第百四十一話・天下の皮肉と帯刀の秘策
「側面より敵襲! 三方を囲まれました! 黒田官兵衛様家臣母里太兵衛殿がこれを迎撃!」
戦局は悪化していた。少なくとも俺にはそう思えた。三方よりの挟撃、取り囲まれ、このまま包囲殲滅されるという想像が否応なく働く。
「そのまま戦線を維持せよ。各持ち場の者らが全力を尽くして戦えば負けることはない」
士気が上がった味方はそれでも崩れることなく戦ってくれていた。混乱の一つ手前まで狼狽えていた俺だが、それでもこれまでの経験からここで少しでも弱気な様子を見せてはならないということは分かる。
「どうする大将? 逃げるか? 逃げるだけなら慣れてるぜ」
恐らく本当に狼狽えていないのだろう孫市が俺に聞く。聞きながら五右衛門達伊賀忍をチラリと見た。確かに織田家相手に畿内から九州まで、そして再び畿内へと、日ノ本の西側をぐるりと一周逃げ回った雑賀孫市ならば撤退も敗走も慣れているだろう。俺の周囲を固めるのは五右衛門が率いる伊賀忍達。俺だけ戦場を離脱することはそれ程難しいことであるとは思えない。だが、
「馬鹿を言え、この期に及んで逃げて天下に恥を晒せるか」
それでも俺は孫市に向かって言い返した。おいおいと、孫市が場に似合わない呑気な声を返して来る。
「屍晒すわけにはいかんと今言ったのは大将だぜ」
「そんなことは忘れた」
言うと、無茶苦茶だと笑われた。混乱しそうなほど怯えてもいる。同時に、ここで引くくらいならば腹掻っ捌いて死んでやると本気で思う程高揚もしている。それでいて、死にたくはないと考えてもいる。即ち、全く冷静ではないということだ。
「死にたくはないし逃げるわけにもいかん。そしてお前達の事も死なせない」
「城から出たことの無いお姫様のような事を言うじゃないか」
今度は呆れたように笑われ、こちらも笑う。
「矛盾した事を言っているとも思わんし、不可能だとも思わんぞ。勝てばいい。敵を蹴散らし、手柄とする事が出来れば、逃げずに死なずに、味方も死なせずに済む」
最前線では弥介が奮戦していたが、聞こえてくる声は終始劣勢。行軍中、縦に伸びてしまった織田軍は後方からの攻撃もあってその軍勢の力を存分に出し切れずにいた。一方で、小勢の上杉軍はここが死に場所だと定め兵の誰もが後先考えず全力でこちらに攻めかかってきている。
「戦線を維持しろっつってもなあ、戦意が最高を超したような連中相手にはそれも難しいぜ。三方から攻め込まれてんだ。どこか一方でも突破されたら軍全体が崩壊しかねん」
「分かってる」
孫市の言葉に頷くと、新次郎と五右衛門が何らかの目配せをした。新次郎は近衛の五百を率いて動こうとする。最も俺に近い前方の上杉軍、謙信公率いる二千を迎え撃とうということなのだろう。新次郎が率いる兵ならば全滅するまで敵に噛みついてゆくことだろうし、新次郎自身、刺し違えてでも敵を止めると思い動くことは想像に難くない。
「体勢を立て直す」
「どうやってだ?」
「俺を先頭に反撃する」
「前と後ろと横と、どこに対しての反撃だ?」
「全部だ」
言いながら、新次郎に五百を動かすよう伝えた。騎乗し、本陣を動かす。
「安心しろ、難しい動きはしない。全軍俺に続けばそれでいい」
そう言って俺は短く作戦を伝えた。体勢を立て直し、同時に敵全軍に反撃をするというのはどういう意味であるのか、理解が追い付かずにいたその場の全員が成程と頷いた。
「霧の如き雪と川中島。天は俺に対しこうも皮肉な真似をしてくれるものであるからな。俺も一つ面白い見世物をしてやる」
前門の上杉後門の武田。奴らの度肝を抜くのにも、これ以上頓智の利いたものはあるまい。
「行くぞ新次郎、我が道をこじ開ける役目、お前に任せた」
「御意」
「頼むぞ五右衛門。この場にいる全ての者らの為、俺は死ぬ訳にはいかぬ」
「お任せあれ」
信頼する二人の腹心に言うと、共に頷いた。五百の兵が一塊になる。前方で苦戦している筈の弥介。すぐ助けに行くぞ。
「全軍に命令を、ただただ前の味方に続けと」
