趣味人なればこそ
時は永禄の6年。今より15年ほど昔。京都は先の天下人三好長慶公が制し、京都を追われた足利義輝公との対立深かりし頃、その義輝公がご公儀の名をもってして日ノ本におる有象無象の者どもへ、その地を支配する認可を下した。その折、奥州において大名たるを認められたのは伊達家と蘆名家のただ二家のみ。更に言えば伊達家に対しては奥州探題職をお認めになられた。そして時は流れ当代。織田家は足利公方家の後を継ぐ者として、失われし室町の秩序を復古させている。織田家と伊達家の間でどのようなやり取りがなされたか、その仔細までは分からぬものの、織田家の一行であることを明らかにして尚客人とし遇されていることを鑑みれば、少なくとも伊達は織田の天下に服し、織田は伊達の家名を残すと決めているということは確実であろう。
「成る程、米沢城下において大火があった折、そのように火傷をされたか、結構結構」
そんな、両家の円満を表すような座において、濁り酒を飲みながら上機嫌に膝を打つ雲八爺さんに対し、その相手をする片倉家当主、小十郎景綱殿は恥じいるように頭を下げた。
「情けないことにございます。敵将でなく火にやられたとあっては武功とも言えず」
「何を言うか、伊達にとっての米沢とは即ち織田にとってみれば岐阜、いやいや安土と言えよう。その米沢城下が焼け落ちようという時に駆けつけ、己の身を顧みず働いたのだ。これを武功と呼ばずしてなんと呼ぼうか。のう?」
雲八爺さんに声をかけられ、頷いた。
「誠に。釣鐘を鳴らし火事を知らせ、手早く屋敷を打ちこわして火の回りを止める。その武功によって守られた命が幾つありましょうや」
「主家にも認められ、焼けて黒くなった釣鐘が誉れとされているのです。半端な大将首を取るよりも余程大功かと」
話を振られた俺と四郎が相次いで小十郎殿を褒め、戸沢氏の者たちも同様に若き片倉家当主を誉めそやした。本人は嬉しくも面映ゆい、といったような顔を作っているが、少し離れた場所に座っている喜多殿は誇らしげに微笑んでいた。父親違いの姉弟、それも20程も歳が離れているということであるが、それでもよく似ていると思わせる姉弟だ。
「主命により奥州下向を命じられた時には、無礼ながら陸奥くんだりにて果たしてどれ程話の出来るものがおろうかなどと思うておったが、いやいや失敬。これほど有望な若武者、それに才女と知遇を得られるとは」
「お師匠、それは夜叉九郎達に対しても無礼というもの」
楽しい酒のせいか口の滑りやすくなっている雲八爺さんを嗜めると、四郎がそれとなく酒の入った壺を遠くへ置いた。夕食からそのまま酒盛りへと進み、既に二刻近くも話をしている。なくなりかけたところに程よく酒や肴を用意して下さる喜多殿ら女性のお陰で会話は途切れず、楽しい席であることは同意するものの、そろそろお開きとせねば明日以降にも差しつかえよう。
「おうおう、そうじゃなそうじゃな。皆すまぬ。このジジイとて弓働きの他は何も出来ぬ慮外者。老いぼれが酒に酔うて言うた戯言と聞き流して頂きたい」
素直に頭を下げた雲八爺さんに対し、お気になさらずとの声がかけられた。それが合図になったのか、場はこれにてお開きとなり、俺と四郎は千鳥足になった雲八爺さんの両脇を固め、用意していただいた客間へと向かった。
「おうおう、部屋も良いのう。河原を寝床としておった昨日までが嘘のようじゃ」
「声がでかいですよ」
「帯刀、水を一杯。四郎、厠まで連れて行け」
ご機嫌な雲八爺さんに命じられ、はいはいと頷きながら俺は今来たばかりの廊下へと戻ろうとした。喜多殿から『おやすみなさいませ』との言葉を賜ったのはまだ数呼吸前のことだ。急ぎ戻れば壺に一杯の水をいただけるであろう。
「お……っと、どうなされました?」
そのように考えて客間を出た途端、俺は足を止めさせられた。目の前に喜多殿がおられたからだ。
「水でございますね。女手には少々重うございます。持っていただけますでしょうか?」
そのように言われて否と答えられるはずもなく、俺は喜多殿の後ろを歩き炊事場まで向かった。
「……実は、お頼み申し上げたいことがございまして」
人気もなく火も落とされた薄暗い炊事場まで辿り着くと、喜多殿は柄杓で小さめの壺に水を注ぎながら言った。
「某に何とか出来ることであれば、なんなりと」
正直、とうとう来たかと思った。最初、俺のことを見た時の視線で既に違和感はあったが、食事に酒宴にと過ごすうち、それが決して気のせいではないことが分かっていたからだ。何と言うか、獲物を見つけた猛禽のような空気が漂っている。ような気がする。
「当家の者たちに講義をしていただけませんでしょうか?」
それはそれは美しい所作で頭を下げられた。今の俺は一応、雲八爺さんの弟子ということではあるのだが、先ほど多少学問について話をした様子を小十郎殿には見られていたとのことであるし、それなりの博学と見られたのであろう。余計な謙遜はいらぬとばかりの真っ直ぐな頼みだ。
