九戸政実の乱
「出羽角館18代当主戸沢九郎盛安に所領安堵を申し渡す!」
米沢城を出立してから8日後。5月も残すところ数日となったその日、角館城の大広間にて、織田家の使者である忠三郎が言うと、戸沢家家臣一同が一斉に平伏した。
「以後戸沢家は織田家直臣としてその指図に従うよう。現在一揆が起こりたる九州の平定が終わり次第。織田家家臣はその当主の上洛を命ずる。戸沢家の極位極官は正五位上、治部大輔とする。上様も桓武平氏を祖とする同族の戸沢家の働きに、大いに期待をかけておる。励むがよい」
もう一度、家臣一同が平伏した。忠三郎が連れてきた家臣の一人として、広間の最も後ろ、部屋の端にて見張りをしている俺には全体の様子がよく見えた。年嵩の家臣には涙ぐんでいるものもいる。体が弱いせいで家督を譲ったという夜叉九郎の兄の姿もある。案外ああいった人物が長生きするものだが、ともあれ家が潰れては跡継ぎもへったくれもない。名代として留守の城を守る兄、京都に遠い土地から、それでも御公儀への忠義を示すために動き回る弟。悪くないのではなかろうか。
「天下泰平、天正偃武、並びに平大相国の就任を宣下したのち、未だ検地の終わっておらぬ陸奥出羽などの諸地域においては改めて検地を行い、太平の世において不要な城については破却を命じ、同じく不要な武器弾薬を所持する百姓からはこれを没収する。戸沢家においても、当主九郎盛安の帰着後速やかにこれを行えるよう、留守居役の家臣は怠りなく準備に励むべし」
私戦を禁じ、検地を行い、全国の大小名の領土を定めた。これまで勝手に名乗ってきた官位についても武家官位を創設すると共にその任命も一手に握ることで主従をよりはっきりと打ち出し、これまでしがみついてきた土地も今後は転封がありうると示した。そしてこれより先、更に織田の全国支配を強めるため、城割りと刀狩りを行う。
「尚、近隣の諸領主に、今もって上洛せず、また領土問題について上意を求めるものあり。これを受け北畠大納言様が下向なされる。本城をもってそのご座所と定める。一同大納言様の手足となり功を立てるよう勤められよ」
戸沢家一同の声の揃った返事によって、戸沢家への沙汰は決し一同解散となった。この城に入るよりも前に、今後は忠三郎を中心に動くことを決め、雲八爺さんはここまでの報告をすると言うことで忠三郎の代わりに上方へと登ることが決まった。そして俺は隻腕の僧侶ということにして身なりを改めた。普段より顔も隠すこととし、忠三郎が『我が懐刀である。詮索無用』と言ったことでどこからも文句は出なくなった。
それから数日のうちに、父や勘九郎は此度の仕置きについて、織田家として認めたこと、認められぬことを纏めて送ってきた。それらはやはり、どれだけ新しい報せを早馬で知らせにきたとしても、それなりに時間差が出てしまう内容であった。それを考慮した上で二人、そして恐らく村井の親父殿は、御公儀の立場として譲れぬ条件と、それらに沿うようであれば俺に良きに計らえという基本的な方針を伝えてきた。名目上、これより先織田家にとって東北の支柱となる蒲生家が動くこととはいえ、長らく寝ていた男に対して随分な丸投げである。織田家の求めることは、既に忠三郎が述べたことがまあ大枠ではある。私戦禁止、検地、刀狩り、城割り、嫌だろうがそれを認めさせてこそ御公儀である。そしてそれ以外に織田家が明言したことは以下の通り。
・今後東北領主達はそれぞれが独立した家として織田家に仕える。
これは戸沢家のみの特例ではない。南部家の家臣として組み込まれていた複数の家が独立することになる。これだけで、南部家の東北北部支配は瓦解、とまではいかずとも影響力は大いに減退する。同じく伊達家においても、服属していた大小の領主は切り離される。
・当主の来着がなかった家の責任を問う
