中庭バーベキュー
「御本所様がご機嫌斜めのようです」
その後、炊事場に戻ってきたお珠がそのようなことを言ったことで、父の視線が四郎から外れ、同時に四郎の石化も解けた。そして俺は、そういえば今我々が仕込んでいる串や野菜を食っている連中への挨拶がまだ終わっていなかったと思い出す。そもそもここへは父や母に会いにきたわけではないのだ。
「貴様ら一体どういうつもりだ!!」
「三介が吠えておる。まあ無理もないか」
「あれからしてみれば、突然身内から噛みつかれたわけですからね」
裏で女中たちと仕込みをしていたハルが現れ、今度は俺と父が連れ立って向かう。どこに、村井屋敷の中庭に、である。
「勘九郎も忠三郎も三七郎も、皆揃っているので?」
「三十郎や源五郎達、我が弟どもも呼んでおる。ま、身内を揃えたということよ。いい機会だったのでな」
三十郎信包叔父上は父唯一の同腹の弟であり、源五郎信益叔父上は以前三介との話の中でも出てきた数寄者の叔父だ。
「よく、小御所会議から三日で全員が揃いましたね。筆頭は父上ですが、挨拶回りの数も群を抜いておるでしょうに」
父上の場合、僅かな例外を除けば挨拶回りは迎える側であって出かける必要はないだろうが。
「群を抜いてはおらぬ。勘九郎とどっこいどっこいになった。求めてもおらぬ今日は挨拶にくるな。明日以降にしろと言えば良い。それよりは、今回京都に皆が集まったついでに一座設けることの方がより重要だ」
したり顔で父が言う。まあ、一族の結束を固めておくことは確かに重要ではある。父は単に家族の顔を見ておきたいというだけであろうが、それはまあ俺も全く同じなので偉そうなことは言えない。
「そうは言いますが、帝や上様の前で忌憚なく話をする為に我ら集められたわけで」
「左様。是は是、非は非。実質これより日ノ本を差配するは我らなれば、なあなあで済ますなどあってはならぬこと」
「だったら予め話を通しておけ! 公家衆がいる前でわざわざ織田一門が言い争って何になると言うのだ!」
廊下には更にギャンギャンとがなりたてる三介の声が聞こえていた。それに対する低く重厚な、それでいて若い声が二つ。三七郎と忠三郎の声は些かも動じていない。くつくつと、含み笑いを漏らしてしまったが隣で歩く父も恐らく俺と同じような顔をしていた。
「全員既に言い含めてある。貴様は三介以外のものには見えておらぬ。後ろに付き従い、適当に過ごしておれ」
「楽しそうで何よりですが、父上以外の皆がそれほど上手く演じられるかどうか分かりませんぞ。見えている人間を見えないふりというのは、言うほど容易くはないでしょうに」
悪戯を考える小僧そのままの様子で、ウキウキとした様子の父が言う。天下人織田信長。説明など一切不要な我が父は本日の小御所会議にも当然出席していた。対外的には今回の小御所会議において行われたのは武家官位の任官及び諸侯の所領安堵すなわち封地である。官位については多少の変更や各家の極官を確認するなどそれなりに新しいことも行われたが封地については完全に現状の追認となった。その中で父として重要であったのは内容そのものより自身が先代として出席することであっただろう。太政大臣の位についてもいつ勘九郎に引き渡すべきか、既に話し合いがなされている。自身が亡くなれば再び天下人の地位は空白に。とならぬよう、また一つ父はその重荷を次代へと手渡した。
「酒に酔わせてしまえば多少のことは誤魔化せる」
「雑なやり方ですなあ」
