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信長の庶子  作者: 壬生一郎
九尾編
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武家の教養

「山高きが故に貴からず。樹有るを以って貴しとす。人肥えたるが故に貴からず。智あるを以って貴しとす」

実語教の一節を読み上げながら、居並ぶ人々を眺めた。寺子屋よろしく、文机を並べ置かれた部屋の前列には喜多殿が連れて来られた女房衆。その後ろに片倉家の男たちが並び、さらにその後ろに戸沢家の面々が座る。喜多殿と小十郎殿は室内を見渡せるようにと最後尾に、九郎よりも一つ二つ年下と思える男児や、明らかに学識深い様子の僧を連れて座っている。講義を始めてより間も無く、静かに喜多殿が連れて来られた二人だ。


「博学なる片倉家中の方々には(いささ)か物足りぬと存じますが、少々お付き合いください」

ある程度読み上げ、それを復唱させを幾たびか繰り返したのち、後方の男たちに頭を下げた。幸いなことに、退屈そうにしているものはいない様子だ。


「此度は姉上たち女房衆へのご講義にございますればお気になさらず。気ままに聞かせて頂いております」

そう言って下さったのは小十郎殿。最後尾からの一言なれば、その言葉は室内の全員に聞こえただろう。


喜多殿から講義を依頼された翌日、俺は講義の内容について問うた。まずは字の読めぬ者であれば男には太平記や平家物語を、女には落窪物語や源氏物語を読み聞かせることで文学の面白さに触れてもらいつつ、かの有名ないろはうた、あるいはあめつちうた、などでかな文字を覚えるが良い。読書が出来るというのであれば武家の子の必修は実語教ないしは童子教。三註より千字文、そして庭訓往来が良い。それらについて一応の習熟を得た者であれば四書、更に高みに登りては六経を軸に学ぶ。足利学校や五山においても珍しからぬ流れであろう。


このような流れを簡単に紙に書き付け、どこに合わせて話をすれば良いかと問うと、喜多殿は武家の子に向けての講義をと言ってきた。大の男たちが集まるということではあるが、皆が皆幼い頃にしっかりと勉学に励んだわけではない。女子供に合わせて講義を行うので、暇であれば男たちも後ろで聞いてゆくと良い。という名目にて人を集める。そうでなければ元服をとうに済ませた男たちが改めて学ぶ場を設けることは容易くないとのことだ。成る程、知らぬことを知らぬと言えぬ、男どもの無駄に高い誇りが学びの邪魔をしているということか。先に手に入れた結城氏新法度においても、条文は仮名混じりの書き下しであり結城政勝殿をしてなお、漢文のみでの条文作成は困難であったことが窺えた。俺とてこの講義に向けて予習を行い、抜け落ちていた知識などを思い出させることに難儀したのだ。武家の子が勉強を嫌がって、結果己の(いみな)程度の漢字しか書けないまま大きくなった。などということは恐らくいくらでもあるだろう。


「問うは一旦の恥。問わぬは末代の恥」

身につまされる話であると思ったので、俺は今の心情と一致する格言を述べた。四郎に和紙を広げてもらい、かな文字を混ぜた書き下し文を認め、皆に見せる。当代においてすら、かな文字を女手と馬鹿にする者がいるが、漢籍を書き下すために坊主が編み出したものがカタカナなのであり、その出典も万葉仮名でひらがなと同一である。やろうとしていることが同じであるのに『女が作ったから』という理由で馬鹿にする方がよほど愚かであると俺は断じたい。


「この言葉の意味が分からぬ方がおられましたら、一旦の恥を忍んで問うて頂きたい」

まあ、大体誰でもが分かるであろうとは思うが、誰も手を上げなければ四郎あたりを指して答えてもらおう。などと思っていたところ喜多殿が連れて来られたご僧がゆっくりと手を上げた。


「お恥ずかしながら、聞いたことのない言葉にございます。是非その意をご教示願いたく」

そうして問いを発したことで、前に座っていた者たちの多くが驚きを持って振り返った。見た目通り学識深く、それでいて名のあるお方なのだろうか。


「されば、分からぬことを分からぬと問うことは、己の無知が周囲に知られてしまうことにほかなりませぬ。これすなわち一旦の恥。しかしながら恥かくを恐れ何も問わずにいれば、知らぬままその生涯を終えてしまいます。さすればいつまでも智は身に付かず、子孫の代まで恥を隠して生きてゆかねばなりませぬ」