「……まあ、場所さえお貸しいただけましたらかまいませぬが」
「勿論でございます」
大した話は出来ないかも知れませぬ。などと続けようとした言葉は遮られてしまった。話をする限り、この喜多殿を筆頭に片倉家の方々は十分に武家としての教養を身につけているように思えたのだが、この帯刀の何を見て、そこまでして教えを乞うに値すると思ったのかは分からない。学識ある僧から教えを賜ることくらい出来ぬはずもなかろうに。
「実は戸沢家の方々にも同じような話をしておりまして、申し訳ございませんが何度か部屋の方をお貸し頂きたく」
「勿論何度でも、筆に硯に紙もご用意いたします。当家の者たちは戸沢家の方々の後ろにて話を聞かせていただけましたら結構でございますので」
「いや、それは流石に」
無礼にあたるだろうと思い、時間の許す限り何度でも講義はすると伝えたのだが、『却ってそちらの方が都合が良い』などと言われてしまい、よく分からないまま頷いた。
「それと……こちらはついでのお話なのですが、帯刀様は唐国の文書だけでなく本朝についてもお詳しいとか」
「お詳しい、というほどではありませんが一応、五山の学僧より教えを受けております。何とか恥をかかずに人様にお話しできる程度でございましょうか」
本日の酒宴にて、俺は家督を継げぬ武家の子として寺に預けられていたということにしている。左手については特に語らなかったが人前で義手を外し、四郎に預かってもらったりなどもしたので恐らく家督を継げぬ理由も、それなりに学識がある理由もその辺りと絡めて納得してくださったことだろう。寺に預けられたは嘘だが家督を継げぬ武家の子というのは本当であるし、そういった話は実によくある。かの今川義元公も4男坊として生まれ寺に預けられ、そこにおいてかの太原崇孚雪斎に師事したとのことである。
「古典だけではなく当代の書物についてもよくご存知でしょうか?」
「上人たる方々には叱られてしまいそうですが、実のところそちらの方が好みではあります」
武経七書と呼ばれる書において俺が一番読んでいて楽しいのは李衛公問対だ。他の六書に比べてこれだけが抜きん出て書かれた時代が近い。同時代に書かれ、登場人物や内容に重なりがある貞観政要も同じく読んでいて楽しい。読み物としても、史書として人物ごとに本紀列伝が描かれた史書としての三国志よりも、千年の後に描かれた三国志演義の方が面白いのは当然と言えば当然であると思う。
「でしたら、『頭光るゲン爺』というお話について何かご存知でございませんでしょうか?」
その言葉を聞いた時の俺の表情を見て、俺をよく知る者たちは何と言ったであろうか。この時己の頭の中で、これまで分からないままであった点と点が繋がり、それはもう美しき星座が如く一つの形として纏まる感覚を得ていた俺は、思わず『なるほど』とこぼしてしまった。片手であることを知っている上で、甕を持ってくれと頼むのはおかしな話だと思っていたのだ。この方はそれほど愚かではないし無礼でもない。
「なるほど?」
「ああいえ。何処ぞの某かが著したとされる源氏物語を元にした滑稽譚でしたか?」
「ご存じでございますか!?」
ズズイ、と前に出てこられて、俺は先ほどの寒気の正体を理解した。あれは続きを早く書けと俺に詰め寄る市姉さん、犬姉さんの目と同じだ。小十郎殿から、或いは我ら一行が来る道中を見張っていた者から、この集団において最も読み物に通暁していそうな人物は俺であると聞いたのかも知れない。流石に俺が作者であるとまでは分からなかったであろうが。
「い、一応、巷にて手に入るものには全て目を通してございます」
「巷にて手に入るもの、と仰いますと、あれは何巻までございますのでしょう?」
「痰壺・輝く額の宮・唐変木・嘘蝉・多顔の5巻までかと」
俺の言葉を受けた喜多殿の眼がカッと見開かれた。それはもう炊事場の何処かに火でも起こしたかのような輝きであった。
「当家には輝く額の宮がございませぬ。道理でところどころ覚えのない思い出話などがあると思ってはおりましたが」
「まあ、滑稽譚にございますので、途中の一巻が抜け落ちようと何ら問題はございませぬ」
「尾張に人をやれば手に入るものでございましょうか?」
聞こえていない。数寄者などにも通じるところであるが、どうして人とは己の趣味においては妥協を許さず、周りの目も気にならなくなるのであろうか。愚か者こそそうなるのだというのであればまだ腑にも落ちようが、来し方を振り返ってみれば逆に賢き者ほどそうなりがちだと思える。
「帯刀様は偶然にも2巻のみお持ちであったりは?」
「ございません」
そのような不可思議な奇跡はない。
「長島であればまず間違いなく手に入りましょうが」
何しろ生産地であるからして。
「長島、原田直子様が治めておられる領地でございますね。実は私の母も直子という名でございまして、勝手ながら親しみを覚えておりました」
「なるほどぉぅ」
