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信長の庶子  作者: 壬生一郎
織田信正編
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第三十一話・戦禍の予兆

「孟子曰く、天の時は地の利に如かず。地の利は人の和に如かず。儂が大和を征する事出来たは大和の地の利を得たが故」

「成程、人の和には劣るとも、天の時には勝る地の利、弾正少弼様は大和の地の利は何だとお心得でございましょうや」


本を捲りながら、俺は側で楽し気に話をしている弾正少弼様と慶さんの会話にも耳を傾けていた。


「大和の地の利とは即ち、古き帝におすがりする事と同意。つまり古墳よ」

「ほほう、確かに、古の都たる大和は平城京以前に多く陵が作られた地にございますな。しかしながらこれにおすがりするとは如何なることでありましょう。まさか聖武の帝が墳墓より出でて敵を討滅して下さるわけではございますまい」


慶さんの冗談めかした言葉が面白かったのか、弾正少弼様の喉が鳴った。慣れてくるとこれはこれで楽し気な様子に見えてくるものだ。


東大寺見学の後、俺達は当然の如くに弾正少弼様から招かれ、そこで食事を馳走になった。食後、弾正少弼様から酒は飲むのかと聞かれ、いいえと答えたところ、飲みたいですと慶さんが横やりを入れて来た。結果今こうして、弾正少弼様の私室にてダラダラと話をしているところだ。


「古墳とは、見晴らしがよく小高い丘や山の裾野に作られることが多く、多くは周囲を川に囲まれているか、或いは堀が巡らされている。それ即ち築城の好立地である」


成程! と手を打って、慶さんが不格好な器からグイと酒を飲んだ。母が作らせた器だ。失敗作であるから、駄作であるからと眠らせてしまうのは『物の哀れだ』と言って、器一つにつき一杯の酒を飲んでいる。『もののあわれ』はそういう意味ではない。と言ってもどうせ知っていて言っている事であろうし、ただ酒が飲みたいだけじゃないかと言っても、よく分かったなと言われてしまうだけなので黙っている。


「古の知恵者らがこの地が良いと、帝の終の棲家として決めた地であるが故に、既にそこに地の利がある。誠賢者の考えですな」

慶さんの言葉に、弾正少弼様がいやいやと首を横に振る。嬉しそうだ。弾正少弼様は年が年なのでと言って最初の一杯酒を飲んだ後は抹茶を喫しているのだけれど、それで酔えるのだろうか。


「しかし、失礼ながら弾正少弼様、それでは最も大切な人の和を得ることが出来ませぬな。又、地の利に劣るとはいえど、天の時も疎かにしてよいものとは思えませぬ」

「然り然り」


質問力の高い助さんの質問に、弾正少弼様はむしろ上機嫌になる。扇子で二度三度と助さんを指し、一つ咳払いをしてから語り出した。


「思うに、天の時などというものは、日ノ本全土に立つ男児全員等しく持っているものである。日ノ本の主たる帝に力なく、武家の棟梁たる将軍家が没落し、鎮護国家たる仏教も堕落した。何れの勢力にもまだ好漢英傑は残っておるが、戦乱を滅するには至らぬ。このような時世に生まれた男児全てに、天下人となる機会が与えられている。即ち、天の時は皆持っておる」


よっ! と慶さんが柏手を打って囃し立てる。弾正少弼様はグイと水を飲むかのように抹茶を喫する。作法もへったくれもない飲み方だ。部屋の端で本を読んでいる俺が言えたことでもないのだが。


「顧みるに、人の和など儂には元々得られぬものであった。だが、修理大夫様にはそれがあった。右筆たる儂は、そもそも修理大夫様が持つ人の和の一部に過ぎぬ男であったのだ。儂の幸運は儂の相手が儂よりも更に人の和を解さぬ三好三人衆であった事よな。せめて地の利だけでも得んとしていたところに義継様が我が元に来られた」


修理大夫、即ち三好長慶公が管領細川晴元と十三代将軍足利義輝公を京より追放して後、弾正少弼様は公家・寺社・近隣大名との折衝役として大いに活躍した。弾正少弼様があらゆる芸事に造詣が深い事は、彼らとの交渉にそれらが必要であったからでもあるし、造詣が深かったから彼らとの交渉役を任されたという事でもある。


「殊に帝の墳墓を足蹴にし砦を成したるなどという暴挙は朝廷を蔑ろにする行為に他ならぬ。それでは人の支持など集められまい。六十年天下を駆けて一国が精一杯よ」

「十分な成果にございます」


流石に、それを情けない所業であるとは思えなかったので口を挟んだ。慶さんも助さんも、口を揃えてその通りだと追従した。


「そろそろ読み終えたかの?」

だが、俺の言葉には反応を示さず、俺の手元にある本の感想を求めて来る弾正少弼様。爛々と輝く目が、老いたりとは言え彼がまだ現役であることを示していた。今もって実戦形式の練習の域を超えた経験を持たない俺としては何と答えれば良いか反応に困る。


