第五十九話・狐の尾
男共と連れ立って湯へと向かう間、俺は落ち着かなかった。湯を沸かすのには大量の薪や湯を貯める桶などが必要で普段から出来るわけではない。皆身体に湯をかけるか、蒸し風呂で汗を流すかだ。地面から湯が湧き出るような場所、湯治場へでも行かない限り足を延ばし身体ごと湯に浸かるなどといった贅沢は出来るものでない。故に俺は戦の時や遠出した際には湯が湧く土地があるかどうかを聞くことが多いし、首尾よく温泉を見つけた時には喜び勇んで向かうのだが。
「どうなさいました?」
一同の背中を見ながらゆっくりと歩いていると、俺の様子に気が付いたのか竹中半兵衛が話しかけて来た。ああいや、と手を振って何でもないことを伝える。竹中半兵衛は暫く俺の顔をまじまじと見た後、やがて合点がいったような笑顔を見せた。
「育ちが宜しい故、裸を見られることが恥ずかしゅうお思いですか? でしたら」
「そのように軟弱なことを思うてはおらぬ」
気分の悪い誤解をされて、即座に言い返す。しかし竹中半兵衛は『でしたらお早く』と俺を前に進ませた。むう、と唸るような声を出しながら進む。
進みながら、何故俺がこのように悩まなければならないのか馬鹿らしくなってきた。俺はただ竹中半兵衛に母が勧める品を教えただけであるし、無理強いはしていない。羽柴家の者らがどこにどのようなものを装着しようが俺の責任ではないのだ。第一、母が良からぬことを考えているというのはあくまで俺の予想である。もしかすると本当に体に良い物で後々感謝されるかもしれないではないか。
そうやって開き直ったのと同時に風呂場へと着いた。
「……それは?」
そうして、俺は羽柴家の者達が巻く白い布を見て、間抜けな声で質問することとなる。
「直子様から頂戴したブラなるものを改良して作ったものにございます」
「ブラというものは成程確かに、これを使用した女子達からすれば素晴らしいものであるそうです。妻も体が安定し動きやすいと喜んでおりました。とはいえ某この通り細身故、これを着けようが付けまいが安定せぬという事はございませぬ。故にあまり意味を感じませんでな。しかしながらこのブラなるもの、伸縮性があって肌に付き、そして身体をよく温めてくれまする。ならば胸元以外でも使い道があるだろうと、このように輪切りのような形にし、腹を引き締めると共に温める物として作り変えたのです」
言いながら、布を引っ張って伸ばし、そして放すを繰り返す竹中半兵衛。羽柴殿も同じように暖かそうな腹巻を装着し、その中に腕を突っ込んで楽しそうに笑っている。
「女子は胸に、男は腹に、流石は半兵衛良き思案じゃと我ら兄弟や小六、長康たちにも使わせておりまする。工夫次第で温かい物が出来、健康にも良いのです」
隣で、そうですねと言いながら小一郎殿が腹巻を脱いだ。そのままふんどし姿で湯船へと向かう。続いて羽柴殿、そして竹中半兵衛も続いた。
「どうなさいました?」
「いえ……何だかどっと疲れました」
それから竹中半兵衛に、これを『男性用ブラ』と名付けようと思うがいかがかと言われたが、それは否定しておいた。そもそもブラという言葉を知っているのが母とその周囲の者しかいないのだ。今までにない全く新しい物に対して新しい名前を付けるのならまだいいが、竹中半兵衛が作った物は腹に巻くもの、そのまま腹巻と呼ぶべきだ。
「それですと鎧兜の類になってしまうのでは?」
「鎧兜の類には胴丸という名もある。腹巻が最も分かり易い。どうしても気になるのなら布腹巻とすればいい」
鎧兜の類は鉄腹巻だ。おかしくはあるまい。
「良き湯ですな」
色々と考え過ぎて疲れてしまった頭を休める為、俺は暫くの間何も考えずにのんびりとすることにした。全く、母はいつも俺の心を乱してくる。食事のこともそうであるし、そもそも常識がない。突然突拍子もないことをやり始めては結局右往左往するのは俺だ。昔っから……
「いかん、何も考えずにのんびりするのだ」
いつの間にか考え出してしまった頭を横に振る。肩まで湯に浸かり、そこで十数える。うん、温かい。ふうーと、息を吐き、周囲を見回すと小一郎殿と視線が交錯した。