五右衛門が配下の忍びに伝える。指示がこだまのように広がるでもなく、何らかの狼煙が上がるわけでもない。水が布に染み渡るかのように全体に広がってゆく。敵にこちらの動きは伝わらず、味方は全軍で意志疎通の取れた行動が可能となる。どうやっているのかは分からないが忍びの技だ。
「最初の一当たりはどうする? 全軍を動かすのは良いが、軍神を先頭に猛攻を仕掛けて来てるぞ」
「一当たりして、押しとどめる。ほんの呼吸五つ分程度敵を押しとどめることが出来れば良い。その時間は俺達で稼ぐ」
俺の言葉に新次郎が頷く。強い意志の籠った目だ。大役をこなしてくれるだろう。
「雑賀衆に任せてくれ。五呼吸とは言わず、その倍の時間敵を押しとどめてやる」
しかし、前進するつもりだった俺達に孫市が待ったをかけた。雑賀衆の生き残り一千を纏め、前進する許可を求める。
「相手の前軍は馬が多い。俺達は一斉に鉄砲を発射して動きを止める」
「乱戦で一斉発射などしたら味方に当たるぞ」
「当たらん。弾は真上に放つ。味方は勿論、敵にも当たらん。一斉発射で殺したいのは敵じゃなく馬の足だ」
孫市に言われ、漸く合点がいった。雑賀衆は当然の如くその手に鉄砲を持っている。
「鉄砲運用の妙は一斉発射だ。敵を蜂の巣にすること以上に、音で馬を怯えさせる効果のでかさで、織田は武田を滅ぼしたんだろう? 黒田官兵衛の言うことに従えば、上杉の馬全てが轟音に慣れてるってわけじゃあねえ。同時に至近距離で音を出せば脅しと足止めには十分だ」
「出来るのか?」
その、出来るのかには幾つもの疑問が込められていた。乱戦になった今皆同じ間合いで一斉発射など出来るのか。この状況で火縄に火を点ける事が出来るのか。空に放つとはいえど、敵の眼前においてそのように隙の大きな動きを行って果たして無事で済むのか。俺が知らないだけで、恐らくそれ以外にも多くの難しい条件がある筈だ。
「誰に言ってんだよ?」
だが、ニヤリと笑った孫市は大仰に胸を張った。その洒落者の武者ぶりが、余りにもサマになっていて、俺は心配することがバカらしくなりならば頼んだと許可を出した。
「行くぜ野郎ども! 俺達が最後に狙うのは天だ! どっかで俺らの事見下ろして笑ってやがるクソ野郎の腹をぶち抜く!」
単に空に向かって発射することを、よくもまあそんな表現に出来るものだと感心してしまう。ゲラゲラと大笑いする雑賀衆はそのまま前進してゆき、後には馬上の俺達が遺された。
「左に向かう。『し』の字を書くが如き動きだ。新次郎は精鋭と共に最右翼を任せたい。怪我人がいた場合はともかく左翼へ、左翼の更に左を目指すように言え」
孫市がいなくなってから、そう指示を下した。その指示も、五右衛門の手の者によって静かに全軍へと伝えられてゆく。
上手くいくだろうか。そう言いかけること三度、三度とも俺はその言葉を飲み込み、轟音を待った。雪は相変わらずサラサラと乾いており、火縄が濡れることは余りなさそうに思える。だが一方で風は強くなり視界は悪化しているようにも思える。孫市自身にとっても予想外の出来事が起こり、失敗したのではないか。或いは前線に出た瞬間上杉の精兵に見つかり討ち取られてしまったのではないか。
経験上、後から考えてみればこういった切迫した状況で『遅すぎる』と思った時、実際の時間は大して経過していなかったりするものだ。だが、それにしてもこの時は時間が長く感じた。一刻も二刻も待たされているような気持ちすらした。
「殿……」
やがて、新次郎から声をかけられた。新次郎も遅いと思ったのだろう。頷き、分かっていると返す。
「百数える。それで何もなければ前進する」
そうして、俺は胸の内でゆっくりと数を数えた。一つ、二つ、三つ。
前方で歓声があがった。何事かと思う。まさか味方の誰かが討ち取られたのか。弥介は、孫市は、不安が一層重く心にのしかかる。
三十を過ぎた時、後方でも歓声があがった。内容は分からない。見えもしないのだ。皆必至で戦っている。それだけが確実なことだ。
五十を過ぎ、六十を超え、七十に差し掛かろうという頃になっても、孫市からの報せは来なかった。いや、報せなど必要はない。ただただ鉄砲の音が響き渡ってくれればいいのだ。それだけでこれ以上ない成功の証拠となる。無事の知らせとなる。
