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信長の庶子  作者: 壬生一郎
津田所司代編
140/190

第百四十話・川中島決戦(地図有)

 第四次川中島の戦いが史上まれに見る凄惨な殺し合いとなってしまった理由は前述の通り濃い霧である。川中島にたちこめた霧のせいで、両軍は気が付かぬ間に近付きすぎてしまい、そして、正に五里霧中という状況下、戦っていた。


 この日の川中島は、細かく乾いた横殴りの雪が降っていた。この雪も又周囲の様子を見えなくし、お互いの動きを相互に消してしまうこととなった。


 これより述べることは後に様々な場所から得た情報を纏めることで分かった話であり、その時の俺は知る由もないことである。


その三日前、謙信公は二千の兵を率いて密かに春日山城を出陣し、川中島へと到着していた。そして、善光寺を超えて更に南下、第四次川中島と呼ばれた決戦場にまで到達していた。そうして一万の大軍を率いる俺を後方から奇襲、一撃し離脱せんという構えだった。


 謙信公がこのような行動を取ったのは勿論単なる賭けという訳ではなく理由があった。もし上杉勢の撤退と織田勢の撤退が同時期であれば、この年の冬に控えていた和議、降伏の交渉において北信濃の帰属がどうなるのかが変わって来る。一度の戦闘もなかったとなれば、大軍に怯えて逃げたと取られるかもしれない。つまり交渉前から北信濃は既に織田領だと見做される。だが、撤退する織田軍に追撃を仕掛けこれを撃退したということであれば、上杉家は北信濃を領有したまま勅命により講和したという名目が立つ。同地を失うにせよ守れるにせよ、交渉の為一つの札として使用することが可能となるのだ。北陸上杉家二百万石。この二百万石が大幅に削られるのは仕方がないとして、その削られ方がほんの少しでも軽微となるよう、謙信公は動いていた。


 俺にとっては勿論のこと、謙信公にとってすら誤算であったのは、その日の雪が思っていた以上に視界を奪ってしまった事だ。正確にどの位置でどう追い抜かれたのかは定かではないが、謙信公の二千は織田軍を追い越し、そして先に川中島まで到着してしまった。一方で、無理に急いで撤退する必要はないと判断していた俺は殊更にゆっくりと、追撃を恐れながら南下し信濃から美濃岐阜城を目指していた。


 後の世に地図上で見れば単に二千と一万の戦い。規模がそこまで大きい訳でもなく、そして一万を率いる俺は圧倒的に優勢に見えただろう。だが、実際に戦場にいた俺にとってのその時の様子は、それほど単純なものではなく、将兵の表情を俺は後々まで生々しく記憶することとなる。




「前方に敵、前方にだと?」

 撤退時、前軍の指揮を執っていた俺の元に突然降ってわいた敵軍発見の報。今まで姿を見せていなかった敵が、軍神二人の決戦場に、突如姿を現したという。


 「敵の旗印に『毘』の文字ありとのこと!」

 続いてもたらされたその報告に、今度は周囲の将兵がはっきりと怯えたのが分かった。雪のせいではなく、背筋が冷える。


 「軍神が、ここに?」


 何も情報を得られていない俺は、この時勿論この遭遇が謙信公にとってすら予想外のものであったことを知らない。雪により武田軍が撤退し、それを見た俺が合わせて撤退する。それを読んでいた軍神が、全て見越した上で、万端の準備を整えて待ち構えていたようにしか思えなかった。


 一方で、謙信公の心中も穏やかではなかっただろう。俺は相手の数もその兵の内容も何も分からないが故に怯えていたのだが、逆に謙信公は分かっていたことが恐怖であったはずだ。一万、味方の五倍もの大軍が、既に戦闘を避けられない距離まで近づいてきている。敵に撤退はない。何故なら撤退の進路をふさいでいるのが自分であるから。戦わねばならず、そして消耗戦になれば先に全滅するのは自分。俺よりも尚、背筋が凍る状況にあったのではないだろうか。


