曇天解法
「ふう……」
小さなため息を一つして空を眺めた。今日の天候は久しぶりに曇天だ。しかしながら頭の中はすっきりとしており、体力も十分にある。しっかりと眠ったお陰か、船の揺れにもびくともしない、我ながら若々しい状態であると思う。しかし、気持ちはこの空のように曇っていた。
「何をシケた顔をしていやがるんだ。実質的な九尾の元締め様ともあろう男が」
「あ、船長」
九尾という組織の人員である四郎たちとは違い、諸大名に会いに行く際の大将である雲八爺さんとも違う、彦八がこの船を運用するにあたり四方八方から集めてきた人員のうちの一人で、今はこの船の船長を務めてくれている男が、布でパシ、と俺の頭を叩きながら聞いてきた。
「船長、それはここでは余り言わないように」
「だから、テメェ以外の人がいないところで言ってるんだろうが、甲板の雑巾掛けは終わったか?」
「まだ途中だけれど」
答えると、何も言われずにもう一度頭を布で叩かれた。俺は表立って九尾の一、狐尾の帯刀である。などと言って回ってはおらず、時に雲八爺さんの弟子として、時に僧侶として随伴している。だから全く事情を知らず、ただただ船員として雇われた者なんかは、単なる若者として接してくれたりもする。それが割と気持ちいいのだ。そして、単なる若者である俺は時折こうして掃除やら雑務やらを手伝わせてもらったりもする。ずっと一人で頭の中にあるものをこねくり回してばかりだと疲れてしまうので、こういう仕事は良い気分転換になる。まあ、今はなっていなかったわけだけれど。
「小僧は何を悩んでたんだ」
世が父のことをかつて弾正忠や参議と呼び、今は大相国と呼んでいるように、官位官職や立場、職務によって人を呼ぶことは多い。故に、俺は今この男を船長と呼んでいる。付き合い自体は、なんだかんだで長くなってきたような気もする。船長は俺のことを小僧と呼んでくる。実際に歳上であるし文句はない。豪傑でありつつも実は細やかな気遣いをしてくれる雲八爺さんと違い、本当に全くこれっぽっちも俺に気を使っていない船長とのやりとりは肩の力が解けて非常に楽だ。
「話してあげるから雑巾掛け手伝って」
「船長相手に雑用手伝わせようってのは随分いい度胸じゃねえか」
言いながら、三度雑巾で頭を叩かれた。叩かれはしたがしかし、船長は水を入れた桶に雑巾を突っ込み、すぐに手伝ってくれた。因みに雑巾と言っても地面にへばり付いて拭き上げているわけではない。長い棒の先端に雑巾をくっ付け、それで床を擦っているのだ。先端を広く横長にすれば手でかけるよりも早く出来るし腰も痛くならないし、何より片手でもそんなに苦労しない。
「器用なもんだな」
「もう随分慣れたからね」
棒を右手で掴み、脇に挟んで固定しつつ、時折左手を添えて狙った場所を拭いてゆく。その様子を見て、大体の事情について知っている船長がやや感心したように呟いた。
「で、何を悩んでたんだよ」
「悩んでいたというかまあ、ここのところ、色々な場所で色々と学ばせて頂いたというか」
「いいか小僧。そんな殊勝なことを考えてる奴ってのはもっと前向きな顔をしているんだ」
又も頭を布で叩かれた。この船長は俺の頭のことを埃被った棚か何かだと思っていやしないだろうか。
「方座第四の妙がそんなに気になるか? ありゃ聞いた方の聞き方が悪い。そんでもって聞かれた方の察しも悪い。総じてどちらも勉強不足。それが俺様の答えだ。説破」
ゴシゴシと甲板を雑巾で磨きながら、船長が何でもないような言い方をした。どういうことと質問してみれば、船長はいつの間にか床にこびりついていた鳥のフンを見て忌々しそうに強く拭きながら、そのついででしかないような態度で話を続けた。
「『無量寿仏の教えは方便であり、四十年余りの教えはまだ真実を明かしていない』だったか? 無量寿仏ってのは誰だ?」
「阿弥陀仏」