変な声が出つつ、この瞬間俺はこの女傑を可能な限り我が母には近づけまいと心に誓った。市姉さんや犬姉さんに続き、ここのところ京都住まいの公家女房衆とも関わりを持ちつつある様子の母上であるのだ。このような方と親しくなり、陸奥にまでその影響が及ぶようになってしまってはいよいよもって収拾がつかない。
「もし、我ら一行が帰りの道中であったのならば取り急ぎ用意を致し、上京して来られた伊達家中の方にでもお渡しすることが出来たのですが、只今仰られた直子様の命により我らこのまま北へ北へと向かう予定にございます。直子様ご本人もやんごとなき所以により今は少々立て込んでおりまする。ものを用意するのには時間がかかりますな」
そうして、嘘ではないが真実を伝えているとも言い難い偽言を用い、何とか繋がりを断とうとしてみると、喜多殿はそれまで輝かせていた瞳から光を落とし、がっくりと項垂れた。生気に満ち満ちた喜多殿がどんよりと落ち込む様はそれはもう大層哀れを誘うものであった。
「ですがまあ、取り急ぎ内容だけでも知りたいと仰るのでしたら、手がないこともございません」
「ど、どのような?」
「あの書物については拙者全て読み終えておりますれば、内容は全てこの中に」
そう言って、己のこめかみを指で突いた。俺は一読した書は全て暗唱出来るような優れた智能は具備していないが、己で書いたものであれば話の流れくらいは把握している。その上、何度となく人前で読み語りなどをさせられたため、すっかり覚えてしまった。一言一句まで全て正しく語れと言われたら困るが、ほぼほぼそれに近いことは出来よう。
「戸沢片倉両家の方々の前で講義などをする合間にでも、巻の1から5までを暗唱して差し上げましょう。元よりあまり堅苦しくなってしまうのは気乗りがしませんでした。女中方々なども集めて、車座にて甘味でも味わいながら滑稽譚。如何でございましょう?」
「『后の位も何にかはせむ』とは正にこのこと」
「更級物語ですな」
源氏物語を手に入れ『皇后の位など何の価値もない』と言い切った彼女もまた、中々の道楽者であったろう。晩年は寂しそうでもあったが。
「明日朝一番にも、広間の掃除を致しますわ」
「お急ぎになっていただかなくとも結構にございます。外が晴れているのならば庭に筵でも敷いて語るのも趣があってようございます。ただ、卒爾ながら喜多殿から一つ頂戴したいものがございます」
にっこりと微笑みながら言うと、喜多殿がはてと小首を傾げた。
「それは、私如きがご用意出来るものでしたら幾らでもご用意させていただきますけれど」
「いやいや、大した苦労ではなきかと存じます。伊達家中にしかなく、片倉家にも当然あり、そして長島においては決して手に入れられぬ価値あるもの」
そうしてから俺はあえて小声になり、喜多殿の耳元で欲するものを囁いた。それを聞いた喜多殿はそれまでの態度を一変させ、眉を顰め表情も硬くなった。
「あ、あれは既に家中においても使われておらず、まして他家の方にお見せするようなものでは」
「であるからこそ、とくと中身を拝見したいというのが直子様のご意向にございます。直接の御下命でありますれば、我らあらゆる手を尽くしてこれを直子様の膝下に届けんとする所存」
喜多殿が黙った。別に無体を働いたわけではなく、仏の御石の鉢を持ってこいとも言っていない。そちらのお願いに応じるので、こちらの願いも聞き入れてくれと言っているだけである。
「無論、無理にとは申しませぬ。伊達家中なれば、アレをお持ちの家臣方々も多くおられましょうから」
黙って何らかの葛藤をしている喜多殿に、微笑みを絶やすことなく伝えた。伝えたい意は、『貴女が頷かないのなら別のところに行くだけですよ』だ。
「このようなところで急ぎお答えいただかなくともよろしゅうございます。既に使われていないとはいえ、徒に外へ出すべきものではないというお考えも分かります。ですが我ら決して伊達家の、ひいては片倉家の家名を辱めるような使い方をするつもりはなく、全ては天下万民のためにございます」
壺を持ち、立ち上がった。火の入っていない夜の炊事場なれば、流石に少々冷える。やってきた廊下を今度は俺が先に立って進み、そうして寸刻もしないうちに先ほどの部屋の前まで戻った。
「ああ、そう言えば伝え忘れておりましたが、某直子様の近習なれば、『苦柴』と題せられた第6巻、未だ公にならざる物語についても存じてございます。それらは1から5巻までと同様に、この中に」
俺はもう一度己のこめかみを突つき、『お休みなさいませ』と言って部屋へと入った。
「おう、水が来たか、ご苦労ご苦労」
「あまり飲みすぎて寝小便はご勘弁願いますよ」
既に大の字となっていた雲八爺さんがむくりと起き上がり、壺ごとグビグビと水を飲んだ。一々所作が豪傑染みていて少し羨ましい。
「兄弟子。悪い顔をしていたようだが」
「うん、思わぬ上首尾に満足している」
俺からのお願いが認められたのは、早くも翌日昼前のことであった。