「何か考えておいででしたかな?」
「母の事を考えてしまうので、追い出していたところです」
母の事を考えてしまう。と言うとまるで母恋しさに泣く童のようだが、そういう考えてしまうではないことは分かってくれるだろう。
「そうですな、直子様とは、一体どういうお方であるのか、誰もが気になるところでありますが、実の息子であってもそうですか?」
「それはもう。父親以上に」
冗談のつもりで言ったのだが、小一郎殿は薄く笑うだけで、そうでしょうともと呟くと、咳ばらいを一つ。ほんの気持ちこちらに近付いてきた。並ぶような距離ではない。寝台を一つ挟んだ以上の隔たりはあるだろう。
「なれば、直子様が何者であるのか、某の予想を一つ聞いて頂いても宜しいか」
これから何か話をするぞという間をたっぷり取ってから小一郎殿が口を開いた。口元は薄く笑ったままであるのに、明らかに普段とは空気が違う。これから話す内容は冗談でないのだという主張だ。
「直子様は面白きことを次々に考えだし、実行に移しまするな。それはもう、一体どこでどう考えたのか、どのような書物を調べたのか、想像も付かぬくらいに。某とて、自分の頭で考え色々と思案を思いつくこともございます。そうしていると、大概の者の大概の考えは『ああ、このような思考経路を辿りこのような答えに至ったのだな』と、想像がつくようになり申す。さりながら、直子様だけは、『どのようにしてこの結論に至ったのか』が分かり申さぬ。故に、全く別の結論を導き出し申した」
「全く別の結論?」
聞くと、小一郎殿がうんと頷き、そして言った。
「直子様は考えて思いついているのではございませぬ。答えを知っていて、それを形にしているのでございます」
骨盤矯正帯然り、珍しい料理然り、肉食然り、ブラ然りと、小一郎殿はこれまでに母が行ってきた事績をいくつか挙げた。
「そうやって考えると、納得できることが幾つもございます。まず、直子様の特異なる点は神仏や迷信を全く畏れぬという点にござる。食事においては特に顕著であり、肉食を全く嫌がらず、そして最近ではシビをも食ったそうではございませぬか」
「そうですね」
シビ、つまりハツ、でかい魚だ。シビとは死日、即ち縁起が悪いという事。日々戦に出歩く武士が最も嫌がるのは縁起の悪いもの。だが母はあれをマグロだと呼び、マグロであるからシビとは関係ないと言っていた。俺にもあれをマグロと呼べと強いて来た。
「あのようなことが出来るのは、あれらが旨い事、そしてあれらを食うと長生き出来ると知っていたから。とは考えられませぬか?」
小一郎殿が言い募る。その言葉を聞きながら、一つ思い出した出来事があった。マグロの調理はかつて母が失敗したものの一つだ。身はもっちゃりとしていて生臭く、誰が食べても旨いものではなかったらしい。だが母はその時マグロを『まずい魚』とは評価しなかった『このやり方では駄目』だと言った。それは即ち、『旨いことは既に知っていた』という事でもある。
「生卵についても、あれが美味であると分かっていなければあのようなことは致しますまい」
「今、我らが食える草と毒の草とを識別できるのは元はといえば誰かが知らずに食ってみたからでござる。何度も試してみたという事は考えられませんか? パンやらピザやらの時、窯作りは挑戦と失敗の繰り返しでしたぞ」
小一郎殿の理屈に、一つ反論してみた。しかし小一郎殿はゆっくりと首を横に振る。あり得ませぬなと一言。
「どうしてそう言えます?」
「窯作りは幾度失敗しようと手の者に頑張れと言えばよいだけ。食い物は失敗すれば身体を壊します。直子様はそのように危ない橋を渡るような性格ではございませぬ。最もご承知なのは文章博士様では?」
ぐうの音も出なかった。作ってみて不味かったものは全て女中であったり、城下の貧しい者達に配ってしまう母だ。
「成程分かったような気も致します。ですが一つ聞かせて頂きたい。母がもし、本当にそれぞれの物事を『思いついた』のではなく『知っていた』のだとしたら、それは当然書物から、という事になります」