「成る程、山には樹、人には智。さしずめ問いとは肥やしのようなもの、ということでございますな」

「お見事な解釈かと」

問いに対して答えたというより、問答をもってして教えを受けたような心持ちになった。やはり大した御仁なのであろう。


「今ひとつ恥を忍んで問わせて頂きたく、先ほどのお言葉、誠に至言と存じますが、その出典は何処か」

そう問われて答えに窮した。俺も知らないからだ。なぜ知っているのかと言えば母から聞いたからである。母は『わたしここが一番面白いから』などと言って13巻明石を最初に読み聞かせるような野放図極まりない教育を俺に施した。故に今もって出典定かならざる事ごとが多くあるのだ。


「我が家の家訓にてございます」

という事でそう答えた。嘘ではなかろう。学ぶ上で大切な事であると思っているので子にも孫にも伝えていく気持ちが俺にはある。母から息子へ、そしてさらにその子孫へとつながるのであればそれは家訓と言って良いはずだ。


「素晴らしき家訓ですな。我が座右にもその言葉を置き、忘れぬよういたします」

そのように言って僧は俺に頭を下げ、その後は黙って講義を傾聴しておられたが、この方のおかげもあってかそれからの講義中にはいくつもの問いが投げかけられ、成る程そういう考え方もあるのかと感心させられること数度、中々に意義のある会となった。


「……本日はこのくらいでしまいにしておきましょう。皆様拙い講釈ではございましたがご静聴いただき(かたじけの)うございました」


合わせれば二刻(4時間)近くも話したであろうか。二度の休憩を挟み、時折茶なども供されたこともあり、長かった割には皆それほど疲れている様子でもなく、俺が頭を下げると皆手早く荷物を纏め、立ち上がった。俺も片付けをするべく壁を向く。本日の為に故事成語を清書し、壁に貼り付けておいた紙は、もう破れても構うまいと右手を伸ばした。だがそれより先に、四郎がサッと取り外し、近くにいた女性(にょしょう)に、まだ使えると言って手渡してしまう。俺としては長く持たれていても恥ずかしいのでとっとと捨ててしまいたいのだが。

十の指がなければ手間取ってしまいそうな仕事は取られてしまったので、使わせていただいた筆と硯を片付け、布で机を拭いた。そうしている間に横目で眺めてみれば、帰ってゆく男たちは皆先ほどの僧と、その横に座る少年に一言二言声をかけ、頭を下げて去っていった。どちらかといえば少年に対してより丁寧であるように見える。


「片付けなどはこちらで致しますので、どうぞごゆっくりなさっていて下さい」

前の席に座っておられた女性陣がそう言って俺を座らせようとしてくれたが、己で使ったものであるのだから己で片付けたい。片倉家、というより伊達領においては、俺の手は(いくさ)で無くしたということになっていて、そこに俺が説明した家督を継げない云々の話と混じり、皆必要以上に良くして下さる。いや、もしかすると『あいつ例の本の内容知ってるぜ』『マジかよ話してもらわんと』みたいなことなのかもしれないが。彼女らには今朝がた喜多殿たち片倉家の者らがいくつかの部屋から集めてきた机のうち、結局使わなかったものを、元あった部屋に戻してもらうよう頼んだ。


喜多殿と約束を交わしてより本日まで、10日ほどの時が経っている。その間、表向き一行の長である雲八爺さんは何度か米沢城まで出向き、そこで知り合った男たちに弓の腕前を披露していた。本日もこれから中庭に出て弓の稽古、相撲なども行うらしい。俺もそちらに向かいたい気もあったがもう少し用事が残っていたので残念ながら本日の稽古には不参加である。


雲八爺さんに引き連れられ、その場にいたほとんどの男が姿を消し、女たちも少なくなった。喜多殿は食事の用意をすると言っていたのですぐに戻るだろう。


「お疲れ様にございました」

「お粗末さまにございます」

「良き講義にございました。正しく解し、話し振りも堂に入っており、何よりご本人が楽しんでおられるのが良かった」


そうしてなんとなく手持ち無沙汰にしていると、今もって挨拶をしていなかった僧から声をかけられた。喜多殿より紹介を受けた方が良いと思っていたのだが、どうやら気さくな方の様子だ。


