表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
信長の庶子  作者: 壬生一郎
九尾編
156/190

花は花なれ、人は人なれ。

小田氏治と結城晴朝。両者の面会は(つつが)なく終わった。互いに感情のしこりが残っている様子は見受けられたものの、同時にそれを飲み込もうとする意思もあったように思える。両家共にこのまま戦国の世が続けばいずれは大勢力に飲み込まれていた公算が高い家であり、何らかの理由を見つけて協力することは必要と思っていたのかも知れない。織田家としても、関東最大の勢力であった北条は領地を削り取った上で服属させ、それに対抗しつつもいずれは敗れていたのではないかと思える佐竹・里見辺りを存続させ、その他関東の中小勢力は林立した状態にしておいた方が都合が良い。有事の際に、関東一致して織田に反抗するということが出来なくなるからである。関東や甲斐などと同様、東北においても睨みを効かせるべき隣国には遠からず織田股肱の臣が配され、地元の生え抜きの有力者として陪臣となる家も出てくるであろう。実際に里見氏は既に滝川家の家臣に近い地位になりつつあるようだ。万年君様と民に慕われた名将里見義堯(よしたか)公を失い、このままではいずれ北条に飲み込まれるであろうという状況の中、何とか家を保ったと言える。そして、この時の俺には知る由もないことではあるが、この年の5月、義堯公の嫡男にしてこの時の里見家当主義弘公が急死。その弟と嫡子との間で派閥抗争が起こり家中の分裂を招く事態となる。この時既に織田の陪臣に甘んじていたことで里見家は分裂となり力を落としつつも家名は残った。里見氏もまた、ギリギリのところで戦国を生き延びた家といえよう。


「如何でございますか?」

「思っていた以上に、興味深いものだ」


そうして無事結城城内において部屋を与えられた俺は見聞きした様子を書に認め四郎配下の者に渡しつつ、結城晴朝殿から頂戴した結城氏新法度の写しを繰り返し読み込んでいた。


「今川かな目録よりも素晴らしい内容でしたか?」

「いや。明確に劣っている。比べることすら失礼であろう」

「あら、お可哀想」

「しかしこれは素晴らしい内容であり、今川かな目録よりも織田家にとって有用かもしれん」

「それは摩訶不思議」

よければどういうことなのか教えてくださいませんか? と、にこやかに聞いてくるお珠の表情は、以前会った御母堂とよく似ていた。


「これを読んだ俺が、作者たる結城政勝殿に申し上げたいことは、まず第一に苦労が絶えなかったのですな。という労い。もう一つは腹を割って話し合える家臣がおらなかったのですな。というこれもまた労い。最後に、絶えず愚痴が出てしまうお気持ち分かりますぞ。と、これまた、労いであろうな」

「あはは、父上にも言って差し上げてくださいまし」


そんな風に、俺はお珠に対し己が思ったこと、感じたことを語った。

結城氏新法度が出来上がった経緯には、此度の旅において台風の眼となりつつある小田氏治が大いに関わっている。弘治2年。今より20年以上も昔、結城政勝殿は小田城を攻めた。今とは異なり、その時は結城氏が北条の支援を受けており、大軍の優勢をもって結城氏は小田城を攻め取り、結城政勝治世下における最大版図を築いたという。だがしかし、不死鳥小田氏治は北条撤退を見て反撃。小田氏治を慕う領民の手助けもあって結城勢力は撤退。結局のところ勢力図には何ら変更はなく、攻め上がって奪い返された分骨折り損のくたびれもうけという有様であったらしい。そんな手痛い敗戦の後結城政勝殿お一人の力で書き上げられたものが結城氏新法度である。


「一人で書き上げたというのはなぜ分かりますの?」

「纏まりがなさすぎる。これは全104条を俺なりに分類したものだが、見てみよ」

第一条については博奕(ばくち)について、第二条については人身売買について書かれている。いずれも分国法の頭に書くことが適当とは言えず、思いついたことを思いついた通りに書き出したことが分かる。それから喧嘩や盗みなどについての条文が続くのだが、その後幾つも条を飛ばして追い剥ぎに不法侵入、殺人誘拐放火などが雑多に書かれている。『犯罪』として一つに纏めた方が余程平易であろう。それらの犯罪に対しても、先に不当な訴えについての条があり、別の場所に改めて訴えについての条が続く。70条を超えてからはさらによく分からなくなり、領内における物資の輸送について書き出したかと思えばそれがそのうちに愚痴混じりの内容となり、それからしばらくして再び物資の輸送について語り出す。と言った具合だ。80から90以降はほとんど分類は不可能な愚痴となっている。読み物としてはこの辺りが最も面白いが、それは更級日記を読んでいる時の面白さと大差ない。


