独眼竜と三本の矢
「はてさて納得、と言われましても一体何をどうすればご納得いただけるものであるか」
「そも、なぜ塵芥集を欲するか、問わしていただきとうございます」
どうも雲行きが怪しくなってしまったなと内心弱りつつ話を進めようとすると、虎哉和尚から言われた。
「何故欲するのか、それについては既に我等が大将大島雲八より伊達家のご当主様に話されておると存じますが」
「重ねて問わせていただきたく」
「わざわざ某に、ですか?」
「はい。大島様がおっしゃるには、此度帯刀殿が随行なされたのは原田家の中で最も文に明るいがため、ということでございます。仔細について更に訊くのであれば帯刀殿へとのお言葉も頂戴しております」
「ふむ……少々長くなりますが」
「構わぬ。知らぬ話を知りたいのだ」
不敵に笑って、一つの眼をこちらに向ける藤次郎殿。ちょうどその時外から歓声が上がった。そうしてそれに続いて雲八爺さんの雄叫び。あちらは楽しそうで何よりだ。こちらもまあ、楽しんでいるので不満はない。
「なれば、本朝において武家が長くまつりごとを差配していたことが二度有り。即ち鎌倉と室町。鎌倉の府には御成敗式目あり、室町の府には建武式目あり……」
そうして俺は既にこの旅の中で何度かした話を再度繰り返した。別段、隠すべき話でもなかったが、俺が話し始めると喜多殿がそっと立ち上がり、音もなく人払いをした。こういった一つ一つの所作や気配りが、男に生まれていれば文武両道の名将であったろうなと思わせる人だ。
「奥州においての御成敗式目として、塵芥集を欲すか」
一通り話すべきことを話すと、藤次郎殿が問うともなくそう言った。仮に『奥州一の名家とはいずこか?』と問えば、伊達家中のものは皆一様に『当家をおいて他になし!』と答えるであろう。だが、同じ問いに当家なりと答える家は恐らく数多い。その中でもまず一つ挙げさせていただきたい家に大崎家がある。この大崎家こそ、源氏に連なり、伊達家よりも以前には奥州探題職を拝命していた名家である。
伊達氏は足利が認めた奥州探題職世襲の家である。とはすでに述べたとおりだが、実のところその歴史は短い。そもそもが、伊達の本姓は藤原北家である。足利は当然源氏であり、繋がりはないとも言えないが薄い。不自然とも言えるこの状態はどうして現実のものとなっているのか、それは伊達氏が奥州探題を頂戴したというよりは、勝ち取った家であるからと言えよう。
ことの始まりが正しくいつであるのかは定かではないが、いずれの御時にかは分かっている。即ち14代伊達家当主、伊達稙宗公の御時。
稙宗公御歳30代の半ばごろ、伊達家の家勢凄まじく既に大崎家を遥かに凌ぎ、陸奥国において並ぶものなしというところにまで来ていた。内には家臣を城下に住まわせ権勢を集め、外には度重なる婚姻により多くの家を同盟、従属下においた。そうしてその実力を背景に、稙宗公は我こそふさわしいと時の幕府に対し奥州探題任命を求めた。この要求に、幕府中枢は大いに頭を悩ませたであろう。当時の家勢はどうあれ元々の家格そして足利氏との繋がりの深さを鑑みれば大崎氏を軽く見、奥州探題職を取り上げるなどということはとても出来ない。そうして捻り出した苦渋の策こそ、現在までにたった一人の任命者しかいない守護職、陸奥国守護である。
本来存在していない守護職の拝命。家格の上昇には成功したと言えなくもないが稙宗公はこの裁定を受け大いに不満であったことが伺える。なぜなれば、守護職拝命の後、伊達家からその返礼がなされた記録がなく、同時に稙宗公が己を陸奥国守護と称した様子もない。つまりは無視を決め込んだのだ。時に大永二(1522)年。既に没落しつつあった幕府の権勢をさらに下げ、戦国の世これより本編を迎える、そのような時勢にふさわしい出来事であり、稙宗公の気性の荒さが窺える出来事でもあった。