曲直瀬道三(まなせどうさん)先生はこのような物も手掛けておったのですね」

「うむ。かの医聖は凡そ人の生に関わる事全てに精通しておったからな」

「セイに関わることに、精通ですか」

うむ。と深く頷かれた。感想を求められている。何か言わなくては、しかし何を言えばいいのだろうか。こんなに感想に困る物は初めてだ。


「素女妙論をもとにして書かれた一冊にございますな。唐代か明代か、いずれの時に書かれたものなのかまでは存じませぬが」

「その本の成り立ちなど学者が語ればよい事。若く、旺盛な男児がどう思ったのかを聞きたいのだ」

「……興味深きは、女人を本位として語られている点にございます。男にとってそそる女子が誰であるのか、男は何をされたいのか、ではなく、女子がまず昂ぶり、そして心を開き、その後、男がどのように動くべきかが書かれておりまする。まさか、男女のまぐわいについて書かれた書を読み、学を感ずるとは思いもしなかった次第」


弾正少弼様がいるその真横で本を読むなどという無礼、母親譲りの本の虫である俺であっても普段はしない行為だ。それをしたのは、他ならぬ弾正少弼様に今すぐ読み今すぐ感想を述べよと言われたから。読んだ本の名は『黄素妙論』。房中術についての指南書だ。当代随一の医師が当代随一の戦上手の為手ずから書き上げた一冊であるという。


「途中に書かれた脚注や、後から継ぎ足されたと思われる頁はどなたが?」

「儂だ。曲直瀬道三は医師ゆえ、人の身体については詳しかったが実戦経験においては儂に一日の長があるのでな。経験に基づき、補足修正を致した」

「……かなり新しい修正もありますが」

「うむ。この年になっても新しい発見とはあるものよ」


土産にそれをやろうと言い、俺は荷の深くにしまい込んだ。流石の母もこれを見て喜ぶのかどうか疑問だ。いや、母ではなく妻を悦ばせる目的の土産か。

情けなくも恥じらい顔を赤くしてしまった俺を大人達が囃し立て、早く子を作れと言われた俺が逃げ出したところでその日の酒盛りは終わった。


その後、俺達は三日程大和に滞在した。弾正少弼様の案内で多聞山城を見、長きに渡った三好三人衆との争いについて口頭で話を賜った事は必ず後の役に立つものであろうと思う。それ以外には本多正信から三河一向一揆の話や徳川三河守殿のお人柄について聞いたり、弾正少弼様の御家臣からご先祖様について話を伺ったりもした。何と、楠木正成公の御子孫である楠木正虎殿という方がおられたのだ。聞いたことを片っ端から紙に書き加えたので、帰ったら纏めようと思う。


三日過ごしてもまだまだ名残は尽きなかったが、急いで出発したのには訳がある。東、東海道の戦が思ったよりも早く展開しているとの報が舞い込んだのだ。


俺が古渡城を出たのと、武田・徳川が今川領に侵攻したとの報せが入ったのが九月の末。それから二十日ほどが経過し、既に今川が風前の灯火との報せが届いている。早すぎる。鎧袖一触だ。

このまま年を越さずに今川滅亡となれば東海の勢力図は大きく塗り替わる。俺とて呑気に諸国漫遊などしていては父の叱責を受けよう。即座に京へと向けて北上した。

右手に北山、高雄山、高峰山を望み、平等院や茶で有名な宇治を通過。伏見、稲荷も越えて一日で京にある村井貞勝邸へと到着した。


「来たか帯刀」

「親父殿、東の情勢は」

「明日殿より続報が来る。今日は休め。明日は早朝より本能寺へと向かい、話はその後でよい」


疲労はあったが焦りもあった俺に、村井の親父殿は諭すように言った。言葉通り、翌朝日の出前に御所の程近くにある本能寺へと向かった。


本能寺は法華宗本門流の大本山で、天文法華の乱以降比叡山延暦寺とは不俱戴天の仲だ。応仁の乱以降の隆盛が著しく、その関係で遠く種子島にも信徒を増やした。種子島と言えば即ち鉄砲の別名であり、火薬や鉄を独自の方法で入手するなど侮れない力を持つ。


だが、ここまで訪れた全ての場所で寺社勢力の権勢を見せつけられてきた俺としては特筆して驚嘆することがあるようには思えなかった。現在の所織田家とは良好な関係を築いているようであるので多めの寄進をし、親父殿の屋敷を出て一刻程度で帰宅した。


「して、どのような次第です?」

「戦になっておらんな」


親父殿の話では、先に今川とぶつかったのは武田。同盟者である北条と連合を組んでの進軍かと思われたが武田独力で一万二千の兵を出し、要衝薩埵峠にて迎え撃つ今川勢一万五千余りと睨み合った。そして、今川勢は重臣も含めた多くの家臣の裏切りによって戦わずして崩壊、今川氏真が撤退するに至り、武田軍が駿府に雪崩れ込んだ。駿府城へと逃げ込んだ今川氏真は現在舅である北条氏康の援軍を待っているものと思われる。


