方座第四の『妙』
「よしよし、皆んな水飲んだな。小便行きたい奴はおらへんか。おらんか。じゃあワシだけやな。しゃあなしや、小便したいの我慢しながら語ったるからありがたく思えや」
ほんの僅かな時間、文字通りの小休止を挟んだのち、教如は再び語り出した。その手には袂から取り出した文が一枚。
「これはここ長島の領主、原田直子稲荷様から頂戴して来たもんや。何が書いてあるか言うとな、安土宗論で起こったことの顛末が書かれとる。直子稲荷が一体誰の妻かなんてことは知らん奴でてこいってなもんやろ。これより正しいものなんか無いで」
「くっく、エセ法主め」
先ほどは皆が集まってその話ばかりするから今日は特別に安土宗論について語ろう。というようなことをほざいていたくせに、予め母から一筆受け取っていたとは。勿論俺とて安土宗論について語られるとわかっているから今日この時に合わせてこの場にいるわけであるし、同じように考えてここに集まって来た者も沢山いるだろう。だがそれにしても話の繋げ方が上手い。
「おっと、言われんでもわかるで。そんなもん、織田家が全部正しいって書かれとるに決まっとるやんけ。ちゅうことやな。わかる、わかるけどそうやないねん。ここに書かれてるのは織田家の見解でも裁決でもなく、ことの顛末や。いつ何が起こって最後にどうなったかが書かれとる。つまりはここまで話して来たことと、それから先に起こったことが書かれとるんや。当事者達への聞き取りも含めた事実や。ここに間違いがあるなら言ってくれたらええ」
揚げ餅を一つ口に含んだ。醤油で味付けされ、からりと揚げられた俺が好きな味だ。食べようと思えばあるだけあっという間に食べてしまうのでまずは一つしっかりと噛み締めてから味わい、教如の言葉に耳を傾ける。
「えー、霊誉玉念はんのしはる説法の期間は七日間の予定やった。けど、法華宗の建部と大脇は言われた通りに法華宗のお偉いさんに使者を出させたそうや。その為、霊誉玉念はんは説法の日数を十一日に伸ばしたと。ほいで、法華宗の方はどう出たか。満場一致で……かはわからんが宗論をやろうと決まったようやな」
よおっ、と、どこの誰かは分からないが囃し立てる声が上がり、それに伴って拍手が起こった。もう来ている者の大半は面白い講談話を聞きに来ているような感覚である様子だ。
「集まりたるは京都より頂妙寺の日珖。常光院の日諦。久遠院の日淵。妙顕寺の大蔵坊、そして堺より妙国寺の僧侶普伝。いずれ劣らぬ大物揃いや。ま、不勉強でよう分からんのやけどな」
成る程成る程と頷く俺。所々やや過剰とも思える程度に冗談を加えて笑いと間を取る教如は万が一この場で大乱闘などが起こってしまった時のために遠く近くと見える範囲を注意深く見回しながら話をしている。俺としては、ここまでの話だけでももう色々と見えてくるものがあり、やはり聞きに来てよかったと思っていた。
「ならば再び安土の城下町にて公開問答かと思われたその時! 待ったをかけた御仁あり!」
「よっ! 信長公!」
そう言って囃し立てたのは俺だ。昔からちょっとやってみたかったやつだ。障子を閉めているので俺が言ったとは分からないであろうし、その言葉に合わせて通りでもやんややんやの歓声が上がった。お珠はびっくりして目をパチクリさせ、ハルにはうるさいと言われてしまったが、うん。思ったより気分が良いものだ。
「信長公の言うことにゃ、当家の家臣にも宗徒は大勢いるので、斡旋をするよって、大袈裟な事はせぬ様に。とのこと。その言葉に対し、霊誉玉念ら浄土宗側ではどの様な指示でも御公儀に従うと返答あり。しかしながら法華宗側は宗論に負けるわけがないと意気軒昂。疾く疾く急いで大いに宗論するべしと一歩も引かぬご様子。こうなってはさしもの大相国も一度閃いた舌鋒をそのまましまわせることも出来ず、とうとう安土宗論とあいなった」
「そこまで喧嘩っ早くて負けてりゃ世話ねえな!」
「何を言うか! 安土宗論は偽りの造り問答にて、いかさまでやり込められたに過ぎぬと申しておるではないか!」
再び場が白熱したことで、教如の言葉が途切れた。うんうんと何度も頷き、自分なりに色々と考えを巡らせながら話を聞いていた俺は、その中断で一度ふうと息を吐き、前を見た。美味そうな揚げ餅が、ハルが持って来た時の半分になっている。しまった、俺も食べなければ。むんずと掴み口に放り込む。うん、旨い。
「ここまで見る限り、やはり浄土宗は単に巻き込まれたという印象だな」
「上野から来られたというお方でしたね」
「本当なら説法を終えた後は安土城下を見物して、美味しいものを食べて、湖畔で水遊びでもして帰りたかったのかも知れませんものねえ」
