小御所会議
耳を澄ますと、ただでさえ喧しい蝉の声がさらに大きく聞こえる様子であった。
「つまり北畠殿は天変地異起こりし時は帝を人身御供として切り捨てることで織田家は生き残りを図るべしと、かように仰せでございますな」
話が核心に、俺が最も重要と考えていた部分に差し掛かったことを聞きつけ、それまで瞑っていた眼をカッと見開いた。瞳に映るのは御池庭。広さとしては一町の半分にも満たない程度だと思うがその狭い池と庭の中に本朝における美の根底が見え隠れするような、慎ましくも華やかな空間である。とはいえ今は、俺が背にし聞き耳を立てている建物の中にて会議をする人々をいかなる者の襲撃からも守らんが為配備された兵によって物々しい雰囲気となっているのだが。
「一条殿が何故そのようなお考えになるのか、某皆目わかり申さぬ。帝の玉体はただそこにあるのみにして日ノ本の五穀豊穣、天地の安寧を約す、まさに現人神にして代わりのなきもの。現に我ら今しがた帝より任官封地の宣下を賜ったばかりではござらぬか」
うんざりとした声色は消せないながらも、力強く反論を行う三介の声が俺の耳に届いた。自信が無かろうと言葉を発する時には力強く、言い返せる言葉が無かろうと背筋を張って自信があるかの如く。そのように言い聞かせた成果が出ている。今が盛りの蝉の声にはやや負けてはいるものの十分に及第点と言えるであろう。
「言い方を飾り立てただけで言葉の内容には何ら変わりのないことと存ずる。いずれにせよ盾として扱い、いざという時には責任を押し付けようとする透けて見えております」
「さにあらず! あくまでも我らは帝より大権をお預かりしておる身であると申しておるに過ぎず。太政大臣職は国政の主座を帝より任じられたものであり、仮に一条殿の申されるいざという時に、平大相国が責任を取るというのであればそれこそ帝を無いものと扱う越権行為ではござらぬか」
「うむ」
両者の言葉に、俺は小さく頷いた。再び眼を瞑り、議論の続きを追いかける。高い気温に汗をかきはするものの、日陰であり、それなりに風も吹いていたので耐えられぬというほどでも無い。
「なくてはならぬ玉体であると仰せですが、中華において天下騒乱となった折には、その時々の帝が錦の旗印とされ、その実政治の実権を全て奪い取られ、頃合いを見て禅譲を迫られた上で無惨にも始末されるという例が数多あります。簒奪を天意による禅譲と嘯いたものどもも、帝に利用価値がある間は今の北畠殿が如き甘言を弄しておったのではと愚考する次第」
「……遥か太古の御世における、それも唐国の話を例に出してくるとは流石は一条殿であるな」
数秒の沈黙の後、嘲笑するような口振りで三介が言い、それに合わせたかのように笑い声が室内に広がった。愚弄するのかと誰かが問いかけ、さらに挑発するような言葉が応酬され、そのまま一旦場が途切れた。
「こないに暑いと頭も周りやしまへんでなあ、今更ここで盗み聞きするようなお人もおりませんやろし、風通し良うしたらよろしい」
場違いに穏やかな声と共に、それまで閉じられていた障子が開かれた。正に盗み聞きしている俺であったので些か決まりが悪かったが、俺以外にも内外の廊下に控えている者は数多くおり、特段目立つこともない。
「内府様、御自らがなさらずとも我らが」
「いやいや、長いこと座ってたさかいに体があちこち痛うてかなんなと思うとったところです」
聞き慣れた声に続いて、先ほどの場違いに穏やかな声が近づいてきた。サッと障子が開かれ現れたのは束帯と呼ばれる公家装束に身を包んだ細身の男。頭を下げ、纓と呼ばれた飾りを後ろに垂らした冠、即ち垂纓冠をぶつけてしまわぬように部屋を出、中にいる者どもに見えぬ位置まで来てからふうと溜息をついた。
「お武家はんは元気ですなあ。あないなやりとり、公家にはようせんわ」
その言葉は、たまたま近くに座っていた俺にかけられた愚痴であった。今の俺のいでたちは武家装束でも公家装束でもなく坊主のそれである。坊主なれば中立であろうと声をかけてこられたのか、或いはこの場において袈裟を着ているのであれば出身は京都の公家であろうと当たりをつけたのかは分からないが、下手なことを言って目立ちたくはないので、黙って平伏した。
「ほほ、お武家さんの方でしたかな? 堪忍しておくれやす」
何故か一瞬で武家の出であることを見破られ謝られてしまった。何か武家を貶すような言葉があったろうかと内心で小首を傾げるが、やはり平伏してそのお方が再び小御所に戻るのを待った。
「これで宜しいな」
先ほどの口よりも幾分か大きな声で、しかしながら穏やかな声音は変えぬまま、そのお方は再び小御所へと戻って行った。入れ違いに彼を内府様と呼んだ男、我が従兄弟である津田信糺、勝三郎が近づいてくる。
