失われる命、守られた命。
「兄弟子。3つほど知らせねばならぬことがある。師匠も共に。その他は人払いを」
四郎からそのように言われたのは、切支丹風に誕生日、というもので年を数えるのであれば父が45歳となった日である5月12日のことであった。俺は喜多殿との約束を果たすべく『頭光るゲン爺』の執筆に勤しんでいた。物語というものはわからないもので、話の筋を組み立てている時には己の才が天下一であるように思えるのに、いざ本文を書いていると何が面白いのかわからなくなる。まあ、そのような話はさておきである。
「先月の19日、不識庵謙信様がみまかられた」
「おお……」
九州よりは懸念少なしと思っていたところで、特大の大筒を打ち込まれ、言葉に詰まった。世に軍神と呼ばれた人物はそれなりにはいたものだが、本朝にて存命であった軍神は彼一人であった。軍神上杉謙信。最後まで父を織田家を苦しめた男。
「後継は御坊丸ということであったが、まだ10であるからな」
謙信公は姉の子景勝殿や北条家からの人質である景虎殿を養子としていた。他にも数名の養子がいたようではあるが、もし御坊丸がいなければ後継はこの二人のうちのどちらかであっただろう。身内のことでもあるので調べたことがある。普通に考えるのであればそれまで関東の覇権を巡って幾度となく争ってきた敵国からの人質を当主に据えるよりは、親族の子に継がせる方が良いと思うが、名こそ上杉であっても、越後上杉家の実態は長尾家である。長尾家は一門衆による権力争いが激しく、謙信公は父を三条長尾家とし、母を古志長尾家とする。そして景勝殿は上田長尾家であり、近しいからこそ逆に一門衆からの反発は免れないのだ。であるのならば思い切って別家からということで、謙信公は己の初名である景虎の名を、北条氏康公の7男たる彼に与えたとされる。そしてその景虎殿は上杉家降伏の折に北条に返された。北条という別家から来た養子の代わりに、織田家という別家から送られるのが御坊丸であるのだ。
「不識庵様没後の上杉家については、まだ」
四郎が首を横に振った。四郎がまだというのなら、調べられなかったのではなく本当にまだ話が出てきていないのだろう。
「まずは此度の信玄公と同じように葬儀を執り行うであろう。壮大に行いつつ、喪主を御坊丸にすれば後継たることを内外に示せる。仮に御坊丸に万が一のことがあったとしても、それより下に弟もいるのだ。上杉家には織田家からの養子を受け入れぬという手はない。故に、受け入れず挙兵に及ぶものがおれば、今しかない」
勘九郎、三介、三七郎。俺を含めた織田信長の子の中で6男が御坊丸だ。同じ歳で勝子殿が産んだ於次丸殿が5男となる。父の子の中には父が襲撃を受け、体を悪くしてからの子もおり、実のところ、市姉さんと浅井殿の間にできた男児についても、家督相続問題を避ける為密かに引き取ったのでは、と俺は疑っているのだがそれは別の話だ。そこに此度ハルが産んでくれた子を含めるということになる。捩じ込もうと思えばまだまだ捩じ込めるであろう。
「甲斐信濃には権六殿がおられるのだ。当然睨みも利かせている。越後に不穏な空気が流れるのは事実であるが、今は織田家から迎える当主に従うかどうかを見極めるため様子を窺う以外にない」
安土にて余生を過ごしていた謙信公であるのだから、恐らく父と今後の話もしていたであろうし。というところで、謙信公逝去の話については一時終えることにした。
「3つと言っていたな。2つめを教えてくれ」
「九州にて謀反あり」
思わず目が細まった。やはり、織田の支配を受け入れないのは東北を除けば九州。ただ幸いなことに、織田家の直臣が、ということではなく当地の国人衆がとのことだ。それであれば想定の内であろう。
