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信長の庶子  作者: 壬生一郎
九尾編
169/190

仕事をしていると稀によくあること。

「西に三七郎、東に三介。そういえば三介のバカは今権大納言様か。このままいけば右大臣か左大臣にまで登るのか。バカのくせになあ。いやしかし、武家官位として増やすと言ったところで、左右や内大臣を自称したものはいなかったはずであるから、北畠や一条であれば公家として大納言よりも上に登れることにするのか?」

斉天大聖が来た時には太政大臣は定員一名としか聞いていなかった。もう少し聞いておくべきであった。まあ、三七郎ならともかく三介が大臣職を務めるような日が来れば世も末であるので、太平の世にはあまり意味のない氏長者にでもなってくれれば良い。


「兄弟子……どこで誰が聞いているのかわからないので、あまり言わぬように」

忠三郎の手紙で帰宅が延期となった後、俺たちは再び片倉家に戻り、朝稽古などをしながら話をしていた。四郎も五右衛門としての報告を終え、弟弟子として共に木刀などを振るっている。


「ああそうだな、自重しよう。しかし、上様と同腹の御舎弟が兵3万を率いて下向。理由は南部家中の裁定とな。陸奥の北側は南部や安東といった勢力を中心に、ある程度まとまっているように思っていたのだが」

夜叉九郎たちにも話を聞き、伊達家中の者にも教えてもらい、そして四郎たちによる働きでもって得られた実情をまとめ、俺はため息をついた。


奥州北部の雄南部氏、その最盛期たるは当代をおいて他になく、その最盛期を築き上げたのが現当主南部晴政公である。その諱も上洛の折、室町12代将軍足利義晴公から拝領したものであり、南部氏惣領の地位を認められている。それから今日までの武功はキリがないほどあり一々挙げてはいられないが、『三日月の 丸くなるまで 南部領』と謳われていることが南部家隆盛の分かりやすい証左であろう。

そんな晴政公であるが、子に男児がいなかった。その為永禄8(1565)年、今より13年前に叔父の子を養子に迎え、その妻に娘を嫁がせた。ところがその5年後、晴政公に男子が生まれ、今より2年前、嫁がせた娘が早世してしまった。当然晴政公は息子に家を継がせたい。だが従兄弟で養子となった南部信直殿とすればたまったものではない。乞われて養子に行っただけであるのに、その後で突然邪魔者とされてしまったのだ。勝手に甥が生まれ、勝手に妻に死なれた。本人にどういった落ち度があったのであろうか。


「ここまでであれば家を分けるであるとか、晴政公、信直殿、そして晴政の実子鶴千代殿。と、後嗣の順序を定めおく、というやり方で仲裁が出来そうなものだったのだが」

晴政公待望の男児、鶴千代殿が生まれた翌年、信直殿の実家石川家が突然襲撃を受け、信直殿の実父高信殿が討ち取られるという事件が起こる。下手人は南部氏族の一人大浦為信。この梟雄はその後周囲の南部氏族を次々と討ち取り、現在は津軽地方一帯を事実上領有している。きな臭いことには、この時大浦為信の反乱に対して晴政公は本腰を入れて討伐をした様子はなく、そしてこの時切り取られた領地は石川家を中心とした家の領地であり信直殿が一方的にその支持基盤を失ったとも言えるのである。

大浦為信の反乱、独立が晴政公の手引きかどうかはわからない。だが、仮に手引きであったにせよ、手引きはしていないにせよ、好都合であると考えたのにせよ、本気で討伐を行った上で敗れたにせよ、結局のところ家臣の領地を守れていないのだ。南部晴政その人の評価とてしっかりと下がっている。その上、晴政公は老齢であり、不信を抱いた信直殿は家督を辞退し養子として迎えられた三戸城からも退去した。鶴千代殿はまだ7つ。御坊丸と同じ年だ。


「更にはそれにかこつけて独立を志す家も多く、そもそもが国人衆の寄り合い所帯からは脱し切れていなかったというのが実情である様子。戸沢家も無理をして若き新当主に甲斐に出向かせたのはそれが理由であるとか」