これについても、伊達や最上が例に挙げられる。この両家はしかしながら名代は出していたし、当主上洛が出来ぬ理由も話していた。その他当主が老齢、逆に幼少であれば筆頭家老や一門の人間が上洛することも当然許されるであろう。要は従う姿勢はあるとしてもらわねばこちらの面目が立たぬということだ。これについて、俺も知らなかったことだが浪岡北畠が人を送っていなかったと分かった。あまりにも遠く、また敵の攻撃を受けているという理由もあったろうが、大浦為信が自ら甲斐は勿論のこと京都にまで上っているのだ。名族の驕りは許されない。場合によっては改易もありうる。
・大浦為信の領地は認めざるを得ない
これはもう、周囲が皆敵ばかりの中一か八かの賭けに出て京都まで向かい、近衛前久卿までもを味方につけた彼の勝ちである。そしてもう一人
・南部信直の南部家当主の地位を認める
捨て身で日の本の東半分を駆け回った大浦為信には及ばなかったものの、彼もまた、危うい立場の中、それも色々と貧乏くじを引かされている中でそれでも南部家の為甲斐にまで出向いたのだ。南部晴政は隠居、幼少の息子共々安土に上洛させることを求めた。
上記の無理難題を加味した上で、織田信長、織田信忠、北畠具豊の署名と花押が書かれた紙が20程どんと送られてきた。要は、この中身に何を書いても良いしある分は全て使って良いので良きに計らえということだ。当然、俺が何ぞ書きつけたのちに忠三郎も名前を連ねる。良きに計らえも極まったなという感じがするが、こういった小細工をするのは唐国でも本朝でもそこまで珍しいことではない。少し違うやり方だが、足利義満公が明朝に朝貢せんとした時は、時の皇帝建文帝とその建文帝に反旗を翻した後の永楽帝による靖難の変が正に起こっていた時であり、どちらが勝つのかなど当然読み切ることはできなかった。その為義満公は両名それぞれに対し朝貢を乞う手紙を送り、案の定明朝の天下がひっくり返ったのを確認した使者はいち早く永楽帝へと目通りを願った。建文帝宛の手紙は当然闇から闇だ。中華天下から長らく離れていた日ノ本が、己の即位後すぐさま朝見しにきたことに、永楽帝はいたくお喜びであったという。まあ、あまりにも余談である。
さておき、現状現場での大将である忠三郎のお墨付きも得ていよいよ動かなければならなかった俺は、前述の手紙を使い、領地の確定として天正2年3月3日時点の領地を認め、それ以降に切り取った領土は元の領主に帰すことを命じた。織田家が他家の私戦を禁じ、上洛を求めたことは何度かあり、この日がそのうちの最も早い日ではなく、惣無事令が発布された日とも違う。この日は落成した安土城にて父の正二位右大臣就任、勘九郎の正三位大納言征夷大将軍就任が発表された日である。織田家は武家の頭領となりこの日以降、他家は織田に伺いを立てなければならなくなったのだ。という、建前としてもそうそう無理筋ではない日付であると思う。建前ではなく、この日を区切りとした実際の理由は何であるのかというと、これよりも早くしすぎると大浦為信の領地がほぼなくなる。しかし例えば上杉家降伏をもって、などという時期にすると逆に大きくなりすぎる。そして天正2年以降に大浦為信が切り取り、返却せよという領地は南部信直の実家石川家の勢力範囲が含まれている。大浦為信は独立した大名として生き永らえることを許す。南部信直は南部家を継いだ上で己の基盤となる領地をある程度回復する。共に損した気持ちにはなろうが、これで矛を納めよという裁定だ。どちらからも納得を得られず戦いになる未来も見えないではないが、そうなった場合各個撃破は出来よう。『お前の領地を奪えないのが不満だから手を結ぼう』という協力の仕方は摩訶不思議であるからして。
