志在千年
天正七年、天下は確実に安寧に向かっていた。前天正六年は大戦こそなかったが東西それぞれで反乱が起こり、戦国乱世は終わりを迎えたとはいえ、まだまだ血生臭さが香る世であった。この年はそのようなこともなく、大きな災害にも見舞われなかった。ただしそれらの安寧は民草や百姓と呼ばれる、所謂一般民衆にとっての安寧であり、新しい天下の上層にある者たちにとってはその限りではなかったであろう。
公家は小御所会議にてその存在意義を問われ、自家の価値を示すことが出来なかった家は何人たりともその家督継承を許さず、当代にて断絶であると明言された。五摂家は摂政及び関白、ならびに藤氏長者となる智慧と人徳を有する事、以って帝の見本たるべし。同じく七清華家は左大臣を極官、三大臣家は内大臣を極官とする地位に恥じぬ才を示すべし。このように言われ、家業については明言されなかった最上位の公家衆たちは果たして幸運であったか否かはまだ分からない。地位にふさわしい能力と言われたところで基準がなく、つまりは絶対的な合格などはないから精進し続けろということであるのだ。中堅以下の公家衆に対しては家業を十全に修めているかどうかを問うたが、その家業については三年以内に申告すべしとのことであった。既に技術など絶えて久しい家業が多くあることは周知の事実であったし、内容も流派も全く変わらぬ家業の家もある為、この機会に差別化が図れるよう見て見ぬふりをしたのだ。茶道など、室町末期から続く乱世の間に進化した学芸もあるだろう。それらについてもうまく取り入れれば良いと間口は広げた。しかしながら期限付きでありその間に何もしなければ取り潰されることは決まっている。彼らは今後も大いに東奔西走することであろう。
寺社は安土宗論の後すわまた法難か武家との衝突か、とも思われたが結局蜂起も強訴も一揆も起こることはなく、僧侶たちは薙刀を持つことなく修行に励んでいる。彼らも戦国乱世の中で獲得してきた特権を少しずつ剥奪され、本来の仏門修養に立ち返るよう求められている。織田家は密教や顕教、南都六宗に鎌倉新仏教などなど、多くの派閥に対し、それらの教えがどのような経典に基づきどのような教えに基づいてどのように救いたるのかを明らかにせねばならないと伝え、こちらに対しても書物としての提出を義務付けた。それが出来た寺には寺額を与え、相応の維持費を織田家から支払う。したくないと言うのであればせずとも良いが、そのような寺は平大相国の名において寺領を認めない。
帝からの政権移譲を受け、各地とそこに住まう民衆を統治するという役割を得た武家も、これからは自分達の天下であるから左うちわ。というわけにはいかなかった。天正に入り武断の時代は終わった。即ち偃武のこの時代、求められるのは戦の強さにあらずして統治の巧みさなり。これをこなすことが出来ぬ者は領主たる資格なし。よりふさわしきものへと統治者を改める。こういった宣言のもと、各地の領主たちは地元の名士と呼ばれるような者や算術に長けた者などを招聘するようになり、代替わりの後も自家が繁栄するようにと必死の活動を行なっている。
これに先立ち発布されていた禁中並公家諸法度・寺社法度・武家諸法度など、多くの法度がこの頃より実際に施行されるようになり、彼らは新しい時代における秩序だった身分統制に苦労しながらも対応してゆく。これらの動きは、つまり前述の一般民衆にとっての安寧に繋がるものであり、圧倒的多数の人々にとって天正七年は久々の平和な年となった。
そうして、明けて天正八(1580)年。
「千秋万歳。おめでとうござります」