そのようなやりとりの後、父は俺が持っていた大皿も引き取り、そのまま廊下から中庭へと出た。自身の草履に足を通し、そのまま何事もなかったかのように炭火に近づいてゆく。中庭は、いくつか腰を下ろせる長椅子が用意されており、恐らく父上のために用意されたのであろう竹製の長椅子に腰掛けた父は、そのまま同じく父が己のために用意させたのであろう焼き場に串を乗せた。俺も、懐にしまっていた己の草履を履き、その後ろに続く。父上に、そして俺に気がついた者は何人もいたが、いずれも父が黙って手で制したので、何も気がついていない三介は今なおがなり立てている。
「そう言うな三介。あの場でこそ意味があったのだ」
そうして、鶏肉が早くも香ばしい匂いをあげはじめた頃、父は突然話に割って入った。周りが見えていなかった三介は慌てて平伏しようとしたが、その後ろにいる俺の顔を見てビクリと体を震わせた。
「どうした三介。父親の顔を忘れたか?」
「あ、あ、いや、め、滅相も、あの、あ」
三介の座る場所から見ると父の影に隠れるように立っている俺を見て目をパチクリとさせている三介。その様子を見て父が一度振り返り俺を見る。いや、視線は確かに俺にあっているのだが、まるでそんな俺が見えていないかのように振る舞い、そして再び三介に向き直った。中々の役者ぶりである。
「誰もおらぬではないか」
「はっ、お、おば、いや、はい。失礼いたしました」
そうして父に見下ろされた三介に、俺は人差し指を口元に当てることで、黙っていろと指示した。奥の方に座り三助の視線から外れた場所にいる勘九郎と、いつの間に廊下の端からこちらを伺っていた村井の親父殿が揃って笑いを噛み殺している様子が見えた。
「良い。疲れているのであろう。三介。此度は中々良かったぞ。貴様から織田家百年の行く末を案ずるが為献策したいなどと申し出があった時には何か変なものでも食ったのかと思ったが。褒美である、食え」
「お、恐れ入ります」
皿を持って近づいてきた三介の頭を叩くような勢いで撫で、父は楽しげに鳥や野菜を焼く。雲八爺さんが持ってきた米は女房衆が小さめの握り飯にしてくれたのでそれには醤油を垂らすか味噌を塗るかしている。これもまた、焼けば辺りに芳しい香りが広がり実に食欲をそそる。背後霊よろしく父上に付き従っている俺は一人で座るには長い長椅子の端に座り、味噌握りを一つ掴んで口に放り込んだ。うん、美味い。
「此度貴様に三七郎と忠三郎を差し向けたのはこの父よ。許せ、三介」
座ってからすぐに、酒ではなく冷めた茶を所望した父は湯呑みに注がれたそれをグイと一杯飲んでから言った。皆手に手に取った食い物を持ちつつも、父の言葉を聞き入る体勢を取っている。そしてそれに関係なく後ろであぐらをかいている俺。成る程幽霊とはこのような気分であるのか。
「三七郎、忠三郎。貴様らもよくぞ己の役目を果たした。褒めて遣わす」
「ははっ」
「勿体ないお言葉にございます」
頭を下げたふたり、そして勘九郎とは視線だけで挨拶を交わした。三人とも楽しそうだ。こういう子供じみた悪戯は皆いつまでたっても好きだなと思う。男の馬鹿なところだが、馬鹿なことをしている時ほど楽しい時もなし。
「天正偃武策・十年考か。久しぶりに面白い読み物であったな」
懐から取り出した一冊の冊子をパラパラとめくりながら父が言う。後ろから覗き込んで見ていると俺が三介に渡した物とは違う物だと分かった。注釈なども入っているようだ。父とて当然無学な人間ではない。これに思うところもあるのだろう。
「本日の受け応えも、成る程作者らしくよく内容について理解し、衆目の前で過不足なく講釈を述べておった。神皇正統記を表した北畠親房の後裔たる家の主として相応しい仕事である。ようやった」
「は、ははっ、ありがたき、幸せ」
繰り返し手放しに褒められ、顔を綻ばせながら頭を下げる三介。しかしながらその真後ろに、父が開いた書物を勝手に盗み読みしている俺の姿が見えているものであるから迂闊に調子に乗るわけにもいかず、表情を引き締め直した。