 「大将」

 その時、俺の横にいた孫市が声をかけて来た。雑賀鉄砲部隊はその半分を前、半分を後ろに分け、奇襲に備えていた。前の軍を指揮するのが孫市だ。


 「感謝するぜ」


 奇襲を成功させるために隠密裏に移動していた上杉軍。後方を警戒し、通常よりも遅い速度で行軍していた織田軍。そして、積もりかけた雪は足音を吸収し、戦場は奇妙な静けさに包まれていた。


 「戦国よりの撤退戦。最後に突破すべき敵が軍神なら出来過ぎだ」


 今更だ。と言って出て行って以降、孫市が必要な場以外で口を開いたのはそれが初めてだった。表情にはそれまでにない、憂いのない笑顔を張り付けていた。


 「俺達が大将の道を切り開く。大将は突破して退却しろ。泰平の世、ってやつまで」

 皮肉気に笑いつつそう言ってから、孫市は指で鉄砲を弾く真似をした。


 「天下よ……」


 前に出ようとする孫市の背を見ながら、俺は無性に悲しくなった。天を仰ぎ、瞑目した。何かに仕組まれたようにしか思えない。運命の悪戯と言うにしては余りにも悪趣味なこの展開に、俺は天に、仏に、神に、そこまでこの帯刀がお嫌いかと、泣き言を言いたい気分だった。そこまでして人を殺したいのか。この期に及んで、まだ血を求めるのか。


 「俺はただ、お前達を生き延びさせたいだけであるというのに」


 馬を進め、最前線に赴こうとする孫市に言うと、馬上の孫市が振り返った。新次郎が、前は危ないと、俺を中軍に下げようとする。だが、俺はそれを拒否し、寧ろ孫市に並びかけ最前線に出ようとした。


 「殿」

 「敵の姿を確認するだけだ。戦いが始まれば後退する」


 言いながら前に出る。既に味方の進軍は停止した。殿(しんがり)を受け持つ鹿之助にも上杉軍現るの報は知らされていることだろう。


前線に出る。視界を遮る濃い雪。成程確かに、その雪の先に敵軍の影がうっすらと見える。そこにいる、しかし完全には見えない。何とも言えない不気味さがそこにあった。


そんなことを俺が考えていたせいで、ではないだろうが、その時、即ち俺が最前線に出て敵軍を確認していたその時、束の間、風が止み、そして、視界が開けた。


それは、精強で聞こえた上杉軍の様子とは少々違っていた。絶対的に不利な状況で戦い続け、負ければ滅亡、勝てばさらに厳しい戦いが続く中それでも勝ち続けた男達。疲労困憊になりながらも希望を捨てずにいた男達。その姿は満身創痍で、酷く摩耗しているように見えた。遠目にも、真新しい鎧など一つもない。壊れて直し、或いは取り換え急場をしのぎ続けて来たのだろう。赤備えや黒備えと呼ばれるような装備を統一した部隊がいるわけでもなかった。だが、確かに、目の前には上杉軍がおり、一言で感想を述べるのであれば、その上杉軍は不揃いであるが故、成程確かに強そうであった。


「全軍に命を下す。目標」


そうして、その軍の中央最前線に、当然のように居座る一人の男。体が大きく厚みがあるという訳ではない。俺が知る限り見た目が大将らしく見えた大名といえば肥前の熊、龍造寺隆信殿くらいのものである。父も、そして俺も戦場において大して目立つ方ではない。だがそれにしても、越後の龍は、戦国最後の軍神は少々小柄な中年男と言った風情で、目立ちもせず、又周囲を圧倒する威風でもなかった。それでも、『ああ、あれが謙信公か』と理解出来た。


静寂に包まれた戦場に、謙信公の言葉が響いた。両軍の注目をしっかりと集めた事を確認した謙信公は、手に持っていた刀を前に、即ち俺に向けて差し示す。


「敵大将が首」


その一言、たった一言で、敵の士気が一気に上がった。静寂を吹き飛ばす敵方の歓声が戦場に響き渡る。孫市が鉄砲隊を並べ、銃口を向けた。


『負ける』


このままでは負ける。士気の差で負ける。何の裏付けもないが、戦場の中俺はそう確信してしまった。現にこの時、上杉の兵に問うてみたとするのならば誰もが負けるとは思っていなかったはずだ。それどころか誰が俺の首を奪うのかという話で盛り上がりすらしたかもしれない。そうして、突如現れた敵軍の存在に浮足立ったまま、まだ現状を把握できていない味方はどう見ても士気を落としている。