ハルの言葉は極めて長閑で、思わず笑ってしまった。だが本当にそんなつもりだったのかもしれないと思う。若い宗徒に絡まれた時には上の人を連れて来てくれと伝え、父が現れてからは全て指図に従いますと答えた。明らかに戦おうという様子がない。或いは父に周旋を頼んだのも浄土宗側であったのかもしれない。上層部ですら宗論に乗り気な法華宗の様子を見て、これは面倒なことになってしまったと思っても不思議ではない。
「法華宗のお若い方達は実際そのように遊んでいる途中だったのかもしれません」
「私には、法論をぶつけて力試ししたがっているお若い殿方の様子が目に浮かびますわね」
「ああ成る程。それは確かに、さもありなんだ」
二人の会話に、俺は思わず手を打ってしまった。法華宗の開祖たる日蓮上人その人こそ、日ノ本の歴史上において最も著名なる論破の達人である。一般には他宗派への攻撃は誉められた行為ではないが、法華宗においてはその限りではなかろう。何しろ他宗派はみな押し並べて間違いであり、そのような教えを信じている者は国賊であったり地獄に落ちたりするわけである。間違いを正してやらねばなるまいと、日々獲物を求めていたのかもしれない。更に邪推するのなら、異様なほどに腰が軽く公開討論に名乗り出て来た法華宗のお偉いさん方も、相手は誰でも良いので近いうちに安土で派手な公開討論をしようと算段をつけていたのかもしれない。
「言うとくけどな! 怪我人が一人でも出たら今日は解散やで。どっちが正しいかとか、八百長やったかどうかとかは分からんけど、安土宗論では三人が首刎ねられて法華宗側が他宗派を攻撃せえへん。って起請文書かされとんのや。ほんでもってそもそも御公儀、織田家の考えとしては安土城下で問答合戦なんかされても誰も得しやせん。ってことやったんや。ここでワシらが安土宗論ほじくり返して騒ぎになったら長島でまで坊主の生首が晒されることになんねんで」
甲高くよく通る声で教如が言うと、一触即発、とまでは言わないものの俄に殺気立った周囲が再び収まった。ここで行われているのは公開討論ではなくあくまで辻説法だ。ここまででも、教如は特にどこかの宗派を攻撃するような真似はしていない。
「ええなら、まあとりあえずここからが本編や。安土城下で公開討論なんぞされたくないのが信長公、安土にある浄土宗の寺、浄厳院の仏堂を討論の場とした。安土からすると町外れの方にあるそうや。更に審判として、京都五山の内でも指折りの博学との評判高い臨済宗南禅寺の鉄叟景秀を日野から招くなど、戦いの舞台を用意したわけやな。元々浄土宗の僧侶が辻説法してるところに口出ししたわけやから、場所が浄土宗の寺ってのは当然でええな? あとは、審判にしても臨済宗から連れて来てるわけやから、一方に肩入れする、いうわけでもなさそうやな」
「ま、実際にどうかは別であるがな」
我が父ながら、織田信長という人物は政の達人、当代随一と言って過言ではなかろうと思う。しかもその隣には常にあの村井の親父殿がおられるのだ。誰が見ても公平公正に見えるやり方で、その実十重二十重の罠が仕掛けられていたとしてもおかしくはない。父の立場としては当然、どちらの教えの方が正しいかよりもどちらが勝つ方が織田の治世に都合が良いかを考えたはずだ。その考えに基づくなら、辻説法に横槍を入れ論破してやろうなどと考える若造がそこかしこにいる法華宗が黙らされるような結果が最も望ましいのだ。つまりその結果とは今回現実になった結果だ。
「いざ決戦の場に現れたるは此度の問答においての主役、安土は田中ちゅう場所にある西光寺の聖誉貞安。貞安は此度の騒動の発端となった自分がまず話をしようと言った霊誉玉念を遮り問うた。即ち『法華経の八巻の中に、念仏ありやなしや?』法華経の八巻ちゅうのは妙法蓮華経八巻二十八品のことや。その教えの中で念仏唱えろちゅう話をしてるかどうかを聞いたわけや。なんでこんな問いをしたんやろな?」
長らく一人語りを行っていた教如が、この時初めて人に話を振った。それまで仁王立ちし周囲を睥睨していた男、下間頼廉に向けての一言であった。
「浄土宗の開祖法然上人は聖道門・雑行を捨て、閉じ、閣き、抛ち、阿弥陀仏の名を口に出して称え、心の内に仏を念じること、即ち念仏に帰依せよと仰せになった。阿弥陀仏の救済を信じて「南無阿弥陀仏」と称えること。これこそ往生のための正しき行である。と」
「ちゅうことは、この問いの答えが否であったら?」
「浄土宗の教え、その根本が偽りであったと言われるのも同じこと」
「念仏これあるなり!」
二人の掛け合いに、聞いていた聴衆のうちの一人が答えた。それはこれまでも随分と元気が良かった法華宗びいきの者であり、周囲は些か意外そうな表情を作っていたが何も不可思議なことではない。そもそもこの問いが次の問いに向かうための前段でしかないのは明らかだ。
