蝦夷珍味
「こちらが蝦夷地図にございます。僅かばかりでもお役に立てましたならば幸甚の至り」
「これは忝い。知らぬ土地ゆえ案内がなければ先行き不安よなと話をしておったところにござれば」
「はは、案内は勿論お付け致します。場所が分からぬというのもそうでしょうが和人に入られることを嫌う土地もございます」
上品、かつ容姿の整った、昔はさぞかし女性にモテたであろうなと思わされる老人。それが俺にとっての蠣崎季広の印象であった。
「ここに来る途中通られたシリウチという土地の首長がチコモタイン、ここより北へ向かった土地に住むアイヌの首長がハシタインと申しまして、今は我らと和議を結んでおります。彼らやあと幾人かの首長とは上手くやれてはおり、今回は予め皆様が来られることも伝えておきましたが、和人を受け入れようとせず鼻息の荒い者達もまだまだ多い」
対面する雲八爺さんに向けるその言葉は国人衆をまとめ上げることに腐心していた各地の大名達が言うような言葉で、彼が決して絶対的な権力者ではないことを表しているようだった。
「必ずしもアイヌを服属させることが出来ておるわけではないと聞いてはおりましたが」
「服属などとはとんでもない。アイヌの中に我々を主家と思う者などおりませぬ。ただ、和人はアイヌより遥かに多く、その和人の代表として我々蠣崎がいる。ということは彼らも理解しております。揉め事があった時には仲介を頼まれることもあり、面倒ごとがあれば相談を受けることもあります」
のんびりとした口調で、品よく受け答えする蠣崎季広殿。好々爺然とした様子の彼はその好々爺然とした態度を変えぬままほっほ、と悪戯っぽく笑った。
「しかし、昨年織田様が……あー、北畠の御本所様が引き連れてこられた大軍には随分と驚いておりました。今度はまた、これほどにも巨大な船でやってきたとあれば、アイヌの者達もまともにやって和人に敵うわけがないと思ってはくれるでしょう」
季広殿としては、示威行為として大いに意味があったらしく、今回俺たちが目指す航海についても是非ともできる限り遠くまで行ってその姿を一人でも多くのアイヌに見せつけて欲しいとの態度を隠さなかった。やはり、昨年の東北平定も此度の我々についても、己の為に使う強かな一面がある。自分の背後にはアレが付いているのだぞと、常に主張することが出来るというわけだ。
「航海に協力的であるのは誠ありがたいが、ところで季広殿、この地図は果たしてどの程度正しいと言えようか」
会話する雲八爺さんが地図を俺に手渡しながらそう尋ねた。見ろということであろうから確認してみたが、パッと見た感じではそれほど正しいようには思えなかった。蝦夷地の正しい地図など元々分かってはいないのだが、その地図は昔見たことがある行基図に近い描かれ方だったのだ。行基図、名の通り行基が記したとされる地図であるが、父はこれを落書き扱いしていた。方角と、土地のあるなしくらいの参考程度に使えるかというところだ。
「正直に申し上げて、全くもって自信はあり申さぬ。我らが住むこの辺りは半島となっており、グルリと半円を描くように広がった土地の更に先には広大な土地がある。それくらいしか分かっておりませぬ。この老骨の名がそれなりの意味を持つのは、精々が半島の付け根程度までにて」
「成る程。此度我らはとにかくこの蝦夷地の外周を回ってみたいと思っておるが、もしやこの土地が実のところ中華のある大陸と繋がっておる。というようなことはありますまいか?」
「それは、ありませんな。アイヌ、と一括りに言っても先ほど二人の首長の名を出したように、彼らは部族ごとに暮らしております。北に住むアイヌが南下してきた折、更に北の島に住む者らとの交易品を買ったことがございます」
「成る程、我らの船ほどの大きさであれば和人の禁足地とされる土地に踏み入らずとも夜に港さえ貸してもらえれば事足りる。それらの港だけでも分かりはせぬだろうか?」
「聞いてはみますが、と言ったところですな」
二人の話を聞いているだけで、俺はこっそりとワクワクしていた。どこに何があるのか分からぬ未踏の地へ出かける。男子が好きな冒険が詰まった会話だ。
「こちらでは珍しくもなんともないものを、和人が高く買い取ってくれる。などということはよくありますのでな。春から秋にかけては大型の貿易船がやって来る。それを受け入れさせるだけでアイヌの生活もグッと良くなる筈にございます。ですので大島様らが害されてしまうようなことは避けたい」
雲八爺さんから俺に手渡されたのと、恐らく同じであろう地図を手元に広げた季広殿が、トントンとこめかみを叩きつつ語った。その言葉は随分とアイヌに肩入れをして聞こえる言葉で、実際ここまで季広殿はアイヌが中々とっつきづらい相手であるという話をしつつも、憎しみを持って語ってはいない。
「随分と大事に思っておられるのですな、アイヌを」
