一の尾『狐尾の帯刀』
「話すことなど何もありませんよ。私は何も知りません」
捕らえられ、座らされた母の最初の言葉はひどく子供じみた一言だった。そっぽを向き、下唇を突き出し、イタズラを咎められて拗ねた様子を見せる母親を見て、息子たる俺は思わず笑いそうになってしまい、それを堪えるため懸命に眉を顰めた。
「成る程、先ほどの言を曲げず、首根っこを掴まれて、引きずられるまでは諦めない。とのことでよろしいですかな?」
とはいえ拗ねている母に対して追従の言葉を述べるわけにはいかず、俺は先ほどの母の言葉を引用し、問うた。この切り返しにはさしもの母も少々驚いたようで、拗ねるように尖らしていた唇を真一文字に引き結び、挑むような目で俺を見据えた。
「どこまで知っているのです?」
「おおよそ全て」
今さっき母が述べた『私は何も知りません』という言葉、これは単なる言い逃れの言葉とは違う。その言葉通り、此度の騒動が表沙汰になってしばらくの間、多くの寺社や伊賀忍びが証拠を掴もうと動いたのにも関わらず、母の尻尾は掴めなかった。その無駄に高い能力に対しては感嘆することしきりなのだが、しかし母は失念していた。このような大それたことができる者が、己以外には一人としていないという事実を。ということで、俺は証拠から下手人を探すのではなく、初めから答えを見定めた上でその側近を裏切らせた。市姉さんと犬姉さんが自白するのであればそれが動かぬ証拠となる。故に俺はおおよそ全てのことについて既に調べを終えている。
「随分と人や手間をかけたようですね」
「相手が相手ですので」
此度の騒動について、俺個人の心境として怒りは特にない。どちらかといえばその行動に笑ったくらいであるし五右衛門たちと合力してことに当たるのは楽しかった。だが、百年続いた戦国の世において、時に武家以上に猛々しくあった荒法師どもが相手とあっては楽しんでばかりもいられない。京洛ですら焼き払ったことのある連中が長島の街を文字通り海の藻屑にしたとしても何らおかしくはない。街と同時に、元凶たる母まで海に沈められてしまっては流石に笑ってはいられない。という所以での此度の暗躍でもあるのだ。
「まだまだ世に乱世の気風は満ち満ちております。寺社の連中も上の方は道理がわかっておりますが、どの寺にも動きの速い跳ねっ返りは少なくありません。そして、もしその跳ねっ返りどもが御身を害した場合、より不幸になるのは相手の方です」
百年の戦国乱世を征した覇王にして魔王織田信長。その妻である原田直子が坊主に殺されたとなれば血が流れないわけはない。そして戦いになれば絶対に織田家が勝つ。そうなってもよろしいのかという意味を込め、淡々と、諭すように述べると母の眼から険が取れた。そうしてふうとため息をつき、小さく肩を落とし、
「そなたの言う通りですね。ごめんなさい」
ぺこりとひとつ、俺に向かって頭を下げた。拗ね方もそうだったが、謝り方は尚一層子供のようであった。
「わかっていただければ結構です。教如殿と話はつけてございますのでこの先はご協力願います」
「……そなたが、話をつけたのですか?」
「無論、村井家が話を通しました」
探るような母の言葉に、裏表なく答えた。俺の存命について知る者は少ない。これからも、必要とならない限り教え広めてゆくつもりはない。
「わかりました、私たちが著した書についてはどうするおつもりですか?」
「それぞれ、題材とされた人物を開祖とする宗派の寺に渡します。それをどのようにするもそちらの存念次第。ということです」
「成る程……」
母が何かブツブツ言いだした。こういう様子の時の母は余計なことをしでかしがちだとこれまでの経験上知っている俺であったが、しかし母はそう長く考え込みはせず頷いた。
「畏まりました。そなたの言う通りに致しましょう。本の回収、そして引き渡しにかかる銭は私が出します」