「んで、その四十年余りの教えってのは五時八教、阿弥陀仏が生きてる五回行った八つの教えのうちの、最後を除いた四回ってことだ。浄土宗はそのうちの四回、いや、三回だったか? これだけで学ぶのは十分だっつってんだ。一方日蓮は馬鹿いいやがれ、四十年余で行った四回の教えじゃ真実を明かしてねえ。最後の五回目、法華涅槃時がその集大成でここに真実があるんだ。って言ってんだ。分かるか? 何だ、変な顔しやがって。テメエは嫌になるくらい小賢しい小僧だったろうが」
「いや……船長詳しいなと思って。誰かに教わったことあるの?」
失礼な本音をそのまま伝えると、船長はどこか影のある、皮肉な笑いを見せてからあたりめえだろと嘯いた。
「長えこと寺の連中と同じ釜の飯食って、一所懸命に織田の兵と戦ってきたんだ俺は。暇な時に女がいれば抱いて時間潰してたが、そうもいかねえ時は禿頭の偉そうな話聞いて、いやそれはおかしい。お前は自己矛盾に気がついてないぞっつって、馬鹿にして怒らせる遊びで時間潰してたんだ」
「嫌な遊びだなあ、それ」
「まあだから、誰かに教わったことはねえ。いろんなやつの聞き齧りをまとめた話だから、間違いがあったらそいつのせいだ」
門前の小僧、習わぬ経を読む。が悪い方向に行くと、こんな人間が出来上がるのか。味方にしたらさぞかし頼もしいだろうけど、坊主からしたらそれこそ天魔のような人だ。
「まあ、んなことはどうでも良い。とにかく、華厳時、鹿苑時、方等時、般若時、法華涅槃時のうちの、三つ目までで良い。って立場の浄土宗に対して、四つ目までは方便で、捨てちまって良い。何故なら法華涅槃時にはそれまでの全てが詰まっているから、むしろここがわかってりゃ完璧だ。っつってるわけだ。話が平行線な訳だな」
「そうだね」
そもそも共通の認識が噛み合っていない。
「で、そこにきて浄土宗の、あー、じょう、てい、なんとかって」
「貞安?」
「そう、その貞安が言ったのが方座第四の妙は捨てんのか捨てないのか? って質問だ。これについて、法華宗側が答えられなかったから、法華宗はあんだけ偉そうにしてるくせにそんなことも答えられねえのか。って馬鹿にされてる訳だが、この方座第四の妙、方座第四っつーのは何だ? 突然出てきた妙ってなどういう意味だ?」
その問いに、俺は答えられなかった。
「五時八教の話をしてる時に第四の妙って話をしてるんだから、普通に考えりゃ四時の般若時の話じゃねえかって思うが、違う。これは三時、方等時の話だ。方等時の座教を行った時に並説した『蔵・通・別・円』の四教。このうちの、第四、円教の妙を捨てるのかどうか? って聞いたというのが、本当のところだ。聞かれた方は般若時の妙について聞かれたと思っている。聞いた方は円教の妙について聞いたつもりでいる。じゃあわけがわからん事になるはずだ」
「じゃあ造り問答と法華宗が言っているのは」
「そもそも聞き方が悪いんだ。ここまで五時八教の話をしてきたんだから、第四なんて言われたら五時のうちの第四、百歩譲って八教のうちの第四について聞かれてると思うだろ普通。方座って言葉の使い方も悪意があるよな。直前に方便って言葉が使われてんだ。その方かと思うし、方座、なんて言わずせめて方時、って言ってやれば、聞かれた方も、ああ、方等時の内容について聞かれてんだな。って分かる。浄土宗からすりゃ造り問答じゃあねえ。ってことなんだろうが明らかに、勘違いさせにいってるようにしか見えねえな。俺には。だから、浄土宗の……貞安ってのと話ができるんだったら、なかなか狡い真似するじゃねえか。坊主らしくて結構結構、ってなもんだ」
そんな嫌味を言ってもし血気盛んな僧兵にでも聞かれたら、と思いかけたが、船長であればきっと普通に言い切ってしまうだろうし、喧嘩になっても受けて立つのだろうなと容易に想像が出来た。
「船長はやっぱり、法華宗が正しいと思っている?」
「知らねえな。どうだって良い。お前らにあるのは精々正しさだけだな。とは思うが」
浄土宗相手にかける言葉は嫌味。では法華宗には、と思ってかけた問いだが、答えは俺の予想とは随分違っていた。
