鬼姫
「先手を打たれたのお」
研いだ刀の波紋を、鍔に顔を寄せて見詰めながら雲八爺さんが呟いた。
「我々のみ逃げるというだけなら、出来なくはありませんでしたが」
手製の竹水筒に不備がないか、ひっくり返したり振ったりしながら確認している四郎が答えた。
「3人だけ逃げ出して戸沢家の者らを放り出すわけにはいかなかった。それに、直ちに逃げ出してしまえば書状も書けなかっただろうし、旗竿の用意も叶わなかっただろう」
と、己に言い聞かせながらも不機嫌な声を漏らしてしまう俺を見て、二人が一度手を止め俺の顔色を伺った。
「まあ、取っ捕まったわけではなくあくまで客人である。護衛という名目で人は付けられるが、四六時中見張られているわけでもない。四郎は人を動かせておるのであろ?」
「はい。取り急ぎ鳥の尾に出来うる限りの人をと。文は兄弟子が書き、急ぎ人を走らせております。足元の悪い道であれば早馬よりも早く届くでしょう」
「ならば、今のところ悪くはない。戸沢の者らは宿が良くなったと喜んでおるし、夜叉九郎も伊達の子らと混じって勉学に勤しめておる。伊達最上の対陣が長引いている間に人が集まり、その間に準備を終え、そうなった時に初めて動けば良い。焦るなよ。帯刀」
「焦っているつもりはありませんが」
やりたいと思っていることが出来ないのはなかなかにもどかしい思いだ。雲八爺さんに言われた通り、今の俺たちは人質ではなく賓客ではあるが、この場にいて出来ることが出来ぬということが酷く窮屈に思える。
「誠に思案すべきは、鳥の尾が大急ぎで人を集めてくれたちょうどその時に両軍が引き上げた、などという場合についてかもしれんぞ。集められた者どもは飯も食らえば金も要るであろう」
「それについては鯰尾という財布を持っておりますので懸念不要です」
不機嫌なまま言うと、雲八爺さんが大笑いし、四郎もまた苦笑した。尊敬する義兄に信頼され、忠三郎も泣いて喜ぶことだろう。
「意外とせっかちじゃの、お主は」
「親譲りですな」
「どちらの親じゃ?」
「どちらも」
もう一度雲八爺さんが大笑いし、厠にいく、と言って部屋を出た。俺はため息を一つ洩らし、いざという時のために予めでっちあげておくことにした文を書き出す。父の筆跡らしき一枚は既に書いた。今書いているのは勘九郎のものだ。
「兄弟子、人が来た」
しばらくそうしていると、黙って何かまた別のものの手入れをしていた四郎が静かに呟いた。返事をせず、俺は静かに今書いていた途中であった紙を持ち上げ、隠す。同時に四郎が硯と筆とを仕舞い、足音がはっきりと聞こえてきた頃には俺の文書偽造の痕跡は消し去ることが出来た。
「この足音は師匠のものでは?」
「あえて大きく足を鳴らして聞こえやすくしている。すり足に近い歩き方の、女性が5人後ろに続いている」
耳をそば立てて近づいてくる相手の様子を伺ってみたが、流石の四郎というべきか、微塵も迷いのない答えを返され、俺は感心した。程なくして部屋に近づいてきた雲八爺さんが、廊下を歩きながら俺たちの名を呼んだ。
「貴婦人が参られたぞ。小洒落た菓子などを用意せい」
「そんなもの始めからありません」
「そうであったなあ、わははは」
普段よりもわかりやすく、大声で冗談を飛ばす雲八爺さんであったが、どうも少々困っている様子であった。そしてその理由は、雲八爺さんの後ろに続いてやってきた人物を見てすぐにわかった。何度か会い、そして話もした。伊達家当主輝宗公の妻、義姫様である。
「客人はそちらです。何か用意させるのはこちらがせねばなりません」
