第二十四話・茶筅は蒼かった
少々立て続けに客が来た。まずは茶筅。名家の御養子という立場から人質にまで格を下げられた訳であるけれど、本人はこれ以上怒られないで済むという事の方が重要であったらしく、あっけらかんとした表情で古渡城までやってきた。
「叔父上達の言うことをよく聞くのだぞ」
俺が言うと茶筅は少し真面目な表情になってうんと頷いた。
「秀成叔父上、長利叔父上、茶筅を宜しくお願い致します」
今回の戦いの結果、織田家は養子問題については譲ったものの、大河内城を明け渡させ、具房、具教を城から退去させることについては要求をのませた。城主は名目上秀成叔父上ということになっている。大河内城には実兄具教を捨て織田に通じた木造具政とその譜代の者達が入ることとなる。当然、一門衆以外にも織田の者が多く入城する。
「茶筅、一つ頼みがある」
「何?」
「帯刀仮名と漢字は覚えたか?」
「覚えた」
少し嫌そうな表情を作ったものの、茶筅は自信をもって頷いた。恐らく吉乃様から叩きこまれ、完全に覚えるまで許してもらえなかったのだろう。
「お前がこれから行く北畠家というところには、北畠親房様、北畠顕家様という二人の御先祖様がいる」
あらかじめ書いておいたお二人の名前を書いた紙を渡す。ちかふさ、あきいえ、と、茶筅が繰り返した。
「このお二人は親子なのだが、親房様は治に優れ、顕家様は武に優れた。共に当代随一であったし、それ以外の事も苦手であったわけではない。兄は、このお二人の事をもっと知りたいのだ」
「調べたらいいんだな。間者だ」
「そうだ。以前林と喧嘩した時のようにだ。だが、こそこそする必要はない。お二人について知っていることを何でもいいから教えてくれと言い、教わったことを書いて送ってくれ」
「簡単だ。分かった」
「よし、じゃあ報酬をやろう」
快く応じてくれた茶筅に、一つ踊りを教えてやる。母から教わった謎の踊りの一つだ。
まず片足を前に出す。今回は右足にしよう。右足のつま先を板の間に付け、そこから体の手前に引く。左足は前には出さないが、膝を前に出すことで見た目には前に出て見える。右足が左足よりも後ろに来たら今度は右足を軸に左足を引く。これを繰り返すことにより、まるで前に進もうとしているのに後ろに進んでいるように見える。
「う、うおおおお……」
「月歩という秘術だ。このようにして歩くことで、忍びや間者を欺くことが出来る」
勿論母の嘘だが俺は信じたことにして言われた通りの事を伝えた。茶筅が俺と同じことをしようとして、出来ずに悔しがる。まあ出来まい。俺だってひと月かかったのだ、母は教えてきたくせに出来なかった。
名家名族というものは押しなべて教養が求められる。この茶筅に連歌会を催し見事なる発句をしたためよと言っても無理どころか無体というもの。だが、舞に関して言えば茶筅は兄弟達の中で最もうまかった。この間のネズミ車も一番楽しそうであったし、好きであれば上達もしよう。能や狂言は一つの教養として大いに認められている。一芸をもって少しは北畠家の人間に認められれば良いと思う。名前が茶筅であるだけに、茶の湯にもそこそこの興味を持ってはいたようであるし。
「叔父上方にはこれを」
そう言って、二人には刀を一振りずつ渡した。併せて、永楽銭一貫文と美濃焼の茶器を幾つか渡した。
「永楽銭の製造が順調に行っております。今は陶工や刀鍛冶を呼び寄せ、それなりのものを作れるようになりました。これを茶筅の為に役立ててやって下さい」
新しい、古渡産の刀だ。美濃焼は既に全国にその名を馳せているので特に名づけはしなかったが、刀については銘を尾張大日方とした。脇差は同じ読みで小日方だ。
「忝い、帯刀殿」
「必ずや役立ててみせまする」