「あの、集団引き篭もりのところの倅が言ってただろ。そもそも浄土宗の連中に問答するつもりなんかなかったって」
「本願寺のみんながしてた籠城戦を集団引き篭もりっていうのやめてくれないかな?」
あの戦いの日々で俺の身内も船長の身内も随分死んだだろうに、船長はそんなことは過去の話だと快活に笑い飛ばしている。
「わざわざ文句つけたのも法華宗、お上の沙汰を待てっつってんのに問答がしたいと言い張ったのも法華宗、それで相手側の寺を場所に指定されて、それでも良いですってノコノコ出向いたんだぞ。それなりの敵地だってことくらい誰でも想像つくだろうが」
「それはまあ、確かに」
昔、敵地だった頃の延暦寺に出向いたことがあったが、あの時は言葉の集団暴力を受けた心持ちだった。決して公平には話せないだろう。室町小路での宗論も然り、下間頼廉は敵地であることを、罠であることを知ってなお、覚悟を決めて理の戦に臨んできた。
「貞安はそれこそ想定問答をしてきたんだろうよ。恐らく浄土宗は法華宗が勘違いしてくれると思っていた。法華宗の考えからすれば、五時八教の前四つは捨てて良いもんだ。だから、第四の妙即ち般若時の妙は捨てる。そう答えさせて、何と、円教の妙を捨てるのか、それはおかしい。そう続けるはずだったんだ。なぜかっつーと、円教の妙は完全なものなんだろう? しらねえけど」
「えーと、そう。四教の中でも『蔵・通・別』は小乗の教えだけれど、第4番目の『円』教は諸経典の中で最も価値の高い究極の教えで、欠けるところのない円満な教えを意味する。と習ったことがある」
「俺もなんか、昔どっかでそれを聞いた気がする。九州まで逃げてた時か? いやもっと前かもな」
顎髭を掻きながら語る船長の言葉は、刺々しい内容でありながらどこか優しげでもあった。下間頼廉の言葉が基礎の固まった一流の剣術だとするなら、船長のそれは型などなく、在野の法論なのだろう。
「俺がこの流れを予め作るんだとしたら、方座第四の妙を捨てるか? と聞いた後、捨てると言われて、それはおかしい、何故なら円教は完全である。と問い詰め、さらにそれに対して法華宗が反論をしてくる。というところまで考えるがな」
「どう反論するんだろう?」
「んなこた知らねえよ。俺は素人だ。だが、その素人でも考えられるようなところにも辿り着けずに嵌められた間抜けどもの群れが、今の法華宗だって話なんじゃねえのか? 俺が法華宗の誰かにこの話されたら、ずっと嵌められたの嵌められてないのって話で五百年後も泣き言言ってろよ馬ぁ〜鹿。っつって、大笑いしてやる。そんで、どんだけ顔が赤くなるか見て楽しむな」
「そんな楽しみ方絶対良くないよ」
あと、多分だけど色んな場所で色んなお坊さんから話を聞いて、それをごちゃ混ぜにした上で咀嚼し、自分なりに解答を見つけ出した船長はもう素人じゃない。
「阿弥陀のやつもな、五回目でようやくっつってんのにうっかり三回目で円満に教えてたこと忘れてんじゃねえよ。って言ってやりてえよ」
「とうとう阿弥陀様に文句言い出しちゃった」
「文句じゃねえよ。悟り開いたやつだってうっかり間違いとか記憶違いはあるだろ。俺が忘れ物を少なく出来る書き付けの取り方教えてやるよ。って思うくらいには嫌いじゃない」
「如来様と言われるようなお方に対してその身近な距離感はもう仏門にある人全員に対して割と喧嘩売ってるんだって」
「弟子にしてやっても良い」
「やめろってば」
うっかり道端でそんな話をしてしまって、武闘派の僧侶たちに追われるような身になったら何とかほとぼりが冷めるまで匿ってあげるから、頑張って逃げてきて。というような話をすると、船長はあっはっはっは、と、実に真っ直ぐとした笑い声をあげた。
「ありがとよ。そうやって身近な人間を救おうと思えるのが、小僧のいいとこだ」
そう言って船長は俺の頭の辺りを布でパタパタと連続して優しく叩いた。これは撫でる代わりだろうか?