「うん! なら重ねて問うが、念仏があるのであれば、なぜ『念仏を唱える者は無間地獄に落ちる』なんてことを言うんや? 法華経に念仏はあるんやろ? 法華経は法華宗にとって一番大事な経やんか」
真言亡国禅天魔念仏無間律国賊。法華宗の開祖である日蓮が四箇格言において述べた有名な非難文書だ。個人的には、ここまで悪様に言いながら言葉の調子が実に軽妙で口に出して言いたくなるような音の数になっているのが本当に凄い。友人になれたかどうかは分からないが、言葉の天才であることは疑う余地もない。
「これに対し法華宗側は逆に問うた。法華宗が信ずる阿弥陀仏と、浄土宗で信ずる阿弥陀仏は同じか否か」
自分が投げた問いに対し、教如は少し間を置いてから自分で答えた。答えた。というよりは実際にされたらしい問答を己で語っているというだけなのだろうが、周囲はどういうことだと首を傾げる。人によっては仏さんてのは増えたり減ったりできるのか? などと言って混乱している者もいる様子だ。
「貞安が答えるには、阿弥陀仏は、どこにいようとも同じ一つである。と。そらあそうや。その答えに対して法華宗は重ねて問うた。浄土宗の教えでは、法華の阿弥陀を捨てるとしているではないか! ということや。さあこれはどういうことや? 分からんから教えてくれ」
「先に聖道門・雑行を捨て、閉じ、閣き、抛ちと言った通り、浄土宗においては捨閉閣抛の教えあり。阿弥陀仏はどこにいようと同じというのであれば、浄土宗は法華経の阿弥陀仏をも捨てると言っておるのだ。ということであろう。念仏とはつまり南無阿弥陀仏と唱えること。それを捨てるとは如何なることであろうか? と。又、此度の問答では語られたものではないが、阿弥陀は釈迦の師であり、法華経は釈迦の教えの全てが書かれた物。この経を毀謗する者は阿鼻獄、つまりは無間地獄に入る。と書かれているが故、念仏を唱える者は無間地獄に落ちる。念仏無間である。と、これは親鸞上人の言われようであるが」
過剰にならない程度に知識を語りつつ、ここまでの討論についての解説をする下間頼廉。俺はといえば、一応話の内容についていけてはいるものの、話の終着点というか、どのような結論に達するのかについては今ひとつ見えずにいた。
「成る程、南無阿弥陀仏って唱えとるのに阿弥陀を捨てるってのはおかしいやんけ。ってなところやな。これに対して貞安が答えるには、念仏そのものを捨てると言っているのではない。ただ、念仏を修行する者に対して、それ以外の教えを捨てるよう説いている。と答えたわけや」
これこそ浄土宗の本質、とも呼べるような解答が返って来た。法然上人は自分達のような凡人には難しいことは出来ない。出来る者達は勿論素晴らしいがそれが出来ないからといって救われないわけではない。ならばこそ、念仏に専心し南無阿弥陀仏と口に出して唱えよ。ということである。
「では、念仏を修行する者に対して、法華経を捨てよという経文があるのかと法華経の者が問うた。それに対し貞安は、法華経を捨てよという明確な文が確かにある。と、こう答えとる。それは一体何や!?」
通りには随分と人が増え、この場を歩いて通り抜けたいと思う者がいても遠回りせざるを得ない程に道を埋めていた。揚げ餅でしょっぱくなった口を茶で潤し、いよいよ煮詰まって来た問答に耳を傾ける。
「浄土経の中で『善立方便』『三乗を顕示する』と説かれており、また『一向に無量寿仏のみを専念せよ』ともあると。無量寿仏っちゅうのはまあ、阿弥陀様の異名の一つや。さてさてこうやって幾つかあげたもんの中で、一体何が重要なんやろか?」
「何が最も重要かと問われれば無論人にもよるものの、この時の法華宗は無量寿仏について問いを重ねた。曰く、法華経には『無量寿仏の教えは方便であり、四十年余りの教えはまだ真実を明かしていない』と説かれている、とのこと」
「四十年余りの教えとは何ぞ?」
「されば華厳時、鹿苑時、方等時、般若時、法華涅槃時の五時に分けて行われた釈迦の説法なり。その期間は諸説あれども法華涅槃時を除いた期間はおおよそ四十年余り。これらの教えの中で未だ真実の教えは明らかならず。真実の教えは法華涅槃時にようやく明らかなり。即ち、法華経を捨てたという浄土宗の教えは真実を顕現しておらず方便に過ぎず。との意、なり」
綺麗な理屈の持っていき方だと思った。討論慣れしているというか、流石は法華宗だと感心する、流れるような追い詰め方だ。だからこそ、この次の一言でこの宗論が一気に終焉に向かったことについて、暫くの間考える時間を必要とした。
「ならば方座第四の『妙』を捨てるや? 捨てざるや?」
教如の軽妙な声は、長島の空へ吸い込まれていった。