俺と同じ感想を覚えたらしい雲八爺さんが問うと、季広殿はやや恥ずかしそうに笑ったあと、腐れ縁にございますと答えた。
「アイヌの者達は、この広い蝦夷地を誰か一人の手でまとめ上げようなどと考えてはおりません。文字もなく、歴史を紡ぐということもしない。親から子へ、子から孫へ伝えるべきことは踊りや物語という形で代々受け継がれ、自然と共に生きるということが身についている。正直、効率の悪い生き方ではあると思いますな。文字がないので取り決めがしっかりと行き渡らず、部族どうしで言った言わないの話になることが多い。土地を切り拓くということも余りしないように思えます。ある物をある通りに使う。そんな彼らにしか分からない冬越しの技術や熊退治の技術がある。この老骨の代でそれを失わせてしまうのは惜しい。この厳しい蝦夷の地で得られる恵みをいくらか頂戴し、そして日ノ本の民に売る。そのようなやり方であれば、彼らもこの地でうまく生きて行けるものかと、思っております」
含蓄のある、ややしんみりさせられるようなことを言われ俺は深く頷いた。本朝においても中華天下においても、調子に乗って木を伐り倒し過ぎて禿山とした例は数多い。自然は圧倒的に強いこともあるが時に人の手に対して驚くほど無力な時もあるのだ。自然の恵み故に、どれだけ得てどれだけ我らに売るかはそちらに任せる。というやり方ならばアイヌは決して禿山も魚のいなくなった川も作らないであろう。今年百を得て全て搾り取ってしまうより、毎年三十をとこしえに得られる方が良い方法であることは明白なのだ。
「いやいや深い言葉にござった。この大島光義、己がまだまだ青二才であると思わされたは久しぶりのことにて大いに感じ入り申した」
「ふふ、この老骨としても久方ぶりに同世代の男と話が出来て大いに楽しませて頂いた。感謝仕る」
そう言い合って、矍鑠老人二人が楽しげに笑った。二人の言葉通り、この二人は一歳違いの永正年間に生まれた者で、雲八爺さんが五年、そして季広殿が四年の生まれだ。俺としても、雲八爺さんよりも年上で雲八爺さんと同じくらいに口が回る老人と会うのは久しぶりであったので随分と新鮮な気持ちになれた。
「せねばならぬ話は随分と前に終わってしまった気も致す。皆様本日は我が館に泊まっていかれるとのことゆえ、内地では見られぬ珍味をご用意致した。口に合わなければ米と魚も用意してござるので遠慮なく申し付けてくだされ」
そのようなことを言い、季広殿が指図するとすぐに場が整えられ、俺たちは隣室にて会食ということになった。そうして料理を待つ間に出された紙には、献立表ともいうべきものが書かれていたのだが、成る程確かに、俺たちが普段なかなか食わないものばかりだ。鮭とその卵くらいまでならまだしも雲丹、羆、エゾシカ、アイヌネギ、といったものの中に海狗腎などというものもある。海に住み、犬よりも大きな獣なのだそうだ。海に泳ぎ陸に出て来ることは余りないが、鰓で呼吸をする魚とは違い、人や犬のように息をする。そう説明されても一体どんな生き物であるのか全く想像がつかなかった。
「長生きの秘訣、若さの秘訣、多く子を成せたその理由。そのようなことを問われるようになってから久しくありますが、よく働き、飯を好き嫌いせず食い、寒くなったら眠り、そしてこのオットセイを嗜むことがまあ、秘訣と言えば秘訣にございます」
オットセイとはなんぞ。という問いがなされることも当然予想していたらしい季広殿は、絵に書いたオットセイの姿も見せてくれた。つるりと毛がなく、眼球は大きく不自然な髭が生えており、これが海坊主と言われれば間違いなく信じてしまいそうな容貌である。子沢山のために、この生き物の陰茎、つまりはイチモツを乾燥させてから粉にして飲むそうだ。そこまでしなくともこの辺りでは新鮮な肉を食うことも出来るのでそれでも良いらしい。食べるかどうかを聞かれて、皆遠慮したが俺はありがたく頂戴することにした。
「蠣崎のご当主様が子沢山の秘訣と仰せなのでしたら、これ以上確かなことはございますまい」
そう言い切った俺に対してはその場にいる全員、名前を知らぬ蠣崎の使用人方々も含め全員が強く強く頷いた。何しろこのお方は子宝の恵まれっぷりが半端ではない。実に十三男十三女である。婚姻をもって多くの家と結び、蝦夷管領安東家からの独立を果たしたというのも、この性豪ぶりがあってこそである。戦国の世にあり、更にはこの厳しい北の大地においては子が早世することもあり、実際季広殿もご長男ご次男を失っている。だがしっかりと三男が後釜となり家を継いでいるのだ。今後蠣崎家の直系が絶える。などということが仮に起こっても季広殿の血筋を辿って他家から当主を迎え入れる。という方法を取れば決して蠣崎の血筋が絶えることは決してあるまい。
「流石は若い方。まだまだ子は欲しいでしょうからな。是非試していかれよ。ただ、お相手となる女性はおられますかな?」