「帯刀さん」

そこまでの説明を終えたところで、お珠がチラと外を見つつ、俺を伺うように聞いてきた。


「うん……どちら様か分かりませんが、よければお入りください」

言うと、スッと立ち上がったお珠が襖を開けた。何とも言えず所在なさげに立っていたのは小田氏治殿であった。


「これはこれは小太郎様。弟弟子の四郎は今どこにおるのか」

「いや、今はお主の顔を見にきたのだ。徒然(つれづれ)に雑談でもと思ったのだが、面白い話をしているようであったので立ち聞きさせてもろうた。邪魔をしてすまぬな」

「邪魔などとはとんでもない。お耳汚しでないのならばお座りください」

「うむ……」


どうしようかと悩んでいる様子の小田殿であったが、笑顔のお珠がぺちぺちと床を叩くのを見て微笑み、傾聴しようと言いながら座った。


「どこまで話しましたかな?」

「この法度が一人の手で出鱈目に書かれた纏まりのないもの、というところまで。ならば気になるのはなぜそのようなものが織田家にとって今川かな目録以上となりうるのか、というところだ」


思ったよりも真剣に聞いてくれていたらしい小田殿の言葉を聞いて頷き、さればと話を再開する。


「纏まりはなくとも、結城氏新法度には結城の御当主が、ひいては多くの戦国大名が置かれていた実情がつぶさに記されております。例えば44条に遺言についての話が書いているのですが……」

そう言って今度は写しそのものを開いて見せた。亡くなったものが遺言状に誰々へ金を貸してあるので、これを息子達で分けよ。などと書いてあった場合、これは認められるべきか否か。などという問題について書かれている。結論としては遺言状や証文があれば認め、なければ幾らそれらしい話をしたとしても認めない。という、まこと真っ当なものになっているのだが、


「何じゃ。結論に至る前に家臣に下問し、皆がこうしろと言ったからこうするのだ。などという話をなぜ法度に書き付ける?」

文章を読みながら、小田殿が解せぬとばかりに首を傾げた。


「そこが重要なのです」

「先ほど仰っていた通り、それが今川かな目録に劣っているところなのではないのですか?」

小田殿、お珠が続け様に質問してきた。お珠の言葉には小田殿もその通りだという風に頷いている。まあその通りでもある、でもあるのだが、


「そも、結城氏新法度の前文には『サギをカラスと言いくるめるような横車を押して』『無理な言い分を押し通し』『けしからんことが行われる』と、家臣に対しての皮肉が書かれております。

『だからこそ、個人的にこの法度を定めるのである。おのおのよく心得ておくように』だそうで」

「一人で書き上げたのではなかったか?」

「書いたのは一人でも多くの意見は取り上げたということでしょう。そしてその成立の経緯まで書いたということは、これはお前達が言ったのでそう決めたことなのだからお前達が守らないでどうするのだ。という釘を刺したということです。一時が万事、そのような風です。小太郎様は領内での物の売り買いにおいて、鐚銭(びたせん)をどう扱っておりますか?」

「そうさな、余りに粗悪な鐚銭は使えぬものとするが、永楽銭のみしか通用せぬと言ってしまっては商いが成り立たぬ。結局は良きに計らうしかあるまいな」

「それについても結城氏新法度においては鐚銭の基準を示して欲しいという家臣の請願に答える形で扱いを決めております。(あらかじ)め基準を示したのであるから、後になって己が間違いを犯した時にサギをカラスと言いくるめるような横車を押すな。と言っておるのでしょう」


織田家においては、強大に過ぎる当主が全権を握っている為言うことを聞かない家臣などという存在について俺は正直ピンと来ていなかった。毛利氏との戦いが続いていた頃、国人領主達の代表、盟主である毛利家、という立ち位置を見て、主とは必ずしも絶対ではないのだということに理解が及んだ。それでも偉大なる元就公が(いしずえ)を築き、その息子二人が毛利両川となって睨みを利かしていた毛利家は良い方であった。勝ったり負けたりを繰り返す小領主にとっては家臣とは機嫌次第で主人を振り落とす暴れ馬のようであっただろう。