「歯切れが悪いではないか。これだけのものを著したのだ。もう少し胸を張れ」
「あ、いや。実は」
「誰ぞ家臣の考えか? そうであっても、家臣の力は主人の力である」
「そ、そうではなく、た、帯刀……兄上がですね」
「帯刀?」
楽しんでるなぁ。と思わず呟きそうになってしまった。実のところ、我が天正偃武策について着想となる考えを与えてくれたのは他ならぬ父である。即ち今後、己が死んだ後の織田家を、日ノ本をどう動かしてゆくかと、天下人らしい考えを纏めた冊子を頂戴し、ならば喫緊の問題と、天下盤石となってからの問題と、更に遥か先の世の問題とを、しっかり区別して考えてみようと思い至った結果天正偃武策、そのうちの十年考と百年考が出来上がった。さてこれをいつどのように発表しようか、書き手不詳として長島あたりで流布してしまおうか、などと考えていたところ此度の三介による不行状、そして小御所会議について知った。ならば丁度良いと考え、三介にお灸を据えつつ、暫くの間サボろうにもサボれなくしてやろうと図った結果が今である。三介が今何を葛藤しているのか、父には丸わかりなのである。そうと知っていながらこのように言い遊んでいるのに特段の意味があるとは思えず、尾張のうつけと呼ばれていた頃と人間の本質は何も変わっていないことの証左であろう。
「あ、兄上に、兄上がですね。あ、あのう、助けていただいたと言いますか」
「亡き兄に何を助けられたと言うのだ」
「閻魔様……ゆ、夢枕に兄上が立たれまして、織田の天下を、危うくすべからずと、せ、拙者の不行状も、指導賜りまして、このような仕儀に」
「うむ」
続けろとばかりに顎をしゃくった父。一方でこれ以上何を言えば良いのか分からなかったのか、三介は困った様子で俺を見たが、知らぬ。何でもいいから捻り出せばいいのだ。
「そ、草案は、帯刀兄上から頂戴し、兄上が申されるには自分にも間違いはあるであろうから家臣どもとよく吟味せよと。言われた通りに吟味し、本日に至った次第にて、我が手柄というわけでもなく」
「それにしては三七郎への受け応えも堂に入ったものだったではないか」
「三七郎が申すような懸念はどの道公家衆から上がってくるものと考えておりましたれば。ただ、なぜ三七郎があえて一門たる拙者にあのような物言いをしたのかは分かりませぬ」
話の最後は、俺たちがこの部屋に入る前にしていたものにつながる疑問であった。これにて三介は自分への問いは終わりと思ったのだろう。上手く話を三七郎に流し、小さく息を吐いた。
「貴様がそう思うのも無理はない。先ほど言いかけたが、あれには意味があったのだ。であるな、吉兵衛」
そう言って、話を村井の親父殿に振ると、それを受けた親父殿は特に動じることもなく、皆の視線を受け止めた。
「お家第一は帝も我らも同じ事。此度三介様は帝が大相国家にとって必要不可欠であると言葉を尽くしてお話し頂きましたが、遅かれ早かれ、三七郎様がお考えになられたような懸念を抱くものは出てこられます」
「そのような心配はいらぬと申したではないか」
「三介様の仰せの通り。ですが、あの場にて誰かが問いかけねば、あそこまで深く話をする事は出来ませぬ。故に誰かが、『簒奪の意思ありやなしや』の問いをかけねばなりませぬ。公家衆の集まりの中で密かに織田一門への疑念を抱かれるよりも、あの場で大いに言い合った方が後々良い結果となります故」