「成る程、さもありなんと言ったところだな」

国人衆の寄り合い所帯。主従関係というよりは多くの有力者の中で最も力がある者が代表となり纏まっているに過ぎない。毛利家がそうであったなと思い出すが、そもそも国人衆の寄り合いに頼らずして大勢力を築き上げた例というものがこの戦国の世でも稀だ。その稀な例が即ち織田信長という当代の英雄なのであって、南部家の当主南部晴政を狭量であると責めることは出来まい。元就公はそれでも、家督争いなどは決して起こさせぬように嫡男、嫡孫を立て、毛利両川に加え娘たちを有力国人に嫁がせることによって他の国人衆と隔絶した力を毛利本家に集中させた。三日月の丸くなるまでと謳われる程の勢力を築いた南部晴政をして尚、織田信長、毛利元就程の求心力、先見性は持ち得なかったのであろう。結果論ではあるが、鶴千代殿が生まれた時、晴政公は改めて信直殿に家督相続を宣言し、己の亡き後の鶴千代殿を頼むと言うべきであった。丸くなった月は既に三日月ほどに減じており、これより先も縮む一方の未来しか見えない。


「ここまでで既に丸く収めるのは無理難題なのだが、忠三郎から来た上方の情勢というものがなあ」

老いた晴政公、まだ幼い鶴千代殿。結局南部宗家は甲斐に当主やそれに準ずるものを送れなかった。一方で信直殿は自ら近江にまで赴き、大層立派な鷹を献上したとのこと。父上も鷹狩りは好きな方であるので大いに喜び、そして信直殿は己が置かれている窮状、理不尽極まる仕打ちについてを述べ、御公儀に厳正なる裁定を求めた。かつての室町幕府は己を天下の審判者と自認していたものであり、その跡を継ぐことを大義名分の一つとしている織田家としてはこれを無視することは出来ない。


更にさらに、此度の話の中で第三の男として浮上した大浦為信、この男も生き残りをかけて必死の工作を開始した。南部信直による織田家首脳への拝謁が実現すれば己が罰されることは免れない。そこで為信殿は知遇のあった最上家の伝を使って信直殿に先んじて甲斐を目指した。信直殿は立派な鷹を献上したとのことだが、為信殿はまず取次として甲斐にいた忠三郎と甲斐を任されている権六殿に鷹を献上。続けて三介にも鷹を献上し、勘九郎と父には鷹と名馬を献上した。その上で自分はこの先惣無事令違反について南部家より咎めを受けるだろうが、自分が兵を起こしたのは惣無事令発布以前のことであってこれより先は織田家に無二の忠誠を誓うと述べた。その後、信直殿の甲斐着陣の報を受けると、当地における諍いを避けるためにか更に西進し一路京都(みやこ)へ上洛。元関白にしてつい先頃まで太政大臣の地位にあった近衛前久(このえさきひさ)卿との面会を実現させた。前久卿もまた鷹狩りを趣味とする人物であるが、その前久卿に対して大浦為信が献上したのは物ではなく銭であった。近衛家に限らず、当代の公家衆は実入りが少ない。織田家の支援によって、障子に穴の空いた内裏など戦乱にて見窄(みすぼ)らしくなってしまった家屋や道具など、物の面では改善が見られ、家格に応じて恥をかかぬ程度の生活費も出るようにはなった。しかし家格に応じた出費も復活しているので公家衆が遊びに使える金が増えたかといえばそうではない。その隙を突き、為信殿は金銭を上納した。更に自分が前久卿の祖父の御落胤であるという話をでっちあげ、親族の誼を持って、今後自分と大浦家が健在であるうちは近衛家への支援を行うと誓った。これによって為信殿は前久卿の猶子という現状として無敵と言って良い立場を得た。何故なればこれより太政大臣となる予定の父、そしてその後を継ぐであろう勘九郎以下今後の織田家当主は他ならぬ前久卿が太政大臣を勇退して下さったお陰で太政大臣職を家職と出来るからである。その猶子を無碍にすることは出来ない。


