第百三十五話・帯刀の失策
「何故だ貴様ぁ! ここは命を賭けて戦うと言うところであろうが!」
「いやです! 父上が何と言おうが、この帯刀は絶対に、絶対に! 絶っっっっ対にぃ!! 上杉攻めには向かいませんし、越後は勿論の事信州にすら足を踏み入れる事も致しません!」
跳ねるように立ち上がった父に合わせ、俺も立ち上がり身を低く構えた。俺を捕まえ、組み伏せようとする父。絶対に捕まらないし、捕まって何発か殴られたところで分かりましたとは言わない。俺は絶対に軍神とは戦わないのだ。
「まさか臆したか!?」
「まさかも何も、ずっと臆しっぱなしです! 心の奥の奥まで臆しっぱなしです!」
「この軟弱者がぁ!」
両腕を前に出し、父が跳びかかって来た。俺はそれをひらりと避ける。阿呆め、腹いっぱいに飯を食い終わってすぐにそのような動きをしたら苦しくなるだけだろうが。俺もそうだ。ヤバい。苦しい。吐きそう。
「ぅぐぅ、き、貴様、本能寺の折にはあれほどの根性を見せ、命を捨てる覚悟すらしておったであろうが」
「ぉえっ、あの、あの時拙者は命を捨てるとは一度として申し上げたつもりはありません」
確かに、織田家の為、日ノ本の為に最悪の場合を想定して出かけはしたけれど。心利きたる者達にはそれとなく後事について託すような話をしたけれども。
「あの時、公方を手にかけた貴様はどこに行ったというのだ」
苦しそうにしながら、俺を睨み付ける父が言う。流石に『公方を手にかけた』という言葉を大っぴらに言ってはまずいので周囲を一旦見回してからの、小声での一言であった。
「織田家の為に鬼となった帯刀は死んだとお見知りおき下さい。拙者の根性や覚悟なるものはあの日本能寺にて、公方様の太刀にて右耳と共に切り飛ばされました」
正確には公方様ではなくて長岡藤孝殿だけれど、俺以外誰も知らない事だから構わない。公方様の名前を出した方が何となく説得力がある気がする。ありがとう公方様。永遠なれ公方様。
「冷静に考えてみて下さい! 権六殿が敵わなかった相手、しかも拙者が出向くことになるということは、その後三七郎が戦って尚勝てなかった相手ということですよ! そんなのにこの帯刀が勝てるとお思いですか!?」
「胸を張って言うようなことか!? 貴様情けないとは思わんのか!?」
「あの軍神相手に勝てませぬと言うことが恥となるのであるのなら、拙者は恥知らずで結構! 織田家中に恥知らずでない者など居なくなります! 織田家臣の中で最も戦上手は柴田権六。織田兄弟の中で最も戦闘に強きは三七郎。最早答えは出ているのです!」
「忠三郎であればそのような意気地のないことは言わぬぞ!」
「奴は馬鹿ですからな!」
俺がもし十年後に同数の兵を率いる忠三郎と戦をせねばならぬとなったら最初に模索するのは降伏だ。ああいう、生まれ持って武将になることが運命づけられていたような連中とはまず戦わないことが吉なのだ。
「大体においてですね、自分から自分の事を『毘沙門天の化身』とか言い出すような気狂い親父相手に何が出来るというのですか!? 総大将の身分でありながら軍の先頭を突き進んで敵大将に切りかかってゆくような者を軍略家とは呼びません! 単純に異常な戦闘中毒者です!」
「そこを何とかするのが貴様の仕事であろうが! 小早川隆景相手に勝利を収めた貴様が何を情けない事を言っておるか!」
「あれは内部が安定しない毛利家を何とか纏めようとする小早川殿に対し、織田軍一丸となって追い詰めて漸く勝ちを手中に収めた戦です! 戦の帰趨を決したのも安宅船であって拙者の知略や武略など何一つ効果を発揮しておりません」
後は惟住殿と十兵衛殿と羽柴殿の三人がいたからだ。三七郎もよく頑張ってくれた。
「貴様自分が何かを成し遂げたという誇りはないのか!?」
