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信長の庶子  作者: 壬生一郎
九尾編
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二の尾『鯰尾の忠三郎』

今更な話ではあるが、武田信玄という人物について少々語りたい。とはいえ越後の上杉謙信と争い川中島にて決戦に及んだであるとか、相模の北条氏康、駿河の今川義元と共に甲相駿三国同盟を結んだであるとか、その強さから甲斐の虎と呼ばれ恐れられたであるとか、誰もが知っていそうな部分については語らない。話はもう少し後である。


その晩年において織田家との全面的な交戦に及んだこと、それ以前にも多くの対立に基づき互いに非難や攻撃を繰り返したこと、そして最後には武田家そのものが織田家によって滅ぼされたことによって、武田信玄その人の生涯が反織田信長一色に染め上げられたものと思われがちであるが、当代の英傑二人は長らく友好的な関係を築こうと腐心していた。英雄は英雄を知るものであり、場合によっては己が破れることもありうると、それぞれが自覚していたのだろう。そして両者は嫡男と五女との婚姻をもって姻戚同盟を結ばんとした。残念ながらこの婚姻も虚しく織田武田はあい争い、そしてはっきりとした勝者敗者に別れてしまうのだが、ここで重要なことはこの婚姻は今もって生きているということである。


甲斐武田家が滅びた際、生き残った武田家の者たちは抗戦に及んだ者、逃走した者、捕縛された者に別れた。越後へと逃れ抗戦を選んだのは仁科家の名跡を継いだ仁科盛信であり、山県昌景らである。逃げることも戦うことも出来ず甲斐躑躅ヶ崎にて虜とされたのは多くが姫や足の弱った老人たちであった。そしてそれも潔しとはせず東国相模の北条氏に逃げたのは仁科盛信の実妹でもあり、勘九郎の許嫁でもある松姫である。戦後、仁科や山県らをどう扱うかについては議論が百出したようであるが、上杉家の降伏交渉、朝廷による取りなし、そして北条家の臣従により、さらなる流血は免れた。まずは松姫が織田勘九郎信忠の正室として輿入れした。人質の返還ではなく、正式な輿入れである。これによって流れは武田家の再興へと向かった。仁科盛信は武田信盛と復姓、改名し、山県昌景らの旧臣もこれに従った。武田家には一万石と甲斐守護の位が与えられ、後の甲斐復帰に含みがもたされた。そして、亡き武田信玄に対しても、その権威の復活が計られている。


恵林寺という寺はもとより武田家との縁が深く、生前より武田信玄の菩提寺となることが決まっていた。武田信玄の死というものが当時の情勢により秘匿され、後に一応の葬儀は行われたが甲斐信濃に一大領国を築いた英傑に相応しいものとは言い難かった。そして此度、義息となった勘九郎を喪主とし、恵林寺住職である快川紹喜(かいせんじょうき)を大導師に、改めて葬儀が行われる。織田家は、葬儀に際して日ノ本全ての諸大名に対し、葬儀の参列を呼びかけている。葬儀の日付は信玄公がご逝去あそばされた4月12日。この日こそが関東以東に存在する全ての大名豪族国人らの運命を分かつ日となる。


「寺がまるで砦のようになっておる。今にも堀を巡らし城郭と成しそうな勢いよな」

「既に北条家は当主氏政様が自ら来られ、甲斐の領主となった柴田様、そして上様の名代たる蒲生忠三郎様に挨拶を終えたとのこと。既に相模や武蔵にも関東管領となった滝川様以下、織田の手が入っておりますれば甲斐から相模への街道は十分に整備されております。東への道行は思っていたよりは易き事になるかと」

四郎の言葉に頷いた。それでも相模までざっと二十里に及ぶ山道である。簡単とは言えまいが、北条の兵が踏み固め、恐らく織田家の重鎮が下向に及ぶこともあると見越して整備された街道である。獣道が続き、いつの間にか方角も分からない。ということにはならないだろう。


「西国勢は大坂、畿内・東海の諸将は岐阜、関東・奥州よりは小田原、羽州よりは越後春日山城に参集すべしとのこと。御先代様は安土にて西国諸将を出迎え、上様は同じく岐阜城にて諸将を出迎えておる様子」

「兵はどれほどいる?」

「大阪に4万、安土に1万、岐阜に2万、既に恵林寺に集まっている兵が1万、合わせて8万ほど」

「大軍だな……いや、今となっては少なく抑えたと言うべきか」


既に恵林寺かその近郊に集まっている将の中には河尻秀隆、森長可、大島光義などといった名が見受けられた。ここに武田家が加わり、少しずつ勘九郎独自の軍が出来上がってゆく。そしてその名代にして先手大将に蒲生氏郷の名がある。俺や勘九郎とは腹違いの妹を娶った義弟は、準一門としての立場を盤石のものとしているようだ。