このような苦労は、今の織田家にとっては無い心配だ。だが例えば20年後、父上や勘九郎、そして俺たち兄弟も早世してしまい、若い織田家当主が立った時にはどうか。信長公に仕えた創業の臣が存命であった場合、若い当主を侮らないとは言い切れない。そんな折に『当時信長公や信忠公と共に貴殿らが決めた法であろう』と言えれば、宿老達の手綱も幾らか御しやすくなる。


「……身内であるがゆえに法を曲げたというのは、儂にも覚えがあるな」

「小太郎様の領地はそれで良いのでしょう。領民も慕っておりますし。しかし、日の本全域となれば領主と領民が顔を合わせることなどあり得ませぬ。なるべく多くの人間が納得し、なるべく手早く問題を解決する。そのために法を作らなければ」

「太平の世のために、か?」

「そうです。一人を助けるために二人以上が死んではいつか人がいなくなります。当年を凌ぐために10年後の困難を捨て置けば、100年の太平が遠のきます」


割と良いことを言ったつもりであったのだが、しかし俺の言葉を聞いて小田殿は何だかしょんぼりとしてしまった。それでもそれ以降の俺の話もしっかりと聞いてくれて、可能ならば同じ内容で条をまとめ、50条くらいにして返したい。という話にも頷いてくれた。後日結城晴朝殿から正式に依頼され、その代わりに陸奥へ向かうにあたっての世話をするという申し出も受けた。結城氏としては纏まった家法を織田家に提出し、少しでも覚えめでたくしたいのだろう。俺が纏めた法を父や勘九郎が読むというのは何だかおかしいが、やりがいはある。喜んでお受けした。



「お主は、元々法制家であったということか?」

それから10日程、俺たちは結城城で過ごした。雲八爺さんは日がな弓稽古に励みつつ結城城の若い連中にもその極意を教えていた。俺と四郎も早朝雲八じいさんに弓を習い、その後、お珠も入れた三人で結城氏新法度の編纂を行った。まずは104条に追加2条、前文と後書きをそれぞれ一枚ずつの紙に書き出し、分類して纏めたものをなるべく本文から変更を少ない状態で纏める。というやり方であり、俺自身が考えなければならないことは少なかった。書写しには時間がかかったがそれも二人が手伝ってくれて、更には小田殿や源鉄殿が手伝ってくれたり、時折雲八爺さんも助っ人に来たりと、手分けが出来たので苦労はそれほどでもなかった。


「まあ、そのようなところです」

何か思うところがあるのか、眉を顰めつつ真面目に手伝ってくれた小田殿。関東八屋形と呼ばれたご一族の当主にこのようなことをさせてしまうのは少々心苦しかったが、作業をしていると必ず現れ、何を書けば良いのだと聞いてくるものだから無碍にも出来なかった。


「手が不自由であるのにこのようなところまで来るとは、さぞかしその智能は優れておるのであろう」

「おや、源鉄殿から聞いておりませんでしたか?」

たった今気がついたような様子だったので、意外に思った。この様子では耳については今もって気がついていなさそうだ。


「あやつは必要ないと思った話はせぬ。必要と思った話は1000度してくる」

苦笑混じりの言葉に笑った。お珠も袖で口元を隠しながら笑っていた。


「雲八殿も四郎も、一廉(ひとかど)の人物であるし、珠姫殿も何ぞ才ある人物なのだろうな」

「いえいえ、私は父が織田家に禄を食んでいるだけの、ただの小娘にございます」

いつの間にやら珠姫などと呼ばれ可愛がられるようになっていたお珠が答え、雑談混じりの作業は進んだ。問われたわけではないものの、雲八爺さんの孫という話は信用されてはいない様子だ。書写しは一通り終わり、今は草案として決めておいた50条に纏めているところだ。同じ意味の言葉でも表記の揺れが認められたり、同じことを書いていたり、この辺りの方言と思われる表現があったりと、判断に迷うところは注釈をつけ、要修正として結城晴朝殿に返す。