「帯刀殿」
「うむ、何も間違ってはおらぬ。三介もよくやっておるし上手く間を開けてくれた。恐らく内府様、菊亭晴季様も一旦間を開けて下さったのであろう」
内大臣、菊亭晴季。今出川の家名も持つ公家の当主である。家格は清華家。公家の最上位たる五摂家に次ぐ名門である。いずれも由緒正しき良血統ばかりの十家が名を連ねるが、室町、そして戦国の世においていずれの家も困窮し、土御門・堀川の家が事実上断絶。既に絶家を宣言していた洞院も含め、三家は正式にお家断絶。五摂家に次ぐ七清華家のみが認められたのも此度の任官封地の一環と言えよう。我が生前に、弾正尹織田信正として対面したことはないが、父からも村井の親父殿からも『時節を弁えている御仁』との評価を得ている。つまりは今の朝廷と武家の力の差、そして朝廷、とりわけ帝というものをどう売り込めば公家衆にとって利があるかをよくわかっている人物ということになる。俺個人の希望ではあるが『帝がていの良い看板としての役割を求められていることなど分かっている。公家も上手いこと役を演じてやるので武家は滞りなく天下の采配をしてくれ』くらいの認識でいてくれるのであれば非常にありがたい。
「予定に変わりなく、自信を持って討議を進めるべしと、三介……御本所様にお伝えあれかし」
俺の言葉に勇気付けられたのか、勝三郎は大きく頷きその場を離れていった。返答に窮した際には相手を嘲笑するようなことを言い、周囲もそれを囃し立て、揉め事を起こしている間にどのように返すべきかを耳打ちする。いざという時の為に伝えておいた手段である。内府様も、まさか本当に暑いから障子を開けたというわけではあるまい。仰せの通りに血の気の多い武家の話し合いが紛糾してきた際に、一旦間を開けることで両者の頭を冷やそうというのが狙いであるはずだ。清華家のご当主に気苦労をかけてしまうのは申し訳ないが、後の禍根になりそうな案件は今浮き彫りにしておき、それらを周知させた上で此度の話をまとめたいというのが俺の考えであるので、長い目で見れば内府様の、菊亭家の為にもなるはずである。
「先ほど中華天下の話をしておられたが」
「ふふ、いきなりだな」
場が整い、討議が再開されるやいなや、三介の声が聞こえ、思わず笑ってしまった。何の前置きもなくそのように話し始めてしまうのは、今の中断時間に返答の内容を考えておりましたと宣言しているようなものであるが、まあ別に良い。事実であるし、その点について突っ込みを入れようとするものはいないはずだ。それを認めさせたところで利を得る者がいない。
「中華は五行陰陽の思想に基づき、天下を治める王はその徳をもって天下万民を支配する。そしてその徳が失われた際には新たな徳を持つ王が新たな王朝を生み出す。即ち火より土が、土より金が、金より水が、水より木が、そして木より火が再び生まれる。故に天下はそれぞれの徳治による持ち回りとの考えがあり、それを濫用した者どもが禅譲の名を借りた簒奪を行ったもの。本朝においての王、即ち天皇の位は万世一系にしてその基となりしは天照大神にして初代神武帝にあらせられる。これはどのような理屈を儲けたとしても持ち回りとすることなど出来ず、平大相国家といえども新たなる神の子であるなどと嘯くことは不可能。利用価値がある間、などと言うのであれば帝の玉体に価値がなくなること、いや、その価値が一片でも失われることなどあり得ぬ。故に、もし某がそこもとの言う通りに考えておったとしても、平大相国家あるうちは帝を蔑ろにすることは決してあり得ぬ」
「わかりやすい……と思うが、どうか」
理論の大枠は俺が考えたものであるが内容においては三介が、ないしは北畠家の者たちが考えた部分もある。要は、帝にとって織田一門は最良の庇護者であり同盟者である。と、納得のゆく理屈と共に提出したかったが為、この話をしている。公家衆が成る程と思ってくれているのか、それとも詭弁であると鼻白んでいるのかによって今後の動きも変わってくるのだが、声は聞こえても直接顔を見られない俺としては実際のところどう思われているのか、文字通り顔色を伺うということが出来ない。
「大納言殿は宮中のことを良く考えておられますな。天子様も、忠義の家を持てて果報にございます」
内府、菊亭晴季の声が聞こえ、それから大小様々に同意する声が聞こえてきたのを受け、ふう、と俺は息を吐いた。公家の実力者からそのような言葉が出てきたということは、少なくとも『可』以上の評価を得られたと見て良いだろう。
「余計な邪推であったようです。ご無礼は平にご容赦を」
「構わぬ。帝を第一に考えるは誰も同じ、第二に平、第三に己の家を考えねばならぬ。そこもとの忠義についても分かっておる」