「それで、この大島屋敷に忠三郎が寝泊まりしている。と」

「うむ。大島家は先手の先手として客を迎える屋敷作りに携わっておる。儂も多少の差配をした。倅より話も聞いておる。間も無く戻ってこよう。余人を交えず、存分に語らい合うべし。儂も倅どもと久しぶりに酒でも飲みたい」


雲八爺さんの伝手を使って宿を確保し、都合が良い事に忠三郎との繋ぎまでつけてもらった俺は、手伝いの下人に扮して忠三郎を待っていた。日が沈んで間も無く、流石に疲れたのかお珠は部屋に戻って休んでおり、雲八爺さんは言葉通り倅と酒を飲むためにその場を去り、四郎も気を回して姿を消した。俺は忠三郎が使っているという部屋のすぐ隣の部屋に控え、そして間も無く忠三郎が戻ってきた。


「兵の寝泊まりはひとまず何とかなりそうであるな。重畳である」

(わし)はもう休むゆえ、そちらも気ままにせよ。明日よりまた挨拶回りだ」

「夜伽などいらん、或いは明日にも東国で反織田の兵が上がるかもしれんのだ、英気を発散するのではなく貯めておかねばな、はっはは」


やや疲れた様子ではあるが、機嫌良さげに話をしている忠三郎の声が続けざまに聞こえた。話し相手は頷いたり小さく相槌を打ったりしているのだろう、そちらの声までは分からなかったが、近づいてくる足音が一人のものではないこともわかった。


「忘れる前に、妻に文を書いて寝る。祐筆などはいらん。こういった手紙は下手であっても己の手でしたためるのが良いのだ。それで妻は己が夫から大切にされていると信ずることが出来る。夫婦円満の秘訣である」

「……それは正しいな」


硯と燭台をくれと言った忠三郎が、続けざまに語った言葉になるほどその通りだなと思わされ、思わず呟いてしまった。ここを発つ前に、俺もハルへの文を忘れずに書いておこう。


硯をもらい、燭台に明かりを灯した忠三郎は本当に己だけで文をしたためるようで、小姓がその場を離れてすぐに、静かな屋内に墨を擦る音が響くともなく聞こえてきた。暫くその音を聞き、頃合良しと見てから己が隠れていた部屋を出、忠三郎の部屋の前へ。


「久しいな。ニャン三郎」

いくらか緊張しながら、それでもゆっくりと落ち着いた声で話し始めることができたと思う。


「……化けて出るには、少々早すぎますな。久しぶりの再会とまでは言い難く、ありがたみに欠けます」

「なんだ、閻魔様に無理を言って化けて出たと言うのに、驚きもしないのか」


カチャン、と硯を置いたにしては少々大きな音が鳴り、それからすぐ返答された。その声が俺よりも余程落ち着いた様子であったため拍子抜けした。そんな俺の心情が読まれたのかふふんと笑う声が漏れ聞こえてきた。


「知っておったのか?」

「知りませぬ。義父上も何も言ってこられませぬ。察したのですよ。義兄上程の方が不意に亡くなられた。しかし下手人の詮議もそこそこ、失火による事故死、義父上にも落ち込まれた様子なく、口出し無用とばかりに当事者の方々も黙っている。ならば何か言えぬことが起こったのであろうと察するのが妥当というもの」


『俺が生きていたことを』知っていたかとは聞かなかった。しかし忠三郎は実に納得のいく答えをくれた。


「まあ、拙者の場合妻に泣きつかれ、少々調べたというものもあります。義父上や直子様、上様が義兄上を謀殺したという噂も流れましたので。もしそれが真実であればそのような現世(うつしよ)に生きていたくはないと。そうではなかろうという話は納得させましたが、それでも時折憂う様子で外を眺める妻は見ていて愉快ではありません。時が許すのであれば義兄上も何か便りを差し上げて下さい。このような悪ふざけが出来るのですから、少なくともお三方が共謀したというわけではないのでしょう?」

「無論そうだ。しかし、そうだな……うん。可愛い妹に文の一つくらい出しておこう。さしあたって近日中に一筆したためるゆえ、ピョン三郎が持っておいてくれ」

「久しぶりに言うておきますが、拙者は忠三郎です」


義兄上でなければ切り捨てておりますぞと低い声で言われ、俺はへへへと笑った。うん。このような感じであった。俺と忠三郎は、出会ってすぐからこのような感じだったのだ。それから暫くの間、俺は最近の織田家について教えてもらった。


