天正六(1578)年春、尾張長島。
「お市ちゃん! お犬ちゃんは!?」
「まだ戻ってこないみたいね。直子さん、どうするの?」
ギリリ、と歯噛みし、低い声で『おのれ……』と呟く女の姿があった。天下人、織田信長の愛妾、原田直子である。
「ねえ、直子さん、今度ばかりはちょっと調子に乗りすぎてしまったんじゃないかしら? 今からでも」
「いいやまだよ、とにかく今は知らぬ存ぜぬで時を稼ぎます」
とある屋敷の一室にて、腹心の女性、市から伺いをたてられ、それでも首を横に振って何かを考える原田直子。その様子は追い詰められた悪党のようでもあり、妖の術を見破られた妖狐のようでもあった。
「子供達はどうなったかしら? あの子たちさえいればなんとか誤魔化して」
「嘉兵衛と助右衛門が連れて行ってしまったわ。きっとあの時にはもう手を打たれていたのよ。妙に手際が良かったし一人残らず連れて行くだなんて今思えばちょっと変だもの」
そうね、と直子は頷き、首にしていた狐の巻きものを外した。小袖も、彼女ほどの身分の人間がするにしては些か地味にすぎるものを着ており、髪も衣服の内側にしまっているので知っている者でなければ直ちに原田直子であると特定することは難しいであろう。
「耶蘇会は何か言ってきたかしら?」
「不浄にして神の御心に反する。だそうよ。ロレンソ了斎に色々言われたし、大体合ってたから言い返せなかったわ」
「あのヘリクツ琵琶法師……大人しく脚長宣教師の横で日本の風土でも語らっていればいいのに……教如殿のところ以外のお寺さんは?」
「相変わらず不介入だわ。不介入というか、私たちの息がかかった連中とは距離を置いているみたいだから実際は敵と変わらない。ずっと『当寺不識成』ってお札貼ってしらんぷりよ」
市姫の言葉に、直子が大きく舌打ちをした。
「何が不識よ。知らないわけないでしょうに。あの連中だって私と同じで可愛い男の子とお金儲けが大好きな俗物じゃないの。ちょっと開祖や有名どころの本を書いて売り出したくらいでそんなに目くじら立てるほど!?」
「あれ滅茶苦茶怒ってたみたいね。日蓮宗が他宗派と足並みを揃えるのは本朝始まって以来初の快挙だって驚かれたわ」
「そんなので驚かれたって全然嬉しくないわ」
吐き捨てるように言う直子。それと呼応したかのように、屋敷の門前より大喝するかのような鋭い声が響いた。
「政所様! いるのはわかっており申す! 御開門願いたし! 当寺の法主、坊官に対して事実無根の書籍の発刊これあり! また、政所様がこれらの偽書に携わっておられたとの風説これあり! 万が一にもそのようなことはなきこととは存じまするが! 狼藉者を処罰するにあたり政所様にもご理解とご協力を願いたい! どうか御開門あるべし!」
「直子さん、本願寺よ。それもこの声、下間頼廉じゃない? しかもあの感じ、バレてない?」
市姫がその雷が如き大音声に首を竦ませ、直子の袖にすがった。直子は目を細め、小さく頷く。
「あのバカでっかい筋肉声は間違いなくそうね」
「やっぱり、頼廉と顕如の絡みはやめておいたほうがよかったんじゃないかしら? あれが相手じゃあ知らぬ存ぜぬは通じないわよ」
「今更言っても詮なきことよ。頼廉の息子と教如で絡ませて怒りを鎮めようとしたけれど、間に合わなかったわね」
「それ、余計怒らせるだけじゃないかしら?」
部屋に、幾人かの女中が駆け込み、すでに正門前は武蔵坊弁慶が如き僧兵が埋め尽くしていると知らせてきた。ことここに及び、直子はついにその重い腰を上げ、『是非もなし』と一言。そして。
「裏門から逃げます」
此の期に及んで、誠に往生際の悪い決断をした。
「逃げるって、どこに?」
「先ほど、不識がどうこうと言っている時に思い出したのです。御坊丸が上杉家に入る関係で上杉家屋敷を近くに設けたでしょう?」
「ああ、不識庵様」