恭しく頭を下げた二人だったけれど、目は笑っていた。我が織田家の人間は例外なく堪え性がない。色々と理由を作って遊び金にもするだろう。けれどそれで構わない。織田家から来た連中は金持ちだから仲良くしておこう。と思って貰えれば御の字なのだ。
「たてわき! 出来た!」
それからほんの束の間三人で話をしていると、月歩を練習していた茶筅が叫んだ。見ると、実に見事に月歩を使いこなした茶筅が後ろ向きに近づいて来るところだった。気持ちわ、凄いぞ茶筅。
誰にでも一つくらい取り柄があるものだと言いかけてしまい、流石に口を噤むと、叔父二人と視線が合い、俺達は大いに笑った。
同じ頃、北伊勢には信包叔父上と勘八が向かったが、二人とは残念ながら会う機会を設けられなかった。公方様の上洛命令に従わず抵抗した長野工藤氏に対しては信包叔父上が養子縁組して公然と乗っ取り、上洛戦に協力した神戸氏には勘八を猶子として送り込む。猶子、つまり子供と同じように大切にして頂く。という事だ。表向きは友好の証でしかない。
「行ってきます兄上」
それから暫くして、茶筅とは違い利発そうな表情でそう言ったのは徳姫だ。徳姫の輿入れの際には古渡城を通過したので、一晩宿を貸した。可愛がっている長女の輿入れとあって、父は五千もの人数を動員し、岐阜城から三河岡崎城までを十日かけて移動させた。
「兄上のお嫁さんになると思っていました」
そんな可愛らしいことを笑顔で言われた時には、五千人を叩き斬って二人で逃げ出そうと思ってしまったが、ふふふと楽し気に笑っている様子を見て、ああ、冗談も言えるようになったのだなと感慨深い思いをした。
「そんなことを今の年から言えるようでは将来男をたぶらかす悪い女になるかもしれんな」
俺も笑って、抱き上げて、また会おうと言ってお別れをした。寂しさは勿論あったが、まだ幼い徳姫が笑顔でいたのだから、悲しい顔は見せまいと懸命だった。
弟妹が相次いで去りもしたが、来るものもあった。もう一人の妹相姫と、その母勝子殿だ。彼女は娘相を産んで以来、吉乃様に遠慮してか御褥辞退していたが、当の吉乃様が『畿内にも力を伸ばした織田家には多くの子が必要です』と言って呼び寄せた。吉乃様は体調こそ回復したものの、年齢的にも体力的にももう自身で子を産むことは出来ないと判断したそうだ。結果、見事子を孕み年が明ければ出産という運びだ。
吉乃様は勝子殿が妊娠したと知るや、妊婦にとって直子、帯刀親子の傍よりも安心出来る場所はないと、輿に乗せて丁重に古渡城へと送ってきた。俺は、肥立ちが悪い吉乃様に骨盤矯正腹巻を作っただけであって、産婆としての能力はないのだが。
「宜しくお願い致しまする」
「おねがいいたしまする」
とは言え、徳や茶筅や勘八に会えなくなったところにまた妹と暮らせるようになるというのは嬉しい。加えて、来年になればもう一人弟か妹が出来る。快く迎え、三食よく食べること、可能な限り歩き、筋力を衰えさせぬことを約束させ、母娘に一室を用意した。
「帯刀様、慶次郎様がお越しです」
「お師匠様が? 分かった」
そんな中で、一風変わった客人が来たのは七月半ばの事だった。
「おい帯刀。貴様、織田家の家督を乗っ取るつもりはないのか?」
筆を置き、客間に向かうとそこに大型の猛獣とその飼い主のような男がいた。
「今更そんな話をして、お師匠様は本当に阿呆だな。出来るはずもなし。出来たとしても、俺はお師匠様よりも又左殿の方が前田家の当主に相応しいと思うから結局お師匠様の立場は変わらないよ」
本当の事を言うと、我がお師匠様こと前田慶次郎利益殿がギリリ、と奥歯を噛みしめた。
この、前田慶次郎利益という人物は先頃又左殿に家督を譲らされた前田利久殿の養子で、俺の槍と悪さの師匠だ。後ろの涼しい顔をした飼い主は奥村永福、通称助右ヱ門。共に天文十年生まれの剛の者だ。