安土城の広間にて、おめでとうございますの唱和と共に文武百官が平伏し、寿ぎの言葉を述べたらしい。らしい、というのはその時俺はその場におらず、後になってから顔を見せにやってきたからである。流石に、織田家が最も激しく戦いを繰り広げていた頃に主力として戦った家臣連中が揃う前では、俺が堂々と顔を出すのは憚られた。俺は今もって実は生きていますがそっとしておいてください。などという報せを出したことはなく、諜報に疎い三介のような、俺の死を事実として受け入れ続けている者がどれだけいるか分かったものではないのだ。
「いや、ありがたい。御老公にそう言われるのはまた格別だな」
「御老公などとはお戯れを。戦働き以外に能のない、時代遅れの老骨にございます」
相変わらず九尾の代表として動き回ってくれている雲八爺さんと勘九郎の会話である。天下諸侯悉くから寿がれ、勘九郎とて流石に腹いっぱいであろう。
「何を申す、家督を譲った息子も立派に成人し、美濃と摂津、合わせて一万八千石の大名ではないか。嫡男以外の三人も家臣に抱えたいと申す者は多いと聞く」
「全ては直子様の御威光によるものかと」
「ははは、否定は出来ぬな。今や大島家といえば織田家直臣というより九尾直下と思われておる。その神通力にあやかりたいと思う者は多いだろう」
年明け後すぐ、勘九郎の側室鈴が子を産んだ。天下大望にして平大相国家三代目となる男子の誕生であった。年賀の挨拶は悉く嫡男誕生の祝いに塗りつぶされ、ようやくその全てが終わり、さてボチボチ話でもしに行くかとなった頃、勘九郎から呼び出された。呼び出されたのは九尾衆だ。この、我が戯言から生まれた非公式の集団が、遂に上様からのお呼び出しを食らったわけである。
「直子殿からのお言葉は?」
「まだまだお若いので無理などなさらず、授かりものにて焦る必要とてなし。オットセイは効き目が強すぎるので後十年は使うべからず。とのことでございます」
大きな声で、勘九郎が笑った。俺はその近くで平伏しつつ、被り物の隙間からチラチラと伺っているだけだが、それでも俺の方を見て笑っているのが分かる。
「お言葉承った。もとよりまだまだ薬に頼ろうとは思っておらぬ。子のような年の弟もおれば甥っ子もおる。焦ることなく励むとしよう」
「御意」
そう言いながら、雲八爺さんが懐中より文を取り出す音が聞こえた。そこに書いてある文字も、チラリと横目で伺えたのだが、無駄に達筆で躍動感あふれる母の字が踊っているのが見えた。
「九尾衆名簿」
そうして、雲八爺さんは端的に名だけを清書した一枚を勘九郎の小姓に渡し、自分はもう一通用意しておいた書き付け付きの大きな一枚を取り出し、読み始めた。諦めはしたものの、ついにかとため息をつきたい俺とは異なり、周囲に居並ぶ者どもは一段、いや二段三段と熱を帯びた様子だ。皆そんなにも気になるのか、この何の意味合いもない集団が。
「棟梁・原田直子。言わずともご理解いただけましょうが、我らの大将にして今亡き弾正尹様のご生母におわしまする。我ら直子様の命にて、あくまで大相国家繁栄の為微力を尽くす者なりと、改めて上様にお誓い申し上げなん。又、直子様におかれましては九尾が天下の乱れに繋がらんと思し召されましたら、ご下命くだされば直ちにこれを解散するとのこと」
「うむ。織田家の母にも等しきお方である。左様なことは決してないと信ずる」
文を受け取った勘九郎が楽しそうにほんの少しだけその紙を開いた。雲八爺さんの言葉に合わせて少しずつ見てゆくつもりなのだろう。楽しみよってからに。
「一尾・狐尾の帯刀。その名は亡き弾正尹様のものにて、一尾を纏める者を通称しそのように呼ぶとのこと。現在は該当するものなく、この老骨はあくまで代行にござる」
うんうんと、勘九郎が頷く。死んでないことも、何ならここにいることも知っている人間がそれなりにいるので茶番でしかないのだが、勘九郎含め皆楽しそうだ。
「二尾・鯰尾の忠三郎。三尾・鳥尾の小太郎」
「おう」
「ははっ!」