反論の急先鋒として立ち塞がっていた相手が折れたことにより、これにて一条大納言様による意見建白は無事終了。大仕事を終えた安心からか。三介の最後の言葉は今までより幾分か早口であった。姿は見えずとも、ふうと息を吐き、ここ数ヶ月に渡る努力が実を結んだことを安堵する弟たちの姿が目に浮かんだ。
「お武家様の勤皇の志、頭の下がる思いにございますな。公家衆もお武家様を見習うて、忠勤に励まんと」
「見習うということであれば」
そうして、長かった小御所会議もいよいよお開きかと思われたその時、締めに向けて話を進めようとした菊亭晴季の言葉に低く重々しい声が被せられた。
「憚りながらこの蒲生氏郷、公家の方々に問いたい儀、これあり」
「な、なんでっしゃろか会津侍従はん」
明らかに、これより切り込んでゆくぞという強い意志を込めた言葉を受け、さしもの菊亭晴季といえども慄いたのか、こころなしかうわずった声が聞こえた。どこからともなくざわめきが広がる。三介が手近な誰かに何か問いかけているのは聞こえたが、それも含めおおよそその場にいるほぼ全員が思い、呟いたのは疑問と困惑の言葉。有体に表現するなら今更何を言うつもりだというところであろう。
「この度の任官封地により我ら武家の官位、所領が天子様よりお認め頂いた。それはようござる。あくまで天子様より平朝臣織田大相国家の当主が執政の主座たり、その家臣たる我らが領地領民を治める。我ら武家の生業とは即ち平時においては治世に努め、有事においては武器を取り敵を倒す。これはこの場の誰もが理解致すところと心得申す」
「無論」
流石の菊亭晴季というべきか、既に声音は揺るぎなく、如何なる舌鋒であろうと正面から受け止めんとする覚悟すら感じられるものであった。
「本朝において公家の家格は大きく分けて六つ。されば頂点に五摂家、次いで此度七つと定められた清華家、その下に三大臣家」
しかし、その菊亭晴季の答えに対し、蒲生氏郷はともすれば何ら関係ないようにすら思える話を始めた。恐らく話しながら取り出したのであろう。紙が擦れる音が僅かに聞こえ、朗々と歌い上げるような言葉が続く。
「続く羽林家は、藤原北家を祖とする家を大半とする都合六十六家。羽林家と同格の名家もまた、藤原北家が大半であり二十八家。そして最後に殿上人としては最も低い家格となる半家。これが二十六家。占めて計百三十五家。これが本朝における貴族家、公家にございますが、ここまでに間違いはござらぬか?」
「……相違、ございません」
だから何なのだ。と言いたげな気持ちを隠すことなく、寧ろぶつけるような返答が成された。俺は風と短く息を吐き、今一度御池庭を見る。日はやや傾き、じきに夕方という頃合いだが、暗くなるのにはまだまだかかりそうであった。
「この百年の戦国乱世。天下麻の如く乱れしこの時代に、今挙げられた百三十五の家の者どもは、果たして誠天子様に尽くし、その艱難辛苦を少しでも和らげるための役に立ったのか、某大いに疑問にござる」
ひっ、と、誰かが息を呑んだ音が聞こえた。
「我らは武家ゆえ戦うこと、勝つことこそ本義にて候えば、今この場に人をよこした武家は皆押し並べて些か以上の勝ちを手にした家にござる。対して公家は宮中にて職務に精励し、天子様をお助けする家にござる。しかしながら近年京都においては売位売官が横行し公家は己の家の障子一つ張り替えられぬ有様と聞き及びます。元より戦を得手とせぬことは存じておりますが、天子様の役に立たぬどころか足を引っ張るような有様の家があるというのであれば、そのような家は」
その時一瞬、燦燦と降り注いでいた蝉の鳴き声が途切れた。突如として訪れ、逆に耳鳴りがしてしまいそうな静寂は二人の男がゆっくりと息を吸い込む音を俺の耳に届けた。
「取り潰すが良きかと」
「控えよ忠三郎」
ほとんど重なるような二つの声。一つは蒲生氏郷、忠三郎の声。もう一つは
「上様」
「忠三郎も申した通り、公家は戦のための家にあらず。百年の有事が続いたは我ら武家の落ち度なり。売位売官とて生きる為のこと。まして買った武家の者が言えたことではあるまい。これより太平の御代となりし後、その家業、技能をもって天子様を、天下を支えるものと心得よ」
「その、家業や技能が散逸した家については如何お考えにございましょうか?」
「控えよと申しておる。そのような家があろうはずもない」
平氏長者正二位右大臣、織田勘九郎信忠の声が、小御所に整然と響き渡った。
「畏まりました。内府様。ご無礼仕りました」
「すまぬな内府殿。気を悪くなされるな」
既に蝉の声はそれまでと何ら変わりなく響き渡っており、勘九郎の詫びに対し、菊亭晴季が何と答えたのか俺には聞き取れなかった。