「斉天大聖や十兵衛殿、それに徳川殿なども、薄々わかっているのだろうな」

「まあ、そうでしょうな。公然の秘密。というほど明らかではなく、暗黙の了解。といった風に、みな口をつぐんでおります。察する事に長けておられないのか、織田一門の方々の方が動揺は大きかったように見受けられます。何かに気がついておられたのは三七郎様くらいのもので、三介様などは泣いておられました。そのお陰で、織田家に降ったばかりの家の者らは本当に単なる事故であったのかもしれないと思うようになったそうですので、察しが悪いと断ずることもできませんな」

「相変わらず三介の馬鹿さは良き転がり方をするものだ」

恐らく本当に悲しみ、本当に泣いてくれたのだろう。俺が眠っていない墓の前で珍妙な踊りなども披露してくれたかもしれない。


それから話は俺が化けて出てきた理由についてとなった。母や雲八爺さんらに伝えたのと同じ話を正直に伝えると、今度は忠三郎が楽しげに笑った。


「良いですな。ぜひ再びの帯刀問答にて東国勢を(いくさ)なく織田家に屈服させて見せて下さい」


「そちらに食いつくか。俺とて本気でできると思ってはおらんことであると言うのに」

「およそできそうにないことであるからこそ、実際にそれがなされるところを見てみたいのですよ。それに義兄上は言っておられたのでしょう?戦国乱世は今日を限りである、と」

「懐かしい。だが忠三郎の前で語ったことのない話だ。誰に聞いた?」


軍神、上杉謙信を前に、戦国乱世は今日が最後であると一席ぶちあげてしまったのはもう二年も前、信州は川中島での話だ。実際あれ以降織田家が正面を切っていずれかの勢力と戦ったことはなく、世は乱世から遠ざかっている。だがもしことここに及んで日ノ本の東半分に住まう者らが織田家に刃向かうとでもなれば話は変わってこよう。そこまでのことは起こらずとも、このままダラダラ数年戦が続くというのも締まりのない話だ。


「御実弟と御実妹が話を仕入れ、広めておりますな」

「あの二人か、仲が良いのか?」

「妻がたいそう可愛がっております。義兄上はご両親に程よく似ておるそうですが、二人はより直子様の血が色濃いようで」

「相がそう言っていたのか?」

「はい」


あの母によく似た童が二人というのも中々だなと、少々不安になった。そうしていると見えてもいない表情を読まれたのか、忠三郎が笑った。


「ご心配なさらずとも、二人とも今は亡き実兄にご執心です。川中島にて義兄上が語った言葉も、幼き日に作ったかるたも、延暦寺にて即興で編み出したいろは歌も、全て二人が動き回り蒐集しております。妻が何くれとなく頼られるのもそのためです。私の方が兄上のことを大好きなのですよ。などと妙な対抗意識を燃やしているのは珍妙で、見ていて飽きませぬ」

「俺にも似ているな」


今俺がしようとしていることもまた蒐集といって差し支えない。二人が集めんとしているのは俺についてのことであり、俺が集めんとしているのは特定の人物ではなく、法度や式目についてであるという違いはあるものの、行動が近しい。


「近いうちに弾正尹(だんじょういん)記なり津田畿内様語録なりといった書物が長島に並ぶやもしれませんな」

「それがされる頃には牛一殿が父上についての記録をまとめておるだろうし、母上についての逸話集などがいつ書にされてもおかしくはない。或いは忠三郎戦記を相が著すかもしれんぞ」


ありそうな予想に、こちらもまたありそうな予想で返し、つかの間二人で声を出して笑った。自分一人についてまとめられてしまうのは少々面映いが、家族皆でというのならそれもまた悪くはない。母上の話に尾ひれ背びれがつくように、今回は色々と動いてやるつもりでもある。


「それでだ、話を戻す。東国や陸奥へ向かうにあたり、伝手が欲しい。説得にていくさを防ぐは(はなは)だ困難であろうが、それぞれの領地にて発布された法度であればそれなりの数もあり、かき集めることも出来よう。忠三郎には後ろ盾となってもらい、俺はその土地の内情を、可能であれば織田家に内応した者などを忠三郎に伝える」

「拙者も九尾の一員ということですな」


母上のことを思い出し、話を戻すと、勘の良い忠三郎がほくそ笑むかのような声を出した。その通りだ。


「うむ。九尾第二の尾、鯰尾の忠三郎として、直子稲荷様に尽力せよ」

「第二なのが不満ですが、まあよろしいでしょう。関東から奥州においても白河の関あたりまでであれば既に上様が兵を率いて下向なさったこともあり、誠に反抗的なものどもは既に打ち滅ぼしてございます。ゆえにそれなりに手は打てましょう。明日中に文を書き、お渡ししますれば、北条家は賓客として遇してくれます」