何かする必要がある。大将として。このままぶつかれば負ける。不安や恐怖に怯え、逃げ出したいという気持ちに包まれそうになる。それでも、頭の隅僅かに残っていた冷静な俺が、今の上杉軍に一万の軍を南下させる余力はない。まともに戦えば例え勝てなかったとしても負けはしない筈だ。と言っていた。俺が何とか、互角の士気にまで持って行けば。


頭でそう考えた時、体が動いた。味方の鉄砲隊の前に出、その姿を晒した。後ろに新次郎、そして弥介が付いてきた。上杉軍の歓声が止まる。謙信公が軽く手を上げ何か指示を出した。狙撃か、と思ったがどうやら俺に話をさせようということらしい。それだけの指示で味方を黙らせることが出来る謙信公。それだけの指示で謙信公の意思を理解する上杉の兵。どちらも賞賛に値する。静かだ。これなら、俺の声もそれなりに通るだろう。


俺の頭の中に浮かんだのはかつて宇佐山において朝倉の大軍の前で啖呵を切った心月斎殿の姿。朝倉の鉄砲を霧雨鉄砲と呼び、味方の士気を大いに上げた。大将の器一つで戦があれだけ姿を変えるものなのだと、大いに学ばせて頂いた出来事だ。


「良く戦い抜いた、上杉の精兵よ!」


そうして口から突いて出て来た言葉を聞いて、褒めてどうする。と、自分で思う。仕方がない。台本など考えていないのだ。自分が思った通りの事を、自分が思った通りに語ろう。内容はどうあれ、両軍の前で味方の大将が名乗りをあげ、一席ぶちあげたというだけで多少以上の効果は出よう。


「天下、既に織田に降った! 日ノ本で戦場となり得る地、最早上杉領をおいて他になし! 天下を向こうに回しての大立ち回り、古今に例なく、天下はその偉業を讃えておる。敵ながら天晴である!」


やっぱりこれでは敵方の士気を上げてしまうなあと思う。だが最早止めようはない。自分で語っていることでありながら、この時の俺はこれから帯刀が何を言うのかと、まるで最も近くにて聞く聴衆のような気持ちでいた。


「今日この時この戦場をもって、長きに渡った戦国乱世は終わりを迎える! なればこそ! 戦国最後の戦場に辿り着いた武士(もののふ)共よ! 存分に戦え! この後の世において、京が、鎌倉が、安土が、いずれが天下の中心となるかは分からぬ! だが、今この瞬間、この時においてのみ、天下の中心はこの場にある、我らの手中にある! 戦国百年、その最後の一戦となるこの戦いを、日ノ本の民は永劫に語り継ぐであろう! 上杉の兵共(つわものども)よ! 我が首が欲しいか!? ここにあるぞ! 見事獲ってみせよ! 織田の兵共(つわものども)よ! 軍神の首があれにあるぞ! 決して見失うな!」


両軍から歓声があがった。上杉軍からのみではない。両軍からだ、地面が揺れ、体が震える。もう、何を言っても聞こえはしないだろう。俺は刀を抜き、前方に掲げる。同じことを謙信公がしているので、それに倣った形だ。この時、俺と謙信公の視線が、そしてこの場にいる全員の死線が交錯した。笑っているように見えた。謙信公が腕を後ろに引く。俺も同じようにする。そうして、前に。俺と謙信公の『かかれ』の声は、歓声にかき消されたがその動きは両軍に伝わった。雄たけびと共に、士気上がる兵達が駆け出し、そして戦国最後、川中島決戦が始まった。