上杉輝虎、法号不識庵謙信。上杉家が織田家に屈した今もなお軍神の呼び声高い人物であり、上杉家もまた、大減封されてなお織田家中において一目も二目も置かれている。そしてその上杉家に養子に出された御坊丸の生母こそが原田直子その人であるという関係から、上杉家の人間は彼女のことを無下にはできない。そこまでわかった上でこの時の直子は一時己の身柄を上杉家に預け、時を稼ごうと画策した。
「でも、ある程度時間が稼げたところでそのうちどうしようもなくなるんじゃないかしら?」
「そのうちのことはそのうちに考えます。ともかく私はこの首根っこを引っ掴まれて引きずられるその時まで、往生も成仏もしません。仏も神も知ったことではありません」
「な、直子さん」
高らかに言い切った直子に、さしもの市姫すら慄いていた。そうして控えめにその名を呼んだのは市姫、ではなく、その市姫によく似た妹であった。
「お犬ちゃん! よく戻ってきましたね。心配しました」
「お犬……」
安心した様子で声を掛ける直子と、憂いに満ちた表情でその顔を見る市姫。犬姫は姉に対し、姉とそっくりな表情で頷き返し、そうして、姉妹は直子の前に並び立って、行きましょうと声をかけた。
「…………ほら、俺が言った通りであったろう。五右衛門」
そうして、三人が去って行った部屋の手前、廊下にいてここまでのことをつぶさに見聞きしていた俺は、苦笑とともに隣の男に言った。
「ご慧眼、感服いたしました。拙者は、ことここに及べば手を上げて例の悪書を差し出すとばかり」
「あの母がそんなタマであればそもそもこのような騒動にはなり得ぬ。織田家の主だった人間がいなくなった隙にこのようなことを始めるのだぞ。まるで平治の乱における源義朝公や本圀寺の変における三好勢の如しではないか。行ないの中身が男がするそれと少々違うだけで」
「仰せごもっとも」
全くもって面倒なことを、と思うのが半分。元気で何より、と思うのが半分の俺は、イマイチ怒ったり悲しんだり、かといって喜んだりもできず、なんとも微妙な心持ちでゆっくりと歩き出した。母が向かう先ももう分かっている。既に詰んでいるのだ。母が言っていた通り、首根っこをひっつかんで差し上げるのが、この小狐の仕事。
「そういえば、嘉兵衛や助右衛門もそうだが、此度伊賀忍のお陰であの母狐を追い詰めることが極めて容易であった。礼を言う、五右衛門」
「とんでもございませぬ。百地三太夫始め我ら伊賀忍の主君は今もって津田弾正尹信正公と心得ております。此度はそのご下命に従いし義挙。当然の働きにございます」
「三年分の扶持を支払いはしたが、あれは次の主人を見つけるために使えというものであって、三年は俺に仕えているつもりでいろ。ということではないよ」
「我らは、そう思うてはおりません」
頑固者め、と首を横に振った。けれど笑顔を抑えることは出来なかった。可愛い連中だ。
「本当は、俺が蘇ってやれればお前たちにも報いることが出来るのだが、言うても無意味であるからな。まずはこの茶番を終わらせに行く」
「御意。準備は万端整っておりまする」
天正4年、天下が織田の下に定まったこの年に起こった事件、通称『二条御所失火』から一年半ほどのことを一息に語るのはそれなりに時を要する。それゆえまずは天下人織田信長の妻たちについて少々語ろう。
織田信長の正室とは言うまでもなくお濃の方様である。しかしお濃様には子がなく、勘九郎信忠を養子として迎え入れた。現在は仏門に帰依し、養華院と名を変え安土城にて安穏たる余生を過ごされている。先ほど名を挙げた勘九郎信忠の生母である側室、吉乃様は、伊勢北畠家を継いだ三介具豊、徳川家嫡男信康殿の正室となった徳姫と、いずれも天下に名を残す子を産んではおられるもののすでに御他界。そしてもう一人、天下に名を残す子を産んだ方に三七郎信孝の生母がおられる。こちらは今もってご健勝である。名門一条家の名を継ぎ、四国ひいては日ノ本の西のかなめとなった息子に従って土佐の中村御所におられる。現在では一条殿や中村御前と言えば彼女のことである。織田信長にはその他にも妻や愛妾が多くおり、したがって子も多く成してはいるものの、織田家が尾張から美濃へ、そして天下へと駆け上がってゆく間に戦列に加わった子を産んだ者はそう多くない。