「支援の約束はともかくとして、津軽くんだりから上洛した男がどこにその銭を持ち歩いていたのかが分からん」

初めからここまでの計画を立て金目のものを可能な限り懐にしまっていた。豪傑好きの最上殿や、これまでに出てきた名のある人物に借りた。献上した鷹や馬などのうち、余った分を京都(みやこ)で売り払った。あるいはそれらを担保に、近江山城の商人を片っ端から当たって銭を借りた。考えられるのはこの程度であろうか。正解しようが不正解であろうが何も変わらないが。


「どう考えても信直殿に落ち度はなく、織田家の求める通りの動きをしてくれている。一方で為信殿は神速をもって不利を覆した。本来主家であって最も優勢なはずの南部宗家だけが出遅れている」


頭を抱えた。何故俺が頭を抱えなければならないのか。俺は織田家を陰日向に支えると誓ってはいるが表に出るつもりとてない。この問題に悩まねばならないのは鷹や馬や銭をもらっていい顔をしてしまった父であり弟たちであり権六殿であり前久卿なのだ。だが。


「忠三郎からの文を見るに、この問題を俺に解決させようとしていないか?」

「というより、兄弟子以外の誰が収められるものかと丸投げしている様子すら見える」

「ふざけた話だ……」

「小田殿の先例を作ってしまったから」

「ならお珠を呼んでくれ」

ちなみにだがこの程、小田氏治並びに結城晴朝両名はこれまでの遺恨を水に流し、検地や国替えにも応じ織田家に忠勤を尽くすと連盟で誓った。勘九郎からは心掛け殊勝也との言葉も頂戴し、今後どうなるかは分からずともとりあえずのところ戦は起こらず、改易等の処分もない。


「それと、浪岡御所にある北畠家についても良きに計らってほしいと」

「これ以上ややこしい名前を持ってこないでくれ」


浪岡北畠家。どこに行ってもちょこちょこ出てくる名門北畠家の分家である。北畠親房公の末裔であるこの家は、三介が継いだ伊勢北畠家と同祖であり、こちらもまた無碍には出来ない。無碍には出来ないのだがこの浪岡北畠家の権勢が今どの程度であるのかといえば、領地を切り取られた南部家より、その南部家から一部を切り取った大浦家よりも、実家を失い養父に捨てられた信直殿よりも、更に弱い。恐らくあと数年織田の天下統一が遅れていたら滅んでいただろうと思われるし、何なら今大浦為信殿が津軽にいたのなら今日明日にも攻め滅ぼされているかもしれない。


「一旦まとめよう。まず南部宗家。ここが今回最も後手に回っているがそれでもまだ最大勢力である。当主晴政公の願いは鶴千代殿に跡を継がせること。養子であった信直殿は、己が養子の立場にあったことと、大浦為信の無法について訴え出ている。だが為信殿は、切り取った領土を己のものとすべく、近衛前久卿を取り込んだ。浪岡の北畠家は何と?」

「南部も大浦も、本来の北畠家領を奪い取った謀反人であるため討伐すべしと」

「詰んでいるなあ」


誰の言うことを聞き入れてもどこかに遺恨が残る。血の粛清でもってどこかを叩き潰す以外の解決方法が見当たらない。良きに計らえと言われたところで良き落とし所が全く見当たらない。


「北畠大納言様は甲斐から京都に引き返すことなくそのまま3万の兵でもって参られるとのこと。既に関東より北上しつつあり、先陣たる蒲生様は3000で急ぎ駆けつけると」

「三介が来るまでが期限か」

九州で起こった一揆は掌の上といった感じであった。鎮圧までに時はかからないだろう。父の太政大臣就任には当然三介も含めた織田一門衆全員が集まるであろうから、それまでに南部家のゴタゴタもまとめなければならない。逆に纏まらなかった時のための兵3万であり忠三郎である。納得のいかぬ連中を蹴散らし、新しく代官を任命して京都へ。こうして東北の果てから九州の果てまで、あまねく征した上での太政大臣就任。そこまでの道筋を更に一年も二年もかける気はさらさらあるまい。戦となれば伊達や最上も出兵することになるだろう。先に述べた連中全てが合力しても敵わない大軍になる。まだまだ暖かくなる頃であるし、負けることはない。