八十五を数えた。新次郎に目配せをすると、何も言わずに新次郎が俺の一歩前に出た。
「殿は私に」
その後の一言が、俺には聞き取れなかった。轟音によってかき消されてしまったからだ。轟音に十分慣れている俺達の馬ですら後ずさるような爆音。一瞬戦場の全てを支配した音はその一瞬を過ぎた次の瞬間には波が引くようにかき消え、俺達の鼓膜に耳鳴りのみを残し過ぎ去っていった。
「新次郎!」
「御意!」
今しかない。俺達は並びかけながら馬を走らせる。それに遅れまいと近衛兵五百が最前線へと駆け出した。
「我に続け!」
どれだけ周囲に聞こえているのかは分からないがともかくそう叫んだ。すぐに鉄砲隊を追い抜き、槍隊を追い越し、そして乱戦のさ中にある上杉軍最前線の兵に突っ込んだ。馬は怯えて暴れ回り、振り落とされている兵もいる。
「最前線を切り裂く! そのまま左へ!」
「全軍前の者に続け!」
俺が叫び、新次郎が右翼へと展開する。そうして、俺は敵の騎兵に狙いを付けた。混乱する馬に跨りながら、なおこちらを睨み付け踏み止まろうとしている。俺は槍を構え、馬を内ももで締め付けて真っすぐに走らせる。相手もこちらに気が付いている。距離が詰まる。向こうの馬は馬首を大きく動かし怯えたまま安定しない。そうでなくとも相手には疲労もあるだろう。確実に俺が有利だ。
『恐れるな。そして躊躇うな』
自分に言い聞かせながら、丁寧に間合いを計り、愚直に真っすぐ槍を突き出した。
上杉の騎兵は馬上の安定を欠き、反撃することが出来なかった。ただ貫かれるだけになることを避ける為、俺の槍の穂先を受け止めようとし、そして右腕を刺された。
ぐぅっ、と呻きながら馬より転げ落ちる騎兵。面構えといい佇まいといい、明らかに名のある武者であると見受けられた。だが俺は追撃せず、そのままグルリ左に馬首を向けた。
「一撃離脱! 左旋回!」
叫び、回る。味方の兵がおうと答え、そして俺達は速度を緩めることなく大きく円を描くようにその場から離脱した。
「側面よりの攻撃を受け止めているのは母里太兵衛であったな!?」
「左様です!」
五右衛門に聞く。頷いてそのまま前進した。黒田官兵衛の手の者だ。俺がやりたいことも理解してくれると信じよう。
敵の姿が見えなくなってすぐ、馬の速度を緩めた。人間の小走り程度の速度で進み、東に、そしてそのまま北東に、北にと方向を変えてゆく。
「前方に母里隊発見!」
やがて、斥候の騎兵からそう報告が入った。左に旋回した関係上、最も敵とぶつかる時間が長い最右翼へと向かっていた新次郎も、ほぼ同時に傍らへと戻って来た。
「近衛兵に続き雑賀衆、更に大木弥介殿が率いる槍隊、足軽隊が一撃離脱を行っておりまする。殿の目論見通りかと」
「祝着至極!」
言いながら前進を続ける。母里太兵衛の隊と敵軍、その丁度真ん中を突っ切るような形で突破し、そのまま母里隊を後続に加えたい。何度となく斥候を出し、そして狙いすまして両軍の間を突っ切る。
「母里には後ろに続くよう伝えよ!」
「御意!」
再び新次郎が駆け出す。俺は相変わらずの速足状態で前進を続け、狙い過たず両部隊の中央を突っ切った。
「思っていたよりも小勢だな」
「或いは、前後どちらかの軍が部隊を分けたのかもしれませぬ」
五右衛門に言われ、考えてみればそれが最もありそうなことだと納得した。視界が悪く互いに互いの数が分からない状態であるのだ。四方八方から攻撃を仕掛けいかにもこちらの方が数が多く、取り囲んでいるのだと思わせる。軍神であればそれくらいの軍略は児戯が如くにこなしそうなものである。
「新次郎、次だ。鹿之助のところへ!」
戻って来た新次郎の馬を変えつつ、再び指示を出す。巨大な蛇のようにうねる織田軍を見て、敵の第三軍は素早く俺達から距離を取った。
「御命令の内容は!?」
「奴の場合撤退の意味を敗走と捉え自らは戦場に残って討ち死にしようとしかねん! ともかく鹿之助の二千にも撤退させろ! 張り倒しても構わんし嘘をついても構わん!」
言い、前方を指し示す。新次郎は『はあっ!』と掛け声をあげると素早く馬を走らせ、雪中に消えた。
「後ろは続いているか!?」
「続いておりまする! 後方に、そして左に味方の軍これ有。全軍が動いております!」