「変に素直ですね」
「負け戦です。私はまずそなたを味方につけてから悪ふざけをすべきでした。首根っこを捕まえられたからにはこれ以上抗っても無益。それに」
「それに?」
問うと、母がニヤリと粘りつくような笑みを見せた。
「坊主の中には私たち以上に業の深い者がおります。本を引き渡せば即日のうちに焼き払ったと言うでしょうが、必ずや隠し持ち、ほとぼりが冷めてから広める者が出てきます。そう思えば聖域たる寺に私たちの本を渡すことも又、古渡百年の計というもの」
流石は天下万民から妖狐と目される女傑であると、思わず唸らずにいられない言葉であった。母の左右では手下二人が似たような笑みを浮かべているし、後ろの方にいる五右衛門はどこか達観したような遠い目をしている。俺は苦笑し、貴女よりも業が深い者などどこにもおりますまいと述べた。その言葉を受け、三人が声を合わせて笑った。
「しかし、そなたには本当に迷惑をかけてしまいましたね。改めて、申し訳ありませんでした」
「まあ、こちらとしてもそろそろ何かしようと思っていた頃でしたので良い肩慣らしです。母上はそろそろご自分の身分や名を考え、それなりの行動をとって欲しいとは思いますが」
「私など、良い仲になった相手が後の天下人であったというだけの、とりたてて何の取り柄もない普通の女子なのですから、侮るくらいがちょうど良いと思うのですが。やはり夫は夫、私は私という風にはいかないようです」
「……母上は多分、夫が何者であったとしても周囲から一目置かれる人物になっていたと思いますけれどね」
母は俺が知る限り世で最も行動力溢れる女性だ。『天下人となった夫』のお陰でその名声が否応なく高まったことは確かであろうが、しかしながら天下万民が彼女を語る時『天下人の女』という言葉を使うよりは『あの夫にしてあの妻有り』と評するのではなかろうか。
「皆、己の目で見ていないものについて想像を働かせすぎです。私が謎の忍び衆『九尾』を使役し、様々に暗躍していた。などと思っておるようですけれど、私は単に食い詰めた者たちに仕事を与え、日銭を渡し、時折他国のお話を聞いていただけです」
「それをするだけでも『ただの女子』とは違うのでしょう」
はじめは当てつけだったと記憶している。自分のことを物の怪だ稲荷の化身だと言ってくる者らや、怪しげな連中と度々会って話をしていると讒言をする者らが煩わしく、半ば開き直っておおっぴらに人を雇い、それを『九尾』と名付けたのだ。『後に天下人となる夫』も含め、織田家の誰もが、その行動に苦笑いしつつ黙認した。
「まあ、武田の忍びと九尾とが、影で激しく争っていたのだ。などと根も葉もない噂もじきになくなるでしょう」
「争うべき武田がなくなったから、ですか?」
問うと、その通りだとばかりに頷かれた。俺はそれに何らの反論もしなかったが、そうはならないだろうなとも思っていた。根も葉もないからこそ噂話は面白く、余地がある限り人の想像は時と共に膨らんでゆく。武田忍軍、などというものが実際にどれ程の規模であったのか、そもそも組織として存在していたのかすら俺は知らない。だが、武田が織田にとって長らく目の上のこぶであったという事実は消えない。ならばこそ、『織田信長を苦しめ続けた武田忍軍。その武田忍軍を暗闘にて征した九尾なる謎の集団。そしてその棟梁にして織田信長の妻となった一人の女』という物語は平和な時代において輝きを増すことであろう。三国志の英雄豪傑たちが実際に生きていたのは既に千三百年程も前の話。人は少なくとも千年単位で物語を紡いでゆけるということはもう証明されている。千年後、このお人は一体どのように描かれるのであろうか。と考えないでもない。
「何だか面白くないことを考えているお顔ですね」
「いえいえとんでもない。仰せごもっともと存じます」
