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信長の庶子  作者: 壬生一郎
九尾編
173/190

決戦は安土城


「ああ疲れた、ようやく帰れる」

被衣を取り、そのまま右耳も取り左手すら取り外して袂にしまった俺は、船上の風を感じながらそのように感想を漏らした。結局血を流すことなく終結を迎えることができた九戸政実の乱より直後の話について、少々話そう。


奥羽、九州における散発的な反乱は即座に鎮圧され、再び天下が乱世に戻るようなことはなかった。天正6年がいよいよ半分を終えたその頃、天下諸侯は遅れることなく京都へ参内すべく、皆大忙しであったという。東国については三介が、西国については三七郎が諸侯を引き連れ、参着するまでの時間がそもそもおおわらわであったそうだ。大軍なればこそ行軍がそもそも大変であったようだが、その移動の道中、京都や安土からは次々と連絡が届けられた。その中でも諸侯を色めき立たせたものにこれから先織田政権下において着任するであろう衣服の選定が挙げられる。

まずもっての疑問は衣冠束帯(いかんそくたい)公家(・・)の正装であるのか、それとも宮中(・・)の正装であるのか。武家とはそもそも時の帝や公家衆から臣籍降家した者どもという歴史的経緯もあり、これまでは織田一門も当然宮中において衣冠束帯を守ってきたが、正式に武家官位を創設するにあたってこの区別は必要たるのか。これらについて帝は勿論公家衆にも確かな答えを用意してある者はいなかった。その後織田家において文官畑にいる者たち、すなわち村井の親父殿とその手の者たちが公卿連中と膝を突き合わせて話し合った結果、以後武家も衣冠束帯を以て宮中の正装とするという結論を見た。加えて古来より武官においては刀或いは小さ刀を身に付けることを慣習としていたため大小の具備をもって公家と武家の区別とすることになった。それが決まり安心となったのかといえば寧ろここからが始まりで、そうなれば、式典において序列を表すものといえば席次以外には身につけている物、すなわち礼服であり、それはどういった区分けにするのかという話になる。以下、俺は後に知らされた決定項のみ述べるが、まず将軍家の通常礼服である直衣(のうし)にはじまり、長直垂(ながひたたれ)は四位以上、狩衣(かりぎぬ)は従四位下、侍従、或いは神職に従事する者、大紋(だいもん)は五位、素襖(すおう)は六位以下、法衣(ほうい)は万石取りに至らぬ陪臣など、そして長裃(ながかみしも)肩衣半袴(かたぎぬはんはかま)は通常礼服として、大相国家から下位の武家まで広く扱われることとなることが決まった。衣冠束帯について先に決めていたので、公家の官位に従った礼服をそのまま武家にも当てはめる事が出来た。これが良かったと言えるだろう。


こうして中央からのお達しが順次下された時、当然天下諸侯は京都を目指し、今尚続々と畿内に地方の貴種が集まってきているという時であったそうだ。そしてそのお達しが下されたその時こそ、先に述べた通り争いの始まりであった。何の争いであるのか、此度の東国旅で我々が散々苦しめられてきた、面子の争いである。


西については後々に又聞きした話でしかないので、陸奥・関東勢についてのみ語ろう。宮中における正装が伝えられた時、三介とその他多くの奥羽諸侯は宇都宮から関東平野へ差し掛かろうという頃合いであったそうだ。宮中においての正装を伝えた使者は続けてこのように言った。此度は道中にての報せであるため、特に奥羽二州の諸侯は正装を間に合わせること能わずと心得る。故に織田家より必要な物品については下賜・貸与がある。心配あるべからず。これらの話を聞き、特に色めきたったのは伊達・最上・南部・安東、即ち奥羽南北の雄たちである。下賜或いは貸与される礼服につき、例えば上記の4家は当然、長直垂を下賜されることを望んでいるであろう。だが、もしまかり間違って素襖、最悪法衣を渡され、それを着て儀式に出席したとなれば、彼らはそれを認めたということになる。かと言って出席を拒否するなどということになればお家取り潰し。目立つ家紋をしっかりと施した長直垂を必ずや用意せねばなるまい。或いはそこまで酷いことをされなかったとしても、織田家が用意するということは織田家にとって都合が良い物、順序で渡すということであるのは当然である。宮中で行われる式典が仮に1日2日で終わったとしても、その間仮住まいの屋敷で宿泊することは間違いないのだ。いつ来客があるのかも、どこで誰が見ているのかも判ったものではない。着る物や乗る馬は言うに及ばず、箸の一本一本に金箔を貼り付け、(ふんどし)にもびっしりと刺繍を入れ込むような、一世一代の見栄を張らねばならない。冗談でも大袈裟でもなく、此度どのように動くかで、彼らの家が100年後どのような立場にあるのかが決まりかねないのだ。


こうして京都を目指しながら早馬や船を国元に送り、大急ぎで物を揃えて再び出発する。ということを繰り返し、おおわらわであった東西南北の上洛軍に対し、待ち受ける中央の者たちは呑気に茶でも啜っていたのかと言われればさにあらず。どちらの方が忙しかったのかと問われれば甲乙付け難しと言わざるを得ない。