「北条は今川に味方しますか?」

「味方をせなんだら、何故武田と共に今川を攻めなんだかが分からぬ。北条氏康、やつは殿に似ておる。戦えば果断だが身内には甘い。娘を救う為に、場合によっては四、五万の兵が動くぞ」


親父殿の言葉に、しかし俺は少々懐疑的だった。北条家が、戦国の世には珍しい程家中の争いがない家である事は認める。家族仲も恐らく良いのだろう。だが、今川氏真の妻が北条氏康の娘であるように、北条家の当主氏政の妻は武田晴信の娘だ。隠居の氏康と、当主の氏政の意見が対立することは無いのだろうか。


「西の徳川殿も、随分と丁寧な調略を進めていたようだな。戦わずして東へ東へと進み、遠江一国は既に落ちた。後方の憂いがない分、徳川殿の方が有利かもしれぬ」


徳川殿も一万二千余りの兵を出したらしい。甲斐一国と信濃の過半、更に武蔵と上野の一部にも勢力を持つ武田と違い、振り絞っての出兵であろう。


「父上は、織田家はこの戦にどう介入しますか?」


「表向きは武田徳川両家の支援。実際には徳川殿に寸土でも多く領地を取ってもらいたいというのが本音であろう。此度の戦で北条との仲がこじれてくれれば東の北条、南の徳川と共に西から攻め込む。北には上杉がおる。四方から攻め、北条が甲斐、徳川が駿河、織田が信濃のうち筑摩郡、諏訪郡、伊那郡、残りの信濃北部を上杉で分け取りとする」

「そううまくいくでしょうか?」

「いかぬだろうな。だが、そういう気持ちでおらねばいつの間にか甲斐信濃まで全て徳川殿に持っていかれるなどということになりかねぬ。最高から最悪まで、想定しておくに如かずよ」


頷いた。その言は尤もだと思えた。


「武田の戦術は巧みだが、戦略自体は至極単純だ。強きと結び、弱きを攻める。織田とて、西の三好北の朝倉と二正面作戦を強いられておるのだ。この上武田にまで攻撃されては三方より挟撃を受けることとなる」

「対三好用に、摂津は福島に陣を張るとか」

「うむ。阿波三好家を義昭公がお許しになることはあるまい。だが、それよりも先にやはり越前だ」

「朝倉とは手切れですか?」

「義昭公が御立腹だ。何度上洛せよと文を出しても動こうとせぬ。元は越前斯波氏の守護代である朝倉、尾張斯波氏の守護代の陪臣家に過ぎぬ織田、格下の相手に頭を下げたくはないらしい」

「それで格上の義昭公を怒らせるようでは本末転倒な気がしますが」

「故に戦よ。じきに追討令も出よう」


思ったよりも切迫している。母が時間がないと言っていた理由が分かった。


「ありがとうございます。明日は義父上達にお会いし、明後日早朝にも京を出ようと思います」

「急ぐか」

「はい。時機を逸すればすぐに雪の季節にございますゆえ」


親父殿が頷き、その日はお互いの近況を話しあった。俺はもうすぐ産まれる弟か妹かが楽しみだと話し、ならばとっとと子を作れとからかわれた。親父殿は俺という養子の他に実の息子が二人おり、その二人が最近では仕事でも役立つようになってきたと嬉しそうに話した。


翌日、俺は信広義父上始め、親戚や家中の者達に挨拶回りをし、予定通り明後日に京を出発した。馬で三日、しかし急げば二日で行ける道のりであることは父が証明済みだ。


その道中、南近江、観音寺の辺りで少しだけ悩んだ。進路をそのまま東に取るか、北に取るか。結局、旅の者に小谷の様子を聞くことにした。飯屋の前で腹を空かして蹲っていた若い男が小谷からやって来たという事だったので、飯を奢り話を聞いた。不穏な動きはない。当主長政様と奥方市姫様は仲睦まじく、来春には子が産まれるとのことだった。


「では、慶さんも助さんも、市姉さんにお会い出来たら帯刀が宜しく言っていたとお伝えください。与吉も、飯の分はしっかり働けよ」

「へい。ありがたく仕事させて頂きやす」


飯をご馳走してやったらすっかりなついた若い男に荷物持ちをさせ、慶さんと助さんは小谷へ向かった。俺はこのまま東へ向かい、美濃から尾張へと戻る。


「本当にいいのか?」


珍しく戸惑った様子の慶さん。まだ雪で道が塞がれる時期には早い。小谷に寄ることは出来ることであるのだ。


「此度は母上の温情で来た旅であるから、母上の言葉に従っておくよ」

「ならばいいが、僅かだが道中一人になるのだ。気を付けろよ」

「二人の方こそ、気を付けて」

「我らは最早名実ともに浪人であるからな。襲ったところで誰も得をするまい」


助さんが言い、それから首を傾げた。

「しかし、信じぬではないが解せぬ。何故故にそう言われるのであろうか。事もあろうに小谷が危険だなどと」


その疑問は解けないまま、俺は東へ馬を走らせ、二日後、古渡城へと帰城した。

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