第百四十五話・十六夜の火柱
「こう…………いや、こう……」
疋田殿は片腕で刀を振るい、そうしながらどうにか今の身体で出来る良い振りを模索し、やがて自分の中でそれなりに納得が出来る振りに辿り着いたのか、よしと呟きその動きを一旦止めた。
「はああああ……」
大きく深呼吸を一つした疋田殿が、ゆっくりと、自分の体を引きずるかのような動きでこちらに近付いて来る。その動きが余りにも不気味で、俺は恐怖から思わず後ずさってしまう。
「き、貴殿怖いとは思わぬのか?」
「怖い? 何がです?」
深呼吸をしたからか、落ち着いたせいか、発音が元に戻った疋田殿。その疋田殿に声をかけると不思議そうに聞き返された。
「死ぬことや、戦うことがだ」
疋田殿の身体は相変わらずの惨状で、もしこの場を潜り抜ける事が出来たとて、最早以前と同じように身体を動かすことは出来まいと一目でわかる。或いは直ちに医者に掛からねば出血によって死ぬかもしれない。だが、疋田殿にそれらの事を恐れ、不安し、絶望するような様子は露ほども見受けられない。
「今出来ぬことが、努力や工夫により出来るようになる。これこそ面白き事であるとは思いませぬか?」
そうして、疋田殿は俺の質問の答えになっていないことを答えた。その口元には笑みすら携えながら。
「拙者これまでこと刀において『出来ない事』などありませんでした。拙者に出来て人に出来ないことを教えることはあれど、拙者が出来ないことは、ただそれを知らなかっただけであり、一度二度試せば出来るようになりました。故に、面白きを得ること叶いませなんだ」
然るに、と、疋田殿が自分の身体を見る。右腕を失い、脚もひしゃげている。刀はおろか、日常生活においてすら出来ないことだらけだ。
「今、出来ない事が大量に出来ました。これを再び出来るようになる為、稽古を積むことが出来ます。五体満足の間には、考えもしなかったこと。感謝します」
そうして礼を言ってきた疋田殿に対して、俺は初めて話にならないという感想を持った。この男は、刀に憑りつかれた魔物だ。死の瞬間までその身を使ってどう刀を操るか、操る刀でどう人を切るかしか考えることが出来ない。
「そう簡単に切られるわけにはいかぬ」
言いながら、俺もまた刀を構えた。右手のみで握り、右腕一本で上段に。左半身を前に、じわじわとにじり寄ってくる疋田殿と相対する。
正確に、決して誤ることの無いよう丁寧に間合いを計っていた俺は、切っ先が確実に疋田殿の頭を切り裂くことが出来ると確信した間合いで振り下ろした。刃は確実に疋田殿の頭へと降りてゆく。片足で素早く身体を動かせない疋田殿はその一撃で頭を切られ、倒れる筈だった。
「……!!」
声も無いまま、俺が大きく息を吐く。疋田殿は『素早く刃を回避する』というようなことは出来ず、その場で、グッと足を踏ん張り上体をのけぞらすことで頭上からの一撃をかわし、それから今度は逆に足を曲げ、前のめりの体勢になりながら、突きを繰り出してきた。その刃は綺麗に俺の身体の中央、みぞおちの辺りを貫く軌道だった。
その刃の軌道を見て、絶対に避けることが不可能だと悟った俺は、避けることなく寧ろ刺さりに行った。最早使えない左手が一本ある。その肘から手首の間辺りをみぞおちの前に構え、力を籠める。ズブリと、刀が腕に突き刺さった。普段の疋田殿であれば、腕ごと俺の身体を刺し貫いたことだろう。だが、今の疋田殿の状態ではそれも出来ない。
「捕まえた」
そう呟いたのは、疋田殿ではなく俺だった。左腕に力を籠め、刀が決して引き抜けないようにしながら、身体を密着させるように前に出す。本当に、抱きしめ合う程の近距離に近付いて、そのまま俺は、右手に握った刀を、疋田殿の心臓に突き刺した。
二人の身体がぶつかる。そして、二人共最早まともな動きは出来ず、そのまま重なり合うようにして膠着した。俺は左腕に刀を差したまま、右手の刀も手放さず、前にいる疋田殿に体重を預けた。疋田殿も又、俺に体重を預けているようだったが、ある時不意に、その力が抜け、後ろに下がった。
「見事にございます」
一歩下がった疋田殿と目が合った。疋田殿は口から血を吐き、しかしそれでも明瞭な発音で一言そう言い、そのまま、仰向けに大の字に倒れるかのように倒れ、動かなくなった。