まずもって九州から陸奥まで、天下諸侯全てを集めるということが本朝において前代未聞であるのだ、先ほどは下賜・貸与される側の立場で述べたが、する側としてはたとえ使われることがなくとも、贈るものに間違いは許されない。天下統一までに至る諸侯の家格を(つぶさ)に調べ上げ、その家格に合った下賜品を見繕い、万が一……もとい、万に九千九百九十九の確率で寄せられるであろう『なぜ当家にはこれが下されて、あの家にはあれなのでしょうか?』という問いに紛れさせた不満について確実に答えられるようでなければならない。全くの同じ家格であれば全く同じ物を、髪の毛一本分の差があるようであれば、ケシ粒ひとつほど、刺繍に差のある物を贈る。その上で当然、天下諸侯誰よりも大相国家が使う物は優れていなければならない。加えて、(もの)についてのみならず、織田家は(はこ)についても準備をせねばならなかった。最大の焦点は大相国宣下を何処で執り行うかである。

天下大乱によって洛中洛外は何度となく戦火に焼かれた。これはもう童でも三介でも知っている事実であるが、今より11年前、父が亡き義昭公を奉じて上洛して以来、折に触れ着々とその街並みは整えられ、宮中においても破れた障子がそのままにあって隙間風に身を震わす。などということはもうない。ただ、現状において『皇居』『里内裏』『御所』などと呼ばれる帝のお住まいは本来土御門東洞院殿つちみかどひがしのとういんどのと呼ぶべき場所であり、毎度お馴染み時の権力者足利義満公が帝にふさわしい内裏とすべく、平安京内裏を模した大規模かつ本格的な、現状の内裏とした経緯がある。即ちこれが里内裏であり、その外側周囲一町四方をもって『大内裏』ないしは『陣中』と称す。この大内裏において宣下など、宮中のよしなし事が執り行われる。公家衆については以前よりこの大内裏への敷地総移転が行われているのだが、これがまだ終わってはいない。本来、陣中としての大内裏に、公家衆が集まって暮らしていることは少々ばかりおかしな話ではあるのだが、都合が良いこともある。というのも、大内裏においては牛車宣旨という特別な許可が降りぬ限り、皆徒歩で移動をせねばならない。逆に言えば洛中近郊に住まう貴種は大内裏の門を潜るまでは牛車で参内するのが正しい作法なのである。だが、五摂家ですら牛や車を用意出来ない時期が長く続き過ぎた。織田家は献納という形でもってそれらを順次用意してきたものの、扱える人も用意せねばならず、飼育・手入れもまた、人が必要である。己の才覚をもってそれなりに立て直すことの出来た家でもなければ、献納されたところで維持することすら困難である。だが、大内裏の内側に住んでいればそもそも使うことが許されないので使っていないという言い訳が立つ。これが前提となった上で、此度においては牛車宣旨が間違いなく許される。今許されなければいつ許されるのだ、と言っても文句は出るまい。織田家は急遽大量の牛車を用意しつつ、同時に大内裏移転も可能な限り急いだ。だが結局どちらも間に合うことはなく、正親町の帝は勅使を立て、急転直下安土城での大相国宣下が執り行われることが決まった。


この話は織田家にとって都合が良い。この宣下が先例となりこれより先、京都、畿内から離れ、安土において天下の(まつりごと)を執り行えるのであれば公家衆がこれに口を挟む隙を作らずに済むからだ。ここからは想像になるのだが、このような流れに至った所以に正親町の帝があるのではと俺は見ている。勿論、織田家が公家の暮らしを守る構図が出来ているからというのもあるだろうが、仙洞御所の造営が俺の見解の根拠となる。

仙洞御所とは即ち天皇退位者の住まいを美称したものである。天正年間が始まった年、正親町の帝は既に御年57にあらせられた。それから5年。激務、心労に堪え兼ねてもそれは当然のことと言えよう。だが、譲位にも仙洞御所造営にも、当然金がかかる。誰がその金を出すのか。答えは織田家以外にない。大相国宣下が無事に執り行われ、仙洞御所造営も終われば、無事御嫡男誠仁親王に譲位することが出来る。誠仁親王については村井の親父殿がよく知っているがその聡明さを手放しで褒める稀有なお方だ。織田家が天皇位を簒奪せんと欲するのなら脅威かもしれないが、その権威を背景とした統治を目指すものであるのならば大いに心強い。安土城には兼ねてより御幸の間、即ち行幸なされた帝を迎える間も用意されており、或いは誠仁親王即位のための準備は父と正親町の帝との間で綿密に打ち合わせられていたのかもしれない。まあ、想像である。


京都の動きはそのままに、当然大坂や姫路辺りからは織田家が西国大名を迎え入れ、その上で安土において天下諸侯を迎える準備を進める。父と村井の親父殿と勘九郎と、誰がどこにいて何の差配をしているのかは知らないが、誰にしても楽ではあるまい。陸奥の奥に残った厄介事を、死人に丸投げする程度には。だからといってしょうがないねと許せる心持ちには全くならない。ならないがしかしこの時の俺はそれらももうどうでも良かった、自分がせねばならぬことは終わったのだ、後はのんびり船に揺られて帰るのみ。