「先ほどは助けて頂きましたな」

「助け?」

「1番に問うて頂きました。最も学識深き方がまずもって問う。あれによって他の者も肩から力が抜け落ちたようにございます」

「誠に知らなかったのですよ」


ふふふと品良く笑われ、俺も微笑んだ。大島光義、通称雲八の弟子にて直子様の密命を受け、などと、言い慣れた自己紹介をすると相手からは虎哉宗乙(こさいそうこ)と名乗られた。横に座る子供は藤次郎と名乗り、俯きながらもペコリと頭を下げてきた。


「昔、快川紹喜(かいせんじょうき)に師事しておったことがございます。その縁あって織田様との取次ぎに動き回りましてな。皆様がこちらに来られることは知っておったのですが本日までご挨拶も出来ず申し訳ございませぬ」

快川紹喜、先にあった信玄公の葬儀において大導師を務めた恵林寺の住職である。かつて俺が室町小路にて宗教問答を行った際、沢彦宗恩(たくげんそうおん)和尚と共に頼もしき織田家の友軍として肩を並べた時のことが思い出される。


「快川和尚はよりお忙しいのでしょうね」

「寝る間もないと」


今度ははははと二人で笑った。あの鬼のように厳しい快川和尚が眠ることもできず弱っている様子を想像すると自然と笑えてくる。そうしていると廊下の方から良い香りが漂ってきて、俺たちはどちらともなくそちらに視線を向けた。


「やあこれは呉汁(ごじる)ですな。まだまだ暖かいというのにこれをいただけるとは嬉しい限り」

「我々が皆これの虜となってしまいまして」

そう言って俺は、呉汁がたっぷりと入った大鍋を持ってやってきた四郎と共に照れた。潰した豆とさまざまな野菜を入れた味噌汁というだけなのだが、なぜだか妙に美味い。椀も、俺が義手を使って引っ掛けるように持ち、右手で箸を使って食うということがわかっているので、俺が義手で掴みやすいものを専用で用意して下さっている。お陰で片倉家にいる間、快適に食事をさせてもらえている。実にありがたい心配りだ。


北寄(ほっき)飯も用意しましてございますよ。間も無く時期が終わってしまいますので」

と言って出されたのは、赤と肌色の二色に分かれた珍妙な色味の貝が乗せられた茶飯であった。これはなんぞと思いつつ、地元民たちが嬉しそうにしているので美味いものなのだろうと楽しみにすることとした。


「我らの師匠は?」

「小十郎達と一緒に玄関口で食べておりますわ。勝手に握り飯などにして」

上がり(かまち)のあるような場所に腰掛け、漬け物一つをおかずに握り飯をガツガツと食らって水を飲み、そうして外へ出かける。気の合う男どもと行うそのような雑な食事は楽しい。行儀が悪いので妻子には怒られるだろうが。


「それはまた、師匠が申し訳ございません」

「戦場にては皿も箸も机もないなどということは珍しくもない。さればこのような時に取り急ぎ飯を食えるかどうかも稽古のうちである。だそうです。雲八様も、口が強うございます。上方の殿方は皆そうなのでしょうか?」


話をしながらもさっさと皿を並べる喜多殿たち。煮しめた野菜なども並んでおりそれもまた美味そうだ。虎哉和尚も同じものを食べられるのであろうか?


「もてなしに出していただいたものを食さぬは礼を失しますゆえ、ありがたく頂戴することとしております」

問うより先に答えられた。そういう考え、というか言い訳によって魚などを食す坊主は多い。もてなす側も気を使わずに済むし良いことと思う。

初めて食う北寄飯はそれはもう大層美味であった。元々魚介の類は好物で特に貝は好きであるのだが、噛めば噛むほどに美味いと表現するのがこれほどふさわしい食い物もそうそうあるまいと感心しきりであった。