「肥後国人衆が検地を拒否し兵を挙げたのが4月の末。それを受け、天草諸島における5人の国人が兵を挙げたのが5月の頭」
「以前聞いていた話では佐々殿が肥後にあってまずは鎮圧に当たるとのことであったが、後詰はどうする? 場合によっては大相国様のご出馬もあるやもしれぬ。と聞き及んでおるが」
四郎から話を聞いた雲八爺さんが問うた。父はまだ太政大臣、即ち大相国と呼ばれる人物ではないが、成り行きから既に大相国で固定されている。
西国においてはまず当地にある佐々成政、即ち内蔵助殿や龍造寺勢などがこれに当たるのが当然であろう。以前聞いたところであれば十兵衛殿が10日かからず後詰めに向かう。当然、中国の毛利、長宗我部、復活した尼子なども兵を出すものと思われる。そして西国勢において織田家の大将となれば何と言っても三七郎だ。三介の阿呆と違って武にも長け頼りになる。その脇を十兵衛殿が固めるとなればそう簡単に負けるとは思えない。
「信玄公の葬儀の後、西国勢は急ぎ国元に帰り、既に毛利、長宗我部、尼子を中心とした中国勢は出陣していると思われます。そして四国、畿内よりは大将に権中納言一条信孝様。副将に惟任日向守様、羽柴筑前守様」
「何と、さすがの身の軽さよのお」
雲八爺さんの感心した声に合わせ、俺もため息を漏らすほどに感心した。斉天大聖が関東の結城城にやって来たのは4月の15日。その3日前に信玄公の葬儀が行われ、急ぎ馬を飛ばしてやってきた。そして又取り急ぎ馬を返して東海道を西進し、京大阪を越え、土佐を本領とする土佐一条家の与力として兵を率いて九州へ。木綿藤吉とうたわれた男の面目躍如と言うべきであろうか。
「肥後に、天草か」
「何ぞ気になることでもあるのか?」
雲八爺さんの隣で話を聞いていた俺が小さく呟くと、その呟きを耳聡く聞きつけた雲八爺さんから問われた。
「気になる、と言う程では……いや、気になると言うべきなのでしょうが」
「煮え切らんの。言うてみよ」
「薩摩大隅日向にて一揆が広がっておらぬことが不可思議に思えます」
その一言で雲八爺さんは察してくれた様子であった。かつて織田家が九州征伐に乗り出した折、立ちはだかった大敵は所謂九州三強。北の大友、西の龍造寺、南の島津であった。大友家は最も中国四国に近い位置であった為、搦手をもってして瓦解させつつ、主力は撃破。当主であり切支丹であった大友宗麟以下の切支丹たちは追放した。同様の措置は肥前の大村純忠にも行っている。この辺りで一揆が起こらないことも多少不可思議だがまだ良い。大友家の名将戸次道雪や高橋紹運と言った人物らは戦死し、その子や親族らについては俺が託された。一揆が起こらない程度には不満の芽は潰せた。と言われれば何とか納得しよう。
九州三強においては最も勢力基盤が脆く、真っ先に降伏したが為に存続を許された龍造寺家は、かつて当主龍造寺隆信が五島二州の太守を称していたが、此度その五島から一揆が発生した。長引けば責任を問われかねぬ龍造寺家の面々は慌てているかもしれないが、不自然ではない。九州中央部に位置する肥後は阿蘇・相良・隈部といった国人領主らがかつて割拠していた地であり、ここにおいて一揆が起きているという現状は納得のいくものである。
残るは九州三強において最も勢いがあり、織田の大軍に踏み潰されるように滅亡へと追い込まれた島津家である。今が好機とばかりに、旧島津家臣団が大挙して蜂起し、織田家打倒を叫んでもおかしくはない。寧ろそうあることの方が当然と思えるのだが、肥後に始まり広がったのは天草。あり得ないとは言えないことであるので、やはり言葉としては不可思議に思える。といったところだ。
「弾正尹様」
不意に、四郎が俺に対しかつての官職名を呼んだ。こういう時に冗談を言う男ではない。恐らく、石川五右衛門として津田弾正尹に伝えねばならぬことがあるのだろう。