笑いながら誤魔化すと、ムッと睨まれてしまった。つくづく勘が鋭いことだ。そういうところも、心眼や千里眼を操る妖狐と言われてしまう所以であると思う。
「まあ良いです。私がどのように言われたとしても、実際に『九尾』と呼ばれていた人々はあらかたが解散しました。恐れられたとしても、実力がないのですから問題はありません」
「解散してしまわれたのですか?」
既に述べた通り、古渡百万石の領主などというのは大げさだが、母が古渡と長島において実質的な女領主となっているのは事実だ。今回のような騒ぎを起こした時真っ先に黒幕であることを疑われ、実際にそうであったことから、それなり以上の力があることも分かる。俺ならずとも、九尾と呼ばれていた者たちが母の手足、もとい尻尾となって動いているものと考えていたのではなかろうか。
「私は呂雉を目指してなどはおりません。かといって陰麗華を目指せるほど慎ましい性根でもありませんけれど」
「それはそれは」
わかりやすい例えに頰が緩んだ。名を挙げた二人は共に、かつて中華の地にあった漢という国の創業者を夫に持つ女性だ。前が呂雉、後が陰麗華。呂雉は夫劉邦亡き後その愛妾と子らを殺し、建国の功臣たちに対しても地位を剥奪、追放、誅殺した上で自身の一族によって政を牛耳った。一度は滅びた漢を復活させた光武帝の妻である陰麗華はその逆を行き、自身は政について口出しをせず、一族にも政への関与を禁じたとされる。大乱を征した夫を持つという点において、この二人は母にとって良い見本となりうるのであろう。
「此度も、戦の血生臭さが少しでも薄まれば、と思ったのですが、却って引っ掻き回してしまいましたね」
ふと、憂いを帯びた口調で母が呟いた。顔は変わらず笑ってはいるものの、先ほどまでの楽しそうな様子とは違う。
「まだ、戦になると決まったわけではありませんが」
つい先ごろ、織田家は日の本全域において検地を行うと触れを出した。全ての土地に代官を派遣し、正確な石高を算出し、織田家が定めた通りの税を支払わせる。それはすなわち全ての大名、領主、国人たちの財布を管理するということであり、どれだけの兵を養えるのかを知らせよということでもあり、また、土地を耕している者からその土地の領主までに至る途中に携わる多くの者たちの権利を否定することでもある。一言で言って、戦うか従うかを問うているのだ。恐らく従わぬ者は多い。そして織田家は従わぬ者が多いことを望んでいる。大義名分を得て攻め滅ぼせば、その土地を奪い取ることができるからだ。
「なりますとも、そうしようとしているのですから」
これまでであれば、陸奥のような遠国の武士たちは中央の動向を伺いつつ、その意向には知らぬ存ぜぬを通すことが出来た。だが今回父は陸奥の最北端に至るまで、東国全ての諸大名に人を寄越すよう申し付けている。無視するのならば即ち謀反人。これを討伐することは武家の棟梁として当然ということである。そのため、今織田家は半ば公然と戦の支度をしており、尾張や安土からは織田家の武将は出払っている。母がこのようなことが出来たのは、それが理由と言えなくもない。
「悲しいことです」
様子を見せるだけにとどまらず、はっきりと声に出して悲しいと述べた。
「そのように思うのでしたら、もう少し穏当なやり方をして欲しいと頼めば良いではないですか」
頼んだところでどれだけ変わるかはわからないが、頼むだけであれば誰よりもたやすく行える立場にあるはずだ。だが、彼女はゆっくりと首を横に振った。
「呂雉になるつもりはないと言ったでしょう。悲しいとは思いますが、それも夫が決めた道です。私は出しゃばらず、応援するのみ」
「昔から、二人で何か話されておりませんでしたか?」
「相談されれば私の考えも述べましょう。しかし殿が一度決めたことであるのなら余計な差し出口はしません」
なるほど見事な覚悟であると、少々見直した。いや、これまでだって心から尊敬はしてきたのだが。