誰ぞが対抗馬となって論議をしたほうが良い。そう提案したのは親父殿だ。であるのならば相手となるのは北畠と並び、織田本家を支える一門衆西の要、一条家を継いだ三七郎が望ましい。三介と何かとぶつかることが多いというのは周知のことであるし、一条家は五摂家のうちの一家である。土佐に領地を持っていた当時のご当主が下向して戦国大名化した経緯があり、土佐一条家と区別されてはいるものの、一条は一条である。今後より公家色が強くなるか、例外的に武家的な扱いを受けるかは俺にはわからないが、ともあれ一条家の当主たる三七郎が帝を守る立場となって論陣を張ることが肝要である。立ち位置としてはこれ以上はない。とのことである。
「ならば予め言っておいてくだされば」
「全て台本ありになるとわざとらしさが目立つであろう。三七郎にも話を伝え、思うところを忌憚なく伝えよと申してあったのだ。結果首尾良く終わった。二人ともようやった。これからも勘九郎を支えよ」
「はっ」
「……わかりました」
三七郎がはっきりと、少し遅れて三介が渋々と返事すると、父は満足そうに笑い、漬物を手で摘んでバリバリと音を鳴らして食った。上機嫌なまま、指を舐めつつ話を続ける。
「三介、本日の小御所会議にて功一位は貴様である」
そう言って三介を指差す父上。ありがたき幸せ、と頭を下げる三介。
「とはいえ、貴様の不行状について忘れた訳ではない。よいか?」
言いながら、まだ座ったばかりの父が立ち上がった。頭を掻きながら、一瞬俺に目配せをする。今回の小御所会議において議論の元となったのは確かに我が手によって書かれた天正偃武策ではあるが、何もないところから全ての絵図を描いたわけではない。発端としては天正七年の年明け、三介が調子に乗っている事を知り、おのれどうしてくれようかと思案しているところに、父から連絡が届いた。年も明けた事だし孫共々顔を見せに来い。と。いなやはなく、子供らを抱いて美濃へ行って安土へ行って、勘九郎とも村井の親父殿とも話をし、三介に聞かせたような話もそこでした。
「此度の功があり、また嫡男を三法師と呼ばせることも辞めたと聞いておるゆえ不問とするが、誰よりも勘九郎を支えねばならぬ貴様が天下を乱すような真似をするとは言語道断である。夢枕に帯刀が出たというのであれば、貴様はまだまだ兄から見て不安な弟であるのだ。これを蔑ろにすることなく、北畠家当主として務めよ」
「は、ははっ」
実際のところ、三介のやっていることは調子に乗っているではすまないことでもあり、最悪取りつぶしとして勘九郎の御伽衆にでもしてやろうかという話にもなった。お茶汲みや公家との話は得意であろうし、それはそれで良いのかもしれないともなりかけたのだが、その場合、家臣連中には責任を取って腹を切らせるようなことにもなるであろうし、要衝伊勢が空いた場合、誰をここに入れるかは悩みどころである。結局、俺が黄泉がえって灸を据えつつ、今回三介に働かせようという話に落ち着いた。それから大河内城で三介を取っちめ、大和にいる妹、藤に会い、船でならそう時間もかかるまいと三七郎とも話をした。その後密かに京都に戻ると父、勘九郎、村井の親父殿から三介に対抗させる者として三七郎、忠三郎を当てようという話をされた。そこで三介が無様を晒していたら本当に所領没収の上蟄居謹慎にするという話になっていたので、実際三介は危ないところだったのだ。
「分かっておるのであれば良い。来い。此度の褒美と、ありがたい説教をくれてやる」
そう言って、父は三介を連れて来たばかりの中庭を去ってしまった。多分、初めからこうするつもりだったのだろう。三介の肩に腕を回し、上機嫌に去ってゆく父が言った適当にやっておけ、という言葉は、多分俺にかけた言葉だ。
「承知」
だから俺は、とりあえず目の前の焼き鳥と焼きおにぎりとの戦いを制するべく気合を入れるのであった。