願いこそ聞き届けられなかったがしかし、稙宗公の快進撃は続く。居城を西山城へと移して更なる中央集権を推し進め、先に名の上がった大崎氏に内乱が起こると、大崎氏の要請に答える形でこれを鎮圧。代償に次男小僧丸、後の義宣を入嗣させた。陸奥国守護職拝命に先んじて、羽州探題を世襲していた最上家も傘下に取り込んでいた稙宗公は、これをもって奥州・羽州両探題家を服属させたこととなる。そうして内外に力を示した稙宗公が著したものこそ塵芥集である。
「さにあらず」
しかしながら、俺は塵芥集を御成敗式目や建武式目と同じものとして欲したわけではない。
「こちらからも問わせていただきますが、当代において塵芥集は伊達家中にて十全に扱われておりましょうか?」
「これは……」
「我が家中の恥が、上方まで知れ渡っているとは何とも面目の立たぬことよ」
俺の問いを受けて、察しの良い師弟はそろって苦笑を浮かべた。疑問、というよりは反語として使った俺の言葉通り、塵芥集が伊達家中において布告されていた時は実に短い。切っ掛けは三男、藤五郎実元の上杉家入嗣であった。奥羽二州に加え、越後守護上杉家への触手を伸ばした稙宗公は、突如として家中の内紛により幽閉される。下手人は誰あろう嫡男晴宗公であった。一時は寵臣小梁川宗朝によって助け出され、これまでに練り上げてきた婚姻関係を軸とした同盟、通称洞を背景に全面対決の姿勢をとり、骨肉の争いが繰り広げられる。しかし皮肉にも、この戦いで伊達家中の者は総じて晴宗派であり、稙宗派はごく限られていた。結局最終的に稙宗公はかつて己が袖にした幕府の仲介を得て降伏。幕府は僅かながらもその権勢を回復させ、大崎・最上両家は伊達家より独立。同様に婚姻をもって屈服させていた葛西・相馬・蘆名・二階堂などの諸氏も伊達に対しての従属から脱した。上杉家への入嗣も当然ご破算となり、こうして奥羽二州に越後までを巻き込んだ大乱、世に言う洞の乱は終結する。塵芥集の制定から洞の乱に至るまでにかかった時間は僅かに6年という短さであった。その後洞の乱の勝者たる晴宗公は御公儀より伊達家として初めての奥州探題の職を頂戴された。誠、皮肉極まる話である。
「洞の乱を恥とは思いませぬが、しかしながら塵芥集を御成敗式目や建武式目と同じようには扱うことはありませぬ」
「ならば何故、使われもしなかったものをそうまでして欲する?」
「人は失敗から学ぶものでございます」
あえて誤魔化すことをせず、俺はハッキリと、塵芥集について失敗作であると述べた。不快に思われたかもしれない。しかし仕方がない。納得をさせろと言われたのだ。本心を述べる。婚姻をもって奥州に覇を唱えた一代の英傑。その英傑が作り上げた一世一代の失敗作だからこそ、後世に活かせるものが必ずある。
「例えば、此度の旅路にて我らが得た結城氏新法度というものがございます。こちらは余りに奔放が過ぎる家臣連中を最低限御そうとした結城氏の当主政勝様が家中の者たちから話を聞き、練り上げたものでございます。また、六角氏式目というものもございます。こちらは更に問題があり、当主六角家に対して家臣たちが強訴、いわば脅しに近い形で作らせたもの。同じ法度や式目と言っても成立するまでにはこれほど違いがあるのです」
「……成る程、さしずめ塵芥集は唐国で言う皇帝が己一人で作り上げた独りよがりの自己満足。と言ったところか」
ともすれば危険とも思える物言いに、喜多殿が不安そうな目を藤次郎殿に向けた。実のひ孫がそう言うのであればそうなのかもしれないが、実際のところはまだ俺にはわからない。
「我が曽祖父は、この藤次郎が生まれる2年も前に亡くなっておる。故に直接話をしたことはない。しかしお祖父様や父上、その代の家臣達から聞くに、人の話を聞かず己の言うことのみが正しいのだと憚らず、その周囲にあるもの皆憎まざることなし。という、碌でもない老人であったと聞き及んでおる」
それはまた、何とも答えづらい、実に手厳しい言葉だ。俺のようなものに話してよかったのだろうか。