「貴殿から、見事と呼ばれる程見事ではないな」
俺の答えは、恐らく最早聞こえていなかっただろう。疋田殿は答えず、動かず、物言わぬ屍へと変わった。
疋田殿を、暗殺者を返り討ちにしたと喜ぶ暇もなく、その時再び屋敷の中で大きな爆発が起こった。また別の火薬壺に引火したのだろう。火柱が京都の町を染め上げている。
この場から離れなければ。そう思い、振り返る俺。そして一歩踏み出したところで、膝から力が抜け、ゴロリと転倒。そのまま廊下から庭へと転がり落ち、背中を強かに打った。
「……くくく」
最早全身のうち、どこが痛いのかもわからない。限界を超えたせいで体が拒否しているのか先程から感覚が麻痺しているようでもある。先程の疋田殿同様に、仰向けに、大の字になって転がった俺の視線からは、十六夜の月がよく見えた。
「自業自得、であるかもしれんな」
十六夜の月、十五夜の満月と変わらず明るく夜を照らす月。それでありながら、最早欠けてゆくしかない月。『この世をば、織田の世とぞ思う、望月の』などとは考えたりはしないが、しかしながら天下統一を月に例えるのであれば今の状況は正に織田家にとって満月であろう。多くの頼りになる家臣や家族と共に、織田の世が長く続いてくれることを祈る。
「十五夜から、人知れず十六夜となる間に、消えてゆくのは俺か」
月に尋ねてみた。天は何を望んでいるのか。
「俺だけが、この後五十年も六十年も生き、孫に囲まれて天寿を全うする。等と、確かに虫が良い話なのだろうなあ」
身体が痺れ、ゆっくりと何かが抜けてゆくのが分かる。恐らくそれは、俺達が命と呼ぶものだ。一呼吸ごとに、音も無くスルリと、最早戻って来ることの無いものが、本来失ってはならないものが流れ出てゆく。
俺に殺された者達。最早列挙することすら冗長になり過ぎる程多くの人間を殺した。憎しみや怒りに支配されたこともあり、殺したくないと思いながらのこともあり、そして後には後悔し、その死について考え、答えが出ないまま、それでも大義の為にと前進を続けた。
「面白かったか? 俺が躍る様子を見るのは」
世の者どもが天と呼ぶものが、俺は憎かった。人に殺し合いをさせ、乱世とし、人生や運命を弄んでいるとしか思えない出来事が余りに多すぎた。父は寺社や朝廷、幕府といった既存の権威を恐れなかった。対して俺はそれらを恐れた。鰯の頭でしかないと父は言ったが、寺社、朝廷、幕府と言った『頭』に相当する部分は常に存在していたからだ。実体のないものではなく、そこに確かにあるものであるが故に、それは蔑ろに出来ないと俺はどこかで思っていた。
一方で、御仏や主と呼ばれるような者に対して俺は常に批判的だった、実態を見ることが出来ず、姿を掴めなかったからだ。彼らの信仰を否定したかったわけではない。寧ろ逆に、『これだけ貴方を敬っている者達に、何故これ程の残酷を与える必要がおありなのか』と言ってやりたかった。その残酷な仕打ちをした張本人が何を言っているのか、と、余人は言うだろう。
「だが、俺はこの戦国で、世に絶望などしなかったぞ」
庶子である。長男でありながら、織田家を継げない。その事実に対して本当に何も思ったことがないのかと聞かれれば、俺は微笑みながら『勘九郎様がおられます』などと答えるだろう。だが、実際に何も思うところがない筈が無い。年下の嫡子である勘九郎と相争う可能性はいつでもあったのだ。それを俺がしなかった理由、ただ一つだけだ。
「俺は、家族を愛したぞ」
親子で、兄弟で、血で血を洗う争いが日常的に起こっているこの戦国乱世において、俺は最初から最後まで、家族を愛した。母を慕い、父を慕い、年の近い三人の弟を可愛いと思った。妹達に対しては周囲から諫められる程過保護にしたし、二人の妻とはそれぞれに違うやり方で良き夫婦となった。産まれた子供達にも、注げるだけの愛情を注いだつもりだ。
「友を、同胞を愛したぞ」