それを待ってくれていたかのように、再び戦場が雪に包まれた。俺は後退することなく、味方が俺を追い抜きぶつかる様子を見ていた。


「鉄砲隊を無意味にしてくれたな。大将」


戦闘が始まってすぐ、孫市が近づいてきた。乱戦になってしまえば鉄砲など使用出来ない。視界が悪い中、元々鉄砲に不向きの戦場であったのだ。それでも何とか頑張ってくれていたようだが、残念ながら俺がその機会を奪ってしまった。代わりに、槍隊を率いる弥介は大いに勇躍していることだろう。


「済まないことをした」


俺が言うと、まあいいさ。と孫市が笑った。鉄砲隊は足軽部隊に追い抜かれ、最前線から一つ下がった。


「俺はこういうやつだからな。今更『これまでのご無礼をお詫びいたします。これよりは忠誠を誓いまする』とは言えねえが」

「みんな仲良くめでたしめでたし、は、確かに難しいな」


孫市の言葉に、孫市の言葉で返す。そうだなと苦笑され、俺はカッカッカと笑った。


「だがまあ、これが終ったら酒でも飲もうや。雑賀衆しか知らない良い場所がある。俺の親友も、家族も、そこに埋めた」

「そうか、ならばこの帯刀一世一代の謝罪をして御覧にいれよう」


俺が言うと、いらねーよ、と笑われた。


「時代が悪かったんだ。それ以外に答えはない。そんな時代の中で、俺達雑賀衆は俺達雑賀衆なりの生き様を貫いたんだ。後悔はねえ。恨みはあったが、捨てた」

「そう言って割り切ることが出来る者を大器と呼ぶのだと思うよ」


俺が雑賀孫市という立場にあったらそう思えるという自信はない。恨みに支配され、たとえ天下泰平となった後にも復讐の鬼になってしまったとしてもおかしくはないように思える。


「織田、三郎五郎。あれは強かった。まともにやっちゃあ勝てねえ。勝てる今、勝った今止めを刺しておかねえと絶対に後悔する。だから最初に狙うのはあの男だ。雑賀衆は皆そう思ったんだ」

「……雑賀衆にそこまで思われて、義父上も武人として誇らしいだろうよ。俺も、義息として鼻が高い」


そう言いながら、信広義父上の顔を思い出した。少しずつ、しかし確実にその表情も記憶も色あせてゆく。残酷な程に。だが、それでも俺はあの人の事を忘れることはないだろう。


「死にたくはないな」


ポロリと、本音が漏れた。大将よりも先に死ぬのが子分の役目だと、孫市が答える。頼もしい。だが、ここまで両軍の距離が詰まってしまうと戦死者が飛躍的に増えるというのは他ならぬここ川中島にて証明されたことだ。そして相手は軍神、かつて大将の身にありながら一騎打ちをしてみせた剛の者。何かが起こる条件は揃っているような気がする。


「大将は死なねえし、死んじゃあならねえと思うがな。上杉の連中の為にも」

「何故?」

「信な……右府様は倅を可愛がってるんだろう? 長男殺されたら勅命もクソもあるか、皆殺しだ。って言い出しそうな気がするがよ」

「……確かに」


考えていなかったがいかにもありそうだ。全てを無視して上杉領を蹂躙してしまいそうな気がする。


「ならば尚の事、俺は死ねないな。俺が死ねば、戦国が又一年延びてしまう」

「難儀な親父を持ったな」


全くだと、ため息交じりに答えたのとほぼ同時に、後方から伝令が入った。


「敵襲! 数は定かではありませぬが、旗印が武田菱なれば、三千はいるかと!」


挟み撃ち。舌打ちをし、そして表情を歪めた。後方には鹿之助がいる。鹿之助には二千の指揮を任せている。そう簡単に崩れはしないと思うが。


「流石に、軍神だ。そう簡単に超えさせてはくれないな」

戦国という時代は、撤退することすらこうも難しい。


挿絵(By みてみん)


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― 新着の感想 ―
[良い点] これはなろう歴史小説の、最高傑作ではないだろうか・・・。
[気になる点] 地図上に梅津城とありますが、海津城ではないでしょうか?
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