「主命に抗い荒子城に立て籠って、それでも無事生きて出てこられたのだから、そんな有り得もしない妄言吐いていないで現実を見たらいいんじゃないかな? お師匠様も」
「貴様、師匠の俺にそんな説教する為に呼び寄せたのか」
「勿論違うよ」
普段の俺を知る人間からすると、俺が前田慶次郎利益にこのような口の利き方をしていることに驚きを禁じ得ないらしい。俺としては、物心ついた頃には既に仲の良かった近所の兄貴分と話をしているだけであるので、別段無礼とは思っていないのだが。逆に、お師匠様から貴様とか小僧と言われてもちっとも腹は立たない。お師匠様と呼んでいるのも、言葉の意味も知らない童子のうちからそう呼べと言われていたから呼んでいるだけだ。
「永楽銭の製造が順調なんだ。優秀な家臣を迎え入れられるくらいに」
「帯刀が俺を家臣に?」
「武田の今川攻めが早まったんだ。今は良くてもいつ美濃か三河に攻め寄せて来るか分からない。お師匠様と助右ヱ門殿に来てもらえたら心強い」
後ろで、音も立てずに茶を喫している助右ヱ門殿を見る。俺の視線を受けても、はて? と小首を傾げて見せて特に反応はない。柳に風の如しだが、このお人はこのお人で、父から荒子城を明け渡すように言われた時『主利久様の命令なくば何人たりとも荒子城内に入れず』と言い切った豪胆の持ち主だ。
「某、利久様より慶次郎を頼むとの言葉を仰せつかっておりますれば、この男がうんと言えば某も又頷きましょう。然りながら、この男、これより諸国漫遊の旅に出んと言うておりまする。このような傾奇者を一人で出歩かせては前田家の、ひいては織田家の恥故、某も同行せねばなりませぬ」
「またそのような戯れ事を、お師匠様も助右ヱ門殿も御子が産まれたばかりではありませぬか」
「叔父御が何とでもしてくれる」
「又左殿と話をしたのか?」
「せんでもわかる。あれは義侠心の篤い男だ。今回の家督相続で割を食った人間のただ一人として放っておくはずはない」
「そこまで認めているのなら素直に又左殿の家臣となれば良いのに」
今回の家督相続の件で大分こじれてしまった感があるが、元々又左殿とお師匠様の仲は悪くない。俺が知っている限り、二番目に槍が達者なのが又左殿で、一番がお師匠様だ。昔は二人で槍の稽古をする様子などを見せてくれて、俺はそれを見ながら凄い凄いと拍手をしたものだ。
「それでは父御が余りに可哀想だ。暫くの間、俺は前田から離れた方が良い」
「だからうちにくればと誘っているのだ」
「諸国を見て回りたいというのも本音であるのだ」
ため息を吐いた。助右ヱ門殿は楽しそうに笑っている。はてさて、どのようにしてこのわからず屋を説得したものかと思うと、客間に近づいて来る足音が聞こえた。
「帯刀様、直子様です」
「分かった、通してくれ」
言うとすぐに母が姿を現した。お師匠様と助右ヱ門殿が頭を下げる。俺の隣に座った母はお久しゅうございますと二人に声をかけた。
「お二人はこれよりどこぞへ行くおつもりなのでしょうか?」
母が尋ねる。まるで今までの話を全て聞いていたかのような口ぶりだ。助右ヱ門殿は再びはて? と首を傾げお師匠様を見た。
「伊勢から大和へ、畿内を回りそのまま北陸、大和田の泊などを見ても良いですし、西の柄や安芸にて、過ぎし平家の隆盛に触れてみたいとも思うてござる。或いは朝倉、一乗谷の栄華は如何ばかりかと興味もございますし、越後の上杉、甲斐の武田、相模の北条の領国も回ってみようかと」
「その旅に、帯刀殿を連れて行って頂きたく」
首だけを動かして、母を見た。何を言っているのか。というのが感想である。
「勿論、五年も十年も連れ回されては困ります故、期限は初雪の降る頃合いまで、遅くとも年が暮れるまでに戻ってきて頂きます」
言いながら、母が一枚の紙を手渡した。お師匠様がそれを受け取り、ゆっくりと読み上げる。
