は、以前と比べて多少軽く感じる。


「どう、ですか?」

「軽いよ」


 万が一にも落としてしまう訳にはいかない――それから部屋が狭い――のでやらないが、今回はこのままくるっと一回転くらいは出来そうだ。


「一つお願いがあるんですけど、いいでしょうか?」

「うん」


「それじゃあ」と口にし、そこで一旦言葉を切った美園は、先程よりも顔を赤くしている。態勢上どうしても下からまっすぐ見つめられる訳で、天井の照明をほんの少し反射し、元々輝くような美園の瞳が本当に輝いていて、吸い込まれそうになる。


「このままちゅーしてほしいです」

「よろこんで」


 恥ずかしそうにしながらも僕から逸らされる事の無かった輝く瞳が、長い睫毛に縁どられたまぶたで塞がれる。

 輝く瞳が少しだけ惜しいなと思いながらもそっと美園を持ち上げ、唇を啄むように何度か触れては離しを繰り返すと、ぱちりとその大きな目を開いた美園が、目に光を宿しながら照れくさそうに微笑んだ。


「んしょっ」と、今度は美園が僕へと唇を寄せようと体を起こすので、支えていた腕を少し下げて彼女を遠ざける。


「いじわるです」


 体を起こして唇に触れようとしていた美園だが、何度か試して諦めてむくれている。下から覗き込む恨めしげな視線が堪らなく可愛い。

 そろそろ限界ぎみだった事もあり、「ごめんごめん」と美園をベッドにそっと横たえて僕の方もその隣に寝そべる。そのまま唇を待つのだが、美園は「してあげません」と頬を膨らませながら笑った。


 そのまましばらく美園に腕枕をしながら髪を撫であったり、手を握ったりとしていたのだが、先程の宣言通りというかそれに加えて、キスだけは許してもらえなかった。

 美園からしてくれる事はもちろんだが、僕からしようとしてもいらずらっぽく笑った彼女がぷいっと顔を背ける。


「美園さん、ギブアップです。ごめんなさい」

「何の事でしょうか? 」


 美園がとぼけるようにふふっと笑い、「冗談です」と覆い被さりながら僕に唇を寄せた。

 少しおあずけを喰らったせいか、美園の甘い香りとやわらかな体が離れていくのが惜しく、彼女の背中を少し押し留めた。


「どうかしましたか?」


 そう言って少し首を傾げた美園は、わかっているという風に笑い、もう一度してくれた。



「しかしよく気付いたよなあ」

「気付きますよ。私は智貴さんと違って鈍くありませんから」

「心外だ」


 自分でも変化はほんの少しだと思っていたのに、よく美園が気付いたものだと改めて思ったのだが、意外と辛辣な答えが返ってきた。

 腕の中でいたずらっぽく笑う美園の髪をくしゃりと撫で、僕はわざと憤った顔を作って見せた。


「色々と前科がありますから」

「それを言われると弱い」


 かつて美園の好意――恋愛的な意味での――に全く気付かなかったので、返す言葉が無い。「でしょう」と自慢げに笑った美園が、「それに」と言葉を続けた。少しいじけたような調子で。


「今だって私の変化には気付いてくれていませんし」

「変化……?」


 言われて美園を見てみるが、以前と変わった様子があるとは思えなかった。

 花火大会の浴衣に合わせるために髪を伸ばしていた事はあったが、あれ以降の美園は髪の長さを一定期間で揃えていた。髪色も髪型も変わっていない。

 爪はいつも綺麗に手入れされているが、ネイルアートなどをした事は知っている限り一度も無い。


「服装だったり場面に合わせてメイク変えてくれてるのは知ってるけど、それは違うよね?」


 そもそもそれなら気付くたびに指摘している。美園もやはり「違います」と首を横に振った。

 所謂『どこが変わったか分かる?』問題。世の男達を困らせる難問である。しかもメイク、服装、髪型、爪あたりのわかりやすいところではないときている。


「今この状況でわかる事?」

「わかると言えばわかると思います。でも、もう少し離れるか、逆にもっとぎゅってしてもらった方がわかりやすいかもしれませんね」


 とんちか? 今はお互いベッドに寝そべりながら、少し赤い顔で嬉しそうに笑う美園を軽く抱いている状態。

 だから少しだけ美園から離れてみるが、離れてもやはり可愛い。ピンクのネグリジェの広い襟ぐりから覗く鎖骨と峡谷が、少々よろしくない感情を呼び起こしてくれる。

 次にぎゅっと抱きしめてみる。やわらかな美園の体とより近くで感じる甘い匂いが以下同文。


 そんな中、何とも幸せそうに僕に頬を寄せる美園が、背中に腕を回して自分からぎゅっと強く抱きついてきた。

 そこでようやく悟る。変化そのものに気付いた訳ではないが、先程のとんちの答えがわかった。


「美園」


 頬を寄せる彼女の耳元で答えを囁くと、「正解です」と美園が破顔して答えの補足をした後、僕の頭を優しく撫でてくれた。

 頭を撫でられながらも、視線が正解の場所に吸い寄せられる。こればかりは無理もない事だと思う。しかしそんな僕を見て、美園は勝ち誇ったように笑うので、慌てて顔を逸らして誤魔化すべく口を開いた。


「でもそれに気付くの無理だって」


 更に言うなら美園がそれを喜んでいる風なのが意外だった。そんな二つの感情を込めて苦笑しながら美園の髪を撫でるが、当の本人は僕の言葉に口を尖らせた。


「でも、智貴さんはお好きなんですよね?」

「う…………んんっ!?」


 上目遣いの美園に尋ねられて思わず頷きそうになるが、辛うじて堪えた。

 そう思っているのに「やっぱり」と言って美園は誇らしげに笑う。


「あの……なんでわかったのでしょうか?」


 意識下無意識下を問わず、強烈な引力に負けた事は恐らく両手の指では足りないだろう。しかしそれはあくまで反射に近い。僕に限らずY染色体を持つ身としては不可避な事象だ。


「内緒です」


 ふふふと笑った美園がその瑞々しい唇の前に人差し指を立てた。

 その様子がなんとも蠱惑的で堪らなかった。

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