五右衛門の答え。うむと頷き、ともすれば全力疾走したくなってしまうような気持ちを抑え、前進を続ける。大きく円を描くような動き、その時、横合いから『弾正尹様!』という声が聞こえた。
「おお、官兵衛か、中軍において難しい指揮を任せていたが、部隊を崩さずに堪えてくれたな。見事だった」
「某の行いなど如何程の事もございませぬ。それよりも、弾正尹様のご判断には驚かされましたぞ、まさか今この場において」
珍しく驚いた様子の官兵衛が俺に笑いかけて来る。お前のお陰だと礼を言う。
「官兵衛に教わったのだ。習った通りに行なうだけならば子供でも出来よう」
「ですが、果たして誰がこのようなことを思いつきましょうか。この期に及んでまさか『車懸かりの陣』とは」
視界が悪く複雑な戦法を採用することが出来なかった第四次川中島の戦いにおいて、上杉謙信公が仕掛けたという伝説の陣形『車懸かりの陣』。官兵衛によればそれはただ目の前の味方について行くだけの極めて単純なものであったという。幽霊の正体が枯れ尾花であるように、伝説の正体も単純な人間の動きでしかないと看破した官兵衛。それに対して答えを知っている人物からの回答を頂戴したわけではないので正しくは分からないが、俺は官兵衛の言葉に納得し、そして今の状況で取るべき陣形はこれであると確信を持った。
「敵全軍を攻撃し、味方の負傷者は左翼、即ち陣形の中央へと送る。目の前に敵が現れた時には足を止めず攻撃を行い一撃離脱。これこそ『車懸かり』であるな?」
「御意にございまする!」
官兵衛のお墨付きも得て、俺は更に軍を進ませた。まだ車輪は完全な円になってはいない。俺が率いる最前線が、鹿之助の率いる殿の後ろにくっつき、それでようやく車輪が完成する。
「前方に武田軍! 最前線! 赤備えの姿有り!」
伝令が叫びながらこちらに寄って来た。赤備え。精強無比で知られる武田軍内において尚、最強の座を譲らず固持し続けた男、山県昌景。迎え撃つは山陰にてその名を知らぬものはいない不屈の勇者、山中鹿之助。日ノ本の東西、遠く離れた地に産まれた強者同士がぶつかる最後尾に、俺が割って入る。
「山中隊撤退中! 最後尾は山中鹿之助様率いる尼子兵三百余り! 敵中に孤立しつつあり!」
「新次郎は!?」
「行方定かならず!」
奥歯を噛みしめた。いや、死んだと決まった訳ではない。山中隊は撤退を始めたのだ。その最後尾を鹿之助が務めるようとする事は予想出来た。ならばその横に新次郎がいる可能性もある。
「鹿之助を、新次郎を救うぞ! 横合いから突っ込み、そのまま鹿之助の隊を後ろから押し上げる! 死なせるな!」
誰を、とは言わなかった。速度はそのまま、確実に武田軍とぶつかりに行く。可能ならば武田軍の左翼前方からぶつかり、そのまま右翼の前方にかけてをなぞって去ってゆく。俺達の攻撃を凌いでも、後続が次々と戦闘に参加して来る。追撃をされる恐れはない。成程確かに、合理的な陣形であるかもしれない。
「退くなよ! 後方に安全圏はない! 前進したその先にこそ活路があると心得よ!」
五右衛門率いる伊賀忍は俺の事を良く先導し、俺がそうあって欲しいと思う場所に俺の事を導いてくれた。俺はただ等速で前進を続け、旗頭であれば良いだけであった。後の世の話には残らないであろうが、彼ら名もなき伊賀忍こそ今回の殊勲なのではないかと思う。
「鹿之助!」
「弾正尹様!」
戦において最も難しいと言われる撤退戦。その殿を自ら務めた鹿之助は、山県昌景の攻撃を凌ぎ、なお反撃せんとの構えを見せていた。その山中隊を収容し、車懸かりの陣形を完成させる。先頭と殿、即ち俺と鹿之助は時を開けずして互いの生存を確認しあった。
「新次郎もおるな!」
「これに!」
孫市も弥介も、戦死の報は届いていない。どこぞの部隊が壊滅したという報せもない。戦いは互角か、それ以上になった筈だ。
「後は敵が退却してくれるまで回り続けるのみ。とっとと退いて欲しいものだが」
戦場は熱を増し、そうして戦いはこれより最後の山場を迎える。
百四十話に地図を追加しました。ぼたもち様いつもありがとうございます。