普通に考えればそれ以外には考えられない。人間何事も最初はどこかから学ぶ以外にはないのだ。母と常人とで最も違う点は読書するかしないかであろう。日ノ本に住む人間の過半数は書物など読めないままに死んでゆく。書物を日常的に嗜む人間など極わずかだ。そして、暇さえあれば書物を読みふける人物など殆ど狂人に近い。母がすなわちそうなのだが、母は狂人だと思われる以前に最早『直子』という特殊な生き物として見られているので迫害されるようなことは無い。
そんな母ですら、日ノ本一の読書家というわけではない。日ノ本において最も学識高く字や書に慣れ親しんでいる者は坊主だ。
「叡山は焼いたとはいえ、坊主の堕落が顕著であるとはいえ、まだまだ、尾張よりも先に書が手に入るのは寺でございましょう。それも九州や中国といった西の玄関口こそ書物の搬入口にござる。ということは、母が知っている知識は彼の地に住むいずれかの人物が必ず知っている知識ということになります」
俺の言葉に小一郎殿はうんうんと頷く。確かにそうですと、納得している様子だ。
「母がこれまでにしてきた物事が『知っていた事』であるなら西国でも同じことが行われていて然るべきです。そうでないという事は『母が編み出した事』なのではないですか? 勿論全てを一からという訳ではなく、様々な書物に書かれた内容を見比べて、そして編み出したという事になるのでしょうが」
「前提が違いますな」
俺が、小一郎殿の説を否定すると、即座に横から声がかけられた。羽柴殿だ。
「直子様は書物から知識など得てはおりませぬ。あれはあくまで『書物から知識を得てやっていること故、自分は凄い訳ではない』という言い訳に使われているだけにござる」
「言い訳に……?」
羽柴殿が頷く。何を言っているのか分からないというように、俺は首を傾げた。
「何故そのような事をするのかが分かりませぬ。そして、そうであるのなら母は一体どこから、知識を得ているのでしょうか?」
「直子様が直子様として生まれた時には既に、知っていたとは考えられませぬか?」
「…………………………」
「突拍子もないこととお思いでしょう。ですがそれ以外に説明が付かぬことがございまする」
「説明が付かぬこと?」
俺の言葉を受け、羽柴殿が視線を小一郎殿に向けた。小一郎殿は頷き、湯船の横に腕を伸ばし、一枚の布を持ち上げた。正真正銘、母が作って渡したブラの一つだ。
「このブラについてでござる。半兵衛、調べはついたな?」
唐突に小一郎殿が竹中半兵衛に話を振った。こんな母の悪ふざけの産物が何だというのか。
「我らが調べましたところ、古今日ノ本の書物に『ブラ』という衣類は存在しませぬ。更に、『女子の胸元に当て安定と暖を得る装身具』についても、どこを調べたところで存在しませぬ。朝鮮・唐国・琉球・蝦夷地・天竺に大秦国まで調べてみましたがそれらしいものは見つけられませんでした」
どれだけ調べているのだこの男は。というより、どれだけの諜報力があるのだ、羽柴家には。
「貴殿らが見落としているだけでは?」
「勿論その可能性はございまする。実際に唐国にて風土を調べたわけではなく、商人や歴史に詳しいものに命じて資料を集めているだけでございますから。ですが、その場合、直子様は羽柴家が全力を挙げて調べ見つけられなかったものを手に入れられる程の諜報力を持っているという事になりまする。或いは千里眼の類か、或いは日ノ本すべてを網羅するような地獄耳か、それこそ単に神通力であるか」
「いよいよもって、妖狐玉藻の前ですな」
皮肉気な口調でもって返すと、羽柴殿が半兵衛、と窘めるような一言を発した。
「今昔物語や法華験記にみられる転生思想は古来より日ノ本に根付いておりまする。輪廻転生の中において、直子様はどこかで、記憶や知識を得たまま産まれて来られたとは考えられませぬか?」
「そのようなことを、某は考えたことがありませぬ。某にとって、母が物知りであることも、変わり者であることも常に当たり前の事でありました故に」
羽柴殿の質問に対しては分からないという答え。そしてそのまま一つ質問を重ねた。
「御三方はなぜ、そのような話を某にするのです? 某が母の手先であったとしたら、きっとここではしらをきり通しますぞ」