「いえ、興味本位で試してみたいと思ったまでにて、相手についてはあまり」
この時ばかりは季広殿がそれまでの品格ある振る舞いからその辺にいくらも転がっている助平親父の顔となった。流石に、今この場にいるお珠が妻の一人で、効果の程は今夜早速試してみます。などというのは下世話が過ぎるため軽くいなし、出される物を待った。やがて、オットセイの焼き物、汁物、そして刺身がやってきた。俺以外の皆は素直に米を用意してもらい、魚や山菜をおかずに食事をしている。俺も米は用意してもらったが、このような物をおかずに食べるのは初めてだ。考えてみれば、母が食べたことのない物を食べるのは初めてのことかもしれない。
「では、焼き物から」
いつの間にか俺のことを見守る様子になっている雲八爺さん、四郎、お珠の視線を受けつつ、焼き物を口に含む。最近は慣れてきたので食事で困ることはないが、両手を使う作業の時などはそれとなく、お珠が助けてくれる。
「如何か」
「馬肉のようですな。そこに魚の風味を加えたというべきか。あるいはそれを含めて鯨に似ていると言っても良いかもしれません。美味い」
携帯してきた味噌を塗ってもう一口食ってみた。これなら皆好きな味だ。恐らく焼き味噌が最も合う。そうしてもう一切れ口に入れてみると、今度は油っぽい、随分とクセの強い肉に当たった。これは好き嫌いが別れるだろう。よく言えばコクがあり、悪く言えば獣臭い。
「先に食ったほうが赤身の肉、後に食ったほうが脂肪の肉。どちらもアイヌの者はよく食う」
「成る程。脂肪の方は、食えない者が多いと思われますな」
俺の感想に、季広殿がよくわかっているなとばかりに頷いた。言葉通り、季広殿自身もよく食べる肉なのだろう。続けて汁物。肉は煮込まれた骨つきのもので、箸で擦るとスルリと身が骨から外れた。その肉と、中に入っていたニラのような野菜を一緒に口に入れる。骨つきであった肉の旨味は強く、一口で米が進む味だ。だがそれ以上に、ニラのような野菜が口の中で強く存在を主張した。これは、ニラではなくニンニクだ。それも俺が知るニンニクよりも更に風味が強い。
「たまらんじゃろ?」
「しばらくの間口が臭くなりそうですな」
確かにたまらんくらいに美味かったのでそれは否定しなかったが、それよりも思ったことを言うと季広殿は先ほどまでより豪快に笑い、実際暫く臭くなると、俺の言葉を肯定してきた。明日口が臭いという理由でアイヌの人々から嫌われてしまったらどうしよう。などと思いつつ、俺はその汁物をおかずに米を食った。塩味などの濃さとは違う、旨味というべきだろうか、滋養の味とでもいうべきだろうか、なんとも表現が難しい味の濃さがある。
「最後にこれは、刺身……ではないのですな」
最初、生肉なのであるから刺身だろうと思った俺だったが、それは単に切り身にしたものではなかった。まだ少し凍ったような肉がひき肉にされ、それから何か混ぜ物した上で小分けにしたもの。混ぜてあるのは先ほどのニンニクや細かな野菜、香草の類かもしれない。改めて頂きますと言うと、なぜか俺以外の三人が緊張していた。箸ではなく匙で掬って口元に運ぶ。半分凍っていて半分生というような状態のそれは当然初めて食べるもので、シャリシャリと、まだ凍っている部分が口の中で音を鳴らし、肉と野菜とが渾然一体となった味が舌の上で広がってゆく。恐らくだがこれがいっとう人を選ぶ食い方だ。好き嫌いは大いに別れるだろう。俺は毎日これでも良い。
「ん?」
味わっていると、季広殿が自分の膳もそこそこに俺のことをジッと見ているのに気がついた。どうやら感想が聞きたいらしい。はじめに徳川殿のようなことをされる御仁だと思い、次いで父のような方なのかと考えた。直接お会いして、アイヌ諸部族の調停者たらんとする心持ちは公方義昭公のようだと考えた。故に、この膳において最も食えぬは貴方様にございますな。などと言ってやりたい気持ちは少々あったが、それはグッと飲み込み美味いと答えた。
「我々が作る調味料を合わせれば更に美味くなるかもしれません。それと、私はあまり嗜みませんが酒にはよく合うでしょうね。ああ、持ってきていただかなくとも結構でございます。飲み過ぎて明日船の上で粗相などしてしまっては良くありませんので」
そのように答え、出されたオットセイを全て平らげると、季広殿は満足げに笑い、何泊でもしてゆくが良いと言ってくだされた。そしてそのままつつがなく食事は済み、俺たちは一泊の宿を借りることとなったのだが、その日の就寝後。
「マズイな……強い酒を飲んでおけばよかったか」
布団の中で幾度となく寝返りを打つ俺の姿があった。
「滋養があり過ぎて体がみなぎり過ぎている。眠れる気が全くしない」
旅先の食事で冒険し過ぎるのも考えものであると、俺は大いに反省するのであった。