さて、前置きが長くなったが、前述の三名でも、それ以降の妻たちでもない一人の女狐について語ろう。まだ正室を迎えていなかった頃に織田信長の愛妾となり、長男にして嫡男ならぬ男児を生んだ女、原田直子である。彼女の権勢はこの時、嫌が応にも高まっていた。かつては生家の身分が低すぎるが故に己や自身が産んだ長男の身分をも低く抑えられていたが、実兄である塙直政が立てた武功、家中における立場の向上、その他諸々の情勢の変化に伴い、前述のお二方に優るとも劣らぬ『原田』の名を賜った。元より父が身分高き女を好まぬということもあって他の後妻たちの後塵を拝することもなく、そして何より、ある意味においては夫の威名よりも天下に轟いた悪名は、身分・年齢・性別の別なく彼女を『単なる愛妾の一人』としてはおかなかった。その証拠がつい今しがた呼ばれていた呼称、『政所様』である。
政所とはそもそも読んで字のごとく政を執り行う所。という意味であったが、やがて三位以上の公卿の妻を指す言葉として北政所という呼称が広まった。さらに当代においては摂政や関白の正室をこう呼ぶようになった。
既に述べた通り、母は父の正室ではない。また、北政所という呼称が宣下をもって贈られる称号となっている昨今においては、いかに父が日ノ本において並ぶものなき権勢を持っていようとも勝手に名乗ることは許されない。ゆえに、母は『北』についてはハッキリと否定し、呼ぶことを禁じた。結果『政所』という呼称はかえって強く残り、こうして我が母にまたも一つ呼び名が増えてしまった。
何故、政所という名が広く人口に膾炙しているのか、それは彼女が実際に政を執り行っているからにほかならない。先ほどの政所様という呼称、あれは言うなれば『長島百万石の領主、女戦国大名原田直子』を指しての呼称であり、決して実のない虚仮威しの呼称ではないのだ。母が取り仕切っているのは長島と古渡、合わせてもせいぜい六万石から八万石といったところであろう。これらの領地にしても、母の領地ではなく後に再興させる予定の原田家に譲る目的で取り仕切っている、言わば中継ぎの代行である。しかしそれでも、多くの知識人により賑わい、多くの商いにより華やぐこの街を取り仕切る女傑を、人々は恐れと羨望を込めて政所様と呼ぶ。実際、その手腕は見事なものであった。農耕に適さぬ小さな島の群である長島を、農業ではなく商業の街とし、観光地とした。その賑わいを見て人々は長島百万石と囃し立てている。
「……それが、調子に乗らせた理由であるのかもしれないがな」
五右衛門の案内に従って母上を先回りした俺は、通された部屋の中で小さく独り言を漏らした。
やや説明が冗長になってしまうきらいはあるが、己のことも語らずにはおられまい。津田信正死後の半年、俺はなかば死人同然に過ごしてきた。二条御所失火の際、俺の家族や養い子らは殆どが安土にいた。重臣連中と起居を共にしていたわけでもないし、護衛として、時に祐筆として過ごす事もあった新次郎は脚の怪我にて療養中であった。危なかったのは五右衛門ら伊賀衆だが、その時五右衛門達は後の国替えや諸々の手配の為出払っていた。故に、津田家においても織田家においても、名のある武将の内、襲撃直後の様子を知る者は村井の親父殿ただ一人だ。恐らく俺は親父殿の采配の元、父や勘九郎の許可を得た後、現在起居している小城へと送られたのだと思う。
年が明けて天正5年となっても、俺は俺が置かれた状況について質問はしなかった。そして、自分から誰かに会いたい、誰かと連絡を取りたいとも言わなかった。孫市の背に運ばれ、死にかけながら親父殿とハルの姿を確認していたことで、西国については親父殿と村井家の者らが何とかしてくれると思え、子供らの事は母上に任せられると思えたからだ。俺の世話については、俺のそばを離れようとしなかったハルや、たまたま二条御所にいたせいで巻き込まれてしまった珠がしてくれた。無聊の慰めにハルを孕ませてしまったせいで世話をしてくれる人間は一人減ったが、のんびりと書物を読み、そして徒然に思ったことを書きつけ、それをまとめる等日々はなかなかに充実していた。
