第百三十九話・帯刀の狙いとは
「おい大将殿」
「どうした孫市。お前ともあろう者が持ち場を離れてわざわざ俺のところまでやってくるなど、らしくないじゃあないか」
日記などをしたためつつ、本陣とした善光寺に布陣している俺の元へ少々不機嫌な雑賀孫市がやって来た。
「攻めかからんのか?」
そうして孫市が言って来た言葉に、俺は頷き、攻めんと答える。
「折角防衛の為こうして施設を建築したのだ。攻めかかって来たならば迎え撃つがこちらから攻めかかるような真似はしない。此度の戦、別に敵の殲滅を目的としているわけではないのだ。この地を占拠しているだけでも右府様や亜相様からは十分戦果として認めて頂けるだろう」
「言っていることは分かるが敵は三千で味方は一万だぞ。鉄砲の数も十分だ。騎馬兵の数ですらこちらの方が多い。この状態で戦いを避けては」
「別に、武家の名折れとなろうが周囲、後世の者どもに臆病者とそしられようが俺は構わぬ」
武田軍三千は、善光寺より東へ約一里、千曲川を渡った向こう側に布陣していた。川を渡ってくる様子は見せずじっとこちらを睨み付けている。
「後方の輜重隊が攻撃されては困るからな、その分だけは警戒し、護衛の兵を二千とした。孫市の部下が飢えに苦しむ心配はない。持ち場に戻り、敵兵の様子を注視しておくように」
断定的に俺が言うと、孫市が不満そうに、というか不可解そうに頷き、陣へと戻っていった。
「新次郎」
控えていた新次郎に声をかける。はい。といつも通り新次郎の短い返事。
「今降っているこの雪は、やがて積もるかな?」
「分かりませぬ。初雪がそのまま積もるということも無くはないそうですが。ですが上空を見るに、まだそれほど雲が厚いようには見えません。そこまで大量の雪が降りはしないのではないでしょうか」
新次郎の言葉通り、十一月二十日の雪は翌日には止んでしまった。
孫市の陳情と前後し、官兵衛からは一旦北上し春日山城攻撃の構えを見せ、追って来た敵兵を迎え撃ち殲滅するという策を授けられた。又、鹿之助からは自分が精兵二千を率いて武田兵と戦って来るので一時兵を貸して欲しいと言われた。俺は、両者の進言に対しこちらから動くことはない。あくまで敵の攻撃を迎え撃つ。という、孫市にしたものと同じ説明をする事でこれを退けた。更に、武田軍から五百程度の部隊が離脱し南下、信濃中央部を攻撃しようという構えを見せた際にも、『敵が岐阜城を目指すというのであればこちらは春日山城を目指せば良い』と答えた。かつて川中島の戦いの折に謙信公が言ったとされる言葉を地名だけ変えてそのまま使わせてもらった形だ。孫市の部隊に弥介の部隊を加えて輜重隊の護衛を増やすことはしたが、結局それ以上の事はしなかった。そして。
「手前一体何を考えている!?」
三度目に振った雪が積もりそうだなと思ったその日、俺が下した命令に孫市が吠えた。
「雪深くなれば敵は引くであろうから、こちらも撤兵の準備をしておけと言った事がそんなにおかしいのか?」
「俺達はここに遊びに来たわけじゃねえぞ! 敵と殺し合いに来たんだ! 一度も戦わず引き上げることに納得しろというのか!?」
その通りだ。と俺は頷いた。
「敵は我々一万の兵を恐れ、春日山城に籠る。俺達は敵方の撤兵と同時に周辺の住民らを慰撫し、北信濃が織田家に降った事を内外に知らしめる。戦いこそなかったが此度の我らの戦功は北信濃の接収ということになろう。右府様も亜相様も、戦功として認めて下さるはずだ。これ以上を望む必要もない」
淡々と答える。孫市は困惑したような表情で束の間黙り、そして俺に質問をした。
「手前は……俺に復讐するつもりでここに呼んだんじゃあないのか?」
「復讐? どういうことだ?」
「とぼけるなよ。手前の義父を殺したのは俺達雑賀衆だ。俺が殺したようなもんだろうが。体よく使い捨てにして、殺そうと思ったんじゃあねえのか?」
言われて、ああと頷いた。忘れていたわけではない。俺以外の殆ど誰もが、今回俺が雑賀孫市とその部下達を連れてゆく理由をそう見ている。自らが戦功をあげる為激戦区に赴き、そして死んでも構わない兵を前面に出す。降兵は最前線に。ましてや雑賀衆は降った訳でもなく、最早戦いようがないとみて野に散っていった者達だ。これを再び拾い上げ、そして全滅させたところで痛くも痒くもない。山中鹿之助と尼子遺臣も同じようなもので、寧ろ沢山死んでくれた方が今後西国の統治が上手くいくだろう。その為に、盟友たる羽柴筑前から切れ者を一人借りたのだ。全く以て弾正尹も悪辣である。と、巷では言われている。