「とは申せ、坂東や陸奥でまた大いくさ、となれば当然少なからず戦火に焼かれることでしょう。例えば菅原孝標女のような才女が命を落とすやもしれませんし、更級日記のような書が失われてしまうやもしれません」
少々しんみりしてしまった。空気を読むことに長けている姉さんたちは口を開かず、五右衛門は元より黙ったままだ。しかし、それでも一応今回の一件については落着を見たので、五右衛門に目配せをした。目ざとい五右衛門は頭を下げ、すぐに部屋に温かい茶と、みかん、かき餅などが持ってこられた。
尾張よりも西にある国々については、俺はほとんど全ての国に直接出向き、戦もした。しかしながら東となるとせいぜい三河と信濃くらいしか知らない。そんな俺が人づたえに聞きかじった話によれば、陸奥の国人領主たちはその多くが姻戚関係で、彼らは絶えず離合集散を繰り返しており乱世は終わる気配を見せない。とのことだ。帝や京都が持つ意味合いは薄く、独立の気風が強い。織田家という大敵を前に、彼らが一致団結すれば確かに大いくさは避けられない。既に述べた通り父はそれをこそ狙っているのだ。
「ともあれ此度の沙汰を下します。お三方は事実無根の破廉恥なる書籍を回収し、提出した協力者ということに、表向きはなります。ですが本当にそうだとは誰も思っておりませぬ。故に謹慎していていただきます。市姉さんも犬姉さんもお立場がありますので或いは長島から出ることになるやもしれませんが、取り敢えずしばらくは大人しくしておいて下さい」
「落着したわね」
「よかった。もし本当に坊主たちに捕まったらどうなることかと」
市姉さんと犬姉さんが安堵のため息を漏らし、母が二人をちょっと恨めしげに睨んだ。どうやら裏切られたことを根に持っているようだ。仲直りは三人で存分にしていただきたい。
「それと、母上には少々力を貸していただきます」
「なんです?」
心当たりがない様子で、母が小首を傾げた。勿論そうだろう。俺もまだ五右衛門ほか数人にしか話していないことなのだから。
「俺も暫く母上のもとで暮らすという話を、村井の親父殿にはしております。おっつけハルも来るそうです。しかし俺と五右衛門は長島を出ますので、あたかも長逗留しているかのように見せかけておいていただきたいのです」
母が目をパチクリと開き、そのまま何度かパチパチと瞬きした。どういうことなのかよくわかっていないようだ。
「日ノ本の西は大体行って回りました。東の国々はまだ行ったことがありません。ここで一つ、陸奥の更に奥の奥まで行って、日ノ本全てを見てこようと思っております」
旅装束は五右衛門たちが用意してくれた。どう動くか、自分の身分をどう偽るかについても考えた。あとは動くのみ。
「おや、どうなさいました?」
「いえ、そなたは折を見て蘇るとばかり思っていたので」
「蘇っても織田家に火種がくすぶるばかり、何も面白くありません。かといってようやく終わろうとしている乱世にて、何もしないのもまたつまらない。西国においては山口がそうであったように、東国にも戦火を逃れて下った貴人が多くいると聞き及んでおります。彼ら彼女らが残した書があるというのであれば、戦で失われるのは確かに惜しい。かき集められるものはかき集めて参ります」
母が求める書物というものは娯楽を追求したものであり、俺が興味を持っている戦や政、思想や教えといった部分についてはそれほど熱心ではないだろう。しかしながらそれでも、俺と母が惜しいと思う文物や人材は多くの部分で重なってくる筈だ。
「何かしろとは申しません。倅が動き回る為に周囲を煙に巻いておいて欲しいのです」
思えば、この時の俺の行動のせいで『九尾』と『原田直子』という二つの存在に際限なく尾ひれ背びれが付いてしまったのだなあと、後年少々申し訳ない気持ちになるのだが、それはまた別の話。というやつである。




