オダは関東にて最弱
「お爺さま、皆様驚いてしまいましたよ。まず座ってくださいまし」
耳鳴りでもしてきそうな静寂の中、雲八爺さんの後ろから静々と近づいてきていた珠がゆっくりとした口調で話しかけた。腕には今買い上げたばかりの酒を入れた壺を抱えている。
「申し訳ございません。いくつになっても大人しくなってくださらない、困った祖父なのです」
静寂の中よく通る声で珠が言い、抱えていた酒を誰彼ともなく注いで回った。それだけで、静寂の様子が随分と和むものであるから、美人というものは得であるとつくづく思う。
「何を言うか、武士が戦について問う。何もおかしなことではなかろう。儂は織田を、いや、天下を向こうに大立ち回りし、もう一花咲かせる所存である」
そんな空気を、雲八爺さんの言葉が再び凍り付かせた。一連の様子を見ながら、俺はよしよしと一つ頷く。もし今関東において織田と一戦交え、関東の独立を保つべしだとする機運が高まっているというのであれば、空気はかえって盛り上がるはずだ。これほど冷え込むということは、少なくとも彼ら在野の民の間では、今更織田と戦うなどとんでもないことだと衆目一致しているのに他ならない。
「そんなの無理だって少し考えればわかるでしょう。そろそろ諦めて国に帰りましょうよ、爺さま」
それがわかったことに満足した俺は、雲八爺さんに話しかけた。話しかけられた雲八爺さんは瞬きするくらいの刹那、俺から話しかけられたことを不思議に思うような目をした。良いのだ。聞きたい話は聞けた。それにこの小太郎という男、先程から色々と目端が利くように見える。下手に隠し事などしていたら見破られてそれこそ間者であると見做され切られてしまうかもしれない。
「なんじゃ。お主たちもおったのか。どこをほっつき歩いておった?」
「爺さまがこうやってすぐ金を使ってしまうから、路銀を稼いでいたんです。爺さま思いの良い孫でしょうが」
俺の言葉を受け、カッカッカといつも通り豪快な笑い声を響かせた雲八爺さん。そのままどかりと座り、そんなことより、と再び話を元に戻した。
「関東に、織田に手向かい天下を取らんと欲する武者はおらんか? 濃尾二州において右に出るもののおらぬ弓大将が、仕官を求めておると伝えられたし」
「だから無理ですって。北条の殿様が戦おうとしてないんだから今更」
「いやそんなことはない。儂は聞いたぞ、常陸には坂東太郎などと呼ばれる武士がおると。先に聞いた話でも、出てきた名は小太郎ときた。これは期待が持てる」
「そんな名前になんの意味があるってんです?」
「太郎という名が持つ意味、それ即ち棟梁なり」
その言葉に、軽妙に相槌を打っていた俺が黙った。成る程、と思ったからだ。
「坂東太郎とは即ち関八州に伊豆甲斐までの筆頭たらんとする意思表示。更には小太郎、小に太郎を加えるというのも、裏から操ってその実己こそが真の大将であるという自負が見え隠れする、良い名乗りではないか」
「いやいやいやいや、勘弁してくださいよご老人」
先ほどまでは持ち上げられて文句を言いつつもどこか楽しげであった小太郎が、本当に困った様子で雲八爺さんの肩を叩いた。周囲の連中もバツが悪そうにしており、冗談のつもりであった悪ふざけが大ごとになってしまったと後悔している様子が見てとれた。俺はといえば、ああ成る程そういう考え方もできるのだなと感心していた。恐らく初めて『小太郎』の名乗りを挙げた者にはそのような考えもあったのだろう。本気かどうかは別として。
「ご老人がひとかどのお侍様ってことは分かったけれども、ここにいるのは野心もなけりゃ実力もない、有象無象の名もなき農民たちだ。小太郎だなんて呼ばれて良い気になっていたことは謝りますから、これ以上戦の空気を呼び込まないでくだせえよ」