「文章博士様は違います」
はっきりと強い口調で言い切ったのは竹中半兵衛だった。先程羽柴殿に窘められたばかりであるのに黙るつもりはないらしい。
「某が文章博士様の成したることで素晴らしきと思うは永楽銭の鋳造・直刀隊の編成・毒蜂蜜の生産の三つでございます」
「どれも、貴殿に話したことは無いな」
特に毒蜂蜜に関しては多くの人間に知られては拙いのでむしろ隠しているくらいだったのだが。
「永楽銭の鋳造により、尾張という国は貧困と疎遠になり申した。文章博士様はその後鐚銭を駆逐し、永楽銭の生産量を増やし、甲斐との交易によって金を買い永楽銭と並ぶ銭の鋳造を考えておりまする。確信をもって予想できまするが、今後毛利家から銀を買う予定もございましょう?」
言われ、頷いた。その通りだ。村井の親父殿から言われ、俺は尾張を石高というものから解放したいと思っている。全ての物は貨幣で買える。そうなれば人はもっと自由になれる。
「直刀隊も、足場が悪く取り回しのきかぬ山や森、船上の戦闘に特化するために工夫を重ねて作られております。弓を改良し、鉄砲に対抗出来るようするのも、全て目的とその為の道筋を考えているからこその行い。初めから答えを知っているとしか思えぬ動きをなさる直子様とは全く違いまする」
直刀隊という名前は、俺直属の兵としていつの間にか名が広まった。これ以後、伊賀や紀伊での戦いにおいて活躍の場が得られれば良いが。
「有体に申せば、某の目に文章博士様は賢者に、直子様は怪異に映っておりまする」
流石に竹中半兵衛でも無礼な事を言っていると自覚があるのか、言ってからすぐ、深く頭を下げた。
「母の、正体か」
その頭が上がるのを待って、俺は呟く。そんなもの、俺からすれば考えるまでもなく分かっていることではあるが。
「お気を付け下さいませ」
珍しく、竹中半兵衛が俺を気遣うような視線を向けて来た。
「直子様が文章博士様を大切になさっていることは重々承知でございますが、そうであるとしても直子様はこの時代において異端に過ぎまする。しっかりと手綱を握るか、常に様子を見ておかねば危のうございます」
「それは、お二人も同じ考えでしょうか?」
竹中半兵衛の言葉を受けて質問をすると、羽柴兄弟が揃って頷いた。かつては母の事も俺の事も上手く利用していた兄弟ではあるが、今となってはそのような気軽な行動が出来る立場にもないようだ。
「分かり申した。御助言感謝致す」
頭を下げると、三人を代表して羽柴殿がご無礼の段、平にご容赦と言った。
風呂上り、部屋に戻ろうとすると景連が戻って来たところだった。疲れている様子はない。俺は労をねぎらい、たった今出て来たばかりの温泉の場所を教え、休んで来ると良い、と伝えた。
「それと、明日出立で構わぬので、母に一つ言伝を頼みたい」
「畏まりました」
手紙にはしたためない。証拠が残らぬように、直接短い言葉を覚えさせる。
「狐の尾を踏む者あり。戯れは程々にし、ご注意されたし」
俺の言葉を、景連は三度口の中で繰り返し、そして確かに覚えましたと言った。
「……三人とも賢い」
部屋に戻って横になり、俺は誰にも聞こえないよう囁き声で独り言を言った。
「まさか、転生にまで行き付く者がおるとはな」
誠に惜しいと言わざるを得ない。それは答えの一端であり、狐の尾ではあるのだ。だが、三人ともわかっていない。玉藻の前の尾は一本ではないことを。
「輪廻転生し、異世界や後の世からやってきた知識人」
言いながら、笑ってしまいそうになった。確かにそれでもひとかどの人物にはなれるだろう。だが、
「母上はそれほど陳腐な正体を持つ方ではない。真なる姿は更に先だ」
言って、俺は目を瞑った。これから織田家は伊勢長島を囲み、同時に京都方面にも大軍を送る。その間の伊賀・紀伊方面の将の一人に俺が抜擢される。俺は伊賀方面の武将だ。まだ決まっていないが、しかし俺は知っている。『答え』を知る人、母上から教わったからだ。
「どれほどの給金を要しても良いので忍びを家臣としろ。だったな。聞いたことの無い名だが、特に注意すべきは『百地丹波』」
花びらより人が散った伊勢の春が終りかけていた。