「雑賀孫市。お前は、自分にとって大切な人物を何人織田家に殺された?」
「……そんなもん、一々数えるのはとっくにやめちまったよ」
俺の質問に、孫市の声がぐっと小さくなった。俺も、義父上以外に大切な人を失った。父上が銃弾に倒れた後、雑賀衆が敵に回ったことは正に痛恨だった。纏まりの悪い反織田家連合の中で、最初から最後まで織田家の急所を突き続け、ただ勝つだけではなく、明確に勝ち方を見据えて考えていたのは雑賀衆だけだったのではないだろうか。即ち、それが見えていたのは雑賀孫市ただ一人だけだったかもしれない。
「さぞかし恨んでいるだろうな。織田家の事を」
その問いかけに対して、意外にも返事がなかった。同じ質問を、囚われた孫市に会いに行った一度目の面会でもした。その時は当たり前だ。いつか全員撃ち殺してやると言っていた。雑賀衆を相手としたことによって織田家が被った被害が少ないとは言わないが、織田家のせいで雑賀衆が受けた被害とは比べ物にならない。故に、恨みは当然の事であるのだが、今の孫市は否定こそしないが肯定もしない。
「俺も……俺は恨んだ。多くの敵を嫌いになり、殺してやりたいと思い、実際に多くの敵を屠って来た。そしてその度に後悔した」
かつて一向門徒達を『虫けらの如き者ら』と蔑んだことがある。村井の親父殿に諭され、長島殲滅を経て達した結論は一向門徒も『俺と何も変わらぬ者ら』であるということだ。
「妻を一人失い、中国攻めを行うようになった頃から、俺は敵を恨んで戦うという事はなくなった。ただ、『織田家の為に』というお題目は事あるごとに唱えるようになったな。恨みはないが、織田家の為に。敬すべき人物であるが、織田家の為に、そうやって多くの敵を倒し、俺は運よく、短期間にて西国を攻め落とすことに成功した」
官兵衛ただ一人を救う為に小寺家や黒田家は見捨てた。毛利家ただ一家を救う為に、島津家や尼子家臣は多くが死んだ。俺の都合によって、真っ当に神を信じている切支丹の多くが死に、ルソンへと流された。全ては俺の身勝手の犠牲者だ。俺にとって都合が良い者だけ生き残り、都合が悪い者らは殺された。
「先程、俺が何を考えているのかを問うたな。恐らく、鹿之助も官兵衛も、同じことを考えているだろう」
見回すと、二人が黙って、しかし同意するかのように俺の事を見据えた。官兵衛は効率よく敵を倒す策を考える為にここにいるのだと考えているし、鹿之助も死に兵としてここに来ている。だが、俺から下された命令は『動くな』の一点張りだ。ならばなぜ自分が今ここにいるのかと不可解な気持ちでいただろう。
「俺はお前達三人に泰平の世を生きさせたい。そう考えている」
その為に三人を連れて来た。一万の兵を率いて対陣し、北信濃を奪ったと主張すれば一定の功として認められる。そしてその一定の功は三人の手柄にもなる。
「お前達三人は織田家に、そして俺に最も人生を狂わされた者らだ。そういった者達を纏めて、一度くらい救ってやりたいと思ったのだ。俺は」
「……今更仏気取りか?」
俺の言葉に孫市が吐き捨てるように言い、その言葉に俺は笑った。そうだなと。
「いつからか俺の領地がでかくなりすぎてなあ。土地も人もいるというのに家臣が足りずに困るという贅沢な状況になった」
同じような状況には羽柴殿もなっている。俺はまだ織田家という一門衆が多くおり、不遇をかこっている織田家の者らを使うということも出来たが、羽柴殿は先祖代々の家臣や一門衆というものがない。妻の実家や親戚筋から連れてくることもあるようだが、多くは新たに招いている。官兵衛がそうだ。
「今まで尽くしてくれた家臣達にはそれに見合う領地を与えることが出来たし、納得がいく待遇にしてやれた。それでもまだ残る領地と、俺のせいで不幸になってしまった男達、そして戦国最後の戦。これらを纏め併せて、誰も傷つけぬままに人を救ってやりたいと思ったのだ。今なら、神や仏の真似事も多少は出来るだろうと、気が付いてしまったのだ」
他家を犠牲にして毛利を救うではなく、織田の為に誰かを踏み潰すではなく、ただただ誰も損をしない形で誰かを救うということが、今の俺の立場であれば可能だ。
「御言葉、誠に美しかれど、無粋な事を言わせて頂きます。弾正尹様はそれで納得すれども、周囲の方々は納得致しますでしょうか?」
『感動致しました、これよりは未来永劫の忠節を誓いまする』という言葉を期待していたわけではなかったが、それにしても官兵衛は冷静だった。確かに言う通りだ。俺一人の自己満足を達成する為に、これまでの家臣や家族に不満を溜めるようなことになっては仕方がない。