言いながら、後ろに続いていた女中に目配せを一つ。睨みつけられるように強い視線で見据えられたその侍女は、深々と頭を下げたのちほとんど小走りに近いような素早さでその場を離れていった。以前お会いした時にも気が強そうな美人だとは思っていたが、こうして真顔になっているとより一層その印象が強まる。気が強そう、の部分が特に。
「御三方にお頼みしたいことがございます」
俺たちが居住まいを正し、雲八爺さんがどかりと座ると、何の前置きもなしに彼女は話を始めた。菓子や茶を待ち、世間話などをしてから本題に、などというつもりは些かもない様子だ。
「取り急ぎ、かき集められるだけの兵馬を私に貸しては頂けませんでしょうか?」
話のまくら、などというものを考えていない様子の義姫様は同時に、相槌などというものも別段必要がないようで、呆気に取られている俺たちがさらに呆気に取られるような話を続けた。
「5人でも10人でもようございます。もちろん100や200となればもっと良いですが、大島様にはその兵を率いて頂き、弟子の御二方にもその手伝いをして頂きたく」
「あいやしばらく」
呆気に取られているとその間に話が全て終わってしまいそうな義姫様を止めるべく、雲八爺さんが口を挟んだ。それとほぼ同時に、大急ぎで戻ってくる先ほどの女中の足音を聞きつけた四郎が立ち上がり、一旦間を置くべく、俺たちはその場の者達の前に茶や菓子が並べられるまでせかせかと動くのであった。
「それで、あー、何でありましたかな?」
「戦場へ向かうため、兵を欲してございます」
己の前に置かれたものに手を付けるつもりなど一切ない様子で、切り込むように言い募ってくる義姫様。後ろの女中達にも一切笑顔はなく、冗談を言っているようにはとても見えない。そんな中、それまで義姫様にやや気圧されていた雲八爺さんも顔から笑みを消し、舐めるように僅かに、茶を啜った。そうして腕を組み、義姫様とその後ろの女中たちを睨みつけるように見回してから一言。
「訳を、聞かせていただこう」
短く重々しい一言であった。だがその言葉には一切のごまかしや嘘は許さぬという意思が込められているかのようで、それまで挑みかかるような表情を作っていた女中達が軒並み気圧されるようであった。そんな中唯一気圧されず、雲八爺さんの言葉を正面から受け止めた義姫様は寸刻の間も開けることなく言葉を返した。
「戦を止めたいのです」
「何故故か?」
「最上は妾の実家であり当主は我が兄。伊達は妾が嫁いだ家であり当主は我が夫。どちらも妾が愛する家にございます。両家が争うことを止めようとすることが何故不思議でございましょう?」
その言葉を聞いて、雲八爺さんが笑った。先ほどまでのとは違う、低く獰猛な声で、腹の底から響かせるような声であった。
「いかにもその通りじゃ。愚かな問いであった、許されよ」
「滅相もございません。して」
「兵にござるな。否やとは言わぬが、しかし我ら見ての通り軍勢と呼べるほどの数はおり申さず」
「構いませぬ。先に申し上げた通り、一人でも多くの兵が欲しいと思っております。戦場に着くことさえ叶うならば槍働きをせよと申し上げるつもりもございませぬ」
「槍働きは不要とは面妖な。ならばなぜ兵を求められるのか」
くぐもった声を出す雲八爺さん。確かにおかしな話だ。兵を率いて戦場へと向かう。しかし戦うつもりはない。それこそ初陣で戦場の様子を見聞する若君のようだ。しかしこの義姫様の様子からしても置かれている立場からしても、物見遊山のつもりで戦場へ出ようとしているわけではないことは明らかである。
「申し上げました通り、最上も伊達も妾にとって守らねばならぬ大切な家にございます。さればこそ、妾は戦を止めに、戦場に参るのでございます」
「止めに、でござるか」