「主賓は雲八爺さんという事にしてくれ。未だ俺は死者であるからして」

「あの老人も、今や単なる弓大将とは違う己が身を知ってほしいものですが」

「ああいう無茶な父親がいると息子がしっかりするのだ。忠三郎とも仲良くやっているようではないか」

「大島家についてはその通りかも知れませんが、まさかご自身もそうだとは仰いませんように。義兄上とご両親と、誰が最も無茶かと問われれば、拙者は答えを出すに三日三晩かけますぞ」

苦笑し、いつもの減らず口を返されはしたものの止められるようなことはなく、忠三郎が墨を擦る音が再開した。幸先良し。


「ところで、法度を集めるとなれば甲州法度次第はどうなさいます? 拙者全てを読んだことはございませんが取り急ぎ手に入れ古渡に送ることは出来るかと」

「いや、あれは要らぬ。我が手には既に今川かな目録がある」

「今川かな目録の評判が高いことは承知しておりますが、広く蒐集するのではないのですか?」

「今川かな目録がある以上、甲州法度次第を手に入れることは無意味だ。あれは今川かな目録を後追いで模倣した劣化版でしかない。違反すれば己にも罪をと明言した信玄公の決意は見事であるが、内容として真新しいところは何もない」


手に入らないものを手に入れるための旅であるから、伝手や金で手に入るものは既に手に入れてある。そして、海道一の弓取りでもあり当代一の文化人でもあった亡き今川義元公の、文化人としての才のみ受け継いだ人物、嫡男の氏真殿はいま京都にて奥方や実弟と共に暮らしている。一条兼定公辺りもそうだが、負けた上で保護されるに至った貴種というのが実は最も勝ち組なのではないかと思えてならない。


「出来れば弟君、古典厩信繁(こてんきゅうのぶしげ)殿が著したという家訓の方を手に入れてもらいたい。それ以外に忠三郎に手に入れて欲しいものがあるとすれば六角氏式目の方であるな。近江名門六角氏の掟書だ。元は六角氏の柱石たる家であった蒲生氏にも残っておろう」

言うと、珍しく忠三郎が口ごもった。参考にはなりますまい。であるとか、大したものでは、などと、謙遜とは違う口ぶりで旧主筋の定めた法について述べる。


「あれが出来上がった経緯は知っておる。その四年後に、美濃尾張を征した織田家が大挙して近江へ攻め上がった時が俺の初陣であったし、父上に忠三郎が見初められたのもあの時であろう。しかしな、外聞悪しき流れによって出来上がったからこそ、学ぶべきものもある。と俺は思う。正直に言えば東国全てを回ったところで今川かな目録を超えるものがあるとは思えぬ。俺が求めるのは出来栄えの良さではなく、新しい知見なのだ」

忠三郎に皆まで言わせず俺が俺の考えを述べると、それならばご用意致しましょうと返事が返ってきた。うむ。これによって現状、我が道行きに後顧の憂いなし。


「まずは戦国の先駆けとでも言うべき早雲寺殿が遺された二十一か条を見せて頂くか。それより北となると正直何もわからぬ」

「先に述べた武田信繁殿が書かれたもののように、法度ではなく家訓であるとのことですが、まあ知っておいて損はありますまい」

うむと頷いた俺はそれからもうしばらく忠三郎と取り留めのない話をし、その二日後、忠三郎が書いたいくつかの文、気を利かせて渡してくれた路銀などを持ち、一路相模を目指した。

(いみな)と呼び名について。

現代日本において分かりやすい諱(信長)と普段使いの呼び名(三郎)を、

本作ではなるべく使い分けたいと思っていますが、

分かりやすさ、或いはそもそも呼び名がよく分からない人物についてどうするべきか、

という点を考えた結果、本来あり得ないと分かった上で諱やオリジナルの呼び名を使うこともあります。

ただ、単純な筆者の見落としや表記漏れ、官職、受領名呼びなどとの混同は出てくると思います。

歴史知識に自信ニキの皆様は気がつき次第是非お教えください。ご協力お願いします。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 面白いです。 特に「二の尾『鯰尾の忠三郎』」というタイトルが脳内で映像になりやすく、後世の尾ひれ背びれを想像して笑ってしまいます。 [一言] 以前はひらがなの ああああ でした。 感想欄に…
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