「どうした、五右衛門」
「これを」
そう言って四郎改め五右衛門が差し出してきたのはやや古びた紙であった。差出人は十兵衛殿と、斉天大聖。此度三七郎の両脇を固める二人だ。そして日付を見て驚いた。天正二年。四年前の日付である。
「二人の連名にて『弾正尹様』宛てか」
天正二年といえば今話に上がっている九州を平定した年のことである。それまで苦戦を強いられてきた一向宗を味方とすることで大友家を追い詰め、小早川隆景殿の才覚によって龍造寺家は降せた。しかしそれ以外の九州諸勢力に対しては悲惨とも言える殲滅戦を行った。父の強い意向であり誰もそれに逆らえなかった。というのは言い訳である。命じたのは俺だ。多くの罪なき命が失われたと思っていたしそれを肯んじてもいた。だが。
「『弾正尹様の指図通り、降兵は逃し、降将は捕え、摂津、近江の寺にて謹慎』……」
文の内容、その一部を声に出すと、手が震えた。摂津近江と言えば当時の斉天大聖と十兵衛殿の領地である。その後十兵衛殿は旧島津領の大半を得、斉天大聖は播磨を領地に加えた。
「誰が描いた絵図であるのか」
その文を読めば、何をしようとしているのかはよく分かった。頑強に抵抗していた島津家や、先に述べた九州中部以南の領主たちを懐柔し、両軍の被害を少なくした上で早期に戦を終わらせようと父を抜きにして降伏勧告をしたのだ。九州勢の頑強さは偏に父が父らしく妥協のない殲滅を求めたからに他ならない。室町の府が如き脆弱な政権としてはならぬという英断であったのは認めるが流れた血が多すぎたのも事実である。
「小早川様にて」
「所以は?」
「天正二年のうちに戦を終わらさんとしたため」
「なるほど」
そうであったなと、当時を思い出した。天正二年、毛利家が織田家に降伏したのは8月のことであった。そして、領地没収という父の決定を俺が伝えた時、本年中に九州を平定した暁にはその功を持って所領を得たいと申し出てきた。俺は毛利本家に安芸一国を、小早川家には周防一国を約束し、そしてその約束は果たされた。
「年内に戦を終わらせる為、織田家の中でも柔軟なお二人を懐柔したか」
二人とも人を殺すのではなく、生かし、そして活かすことを好む人物である。だからこそ頼ったのだろうが、それにしても随分と危ない橋を渡ったものだ。俺すらそれを知らなかったのだから、もし露見していれば改易は免れまい。元々しくじれば改易であった小早川殿であったからこその賭けであろう。
「そして弾正尹たる俺が、これを命じていたのだという文を今から認めて斉天大聖と十兵衛殿に送れば、3名皆『命令に従っただけである』という言い訳ができるわけだな」
「御意。謹慎となった諸将は既に一揆勢の中に紛れ、織田の後詰めが到着すると共に内部を撹乱するとのこと」
最初に俺が問うた、何故島津旧領にて一揆が起こらないのか、についての答えが出た。彼らが窺っていたのは織田に反攻する時ではなく、旧主の復活と共に武功を上げ、織田の天下の中で再び返り咲くことであったのだ。
「一条中納言様は既にこのことをご承知の上、両将の着陣と弾正尹様よりの文をお待ちです」
「なるほど、よく出来ている。3つの知らせと言ったが、本来これが1つめであるなあ」
忠三郎が言っていた。察するということに長けていない織田家の男どもの内、父と勘九郎を除けば三七郎だけは俺の死について裏があることに気がついている様子であったと。その上で、4年も前の企みについて黒幕的な立場にあった二人が副将であるのだ、正直に言って、一揆勢が可哀想になるほど計算通りに見える。