「随分と晴れやかですな。帯刀殿」

よく晴れた空の下、揺れる船の上でケンケンなどして何歩歩けるかという挑戦をしつつ、陸上の者たちの苦労を慮っていると、後ろから声をかけられた。


「ああ、ヒコハチ殿にヒコク殿」

兄は40を少し超え、弟は40に少し満たない。それくらいの年齢である二人、かつて九戸政実、実親という名であったご兄弟に話しかけられ、俺は笑って返答をした。それぞれ彦八郎、彦九郎という通り名であるので、彦八、彦九と縮めて呼ばせて頂いている。


「帯刀殿は我らの大将なれば、呼び捨てていただいたほうが納まりが良いですが」

忠三郎と話をして、同じ豪傑同士通じ合った兄、彦八殿が俺に言い、兄より少し背が高く、しかし気は優しそうな見た目をしている彦九殿がうんうんと頷いた。降伏の日に忠三郎がした話が、そもそも俺が忠三郎にした話であると既に知っている二人は、若輩の俺のことを侮ることもなく、まずは長島にて新たな仲間たちとの目通りをし、それから働いてくれる事が決まっている。幸いなことに、二人とも大いにやる気があり、追腹を詰めようとしていた何人かの腹心たちも同様にやる気を見せてくれている。いつかほとぼりが冷めた頃に故郷に帰してやりたい。


「ああ、そうですな。いや、そうだな。うん。そうしよう。二人とも何か用かな?」

「用と言うほどでもないですが、鯰尾殿から聞いた話について、もう少し聞ければと思いまして」

「ああうん、時間もあるし、二人とその手の者にも関係があることだ。大いに話をしよう」

そうして、船縁に手を回しつつ座り、いつの間にか近くにいた四郎も入れて、4人で話をした。といっても、大概は既に忠三郎がした話であったが。


「何度聞いても気宇壮大。心が震えますな。帯刀殿はその中で頭領たる直子様に次ぐ実力者として名を残したいと思っておられるのですな?」

「いやいや別に、己の名を残そうとは思っておらぬよ。己の意志さえ伝えてゆくことが出来れば」

100代前の先祖のことなど誰も分かっていない。だがそれでも、100代前にいた人々の血は必ずこの身に流れているのだ。意志とてそうであると思う。今を生きる日ノ本の人間が全て死んだならば、その土地は違う国であるのか。そうではない。


「『ゆく川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず』しかしながらその川は今も昔も川としてそこに流れているのだ。その流れを我らは日ノ本と呼んでいるに過ぎない。その上で、より大きく雄大な流れを作る手助けがしたい」

「なるほど……」

と考えれば、今の立場は悪くないような気がしている。看板は原田直子。その手先、いや、尾っぽとして動き回る。可愛い弟妹が、我が名や血を伝えようともしてくれている。ならば身軽な方がかえって良い。


「ただ、名を残したいとは思わないが、叶えたい野望はある。例えば、今より200年も前、永楽帝に重用された宦官に鄭和(ていわ)なる人物がおったが、ご両名はご存じか?」

「御身が自ら船に乗り、本朝を飛び出すおつもりか」


どうやら存じているようで、俺はニヤリと笑った。7度もの大航海を行った伝説的宦官鄭和。その行き先は玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)が仏典を持ち帰った天竺を越え、遥か西域にある阿弗利加(あふりか)なる大地にまで至ったという。船団は60隻余り、人員はいずれも27000程度いたという。明朝という国がいかに大きく強いのかを示す数である。


「鄭和が大遠征を行えた理由は幾つもある。時の皇帝永楽帝が拡大政策を取り、多くの国々からの朝貢を求めた。現に本朝においては足利義満(あしかがよしみつ)公が朝貢の使者を送り、大いに喜ばれたとか。本朝も今一つにまとまり、東西南北、大いにその名を広める時にあらざるや? そして同時に、鄭和の死をもって大遠征が終わりたるは、これまたいくつもの理由はあるものの、最も大きなものとしては鄭和の代わりとなる人材が、明朝をして一人もおらなんだこと」

「その、唯一無二の人材になるべしと、思っておられるのですな?」

「ちと自惚れがすぎるだろうか? このザマであるのに」


言いながら、ない左手を振って見せた。はいともいいえとも言われはしなかったが、二人ともしきりに感心している様子ではあった。


「そういう、気宇壮大と荒唐無稽の狭間にあるような話を、実際に詰めてゆくのが、我らの仕事であります。九戸殿、九尾衆のうち、我ら狐尾の一員となってしまったからには今後大いに振り回されることは必定。精強なる九戸勢を指揮した経験をお持ちのお二人には、我ら一同大いに期待をかけておりますので、今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます」

妙に真に迫った言い方で四郎が頭を下げると、九戸兄弟も揃って四郎に頭を下げた。

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