元気よく、呼ばれた二人が返事をした。この度、九尾衆を集められるだけ集めて挨拶に来てくれ。というのが勘九郎からの呼び出し内容だ。そんな理由で呼ばれて来るものなのかと思ったがほぼ全員来て今に至る。
「霊尾・珠尾の孫市」
一、二、三ときて次は四とならず、雲八爺さんは霊と言った。これはどういうことかと、居並ぶものどもがやや首を傾げつつ続きの言葉を待つ。
「四は古来より死を想起させ不吉とされております。故に欠番といたしました。代わりに、このほど閻魔様より約定を頂戴するに働きのあった者を霊尾筆頭として召し上げましてございまする。此度は直子様よりの密命を帯び欠席にございますが」
あの後、信頼して任せることが出来る相手が一人でも多く必要なんだと伝え、俺は孫市に協力を仰いだ。かつて家臣になってほしいと頼んだ時は断られたが、馬鹿げた遊びは嫌いじゃないとこのほど勧誘に成功した。因みに密命などはない。なぜ正月早々敵地に行かねばならんのだと言って断られた。珠尾の珠はお珠のことである。孫市という男は油断してるとお釈迦様に喧嘩を仕掛けてしまいかねないので最も心穏やかなお珠にお目付役を頼んだ。
「おお、腑抜けていた三介に喝を入れて下されたとか。亡き兄上が夢枕に立たれたことで、天正偃武策が著されたとも聞いておる。その功大なり。兄上の思し召しよ」
言いながら、勘九郎が手を合わせ天を仰いだ。その様子に、その場にいる誰もが仰せごもっともとばかりに手を合わせる。だが、わかっている者であれば分かる程度に、勘九郎は俺の方向を見て手を合わせる。止めろ。生きている兄を拝むな。
「故に、番号は繰り下がり五尾・竜尾の藤次郎、六尾・鬼尾の夜叉九郎。御両名それぞれ伊達、戸沢の嫡男なれど未だ若輩にてこの番号は仮のものとする。両名の今後の働きを大いに期待すると直子様のお言葉にござる」
「かしこまりました!」
「夜叉九郎、身命を賭して働かせていただく所存!」
若い二人が元気よく答え、その周囲にいる家臣連中が啜り泣く声が聞こえた。そんなに名誉か?
「七尾・蝦夷尾の新三郎。八尾・鵺尾の源老」
「ははっ」
回答は一人だけから返ってきた。此度なぜ、俺がこのような呼出に応じたのかと言えば、母からとっとと九尾を確定させろと叱られたからである。そうしない限り毎日のように自分を売り込みにくる輩が絶えない。勘九郎からの呼び出しは良い機会であるからここで大々的に発表してしまえ。とのことだ。故に、四は不吉だからというやや無理のある理屈で一席を減らし、いつの間にやら巷で噂になってしまい今更なかったことには出来なさそうな霊尾とくっつけることで一席減らした。要はもう空きはないです。と言えれば良いわけであるから。そして七尾、これは蝦夷地で知遇を得た松前慶広殿のことである。この度代替わりと改名も認められ、今後貿易の関係上長島とはかなり密な付き合いになると思った為声をかけさせていただいた。
「八尾源老も直子様よりの密命を帯びております故、欠席と相成りました」
八尾の源老とは誰かと言えば誰でもない。俺が関知せぬところで勝手に育った九尾の席をどう埋めようか頭を悩ませていたところ、同じく俺の関知せぬところで勝手に有名になってしまった頭光る源爺が思い浮かんだのだ。存在せず、無限にデカくなってゆく気味の悪い存在として、鵺の名を差し上げた。
「最後に、九尾・猿尾の藤吉郎!」
「ははあーー!!」
「こちら羽柴筑前殿におかれては、九番目を末席とは思わず、御指南役とし大いに助けて頂きたいと直子様のお言葉にございます」
「もったいなきお言葉! 亡き弾正尹様から受けた大恩を忘れることなく、大相国にお仕えいたした日と同じ忠義をもって尽くす所存!」
最後に呼ばれた斉天大聖は流石の千両役者という感じだ。歓心を買おうと母に銭や物を持ってくる連中は数知れないが、質量共に、斉天大聖を超えられた者を見たことがない。