「分かった。すぐに文を書こう。島津を初めとした九州勢力の者たちの降伏を認め、公には殲滅したものとして捕らえ、領内にて蟄居、謹慎させるべしと。三七郎に対しては、俺が二条御所に戻った頃に書いたものとした方が良かろうな。西国の仕置として惟任、羽柴両名に命令をしていた。以後はこれを引き継ぎ良きにはからえ。といった具合か?」
こうすれば二人は俺からの命令に従っただけであり、断ることは出来なかったという言い訳が立つ。死人に口なしだが、死人に罰を受けさせることも出来まい。万が一父の癇気を被っても、三七郎は父上ともやりあえる人材だ。それがあったおかげで此度の征伐が上手くいったのだと言い返してくれるであろう。
「一つ問いたいのだが、この計略について、五右衛門たちはいつ知った?」
小早川殿、十兵衛殿、斉天大聖。誰であっても当然、この話が外に漏れることを恐れたはずである。俺とて当時は天下統一に焦っており残酷な仕儀を仕方ないと割り切っていた。だからこそ今まで知らずにきたのだ。
「我らには一年半もの間弾正尹様横死の真相を調べる時がありました。又、弾正尹様の思し召しにより当座の資金には事欠くこともなく、志を同じくする山中鹿之介様、林新次郎様、松下嘉兵衛様、前田蔵人様ら、協力者もおりました。我らから隠し通せる密議などございませぬ」
背筋が冷えるほどのことを言い切られ、思わず唾を飲んだ。この者たちの忠誠を得られていることは俺にとって余りに大きな武器であるが、もしその忠誠を失うようなことをしてしまったら、とは想像するだに恐ろしい。
「た、大儀であった。苦労をかけるな」
「もったいないお言葉」
「今回の旅路でも色々と苦労をかけたな。反省している」
「いえ、拙者も弟弟子という立場にて多くの無礼を働いたものと」
「いやいやそんなことは全くない。俺の方から求めたのだ。それよりも、これまでのことで俺に少しでも不満や遺恨はあるか? あるなら直言を認めるぞ」
「……いえ、直子様共々奔放すぎるが故に危うく思うことはございますが、不満や遺恨などということは滅相もないことです。百地丹波以下、皆殿に忠誠を誓っており揺らぐことはありませぬ」
本当に? 信じたぞ。突然出奔、ならまだいいけど、俺と仲悪い奴のところに行ったりしないでよ。竹中とか。
「は、話を進めるが、父上はこのことについて既に知っておられるのか?」
「いえ。一揆の鎮圧をもって中納言様がお伝えするとのことにございます。大相国様は此度東西の火種を叩き、その後太政大臣にお登りあそばすご予定にございますれば、恩赦を賜りたいというのが中納言様、あるいは惟任様、羽柴様のお考えかと」
うん、と頷き、東西の火種という言葉について考えた。此度関東においては小田氏治殿が旧領奪還を諦め国替えにも応じると言った。伊達と最上の小競り合いも大乱となるよりも前に納め、既に両当主が安土へと向かっている。父の太政大臣就任には出席するのであろう。となると、東にある火種が残っているとすればさらに北である。そこに越後が加わると多少以上に面倒になるが、仮に最悪の可能性全て引き当てたとしても、織田家が揺らぐとは思えない。
「……此度の法度収集の旅は、塵芥集を得るをもって仕舞いとすべきかもしれないな。考えていた以上に成果もあった。三七郎らへの文を送り、急ぎ長島へ戻るか」
夜叉九郎に聞いてみたところでもこれ以上北にめぼしいものはなさそうである。出来れば戸沢家の居城角館城を見たくもあったが。
そのように考え、ともあれ三七郎たちへの文を書き上げた翌日。『鯰尾より狐尾へ』という文が早馬で届けられた。
『北畠大納言様御出馬。当方先陣として狐尾と合流せん。ご当地以北の情勢を調べ、お教え願いたし』
本文にある通り、塵芥集の他は目ぼしいものが見つけられなかったので、
最初のテーマからするとここで帰宅が正しいんでしょうが、
せっかくなので最北端まで行ってもらいます。
結果、今月29日までいきます。