その間、直接俺が手紙を頂戴したのは親父殿含め四人。父と母と勘九郎、それだけだ。それ以外の人間が俺の存命を知っているかどうかは知らない。知らない方が良いと思ったから調べず、先に述べた通り晴耕雨読の毎日を満喫してやることにした。やって来る手紙には、苦労を掛けたのでしばらく休んでいると良い。という内容が書かれていたので考えることは同じであったようだ。
しかしそれから更に半年後、俺にとっても、恐らく父上達にとっても予想外の事が起こった。俺の訃報を受け、織田家を出奔した五右衛門達伊賀忍の一部が独自に事件を捜査し、そして俺に辿り着いた。他家に仕えることをせず、主人のない五右衛門達伊賀人の活動資金を出していたのは先にも名の挙がった林新次郎と、中国の名門尼子氏の忠臣にして、数奇な巡り合わせの末一時は我が配下でもあった山中鹿之助だった。
「……来たか」
先回りした上杉家屋敷において、奥の一室を借りた俺は目を瞑ったまま呟いた。胡座をかいて腕を組み、手慰みに左手首をピコピコと上下させてみた。うむ。だいぶ扱いにも慣れたな。こうして瞼を閉じていると外の喧騒がより分かりやすい。上杉家の家風を表しているかのように静謐で趣深い屋敷に、姦しい女たちがなだれ込んだとあれば、分かりやすさもひとしおであった。
「上杉家の方々には村井家より話を通しております。与六様は『存分にお話し合いあるべし』と」
「かたじけないことだ」
親父殿にも上杉家中の方々にも迷惑をかけた。眼を開く、母の声が聞こえてきた。首尾よく逃げおおせて喜んでいるのかと思ったが、どうも上手くいきすぎて困惑している声音だ。相変わらず、妙に勘が鋭い。
「何だか妙だわ、お市ちゃんお犬ちゃん、一旦このまま古渡まで逃げた方が」
「まあまあ直子さん、逃げるにしても少し落ち着きましょう」
「そうよ直子さん。腹ごしらえでもして、それからでも良いと思うわ」
腹心の二人に宥めすかされ、部屋の前まで三人がやってきた。そのまま、二人がさっと障子を開き、部屋の奥へと入れようとする。正面には俺がいるのだが、横を歩く二人と話をしている母はまだ俺の姿に気がついていないようだった。
「でもやっぱり変なのよ。どうして」
「お久しゅうございます」
母の言葉を遮り、話しかけた。その時になってようやく俺の存在に気がついた母は、こんなにも広がるものかと思うくらいに瞳を見開き、驚愕の表情を作った。
「人払いは済ませてございます。少しお話をいたしましょう」
音もなく、五右衛門が障子を閉め、市姉さんと犬姉さんは母の両腕をがっちりと捉えていた。
「ふ、二人とも裏切ったわね!」
全てを察した母が放った最初の一言は、何とも小悪党じみた一言であった。自分の両腕を抱えるように掴んでいる腹心二人。その手が自分を支えているのではなく拘束しているのだと分かり、身をよじらせるがしかし二対一で、しかも既にがっちりと抱え込まれてしまっているのであるから、その抵抗は徒労に終わった。
「直子さん、勝てない戦はしないものよ」
「こうすれば私たちへの仕置きは軽くなると、約束してもらったの」
「女の友情脆すぎ問題……!!」
市姉さん、犬姉さんに言われ、唇を噛む母。俺は何も言わず三人が座るのを待った。返り忠を打った二人は俺の指示に従い母を部屋の真ん中へと引っ張ってゆく。五右衛門が三人の座るべき場所に座布団を置き、真ん中に母、少し下がって左右に姉さんたちが座ったのを確認し、相変わらず音ひとつたてず、部屋の隅に座った。よく見ればいつの間にか人影が障子紙の向こうにチラホラと見えており、万が一にも母が逃げられないよう退路を塞いだ様子である。
「さて、色々と話したいことはございますが、和やかに話などは出来そうにございません。話さねばならぬことについて話させていただきます。宜しいですな?」
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