「そちらも本心を語っていただいたように思うのでこちらもありのままを話すが、聞く限り出来上がるまでの道のりとしては六角家式目の逆であるな。強きに過ぎる主人が無理に押し付けた。六角家式目は弱きに過ぎた主人が作らされた。結城氏新法度がその間、と言ったところか」
言われてみれば、と言ったところである。成立ののち、六角家は他ならぬ父信長によって滅ぼされ、伊達家は現在まで続くが成立した者とその勢力は事実上亡くなった。二家に比べ国力の劣る結城氏だけは、結城氏新法度を使い続け、今も細々とながらその勢力を保っているのは、まるで法度の出来が時代によって答え合わせされているかのようで実に面白いことだ。
「ふむ。如何したものか」
「折角殿が若様に一任して下さったのです。大いにお悩みになるが宜しいでしょう。曇りなき眼で見定め、お決め下さい」
悩む藤次郎殿に対し、虎哉和尚はその背中を押すような言葉を投げかけた。現在の伊達家当主、輝宗公に対し、俺は目通りをしていない。代表者として雲八爺さんが出向き、伊達領にいる限り不便はないと言われ帰ってきたのみだ。考えてみれば、幾ら元服を済ませた嫡男とはいえ、当主ではないのだ。全ての差配を己の手で進められるはずもなし。当主輝宗公の許しを得た中で、信頼に足る片倉家を使って、虎哉和尚の監督の元、『儂が納得せぬうちは塵芥集は渡さぬ』なのであろう。
「こちらは腹蔵なく本意を語り申した。塵芥集、写本でもかまいませぬ。一部頂戴出来ましょうや?」
「否とは申し上げぬ。しかしまずは喜多との約束をそちらが守ってから」
藤次郎殿が頷くと、少し離れて座っていた喜多殿がうんうんと小さく頷いた。嬉しそうだ。
「抜け落ちていた2巻は勿論のこと、続きとなる6巻についても。帯刀殿が書き出すでも良い。手間というのなら一度皆の前で語ってくれればこちらの者がそのまま書き出そう。必要なものは用意する。手間賃も出そう。如何か?」
既にしていた約束である。委細承知と頷けば、書き出しは私がやりますと喜多殿が手を上げてくれた。
「若様もあの話が好きなのですか?」
「好きか嫌いかで言えば好き、であろうかな。喜多に読んでもらったが、面白かったと思う。だがそれだけだ。何度となく読み返そうとは思わぬ。それでも上方で流行っているのならば蒐集せねばならぬ。舐められてはならぬからな。そうであろ?」
藤次郎殿の問いに、虎哉和尚が然り然りと頷いた。
「上方衆にも、奥羽の者共にも、遅れをとってはなりませぬ。古今東西の書物、名物、人材、奥羽二州において伊達家よりも質良きはなし。又、量多きもなし。そう言われてこそ奥州探題に相応しい御威光が若様のものとなります」
温和な人となりに見えていた虎哉和尚がそのように言ったので少々驚いた。しかし考えは正しい。箔を付けるのに手早いのは名と実、そして物を得ることだ。既に奥州探題という名は持っている。それに相応しいだけの兵や民という実もあろう。俺が著した書がその名や実に見合うとは思わないが、枯木も山の賑わい。蔵書として本棚の肥やしになるくらいならば相応しかろう。
「伊達家の若様はしっかりとしておられる。伊達家の行く末は明るいですな」
話がまとまり、俺は肩の荷が降りるような心持ちで言った。阿りではない。本当にそう思ったのだ。俺自身、幼い頃より大人びているとか落ち着いているとかいう言葉は聞き飽きるほど聞いてきたが、なるほど己の体が大きくなり切ってから見る大人びた子供はこういうものなのかと感心しきりだ。
「いや、こちらこそ上方には人がおるものだと驚いておる。儂が言うのも何であるが帯刀殿はまだまだお若い、四郎殿も若く学識確かだ。これだけの人材が多くいるのであれば陸奥が遅れをとるのは当然。文においては帯刀殿が原田家中一と聞いて多少は安堵したが」
「はい……あ、いや正しく言うのであれば家中一は某ではありませぬ。原田直子様その人にございます」