同時に、奥羽二州の仕置きというのであれば外せないこととして、俺はこちらからも上方へ文を送った。より正確にいえば忠三郎の名で送らせた。此度俺が何とか丸く収めようとしている相手は主に南部家とその周辺勢力と言って良い。そして、それらは主に奥羽山脈の東側と蝦夷地の手前に領地を持つ。北と東に南部家があるのであれば、西側には安東家がある。此度の旅で分かったことがひとつ。基本的に奥羽二州は家族経営と柵で雁字搦めだ。安東家についても、いろいろと面倒臭いことになっているはずである。実際、ここは出羽国角館城であり、これまでは南部家の勢いに押されて戸沢家も南部家に従っていたが、位置としては安東家との連絡がより簡単に取れる場所ではあるのだ。だがしかし、俺はあえて安東との連絡を取ろうとは思わない。面倒なことになるのが目に見えているからだ。加えて越後では謙信公が亡くなられた。そうなってくると津軽まで行った後、帰りは出羽から越後経由でまた一つ一つ俺が何かを解決しながら長島を目指さねばならなくなる。この辺りも全部どうにかしろと言われたら、本当に俺は早馬でこの場を逃げ出す所存である。ということで出羽北部、安東家やその周辺について、当然越後についても俺は一切関知しないことを伝えさせた。何度も言うが公式には死んでおり一年半以上も子供らと遊んでいた俺のような者に、面倒だからこれ幸いと仕事を押し付けるような現状である。京都より西には三七郎、美濃尾張より東には三介が向かい、中央には父と勘九郎が座る。此度も上様の弟君が自ら御出馬、ということで体裁は取れているように見えるが三七郎ならともかく三介に大ごとを任せるのはそれだけで実に宜しくない。無責任である。
「そう考えてみると、会津に蒲生家を置くというのは、天元に石を置くようなものであるなあ」
「我が家が何か?」
南部家とその諸氏に送る文を書きながらつぶやきが漏れた時それを耳ざとく聞きつけた忠三郎に何か言ったかと聞き返されてしまった。
「何でもない。それより貴様も何かないのか? 俺の草案に何か間違っている点や疑問をぶつけてこい」
「滅相もない。我らが戦場大将狐尾の帯刀殿がお作りあそばされたものに、某如きが文句をつけるなど」
「文句をつけよなどとは言っておらぬ。皆で考えより良きものにせねば塵芥集や結城家新法度と変わらぬではないか」
「ははは、そうかもしれませんな」
「気楽な顔をしおって。俺はな。この九尾なる謎の集団について貴様が妙に前のめりであることも気が食わぬのだぞ」
「そのようなことを言って、そもそも某を九尾第二の尾、鯰尾の忠三郎としたのは狐尾殿でございましょう。今になって気に食わぬなどと、いかにもご無体な」
「……あの時は、お主の力が必要であったのだ」
まさかこのように次々人が乗っかってくるとは思っていなかった。サラリと集めるものだけ集めてとっとと解散すれば良いと思っていた頃の自分に言ってやりたい。『お前の悪運があって、そのように素直に話が進むはずがあるまい』と。
「ところで愚弟はいつ来るのだ」
今後恐らく伊達最上を超えて、奥羽二州の大将となるであろう忠三郎を、その奥州の領主が一つである戸沢家の居城で呼び捨てるわけにもいくまいと、城中において俺は常に忠三郎を蒲生様と呼ぶことにはしていた。しかし忠三郎自身は、俺のことを『原田直子様より借り受けた知能の士』ということにしたようで、割と気安く呼び寄せてくる。周囲に人がいることが多いので、俺の方から親しげに話すことは出来ないが、お陰でやりやすく動かせてもらえてはいる。そしてこの時は忠三郎にあてがわれた部屋に俺が四郎を伴って伺っているという時であったので気を使ってはいなかった。密議である。
「某はここにおるではありませんか?」
「違う、お前よりもう少し愚かな弟がいる。あいつはいま何処か?」
「相変わらずあのお方に厳しいですな。未だ米沢にも到着しておらぬということで、まだまだごゆるりと参られるのでは? 四郎殿の手の者は何と?」
「鯰尾様の仰せの通りかと」
思わず舌打ちが出た。俺がこんなにも面倒なことをやらされているというのに、なぜあいつはゆるゆると移動しているのだ。早馬で来い。
「まあまあ、明日来られたとしても出来ることなどなし。むしろゆっくり来て頂いた方が狐尾殿のやりたいようにやれましょう」