「大和・東大寺金堂。摂津・大坂城。山城・本能寺」
「この三カ所を、この子に見せて差し上げたいのです」
大和の東大寺といえば松永久秀殿と三好義継殿が三好三人衆相手に戦った場所だ。劣勢に立たされながらも奮戦してくれたお陰で父が上洛する時を稼げた。摂津の大坂城は石山本願寺だろう。大坂本願寺と呼ばれてもいる。摂津一堅固な城であることは間違いがない。最後の山城、即ち京の本能寺については、詳しくは知らない。
「本能寺といえば、法華宗本門流の大本山ですな。天文法華の乱で堂宇は悉く焼失したと聞き及んでおりますが」
助右ヱ門殿が言い、母が頷いた。お師匠様がニヤリと笑う。
「本願寺の総本山を見せた後に、法華宗の大本山を見せますか、御母堂、またぞろ何か企んでおりますな?」
「私が何か企んでおるのはいつものこと。本当であれば、可愛い我が子にもう少し旅をさせ、見聞を広めさせたいと思うておりまするが、何分時が足りぬ故」
「時が足りぬ? 何故です?」
「畿内は間もなく荒れます」
キッパリと、確実な事実を突きつけるかのように母が言い切った。畿内が荒れる?
「畿内は、父上が制されましたが」
「確かに殿が制されました。ですが、誰が殿に心服しましたか? 誰が殿に屈服しましたか? 畿内近郊に数多いる群雄のうち、力を失ったは六角、三好、北畠のみ。その三家にしても、いずれも抵抗の力までも失った訳ではありませぬ。これから、ここより始まるのです」
「何が。と聞いても宜しいか?」
お師匠様はもう笑っていなかった。ねめつけるような視線を母に向け、その言葉を待つ。
「乱世の終結が、そして日ノ本の覇権争いがです」
言葉に、潰されそうになったのは初めてだった。父が天下に号令をかけると言ったり、日ノ本を統一すると言ったりするのは何度となく聞いてきた。だが、母の口からは明確に、これから始まると、その日までの時間はもうないと、具体的な言葉が述べられた。それを戯れ事でないと実感できる程度には、俺も成長していたのだろう。
「お二人の妻子、利久様、その他前田家よりの方々については古渡城にお迎えいたします。帯刀殿のおらぬ間はわらわが内務一切を取り仕切り、利久様にはその助けをして頂きます。前田家の方々は松下嘉兵衛が面倒を見ます故、御心配召されぬように。既に、殿と利家様からの許可は得ておりますれば」
言って、母は返事も聞かずに立ち上がり、俺の前に座った。恐ろしくはない。不思議な人で、底の知れない人であるがこの人はどこまでも俺の味方であるのだ。
「帯刀殿」
「はい」
「以前、賭けをしたことを覚えておりますね?」
「はい、覚えております」
「勝の権利をここで使わせて頂きます。東大寺金堂、大坂城寺内町、本能寺堂宇、この三カ所を見聞し、年内に再び古渡城に戻って参りなさい」
「それは」
賭けの勝として使うには、余りにも親心が過ぎないかと、そう言いかけて止めた。元々あのような賭けなど、無くても俺は母の願いなら叶えてやりたいと思うし、母は俺が望むことなら全ての人間の予想を超えた行動をとるだろう。
「畏まりました。何ぞ、面白き書物でもあれば土産に買うて参ります」
「無用です」
せめてもの、と思い言った一言は言下に否定された。母が少し顎を上げ、鼻を鳴らす。
「日ノ本にある全ての本はいずれわらわの手の内です。その為にコミケ、熱田にての会合を開くのです。誰の手出しも無用。わらわは、わらわの欲しい物全て、追うのではなく我が手元に引き寄せてみせまする」
自信満々に述べるその表情は、正しく稲荷の化身、玉藻の前と呼ぶに相応しい威厳を保っていた。
「忝のうございます。母上のお心遣いに恥じぬよう。この不肖帯刀、来るべき天下制覇の戦に後れを取らぬよう学んで参りまする」
時は間もなく、激動の元亀年間を迎えようとしていた。