聞くものが聞けば、或いは言うものが言えば、思わず失笑してしまいそうな物言いであった。片方の大将の妹、また片方の大将の妻。確かに両家にとって最も影響ある女性であることは間違いあるまい。しかし戦は既に始まっているのだ。戦場にて相見え、合図があればいつなりとも戦いが始まるという段になってから戦いを止めて下さいと頼んだところでどうしてそれが受け入れられよう。仮に夫である輝宗公が一旦躊躇したところで、同じ説得をしに最上の陣まで向かい兵を引かせるのはいかにも無理筋である。
「無礼を承知で申し上げるが、女子の言葉によって兵を返すほど、大将というものの背負うものは軽くござらぬ」
俺が思っていたこととおおよそ同じようなことを、雲八爺さんはより直裁に述べた。背負うもの、というのは確かに良い言葉選びであっただろう。仮に義姫様の言葉が大局的にみても正しく、輝宗公が納得し、翻意したとしてもそれを見ている将兵がいる。たかが女の言葉によって考えを改めるとは、と身内に侮られてしまうのは、場合によっては勇敢に戦って敗戦するよりも危ういことである。
「言葉によって兵を引かせるつもりなど毛頭ございませぬ。兄や夫が背負うものの重さもよく知っております。妾は私の身をもってその覚悟を示す所存」
「覚悟とな?」
「最上と伊達が相見える戦場、その戦場の只中にまで、妾を乗せた輿を運んで頂きたいのです。戦がしたいのであれば結構。私は両家が争う様子など見たくはない。どうしても戦がしたいのであれば妹を、妻を蹴散らし、踏み殺した上で争って下さいませと、その覚悟を示すのです」
思わず絶句する雲八爺さんという姿を、俺はその時初めて見た。当然のことであろう。もし話をしていたのが俺であったとしても、その鬼気迫る覚悟を受けて言葉を失ってしまったはずである。実際、横で話を聞いていただけの俺は言葉はおろか考えることすら出来ず唖然としていた。
「くくく……ふっふっふふ、ふははははは!!」
やがて、その沈黙を打ち破ったのは雲八爺さんの大笑いであった。膝を打ち、柏手し、天を仰いで、額を叩く。絵に描いたような呵々大笑。城中あまねく響き渡っていそうな笑い声の中でも、義姫様は微動だにしなかった。
「見事なお覚悟! この雲八、感服仕りましたぞ! 畏まった、是非同道させて頂きたい! 仮に他の男どもが金玉を縮み上がらせ戦場に向かえぬと言ったとしても、この老耄一人でも義姫様の輿を背負い、見事戦場の真ん中にお運び申し上げなん!」
「忝うございます!」
そうして雲八爺さんの言葉を受けた義姫様とその後ろの女中達が、初めて顔を綻ばせわっと歓声を漏らした。この反応を見るに、後ろの女中達も相当に覚悟の決まった女傑揃いなのであろう。或いは輿入れの際に義姫様と共に伊達家へとやってきた者たちなのかもしれない。
「帯刀、四郎。直子様にお伝えせよ。この雲八、当代随一の女傑と知遇を得、その壮挙に合力するを決めたと。直子様の命に背くことになるやもしれぬが、後にでも罰は受けよう。切腹でも打首でも構わぬ」
グルリと振り返り、一息に言い切られた。直子様に伝えろ。とはいうもののその実伝えたいのは俺にであろう。この旅の道中常に師匠という立場を崩していなかった雲八爺さんではあったが、実際のところでは全て俺の指図や意向に従ってくれていた。その俺を無視して、己一人であったとしても死地に赴くと言っているのだ。余程義姫様の覚悟に心打たれたらしい。まあ確かに、いかにも昔ながらの戦人が好きそうな話だ。直接文を届けろというのは、俺たちにまで危ない橋は渡らせられないという心遣いだろう。
「はい、あー、いや、しかし師匠」
「言うな帯刀、わしはもう決めた。おお、そうか、塵芥集であるな。姫様、もしこの老耄が戦場にて倒れたならば、此度の働きに免じて塵芥集を一つ頂戴したい」
「御意にございます」
「いや、そうではなくですね」
