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信長の庶子  作者: 壬生一郎
九尾編
158/190

直指人心見性成仏

薄暗い部屋の中、文の最初に書かれた文字を、ただじっと見ていた。目は字を追い、頭はその意味を解きほぐそうとし、心は風のない日の水面(みなも)のように落ち着き、耳は、ゆっくりひたひたと近づいてくるかすかな足音を捉えていた。そのどれもが異なることでありながら、しかし俺の体はそのどれもに矛盾を孕まず、混乱することなく、そうしてこの時、たった一人、世でたった一人しかいない、名無し人たる俺を作り上げていた。


俺の隣に、一人の女が座る。その手にはお盆があり、白湯が入った椀が載っていた。何も言わず、隣に置かれたそれを、俺はゆっくりと喉に通し、数回に分けて空とした。


「良いか、お(たま)直指人心(じきしじんしん)とは、己の心の奥底にある本心を直接指し示すということであり、見性とは見ることではなくなりきるということである。成仏、仏になるというのは無論死ぬこととは異なる。悟りを得るということだ。つまりこの八文字は、周りの言葉や評価、あるいは降って湧いたような一時的な情動、感傷にとらわれることなく、ただ己の心の奥底にあるものを見つめ、それになりきることこそ解脱への道と説いておるのだ。乱暴に言ってしまえば、己の思った通りのことをやり通すことが悟りだと解釈することもできよう」


長い言葉を、俺は一息に言い切った。突然何を、と思われて当然の言葉であったがそれでも珠は『はい』と頷き、俺の隣に控えた。


「清三どのはお休みになられたか?」

「はい。お疲れのようでございましたので、夕餉(ゆうげ)をお出しして、湯浴みをなさって、もうお眠りでございます。たっぷりの湯に浸かり殊の外ご満足いただけたようですわ。又、明日の朝にでもお話をということでございました」

頷いた。ハルが子を産んだ。二年前、天正三年にも男子を、そして此度も男子を産んでくれた。母子ともに健康であり、何も心配はいらぬというハル直筆の文を携えて、村井家の重臣で親父殿の側近でもある村井清三殿が斉天大聖に続いて来て下さった。文には残さぬが、『男子であった場合、仔細は兼ねてよりの話し合い通りに』という言伝も頂戴した。


我が正室恭がその命と引き換えに産んでくれた嫡男勝若丸は織田信広を祖とする津田家の跡取りと決まっている。次男亀千代の母ハルは織田家における文官筆頭とも目される村井貞勝の娘である。村井家と織田家、両当主にとっての孫である亀千代はそのまま村井家の跡取りとなる。そして、


「此度の子は、ハルの子ではなくなる。無論俺の子でもなくなる」

呟くように、珠に向けてそう言った。この話は、まだしたことがない。清三殿が言う『兼ねてよりの話し合い』についてのことであるからだ。知っている者とて、俺を含めて両の手で数えられる程度しかいない。


「……まさか水にするなどということには」

「勿論しないさ。そうならないために話し合ってきたのだ」


水にする。水に流す。すなわち殺すということ。生まれたばかりの赤子を殺す。後のお家騒動を避けるために仕方なく行われることはままあると聞いている。批判は出来ないが、さりとて仕方がないと納得する事はもっと出来ない。


「父上の子として育てる。死んだはずの俺が最後に残した子とするには些か日が経ちすぎておるし、父にとっての十一人目の男子、という事であれば家督争いにはならぬ。養育し、長じては原田家を継がせる」

「原田家とおっしゃいますと」


珠の声が少しばかり大きくなった。かつては天下人織田信長を支え、忠実な駒として戦った原田家であったが、武運拙く、当主であった直政伯父上をはじめとした一門衆の多くが討ち死にし没落、というより消滅に近い形となっている。だが、今現在の原田家が織田家において侮られるような存在であるのかといえば、それは全くそうではない。他ならぬ母上がおり、その母が今も長島一帯を治めているからだ。


「母上が、原田家再興の為に子を所望していた。実際に孫であるわけで、原田の血も名も絶えぬ。家臣連中に(はなわ)の名を与えれば塙家の家名も復活する。壊滅はしたが、全滅したわけではないからな」

一連の流れを伝え、俺はお珠の顔を見た。口元に手を当て、何か考えている。聡明な娘、それでいて武家の女らしい考えを持つお珠からして、何かおかしな点があっただろうかと、どう思うか問うてみた。