金ヶ崎において、可隆が死んだ。年上の友人で、何とも心地の良い間柄だった。幼い頃から知っていた斉天大聖は瞬く間に出世し、俺も又立場を上げたことで競争相手、或いは上司部下という間柄になってしまったが、それでも俺達の関係の根幹には気の置けない友人として過ごした時間があったと俺は信じている。癪に障る男だが、竹中半兵衛や、当時随風と名乗っていた天海とも、舌鋒鋭く言い争いながらも、俺はどこか楽しいと思っていた。何度叩いても這い上がって追いすがって来る忠三郎とのやり取りは思い出すだけで笑えてしまうし、俺直属の家臣となってくれた者らとは、表立っては言えないが確かな友情を感じている。
「敵すらも、俺は愛したのだ」
己の運命に逆らわず、最後まで足利将軍たり続けた公方、足利義昭公。恐らく最も長き時間父と渡り合い、どこかで一つ転がり方が違ってさえいれば勝利すらしていたであろうお方。この手にかけた時に見た、あの解放された表情は今も鮮明に焼き付いている。自分に勝ったのだから必ず成し遂げられる、と聞こえたあの声が空耳であったのかどうかは永遠に分からない。中国における小早川隆景殿、九州における筑前の二人の名将、或いは大友宗麟殿と大村純忠殿、ただ巡り合わせが違ったというだけで、俺からの殲滅を受けた島津家の者達、いずれも尊敬に値する人物であった。そして最後に、日ノ本の天下を敵としながら、それでも戦い続け最後の最後に、織田信長相手に勝利をもぎ取った上杉。俺が武において遠く及ばなかった謙信公。皆おしなべて愛すべき人物であった。
「俺が、憎しみに沈むところを見たかったのか?」
だとしたらおあいにく様であるなと、俺は嗤う。俺が人々を愛したように、人々も俺を愛してくれた。俺が怒りや憎しみに支配されそうになった時、短絡的な行動に走りそうになった時、信広義父上や、村井の親父殿、家臣達、弟達、父と母、誰もが、俺の為に言葉をくれた。皆がいたから、俺は世を絶望などしなかった。憎しみなどしなかった。
「天下よ、この乱世において俺は、この帯刀は、世に絶望などせず、憎むこともなく、まっすぐに世を愛し切ったぞ!」
最早、天下は完全に織田の手に収まった。俺一人がいなくなったところでまだ父はご健在だ。そして勘九郎という跡目がいる。俺が生きている限り、例え俺と勘九郎の仲がどうであれ俺を担ごうとする者は出てきてしまうだろうから、俺がいなくなることは却って天下の安定にすら繋がる。父は今日明日に亡くなるという訳ではないだろう。東北仕置きや城割などが終れば更に天下は安定する。弟達もいる。
「…………だから、もうここらが、良い時なのだろうな」
俺の死によって、織田家を憎む者らの溜飲が少しでも下がってくれれば良い。今名をあげた者達の中の誰かが今回の黒幕であっても構わない。それで織田の天下は揺るがないのだ。父も勘九郎も、必ず何か手を打つだろう。
「……そちらに行くのが、随分早くなりそうだ」
十六夜の月が綺麗だ。だが、かつてほど美しいと思える日々は来ない。儚くも最後までその命を燃やし尽くした我が正室、恭と共にいられた日々は短く、そして今も忘れられない。時と共に色あせたことで、逆に鮮明にすら見えて来る。
「ごめんなさい、と、言いたい相手が沢山いるのだ」
俺の身勝手の、俺の考えの、俺の行動の犠牲となった多くの人々。歴史に名を刻むような人間だけではない。名もなき民として、名もなき一兵卒として、この乱世を戦いそして散っていった、俺に散らされた者達。彼らに対し、一人ひとり手を取って、ごめんなさいと言いたい。そこが極楽浄土でもどこでも構わない。俺のような者は無間地獄に落とされるのかもしれないが、それでもそこで、俺は出会った人々に謝りたい。
「でもそれ以上に、もう一度お前に会いたいんだ、恭」
沢山謝るその前に、頭を下げるその前に、俺は、この腕でもう一度お前を抱きしめたい。お前を愛していると言いたい。恭はきっと、来るのが早すぎると怒るだろうし、戻りなさいと言うだろうけれど、でも俺も言うんだ。一生懸命頑張ったのだと。その結果、恭に会いに来たんだと。他の誰でもなく、お前に褒めて欲しいと。きっと、恭は呆れながら、それでも最後は俺を抱きしめてくれるだろう。しょうがない人だと言いながら、お疲れ様でしたと言ってくれるだろう。
「そっちの月はどんなだ?」
会いに行くよ。今すぐ。
『手前人の事生かしておいて、何一人満足気に死のうとしてやがる』
明日最終回です