話の進みがあまりに性急すぎる。考えが追いつかずともあれ一旦話を止めねばと思っていると四郎から助け船が出された。
「師匠、直子様に出した文が、もう直戻ってくる頃ではありませんか? 上様のご意向もそれでわかるはずです」
この旅に出てから、母と定期的に文のやりとりはしていない。しかし表向きは原田直子の手の者という立場であるため、やることなすこと全て直子様の仰せのままに、という事にはなっている。大体のところは俺の意思ではあるが。
「おお、そうであったな。帯刀よ、これまでのやり取りについてはお主が文を持っておったな。もし陸奥で変事ありし折にはいかにせよと仰せであったか?」
四郎の意図を察した雲八爺さんが俺に問う。なるほど上手く俺に話を繋げてくれたものだと、俺は急ぎ止まりかけていた頭を回転させるのだった。
「は。いかな理由があろうと惣無事令が下された今、戦は起こさせてはならぬと。此度双方に言い分はありましょうがやはり戦は望ましくありませぬ。急を要するのであれば師匠自らが織田の兵を率いて介入すべしとは前回の文にて上様、大殿より下された命にございます」
「おお、そうであったな」
雲八爺さんがもっともらしく頷き、義姫様たちは再び歓声を上げた。織田の力をもってどちらかを潰す、ではなく、織田の名を持って戦いを止める、というのは義姫様にとっては渡りに船であろう。実際、こちらとしても戦は止めたい。そこに義姫様が合力する形になればどちらも大助かりである。
「されど、上方より兵を待っていては短く見積もっても2月はかかります。関東からでも急いで半月、1月かかるかもしれませぬ。ここは取り急ぎ人をかき集め、織田木瓜や天下布武の旗を掲げ戦場に向かうべきかと」
「うむ。義姫様、旗指物と布、それに人を雇う銭と馬などが欲しい。かかる銭は後から支払うが、今すぐ動かせるものはどれほどか?」
「直ちに蔵を開けましょう。旗指物も布も、あるだけ用意させます。馬は、どれほど残っているのか私は存じかねますが取り急ぎ調べまする。皆聞きましたね、急ぎますよ」
既に戦場の空気を醸し出している女傑義姫様は、すっくと立ち上がると素早く女中たちに指示を飛ばした。おうと頷いた女中たちも、私は布を私は馬屋へと駆け出すように散っていき、主不在の米沢城は意気盛んな女たちを中心として動き出した。
「いやいや何とも、烈女であったのう」
「困りますよ師匠」
「すまぬ。あれほどの心意気を見せられて考えさせてくれとは言えぬでな。しかし結局は良い方にまとまったであろう?」
「まあ、確かに」
人も物も金も都合がついた。それから間も無く、白く大きな布が俺たちの元に届けられ、明らかに日常使いできぬほど太い筆も持ってこられた。織田家の家紋である織田木瓜と、父の旗印たる天下布武、これらを俺は描き、義姫様らは最上家伊達家の家紋をそれぞれ描き、旗印とした。そうしている間に雲八爺さんと四郎が動き回って人を集め、急拵えながら何とか50名ほどの一団をでっち上げることが出来た。戸沢家の面々も従ってくれたので、万が一本当に戦に加わってしまうことがあっても義姫様が乗る輿一つを担ぎ上げて逃げるくらいのことは出来そうだ。
「わらわを止めたくば、その腰に提げた刀で切り捨てなさい!」
お待ちくださいと引き止める家臣たちを、輿に乗ったまま大喝した義姫様が出陣なさったのは、俺たちに助力を求めてきた僅かに2日後のことだった。
史実義姫様
政宗毒殺(未遂)→証拠なし
政宗との直筆手紙→現存多数
義光との直筆手紙→現存多数(これによって よしあき という読みが後世に伝わる)
現代に伝わる義姫様のイメージ
下の息子を可愛がって上の息子を殺そうとした悪女
すっごいかわいそう