「とても優れた、良き思案であると思いますけれども」

「けれども?」

「どうしてそれを私に話したのでしょう?」


久しぶりに見る年相応の困り顔に、俺は少し笑った。ムッとされてしまったのですまないと謝り、話しておくべきだと思ったのだと伝えた。


「一年前、いや、もうじき二年になるな。俺は死んだ。織田信正とも村井重勝とも津田弾正尹、天下所司代、などとも呼ばれていた男が死んだ」


皮肉にも、それは天下泰平を磐石なものとした。事の真相は明らかにされず、闇から闇へと葬られ、俺は名無しの男としてひっそりと暮らしていた。それでも、真実にたどり着き俺の元へやってきた者がおり、たどり着けぬものも多くおり、中にはたどり着いた上で知らぬ存ぜぬを決め込んでいるものとておろう。そやつらについては存念次第、好きにするが良いと思っている。だが、


「男たちの争いの中で、その日たまたま近くにいたという理由で死んだことにされてしまった娘が一人。その器量もその知性も優れ、将来を嘱望されていた娘だ。そんな、俺のせいで人生を狂わされた娘には、話しておくべきと思った。ということだ」

「はい」


ピンときていない、といった様子の返事がされた。『はい』と言ってはいるがどちらかといえば『はあ』と言われているような声音だ。良かれと思って行った男の所業は、いつも女に対して空回りに終わるものだなと、しみじみ思う。


「よくわからないか?」

「教えていただいたところで、私が変えられるものなどありませんので」


しみじみとしていた気持ちに、今度は拳を突き立てられたような衝撃が走った。その通りだ。真実を伝えようが嘘を教えようが、巻き込まれたお珠はただただ運命に翻弄されるのみ。本当に与えるべきは、情報ではなく選択肢であったろう。『何も変わりはしないが、つまりこういうことだったのだ』と伝えるのは、ただ俺が楽になりたいと思ったがための、愚かな罪滅ぼしに過ぎない。


「申し訳ありません、落ち込ませたかったのではないのです。私のことを(おもんぱか)ってくださった事は、(かたじけな)く思っております」

励まされてしまった。おそらく情けない顔をしていたであろう俺に、珠は少し考えてから言葉を紡いだ。


「女の身でございますから、殿方の都合で振り回されるのは当然のことです。花の種は風に吹かれ、己でもわからない場所へと飛ばされます。そうして落ちた場所が石の上であったとしても、暗い場所であったとしても、文句を言う事なく置かれた場所で花咲かそうと懸命になるでしょう。そうして、冬となり散るべき時を知れば何も言わず散ってゆきます。それでこそ、花は花なれ。私も、私自身の宿命というべきものに抗わず、咲くべき時に咲き、散るべき時と心得た時には、見事散ってみせましょう。そうあってこそ、人も人なれ。と思っております」


珠ほどの可憐な少女が言うには、余りに含蓄の深すぎる言葉であった。関東最弱にして不屈の人、小田氏治を宗旨替えさせるほどの言葉であるのだから大したものである。しかしながらお珠が言いたい事は何も深い言葉を持って人を啓蒙(けいもう)したい。ということではなく、『なるようにしかならないのだから、私は気にしていない』ということなのだろう。潔い。あまりにも潔すぎて心配になるほどに。


「全てを受け入れる覚悟が、珠にはあるのだな。『直指人心見性成仏』とは真逆であるが、不思議とそれも、一つの悟りであるように思える」

「心配せずとも、主は私たちをいつでも見守ってくれています」

「耶蘇会の教えか、随分と入れ込んでいるなあ」

「はい。高山様が色々と教えてくださいました。洗礼も、受けたいと思っているのですが」

「今は色々と、微妙な時期ではあるからな。近いうちに動きもあると思うが」


言いながら、俺は立ち上がった。障子を開き、空を見上げる。空気はやや暖かく、それでいて程よい風が吹いていた。眠るには良い具合だ。月が見える場所まできて、そのまま廊下に腰を下ろすと、しずしずと音もなく付いてきた珠もゆっくり腰を下ろした。


「文はあらかた書き終えた。いよいよ明日にはここを発つ。お珠、済まないがお珠は清三殿らと共に長島に戻ってもらう」

「あら、足手まといでございましたか?」

「そんなことはないのだが、十兵衛殿が流石に嫁入り前の女子のすることではないと仰っているそうだ」

「父上が?」


父親の名を聞いた珠が楽しげに笑った。


「嫁入り前と仰いますけれども、私はもう墓入り後になってしまいましたので、貰ってくださる方がいらっしゃらなければどうしようもございません」

「それについて、なのだが」


楽しげに、少々重たい話をする珠に対し、居住まいを正して正面から見据えた。その様子を察して珠が笑うのを止め、俺を見返す。


「俺が、お珠の面倒を見させてもらいたいと思っている」

パチクリと、お珠がその大きな目を二度三度瞬かせた。


「惟任の家は家格が上がりすぎたせいで釣り合う家が少なくもなり、しかも今のお珠を迎えるとなればそれなりに大きな秘密を伝えなければならなくなる。俺が相手であればどちらについても問題はない。それにお珠は、母上やハルとも仲が良いし面倒を見ている子らもお珠を慕っている。今後耶蘇(やそ)会がどう扱われるようになるかは分かりかねるが、長島であれば内密に洗礼を受けさせてやる事も出来る。あとは……」