「先程も言ったが、貴殿らに加増したからといって古参の家臣達が領地を削られるわけではない。家臣達からは不満は出ない」
「二人はそうだろうが、俺については恨んでいる奴も多いだろう?」
孫市の言葉。官兵衛は他家の人間であるし、山中鹿之助という人物は悲運の名将である。誰もが憧れを抱きこそすれど、恨みを持つ者はいない。だが、対織田戦において大活躍をした雑賀孫市に仲間や家族を殺され、恨みを持つ者は多い。
「都合よく噂が流れている。弾正尹は恨み骨髄の雑賀孫市を跪かせ、捨扶持を与え日々領内でいびっている。とな。そう思わせ続ければ良い」
噂は伊賀忍を使って広めることも出来る。それでも俺に不満を述べてくる家臣や織田家の者ら、更に言えば父に対しては俺が直接話す。
「新次郎」
控えている新次郎に声をかけた。新次郎は首を横に振り、人払いはしてありますと答えた。頷き、そして俺は三人に向けて頭を下げた。
「済まない。孫市殿、鹿之助殿、官兵衛殿。恨みも不満もあるであろうが、俺は貴殿らに、新しい泰平の世において幸福なる日々を送って貰いたい。どうか恨みを捨てて欲しい」
雑賀衆はこの度再集結を果たし、雑賀孫市の助命を条件に軍に加わっている。そのまま彼らを家臣としてどこぞの小領主とすれば良い。戦が無くとも彼らの中には多くの職人がいる。鉄砲生産に腕を振るわせれば食いっぱぐれることも無いだろう。
尼子遺臣については大将を山中鹿之助として一家を建てさせる。尼子家を山陰山陽十一州の太守とさせた元祖謀聖尼子経久公は子を多く設けた。その多くは悲しいことに身内の粛清などにより死に絶えたが全滅したわけではない。突然現れた尼子家の遺児に、織田家が家督相続を認めることはないが鹿之助が家臣として雇い入れるのであれば文句は言わない。そうして、鹿之助本人か、或いはその子らと娶せることにより、織田家中の小大名として尼子の血を残すことも出来るだろう。五十年後や百年後には家名を尼子とすることも出来るかもしれない。
黒田官兵衛については、羽柴殿が家族を救い出し面倒を見ているのであるから心配してはいないが、此度の戦の報奨とし、幾ばくかの金銭を与えることとする。勿論三人とも、今回の戦いにおいてどうしても戦闘を避けられないとなった時には存分に働いてもらうつもりであった。
「今更過ぎるぜ弾正尹。この期に及んで、みんな仲良くめでたしめでたしなんて、そっちは良くても俺は出来ねえよ」
「であるか」
自分でも、いつも思うことではある。勝った側の恵まれた立場にいるから言えている綺麗ごとに過ぎないと。
「悪いが、先に失礼するぜ。帰り支度をしなきゃならねえ」
そう言って、雑賀孫市は去って行った。上手くいかなかったなと、俺は大きく溜息を吐く。
「気持ちを纏めるのに、些かの時間がかかるのでしょう。某とて、同じことを弾正尹様でなく小早川殿に言われていれば、何を今更と言い返すところでございます」
瞑目していると、山中鹿之助に声をかけられた。
「短い付き合いではありますが、雑賀殿は家臣に好かれ、面倒見の良い方でございます。弾正尹様のお気持ち、理解出来ておらぬということはありますまい。この鹿之助も、重ね重ねの御恩情、生涯忘れませぬ」
「右に同じく」
鹿之助と官兵衛は揃って頭を下げてくれた。二人共、このような場で一席設けたからといって即座に心服してくれるほど容易くはないだろうが、少なくとも表面上は納得してくれたようだ。
「しかし、弾正尹様も、あえて困難な道を進まれますな」
官兵衛が言い、そして笑った。それまでよりも棘のない、柔らかな声だった。
「悩みはしたが、妻に背を押された」
亡き妻、恭からは月とは誰に対しても平等に明るいものであると言われた。彼女の口から恨み事を聞いたことは一度もない。生きている妻、ハルからは沢山悩め、自分は常に味方だと応援された。二人共、俺の困難かつ不器用な道を、呆れながらも認めてくれるだろう。
「撤退致しましょう。戦国より」
「良き言葉だ。目指すは泰平の世」
官兵衛の言葉に答えると、鹿之助がふふと品良く笑った。
翌日より、俺達は本格的に撤退の準備を開始した。雪はサラサラと粉のような、水分量が少ない雪だが、風が強く前方を確認することが困難となった。武田軍も撤退を開始したようで、既に姿は見えなかった。
そうして俺達、即ち俺と、上杉謙信公は、雪に遮られたせいでお互いの接近に気が付くことなく、ゆっくりと、戦国最終戦の場へと足を踏み入れてゆく。