「なんじゃつまらん。織田と一戦構える気持ちはないと申すか」
「ないですよ。2年、いや3年前になるかな、織田の若様、今じゃ上様か。その上様が10万の兵を引き連れてこの辺りまで来たんだ。皆すぐ腹空かせて逃げ帰ると思ってましたよ。ところが海から山から俵がどしどし運ばれてくる。5年でも10年でも戦えそうな様子だ。それを見て小田原の御本城様が真っ先に頭下げたんだ。うん10年かけて切り取ってきた領地を没収されて文句も言えやしない。天下ってやつはもう決まったんだって、あの時俺たちは分かったんでさ」
「佐竹はどうじゃ。小田原などに下げる頭は持っておるまい。近頃でも戦の度に勝利を収め領土を切り取っていたと聞き及ぶが」
「それもその時までの話ですよ。小田原には頭を下げなくとも、甲斐にはいの一番に向かったはずだ」
「房総には里見氏なる者どもがおり、虎視眈々と関東の覇権を伺っておるようじゃが」
「如才なく、織田に降りました。古河公方の生き残りを抱えていたもんで、輿に乗っけて送り届けて、我々もまた、織田様と同じく足利の忠臣でございます。ってなもんだよ。今じゃ織田家の家臣の滝川のそのまた家臣みたいなもんだ。一時は北条相手に押してたんだがなあ」
「北関東の国人、豪族どもは?」
「情勢が見えずに戦おうとした連中は皆あっという間に蹴散らされました。天下様相手に喧嘩しようなんて酔狂な奴は一人もいやしませんよ」
雲八爺さんの問いに、淀みなく答えてゆく小太郎。戦を望む様子は本当にないようでありながら、その口ぶりは確かで情報収集は成る程確かに風魔と呼ばれるだけあると思わせてくれた。雲八爺さんも同じこと思った様子で、詳しいではないかと一言。
「そりゃあ、戦になって最初にしんどい思いするのは俺たち農民なんだから、誰と誰が戦をおっぱじめそうかって話はいつだって仕入れてるよ。場合によっちゃ女房子供担いで逃げにゃいかんのだから」
まあ、ごもっともだなあと思える答えを返され、結果雲八爺さんは黙った。これをもって、戦場を求めて関東くんだりまで遠征してきた老兵の旅は無念の中断とあいなった。しかしながら俺が持つ真の目的から考えてみれば、非常に良い話を聞けた。北関東にも不穏な動きなしであることが知れたのであるから、奥州南方の名族、伊達氏や大崎氏の勢力範囲までは安全に進めそうだ。
「ここいらでまだ血気盛んなのは、オダの旦那か、ここいらの倅どもくらいだわな」
「あいつら、親父らが名乗らねえならもらっても構わんだろうと言って、最近じゃ風魔党を名乗って粋がってるって話だが、そりゃ本当か?」
「本当だ。そのうち一番腕っ節が強い奴が小太郎を名乗り始めるぞ」
「誰に似たんだかな? あ、俺たちか?」
雲八爺さんも俺も黙っていると、いつの間にやら小太郎やその仲間たちが集まって、愚痴とも冗句ともつかぬ話を始めていた。既に俺は、ではこれより北へはどのような伝手をあてにして進むべきであろうか、などと考えていたのだが、意外にも、これまで黙って話を聞いていた四郎がポツリと、中年男たちの話の中に切り込んだ。
「その、オダの旦那というのは、もしかすると近江安土城を本拠とする先代の織田家当主のことではないのではありませんか?」
その問いの意味がよくわからずにいると、近場に座っていた男があたぼうよ、と笑い囲炉裏の灰に棒で文字を書いた。小さいに田、小田、とそこには書かれていた。
「この辺りで今唯一鼻息の荒い親父だ。佐竹は惣無事令違反で謀反人だと北条を焚きつけ、明日にも兵を起こそうってな勢いだ」
「なんと、おるではないか気骨のある男が! その小田某の話をこの爺にも聞かせい!」
雲八爺さんが我が意を得たりとばかりに話に乗り、黙ったままの俺もまた、深く頷いた。何も話はしないものの、お珠はかいがいしく男どもに酒を注いで回っている。そのせいもあってか男どもの口は滑らかだ。つくづく、見目がいい女とはそれだけで以下略である。