「しばらく!」


お珠にしては大きな声で止められ、はっとしてお珠の顔を見た。夜目にも赤くなっていることが分かり、こちらも頬が熱くなるのがわかった。


「そんなにいきなり、いっぱい言われてもわかりません」

「ああ、すまない。俺でよければ、妻として迎えさせてほしいという話だ」

「織田家としても惟任家としても、それが一番良い厄介払いになるというお話ですか?」


頬を赤くしつつも、そのようにどこか達観した言葉を述べるお珠に対し、俺は少し悲しくなり、そしてそのような悲しいことを言わせているのは己であるのだと恥じ入った。俺がこれまで妻に迎えた相手は二人。武家の身である、勿論家のための結婚だ。お珠が言っていることは正しい。しかしながら俺は二人に対し利でもって婚姻せねばならぬと諦めさせたとは思っていない。先に、言っておかなければならぬ言葉があるのだ。


「そうではない。この現世(うつしよ)には多く諦めなければならない物事があり、更に多く不幸なる人々がいる。そのような現世において、今俺の目の前に、俺が幸せにしてやれる娘がいて、そして俺が幸せにしたいと思える娘がいた。強く、可憐で、名前通り珠のような美しさの姫君に、終生そばにいてもらいたい。俺の隣で、幸せな女になって欲しい。故に、嫁に来て欲しいと言っている」


このような言葉は照れることなく言うべきである。故に、俺は目を逸らさず心を込めて言い切った。返答は正に花の如き笑顔であり、それに対しての対応は抱き締め、背を撫でることであった。


「惟任日向守の娘を三人目の妻とは、強気でございますね」

「そう言われてしまうと申し訳ないのだが」

「まあ良いです。妻木の娘でございますからね。織田の殿方に可愛がられるのは得意としております」


やがてお珠が、俺の胸にしがみ付きながらそのようなことを言い出した。妻木、というのは十兵衛殿の正室妻木照子殿のことであり、彼女の妹君はここ数年父お気に入りの愛妾として中々に睦まじい関係であるそうだ。


「気になったことを聞かせていただいてもよろしいですか?」

「勿論だ。わかることについては全て答えよう」

「ハル様の産んだ若君は長島にてお育てなさるのですか?」

「まあ、そうなるな。表向きは原田家当主として母上が養育するということになる。お珠にも苦労をかけるかもしれないが」

「それはよろしいのです」


そうか。と答えた。宜しいのであれば、どういう意図の問いであったのであろうか。と、そう思っていたらすぐに本題がぶつけてこられた。


「私が産む子は、どのように扱われるのでしょうか? 生まれてすぐに両親共に無しとされるのは余りに哀れでございます」

「それは、10年20年先のことは分からぬが一応考えはある。俺は暫くの後、見性軒と号して長島か、或いは京都にて復活し、それから原田家に仕えようと思っている。それまでにお珠も耶蘇会に帰依して出家し、洗礼名を頂戴すれば良い。僧と耶蘇会の夫婦というのも聞かぬ話だが、どうせ母上からして変わり者だ。変わった家に代わった夫婦がいるとなれば却って目立たぬ」


俺の言葉を聞いて、お珠が笑った。先ほどから胸元がくすぐったいのだが離れようとするとしがみつかれてしまうため、背と頭を撫で続ける人形と化すのであった。


「その暫くよりも先に私が孕んでしまったらどうなりましょう? 私は子を己の手で育てとうございます」

先ほどから随分と生々しい問いかけをするものだと面はゆい限りであるが、それについても問題はない。というより、そちらの方がやりやすいとも言える。


「先ほどの、父上の子として育てられる倅についてだが、生母は妻木殿ということになっている」

「叔母上様が?」

「うん。であるのでもし来年同じように子が生まれたのであれば再び妻木殿がお産みになったことにすれば良い。それが嫌であればそもそも仕官前に生まれた子としても良いし捨て子を拾ったことにしても、俺たちの手で子を育てることは出来る」

「あっ」


それもそうだとばかりにお珠が声を漏らした。それからふふふと笑う声が胸元から聞こえ、最後にグッと俺に顔を押し付けてから、最後ばかりは俺の顔を見て言ってくれた。


「不束者ですが、幾久しくよろしくお願いいたします」

己の心に従い、とはいうもののままならぬことが多すぎる世ではある。しかし三人目の子も三人目の妻も、間違いなく俺が望み、俺が得た宝である。幸せにしてやらねばと、俺は月に向かいそっと誓いを立てた。

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[良い点] 直指人心見性成仏(嫁は何人いてもいい) [一言] 末永く爆破して?
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