「織田家の皆様は出したものを本当に美味しそうに食べてくださるので作りがいがありますわ」

そんな風に喜多殿が言って下さったが、本当に美味いと思って本当に美味いものを食べているのだから、特に有り難がられる事でもない。ペロリと一杯平らげるまで周りを見る余裕すらなかった。そうして人心地がつき、残った呉汁を啜りつつようやく一座の様子を見ると、今日顔を見てより今までずっと大人しくしていた少年藤次郎がまだ半分も北寄飯を残しているのに気がついた。少食なのであろうか、と思い眺めているとやがてそうでもないということに気がつく。飯に北寄貝を一枚乗せ、口に運ぶ。よく噛んで味わい、飲み込む。呉汁を一口啜り、大皿に並べられた野菜の煮しめを少量摘む。それから口を洗うように湯を飲み、そして再び北寄飯へ。


「帯刀様、おかわりはいかがですか?」

「ああいえ、結構にございます。味は極上でしたが余りに美味すぎた為かっくらって腹を膨らませてしまいました。(それがし)も藤次郎殿のように味わって食うべきでした」


そう言ってみると今なお美味しそうに北寄飯を咀嚼する藤次郎殿にチラリと流し見られた。片方の目だけを、キラリと光らせるような、何処か挑戦的な見方であった。


「この子は食べるのが遅いのです。お気になさらないでよろしいですよ」

喜多殿がまるで己の子に対して言うようなことを言い、藤次郎殿は歳に似合わない大人びた顔で笑った。


「美味いものを食べているのだから、ゆっくり味わって食べた方が良いのだ。不味いものが出てきたら急いで食って終わらせる」

「そんなことを仰って、藤次郎殿は戦場でも同じことを言うのですか?」

「言わない。ここは戦場じゃない。それに戦場で出てくる食い物は大概不味いと聞く。自然、早食いになる」

思わずなるほどと唸らされた。なるほど確かに、そういう考え方もあるのだな。


「中々の食い道楽ですな」

「お客人、貴殿の家の女主人も食い道楽であると聞いておる。貴殿も五畜を召し上がるのか?」

問われて頷いた。牛や羊は背身が美味い。しかし四つ足の生き物の脂はクセが強く、有体に言えば臭い。食いたいのであればまずは鳥から食って慣らしてゆくと良い。ちなみに鶴は高価であるのに美味くない。雉や朱鷺(トキ)がお勧めである。そう教えると藤次郎殿はふむふむと頷いた。


「先ほどまでの講義より、余程学べた」

「おや、講義は下手でしたかな?」

「下手ではなかったが、知っていることを繰り返されただけだ。我が師も、小十郎も、喜多でも、同じ話が出来る。わざわざここにくるほどのものはなかったと思っていた」

藤次郎様! と喜多殿からの叱責の声が響いた。俺としては、ああやはり喜多殿はそのくらいの学識は身につけていたのだな。と納得していた。


「知っていることを繰り返されても面白くはない。興がのり、その上でまだ知らぬことを知るが面白い」

「仰せごもっとも」

「であるからこそ、喜多もまだ己が知らぬ巻を求めて貴殿の誘いに揺れた。貴殿の主人も、知るを求めてはるばる米沢まで人をやった」

言いながら、藤次郎殿が呉汁を北寄飯にかけた。そして言い終えてからすぐに、箸をカカカカと動かし、素早く中のものを食らってしまった。口元についた米粒を拭い、水を煽って食事を終えるまでにかかったのはせいぜい3呼吸ほどであろうか。戦場が如き食いっぷりである。


「貴殿は塵芥集を欲していると聞いた。貴殿の学識が高きことは分かった。出自も確かなのであろう。だが、(わし)が納得せぬうちには塵芥集は渡さぬ」

そうして、藤次郎少年は俺をまっすぐに見据え、左目ひとつでしかと睨みつけてきた。


「伊達藤次郎政宗、伊達16代当主輝宗が嫡子にして、塵芥集を著した稙宗の曾孫にござる。以後よしなに」

呉汁と北寄飯については郷土料理を調べた時、あまりに美味しそうだったので使わせていただきました。

「古くより食べられている」とのことでしたが、「古く」の定義が平安か室町か江戸かが定かでありません。

こちとら150年くらい前の話なんざ「さっき」だと思って小説を書いておりますので、

この時代にはまだ食べられてないと言われても困ります。だって美味しそうなんだもの。

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― 新着の感想 ―
[一言] そんな生意気だから数百年経っても 新しい手紙が毎回発見されて世間に晒されるんですよ即火中さん。
[一言] 左手がない、片手の描写、雰囲気がないような気がするんですが、after storyで読んで問題ないのかな?もしかして叙述トリックでif story?
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