「父親が織田に仕えたというのならば矢張り姫君ではないか。万石取りか国持か、などとは今更問わぬが、儂から見れば雲の上であろう」

「とんでもございませぬ。父も雲八のお祖父様と同じように、戦に敗れて諸国を流浪し、京都の周辺に領地を賜り、先般は遥か西国九州まで飛ばされてしまいました。小田様のように故地を堅持し、父祖伝来の誇りを守り続けるお方を下になどどうして見られましょうや?」


その時の二人の会話を、恥ずかしながら俺は聞き逃していた。少ないが、なくはない考えるべき部分に当たっていたからだ。分類困難なれど、だからこそここが結城氏新法度の肝であると思える部分について、いかに短く、それでいて要点を失わせず纏めるかを思案していた。


「故郷を後にし京都、九州か。滝川や柴田も然りじゃが、織田家の家臣は大領を得るとも故郷を離れる者が多いと聞く。辛くはないか?」

「こちらに来て、わかったことが一つございます。梅に桜に藤、私の故郷で咲いていた花は、こちらでも、勿論京都でも同じように美しく花を咲かせるということです。たとえ違う土地となっても、同じように花は芽吹き、また同じように人は生きているのです。父祖伝来の土地も、元を辿ればこの地に初めてやってきた人がいて、その子や孫へと伝えることで、伝来の地となったのです」

「住めば都、小さな領地に拘ることは愚か、ということか」

「いいえ。そのような、偉そうなことは申せません。故郷を大切に思う心があってこそ人は人と呼べるとも思います。もしも私が非業の死を強いられるとするのでしたら、散るべき時を知ってこそ花は花。人は人。と啖呵を切ると思います。けれど、私は今楽しいですし、幸せです。今の私であれば、咲くべき場所を厭わずこそ人は人。花は花。と申しましょう。ね?」


その時の、ね? という問いだけを耳の端で捉え、俺は何も分からぬままに顔を上げ、笑顔のお珠にたいしてうんうん。と頷いて返した。


それから更に3日が経ち、草案ながらも結城氏新法度の直しが完成した。これより推敲(すいこう)、及び清書をし織田家に提出するのは結城家のやり方に任せると伝えると、ポツリと、小田殿が口を開いた。

「これを、提出する際には、儂も連れて行ってはくれぬかの? 小田氏治めは検地は勿論のこと、国替えにも応じ、織田家に忠誠を示す。佐竹氏との遺恨は忘れがたくあるが、これより先小田城は佐竹の領土であると認める。領民にもそう伝えたいゆえ暫く時を頂戴したい。二度と(わし)のもとに年貢を届けてはならぬ。とも伝えておきたい」


その言葉を聞いて、俺たち以上に驚いていたのが結城晴朝殿であり、それよりも更に驚き、驚愕の表情を見せていたのが源鉄殿であった。


「御一行の言葉が一々身に染みての。幸い、西国に飛ばされても見知った花を見ることは出来ると知れた。なれば儂ももう、これ以上領民に下手な意地を張らせることなく、植えられた場所で花咲かそうと思ったのよ。それでこそ、人は人なれ。であろう?」

それを聞いて、お珠はにっこりと笑い、雲八爺さんは呵呵大笑した。


「最初にお珠が申しておった通りになったのう」

「わたしがですか?」

「真心を込めて説得する、と申していたではないか」


それで納得し、平伏してくれる相手がいるとは思わない。と考えつつ始まった東国紀行であったが、期せずして、思いも寄らぬほどの大成功を収めてしまった。その決め手となったのがお珠の言葉であったというのも、随分と良く出来た話だ。


「このまま伊達に最上に蘆名、それから安東に南部辺りも一人ずつ説得して回れば一人の兵も出さずに東国平定が成されるのう」

「そんな無茶な」

などと言いつつ、俺たちは皆、まあ何とかなるだろう。と、呑気に笑い合うのであった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] 珠ちゃん良い子ですね……。 辞世の句に新しい方向性を与えたのはとても素敵だと思います。 ガラシャさんとは別の生き方を選んだのは、何処にいても、一度死んでも変わらない帯刀の姿に影響を受けたの…
[良い点] そうきましたか…辞世の句の転換、すばらしいです。 儚く散る未来がこなくて良かった。
[一言] 珠姫様武士より武士らしいんですけど…まあ史実の最期を考えるとそりゃそうか。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