「これらを以て、我ら九尾、天下の為、平大相国家の為、身を粉にしてお仕え致す所存」
「うむ。貴殿らの働き、大いに楽しみにしている」
期待している。ではなく楽しみにしている。と、最後に少々勘九郎の本音が漏れつつ、こうしてとりあえず九尾という謎組織の拡大は止めることが出来た。まあ、自分の力で止めた感じは一切しなかったが。
「上手く纏めたようではないか」
そうして、九尾という組織についてある程度の形をつけた次の日、俺は父の寝所にいた。
「はい。元々何をするでもないお遊びの集団でしたが、船を作り交易を行う。こうなると長島の母上や嘉兵衛にとっても無関係ではなくなってしまいましたので。雲八殿だけでなく、孫市が加わってくれなければ安心して任せることは出来ませんでした。席は埋まって札止めと言う事も出来ましたし」
「それで、貴様は己が作った組織を離れるのか」
「そう長く離れるつもりはありません。精々、二、三年です」
臥所から上体を起こして話をする父は、クククと小さく笑い、満足げに頷く。
「貴様は幼い頃より、この父を随分と楽しませてくれたものだ」
「お互い様です」
「織田信長が父であることは楽しいことか?」
「ええ。この時代、主役は誰であるのかと問われれば織田信長以外にはおりません。我ら息子どもは永劫に『織田信長の息子』であることは逃れられないでしょう」
「構わん。言いたい者には言わせておけば良い。貴様は貴様の生を全うせよ」
「はい、父上。帯刀は、海を渡り中華の地へ向かいます」
既に父上には伝えていた言葉を、もう一度改めて伝える。九尾という組織は俺がなくとも回るようになった。きっと母を助けてくれるだろう。勘九郎に男子が生まれ、少なくとも十年以内に織田家がひっくり返るようなことはほぼなくなった。後顧に憂いは何もない。ならば俺は、己が成したいことを成す。
「中華の地に渡り、そこで何を見る?」
「我らが二百年後に辿るであろう未来を」
何度か問われた問いに、再度答えた。明朝は元朝から中華の地を取り戻してより既に二百年の時が流れている。太平の世を二百年。俺が書いた百年考の更に倍だ。俺一人が考えたものよりも多くの困難が、腐敗が、同時に栄光がそこに現出しているだろう。
「その先に何を得る?」
「千年の太平」
真っ直ぐに、悟ったような深い視線と共にぶつけられた問いに応える。百年の太平など、既に中華は達成しているのだ。しかしながら千年の太平となれば俺の知る限り達成した国も地域も存在しない。
「千年か、想像もつかぬ」
「しかし必ずやってきます。千年前の人々が想像もできなかった今日があるように」
「明日のことすら、考えなくなって久しい」
はい。と答える。今から二年三年と中華の地へ向かい、戻る頃、まず間違いなく父は鬼籍に入っているだろう。もちろん俺はそれをわかってこの話をし、父もそれを分かってこの話を聞いている。
「どれほど遠くにあっても、父上の息子であるという誇りは常に失いません」
「そんな吹けば飛ぶようなものは失って良い。生きている親を大切にしてやれ」
「勿論です」
そう答えた直後、父は小さく咳き込み、掠れた声で行けと言った。それが、俺が父の顔を見た最後だった。
臥所を出、廊下に出た。南側には城下が、北側には近淡海が広がる。その先にあるもの、更にその先にあるもの、俺はどれだけのことを知っていて、これから先どれだけのものを見られるのだろうか。沢山の物事を知ってきたつもりだ。漢籍も読み、言葉も学んだ。それでも間違いなく、知らぬことの方が遥かに多いだろう。何も知ることが出来ず、屍を晒すかも知れない。それでも俺は腕を伸ばし歩を進める。
「志、千年の未来に在り」
いつかそこで必ず、父ともう一度語り合うのだ。
満足