「天下を取った家とはもう少し楽になるように思っていたが、実際には鞍も(あぶみ)も付けぬまま暴れ馬を御すようなことをさせられる立場なのだな」

いっそ切り捨てて肉を食らってやろうと考える気持ちもよく分かってしまう。


「どうにか出来そうか?」

「さっき言っただろう。詰んでいる。どうにかなるところからどうにかしていくしかない」

そう言って、俺は朝稽古を切り上げた。もうじき米沢城から雲八爺さんが戻ってくる。そして伊達家の御曹子藤次郎殿とその師虎哉宗乙(こさいそういつ)和尚も来る予定だ。


「まだ塵芥集を貰っていない。こちらが渡すと約束した物は昨日書き上げ、師匠に渡した。今頃米沢城で誰かが読んでいるやもしれんな。面白いかは知らんがまあ、今までのものと同じ程度には馬鹿らしいものが出来上がったと自負している。因みにだが『この時の作者の気持ちを答えよ』という問いをなされた時の答えを教えてしんぜよう。『明日までに書き上げなければまた面倒なことになりそうだからとっとと終わらせたい』だ」

「なんだかやさぐれているな」

「やさぐれたくもなる。もう一つの方は結局思いつかなかった」


自分の知らぬことで、後学のためになる講義を一席乞われた。その授業料で塵芥集を渡すと言われた。色々と考え、故事などを引っ張り出したりしつつ、四郎とも話をしたりもしたが今もって何を講義するかは決まっていない。


「出たとこ勝負で話をするしかあるまいな。もし『その話知ってるしつまんない』などと言われたら仕方がない。見えている方の目にもち米を詰め込んでから塵芥集を奪い取り、早馬で長島へ帰ろう。これにて一件落着」

「やめてくれ兄弟子。何一つ落着していない」


至極真っ当なことを言われてしまった俺はフンと鼻を鳴らし、とりあえず汗を流そうと風呂場へ向かった。風呂場でも妙案は浮かばず、髪を乾かし講義のための部屋を一つ借り、いよいよどうにでもなれという気持ちになった頃、雲八爺さんが戻ってきた、一人で。手に一冊の書を持って。


「おう帯刀よ。伊達のご当主と若君より賜ってきたぞ、塵芥集じゃ」

「……は?」


無造作に投げ渡されたそれを手に取って見てみると、確かに塵芥集と書かれていた。当家で最も状態の良いものを渡すと言っていた通り、紙や紐の質も良く、字も綺麗に書かれている。


「此度我らが出陣してからの事を訊かれたのでな。仔細に語ってやったのよ。藤次郎殿だけでなく聞いていたもの皆随分と喜んでのう。大いに後学のためとなりましたと言ってこれを頂戴した」

「と、藤次郎殿は今何処に?」

「代わりに手渡したお主の本を皆で読むと言っておったな。喜多殿を語り部にし広間に集まっておったが、帰り際に笑い声が聞こえたぞ。流石よの。大作家様。帯刀殿にもよろしくと申しておったわ」


そう言って雲八爺さんがどしんと座ったのとほぼ同時に、俺は床に仰向けになって倒れた。


「うん? どうした? 上方から面倒な頼まれごとがやってきたのであろう? それに当たる前に一つ片がついて良かったではないか。(わし)にも何ぞ手伝えることはないかと、こうして急ぎ塵芥集一つを持って帰ってきたのじゃが」

「その通りですがお師匠、今日ばかりは少々兄弟子を休ませて差し上げてください」


その日1日をふて寝して過ごした俺は、翌日復活しいよいよ日の本の北の果て、奥州最奥の地が抱える問題について取り掛かるのであった。

20代から30代、または40代から50代の間によくあること

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― 新着の感想 ―
主人公は他人を馬鹿扱いできるほど上等な人間か?
[一言] 50-60代にもよくあること。 ちなみに作者の心は「どれだけ刷れるかな?」
[一言] え、こんなあっさり?今までの頑張りはなんだったんだ?というのはまあ稀によくありますねえ! 帯刀だからふて寝で済んだけど血の気の多い武士だったら刀抜きそう。 あるいは後々帯刀が表舞台に戻った時…
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