「今回、世に安土宗論と呼ばれる問答。これは、良くないものだと、如来様は草葉の影でお嘆きなられていると、俺は思う」
そうして、余りに攻撃的が過ぎる。だからこそ己の考えを纏めるにおいては役に立つ船長からの言葉を伺って、俺はようやく己の答えを導き出せた。方座第四の妙、それが造り問答なのかそうではないのか、浄土宗と法華宗、どちらが正しいのか、それは俺にとってどうでも良い物であったのだ。
「いいじゃねえか。そのまま語ってみろ」
「うん。えーと、他宗派を問答の場に引き摺り出したとて、それで救われる者がどこにいようか。その問答で勝つための策を講じたところで、その策がはまり坊主の首を刎ねたところで、それで救われる者がどこにいようか。阿弥陀様はそのようなことの為に五時八教を行ったわけではない。生老病死の苦役から一人でも多くを救う為にお教えくださった筈。目的は常にそこにある。教えの内容、手段の正誤は別義なり」
「おお、それで?」
「俺は阿弥陀様のように大きな志はない。ただ、目の前の人々、家族、友人が幸せにあってくれれば良いと思っている。たまたま、生まれた家が天下に届いた。だから、家を守ることが、そのまま天下を、全ての人々を守る事に繋がると信じている」
「最高だな。テメエらの正しさについてしか主張しない連中に聞かせてやれ」
船長がそう言ったのとほぼ同時に、頬にポツリと滴が落ちてきた。雨だ。ここのところなかった雨が久しぶりに降るようだ。先ほどまでより雲も厚くなっている。俺の答えに、先行きは困難が伴うと言われているようだ。構わない。阿弥陀様も父も、旅路の多くは困難であったのだ。
「阿弥陀如来は生きとし生ける全てを救ってやろうってな志だった。小僧は逆だ。目の前の人々を救えたら良い。そこから広がって今は天下だ。小さかった器を、でっかく育てたんだ。その考え方に救われるやつだって多いだろうよ」
「そうだね。俺の器は小さいんだ」
自虐ではなく、むしろ誇らしい気持ちで答えた。俺らしくて無理のない理想であり志だ。
「実は、安土宗論のことについては、考えはしていたけど別に悩んでいたわけじゃないんだ」
「なんだよ。ここまで色々駄弁っちまったのに、違うこと?」
「家族とアイヌと蝦夷地と、そこに住まう皆の事を考えていた松前親子を見て、自分が、本当に自分のなすべき事を行えているか自信がなくなっていたんだ」
「相変わらず真面目で小賢しい悩み方してやがるな」
二人で声を合わせて笑った。全くその通りだ。
「次やることが決まった。戻ったらすぐ母上にも話す。九尾の皆にも連絡を入れたい」
「小僧ずっと九尾って組織について納得してなかったじゃねえか。どうしたいきなり」
「使えるものは全て使うのが織田の流儀と思い出しただけだよ」
「嫌な流儀だ。周りが休まらねえ」
「休んでもらったら困る。しばらくの間九尾の取りまとめは任せるつもりなんだから。よろしく頼むよ。孫一殿」
捨てた名前で呼ぶんじゃねえよと嘯く雑賀孫一の表情は、言葉とは裏腹に笑顔だった。