「あの旦那の話か、何がある?」
「まあ、領民には慕われてるな」
「家臣にも慕われてるんじゃないか?」
「鼻息の荒さじゃ今の坂東一だな、いや、日ノ本一かもしれんな」
口々に出てくる小田某に対しての評価、俺たちと同じ『オダ』の者がここ関東にいて、それもそれなりの人物として知られているなどということはこの時まで知らなかった、まあ、オダ違いではあるものの。
「おいおい、お前ら一番最初に言わないといかんことを言い忘れてるぞ。いいかご老人、天下を征した西の織田は正に日ノ本において最強。そして東の小田、諱は氏治。この御仁は皆にこう言われている、関東において最弱であると」
「んん?」
「その本城たる小田城は古くは結城に奪われ、その後佐竹の先代にも奪われ、上杉にも奪われ、太田にも奪われ、その度取り返し、そして今は当代の佐竹に奪われたまま。さて此度はどのようなやり方で取り返すものかと、関東の領民皆々楽しみに見ているというところだ」
「そ、それは戦が強いと言うべきか弱いと言うべきか」
思わず、悩ましい呟きを漏らしてしまった。天下制覇とは詰まるところ領地の奪い合い、領地を奪うということは、その土地の要たる城を奪うことにほかならない。そのようなものであるから一つの城を奪った奪い返したなどと言う話はしょっちゅう聞く話である。しかしながら今ざっと出てきただけで最低でも都合4回は奪われ、4回とも取り返している。それは情けないことでもあるのだが、凄まじいことでもある。
「いや、弱いだろ」
そんな俺の呟きも、耳聡く言葉を拾い上げた酔客の一人にバッサリと切り捨てられた。周囲を見回してみても、小田氏治という人物は戦の弱い人物ということで衆目の一致するところであるらしい。ならば名うての軍略家、ということなのであろうか。
「頭の回りも良くねえな。城を取り返して嬉しさのあまりに宴会して、そのせいでまた奪われた。なんて話を聞いたことがある」
「義理人情に篤い、ってわけでもねえなあ。他の国人豪族よろしく、軍神様の遠征だってなりゃ頭を下げる、北条のご本城様が出張って来たなら助けてくれと言う。織田の若様が関東にやってきた時だって最初に顔色伺いにいったのはあの爺さんだって話だ。そんでもって今、小田原勢がいっとう頭を痛めてるのはその小田の旦那をどう扱うか。ってところだ」
「恩義に感じてくれてるんならちょっとくらい領地分けてやるから、別の城で納得してくれ、って本気で思ってるかもなあ」
「ちげえねえ」
一同どっと笑い、しかしながらその笑いの中に我ら四人は加わることなく思い思いの表情を作った。
雲八爺さんは戦人らしい獰猛な笑みを見せ、同じくお珠もにっこりと微笑んでいたが、こちらはまだまだ物見遊山が楽しめるとの好奇の笑みであっただろう。四郎ただ一人が渋面を作ったのは、そんな足元の覚束ない連中の面倒を見、身の安全を守らねばならぬゆえであっただろう。そして、表面上は四郎と同じく面倒なことになりそうだと渋面を作ってみた俺はといえば、これこそ死人となった我が身の働きどころであると、次の目的地が決まったことに満足を得ていた。
「孫弟子どもよ、我らの行き先が決まったぞ」
そんな俺の内心をしっかりと汲んだ言葉を述べてくれたのは当然雲八爺さんであった。また面倒なことに、と俺は口に出して嘆息しつつ、小田氏治なる男の顔を見たいと考えていた。思っていることと違う表情を作るというのは中々難しいものでもあり、同時に楽しいことでもある。両親や村井の親父殿、或いは松永久秀殿ないしは亡き公方義昭公とのやりとりを経て、俺もそれなりの腹芸をすることが出来るようになったと自負していたが、真っ向から嘘の態度を取り続けるというのは腹芸とは違う趣の芸事であるようだ。