「やりたいようなやり方などない……まあ、そうだな。単に八つ当たりだ」
俺たちの会話など当然聞こえていない三介は6月の8日、ようやく米沢城に到着した。そしてその報せとほぼ同時に、南部家家臣、九戸政実なる者が織田家の裁定に不満を持ち、2000の手勢をもって九戸城にて蜂起したとの報せももたらされた。
「また新しい名が出てきたな」
「さて、狐尾殿よ、どうします」
ため息をつく俺に対し、忠三郎は寧ろ楽しげだった。九戸政実。南部氏の傍流である九戸氏の人物で、南部晴政の次女を妻とする人物、の兄。とのことである。蜂起の理由は、南部晴政の嫡子でも、その娘を妻としている己の弟でもなく、元々石川家の人間である南部信直が南部家の家督を継ぐことを認められない。というもの。そう思うのならそれを甲斐で話して欲しかったものだ。
「今九戸城に向けて出せる兵は如何程だ?」
兵2000での蜂起、この旅の中で初めて反乱を起こさせてしまった。しかし俺に焦りはなかった。北国には人が少ない。そんな中での2000は確かに少なくはない。しかしそれでも2000で収まったのだ。この日までに浪岡北畠家からは謝罪と当主浪岡顕村の上洛が約束され、舅で安東家当主である安東愛季の協力で既に船で安土を目指すべく出港したと聞いていた。浪岡家を滅ぼすほどの攻勢を行なっていた大浦家は、当主為信が今もって帰城していない中で、全て織田家の沙汰に従うと臣従の立場を改めて示してきた。日ノ本で唯一蝦夷地に領地を持つ蠣崎家も検地刀狩り城割全て了解との旨、得られている。南部家の内部ですら、九戸政実には従わず良くて日和見が大半である。取り急ぎ九戸城一城のみ囲めば、戦火を広げることなく終わらせることが出来る。
「我が手勢が3000。戸沢も500は動かせましょう。近隣の者たちにも出兵をさせれば、5000は下らぬかと」
「ならば直ちに、大急ぎで九戸城を取り囲みたい。蠣崎大浦北畠、可能であれば南部家の別派閥の者にも、出兵を乞うことは出来ようか?」
「どれだけの兵を出してくるかまでは分かりませぬが、ともかく謀反人討伐のため出兵をという文は取り急ぎ出しましょう。出陣の支度も、直ちに」
ならば急がねばならない。現在のところ九戸政実と、弟の実親の兵は2000であるが南部諸氏がこれに合流すれば4、5000にまで増えてもおかしくはない。一方で、もしこの蜂起が南部晴政本人によって起こされたものであれば既に兵は5000をはるかに上回って集まっている筈である。織田家は南部家に対して信直に相続させると共に、晴政と幼少の息子とを安土に向かわせるよう求めている。これは人質ということも出来るが、既に病床にある晴政からすれば、そのまま安土で息子を預かってもらえれば己が亡くなった後も信直から手を出される恐れがなくなることを意味する。ここで蜂起して一時的に勝ったところで己の命にも、南部家にも先がないことを理解している南部晴政は、恐らく九戸政実に織田家との一戦をと迫られても、これに頷かなかった。或いは頷いたとしても実際には動かなかったのだ。
「よし。これより北はない。東もない。九戸政実。この男が我が此度の旅における最後の敵である」
グッと膝に力を入れ、俺もまた最後の目的地九戸城へ向けて従軍するのであった。
感想欄のリクエストより、九尾現状
頭領・原田直子「え? 何か増えてるの?」
一尾・狐尾の帯刀「冗談のつもりだったのに、なぜこのようなことに」
二尾・鯰尾の忠三郎「狐尾殿に乞われて九尾に入りしは某のみですな」
三尾・鳥尾の小太郎「関東風魔は我が手にあり。ですので小田城を褒美に……」
九尾・猿尾の藤吉郎「上位の席を奪い合うより、末席に長く座るが上策」
四尾?・竜尾の藤次郎「鯰尾が儂にとっても伊達にとっても目の上のコブか」
五尾?・鬼尾の夜叉九郎「上洛の折には急ぎ直子様に目通り願わねば」
こんなかんじです(多分)