正直な気持ちで、俺は述べた。俺は書を読むときに頭のどこかで『役に立つか』というところを考えて読んでしまう癖がある。一方で母はただただ楽しいから文章を読み、知識を頭に入れ、面白そうなことを考えつく。持論であるが、本心から好きで行っているものには決して勝てない。そういった者たちは努力をしているつもりもなく、心をすり減らしながら何かを詰め込んでいるわけでもないのだ。ただ楽しくて行っている。そうである者が常に1番になれるのではなかろうかと俺は思う。
「そうか、伊達家中一の才女である喜多でも敵わないかもしれないな」
「私など足元にも及ばないことと存じます」
喜多殿があっさりとそう述べたが、それだって適材適所というものだ、母は楽しみが先に出る余り人に合わせて物事を教えることが不得意である。己の趣味に走ってつい詰め込み過ぎてしまう俺もそうだが、抑えが利かない。喜多殿は誰に対してもそれなりに正しく導くことができそうな人柄である。
「いずれにせよ我らは上方に遅れを取っておる。もとより儂は誰もが当たり前に具備しておる眼が一つしかないのだ。その他について尋常のままでは侮られてしまう。帯刀殿も、手を一つ具備しておらぬからこそ、一層学に励んだのであろう?」
「左様でございますね」
いや、別にそんなこともないな。頷いておくけど。
「戦に強ければ独眼竜などと恐れられもしようが儂が立てられそうな武功がもう残っておらぬ」
「李克用もご存知とは」
あまり他人の口から聞くことのない武将の名を聞き、そのようなところも学んでおるのかと、再び感心した。五代十国時代の初め、同時代の英雄朱全忠と覇を競った突厥佐陀族の軍閥指導者である。
「我が師から教わった」
「左様ですな。子息の李存勗と併せ、五代の王朝随一の名将でございましょう」
「知っている」
俺は誉めたつもりで、藤次郎殿は頷いたが、しかしその顔は面白くはなさそうに見えた。なるほどそういえば、知っていることはつまらぬ、知らぬことで興が乗るのが楽しい。というようなことを言っていた。
「困った顔をしておるな」
ならば彼の独眼竜について、もう少し詳しく話をしてみようかと思い立ち、しかしながら思い出したことを口にすることができずに黙っていると図星を突かれた。そう、困るのだ。独眼竜と恐れられた李克用、そしてその息子で五代の二国目である後唐を打ち立てた李存勗、正直に言って二人とも、戦に強い以外に誉められるところがない。戦には強いが外交手腕に劣り、常に朱全忠に対し後手に回った李克用。ならばその朱全忠の後梁を打ち破った息子李存勗について語ろうとしてみれば、彼は父に輪をかけて戦に強く、そして父に輪をかけて内政外交統治に政全てがお粗末な暗君であった。三国志演義において語られる呂布を、長所短所共に倍に引き上げれば近いと言えば説明出来るが、しかしそれを言うのも憚られる。
「死の床において息子李存勗に向けて、己を苦しめた3名の仇敵を討滅するために三本の矢を手渡したという話は、誠武門の誉と言えるものではないでしょうか?」
それでも何とか搾り出して話をしてみると、藤次郎殿と虎哉和尚、二人して感心したような顔になった。
「やはり帯刀殿は博学であるな。では、儂は一つ帯刀殿に頼みをしよう。儂が知らぬことで、儂の後学のためになる講義をしていただきたい。その授業料として、当家において最も状態の良い塵芥集を差し上げよう」
そうして話の最後、ちょうど良い難度の頼みであろうとばかりにそう伝えられ、その日の講義、そして話し合いは終了した。
片手の人間としての描写がないのでは? というご感想をいただきました。
確かにそうだなと思い、九尾編ここまでの話に描写を加えました。
何らかの叙述トリックや別世界線という話ではありませんので、
とりあえず気にせず読み進めてくださったらありがたいです。
もし左手を普通に使っているような描写が残っていたら修正漏れですので教えてください。