「行ってどうするというのです?」
「決まっておろう。小田殿にご助力致す。共に小田城を奪還し、旧領を回復せんとな」
「奪い取ってどうするのです? 佐竹何某様と戦するのですか?」
「当然! 土浦城も小田城もどこにあるのかよく分かっておらぬが、二城もあればそれなりに領土もあろう。帰す刀で佐竹の領地を全て奪い取り、常陸一国我がものとすべしと献策してしんぜよう」
「そんなことをしていたら惣無事令違反だと西より大軍が迫ってくるは必定ですが」
「その間に陸奥の連中とて準備が整うであろう。奥州合従の軍にて織田の者どもを追い返し、関東に覇を唱えたのち承久の乱が如くに西へと攻め上がる。これにて大勝利よ!」
四郎、お珠、俺の順に問われ、それぞれに対し自信満々、意気旺盛なる言葉を返した雲八爺さん。周囲は驚くやら呆れるやらといった様子である。まあ馬鹿げていると思うだろうな。けれど、父とて昔、まだ尾張すら完全に征しておらぬ頃に、濃尾に伊勢志摩の併せて四カ国の兵を率い、将軍を戴き上京する。などと述べたらしい。かの諸葛孔明が述べた天下三分にしても、実現していなかったら時勢の見えていない馬鹿が荒唐無稽なことを言ったと笑われたであろうし、大きな絵図を描くことは良いことであると俺は思う。そういう大言壮語する人間が好きな性分というだけのことかもしれないが。
「しかし、その小田のお殿様はかつての居城を取り戻せれば良いだけかもしれませんよ」
とはいえ、今雲八爺さんが述べた大計は、何がどうひっくり返っても起こり得ないことだとは言い切れない。勿論限りなく不可能に近いとは言える。一撃にて小田城を奪い取るのは困難であろうし、そのまま常陸一国を攻め落とすなどというのは更に困難であろう。常陸一国治められたとして、本州の北端に位置する者らにまで援軍を乞い、これに諾と言わせ、一つの軍としてまとめ上げる、それは更に更に困難である。だが、これまでの話を聞くに、この辺りには今領地を失った浪人が数多いるはずだ。大義名分さえあればいざ鎌倉とばかりにおっつけ馳せ参じる者は場合によれば万余に達するかもしれない。更には中央の様子を伺わせようと、密かに小勢を寄越す勢力もあるかもしれない。それらが一つに纏まれば、案外数万の軍勢が出来上がるかもしれぬ。そうして戦の形にさえなってしまえば、万が一のことは常にあり得る。そんなことにならないためにも、俺は小田氏治なる御仁に会っておきたい。
「であったとしても織田のうつけに尾を振る者どもよりは会う意味があろう!」
雲八爺さんが変わらぬ大声で述べる。その通りだ。大いに意味はある。東国にも蔵入地を設け肱の臣たちを配することに成功し、更に陸奥出羽と広げてゆきたい織田家の理想としては、小田氏治が小田城を奪い常陸もほぼ奪い尽くしたところで織田の大軍に背中から攻撃され降伏。小田氏治は改易となり土浦、小田の二城及び常陸一国も没収。同地は織田家直轄となり東国、陸奥の見張りとする……といったところであろうか。
「こんな物騒なご一行が西から来るだなんてなあ」
ふと、それまで呆れた様子で雲八爺さんを見ていた小太郎が呟いた。
「目ぇ離すとおっかねえから、俺が土浦まで連れてってやる。あんたら今日は俺んとこに泊まんな」
そうして小太郎は、俺たちにとっては渡りに船の提案を出した。ほっほ、と、雲八爺さんが笑い、よかろうと頷く。
「思うたことは口に出して言っておくもんじゃ。こうして助け手が見つかる」
「助けるんじゃなくてお目付役だよ。風魔の小太郎様はいつだって坂東の平和ってやつを望んでんだ」
こうして俺たちは、何だかんだと面倒見の良い道先案内人を捕まえ、土浦城へと歩を進めるのであった。