「無いことはないです。けれど軍神と戦って勝てる。等と思うことは驕りであって誇りではありません! そのような誇りは第六天魔王様(笑)が持っておれば充分です!」
「貴様父親を笑うな!」
そうやって言い合い、俺達は束の間荒い息を吐きながら睨み合った。
「一旦落ち着きましょう父上」
そうやって睨み合ったところで、俺は両手を上にし、父を落ち着かせるようにゆっくりとした口調で話をした。
「まず前提として、まだ三七郎がおります。上杉謙信との再戦をと勇躍して戦地に乗り込んだ権六殿もおられます。負けると決まった訳ではなく、寧ろ普通に考えれば勝って当然の戦であるのです。結果を待ちましょう」
その間に俺はもう一度九州へと向かう。途中京都へ寄ってハルや子供らと数日過ごし、そして九州だ。遠く離れたればこそ、東国の情報はなかなか届かない事であるとは思うが、それでも陰ながら応援している。
俺の言葉に、父が頷く。確かにその通りだと。良かった、分かってくれた。ならばとっとと帰宅を。
「もし、もしだが、この戦で三七郎が敗れたならば、貴様は」
息を吐いた父が、澄んだ目で俺を見据え、聞いてきた。はい。と、俺は頷く。
「もしそのようなことがあればその時は」
「その時は?」
「その時です。危ねえ!!」
茶碗を投げつけられた。すんでのところでかわしたが、あの茶碗高そうだったぞ。放り投げて大丈夫なものなのか? まさか曜変天目だったりしないだろうな?
「一戦だ、たった一度謙信坊主に泡を吹かせることが出来れば。上杉家が織田家に対して完全に屈服した形で跪かせる事が出来る。そうすれば東北や関東の端に住む連中などどうとでも出来るのだ」
俺に茶碗を投げた父は、そのまま膝から崩れ、悔しそうに呟いた。完全に屈服?
「上杉家の事を、お許しになられるので?」
「三左や五郎左に言われたことだ。上杉謙信には実子がいない。例えば初や、或いは亀千代、これから勘九郎に生まれる子らを押し込み、跡継ぎとさせた上で上杉を名乗らせればよいとな。謙信は北条家からの養子すら大層可愛がっておるそうだ。織田家の子を養子とすることで家の安泰が図れるのならば断るまい」
成程。という声が漏れた。確か、姉の息子と北条家からの養子。更にもう一人か二人か養子がいた筈だ。誰が跡継ぎであるのか決まってはいないらしいが、誰かが特別に優遇され、逆に誰かがとりたてて蔑ろにされているという話を聞いたこともない。俺の耳に届いていないだけかもしれないが。
「それで、お手打ちとするので?」
俺が問うと、父が嫌そうに俺の事を見た。他にどうしろというのだ。というような表情だ。
「三左と五郎左だけではない。吉兵衛や勘九郎にも話した。誰もがこの辺りが落としどころだというのだ。仕方があるまい」
「意外ですね。父上がそのような他人の意見に従うだなどと」
一旦自分の中で決めたことは何が何でもやり遂げる人物であると今日まで信じて来たのだが。
「やり遂げるだけの時間が俺にあるのならばそうする」
吐き捨てるように、父が言った。悔しそうだ。苦しそうでもある。ほんの少し前の父であればこの程度騒いだところで息が上がって座り込むなどということはあり得なかった。体力も、少しずつ落ち込んでいるのだろう。
「以前貴様が言った事だ。棚上げにした問題を、棚から出してどうにかしろと言われるのは勘九郎であると」
確かに言った記憶がある。何の時であっただろうか。
「徳川、浅井、長宗我部。有力かつ外様の大名には縁組で繋ぎを作った。上杉にもそうする予定はあったのだ。だが、それをするにしても二百万石はでかすぎる。越後一国に封じることが出来れば、織田家の面子も立つ。上杉の事も、あえて滅ぼそうとは思わぬ」
越後という国は大国であるが、意外と石高は低く四十万石程度である。平地の多くが沼地で耕作に適していないという点が大きい。越中と北信濃の領地を併せて百万石程。そこに北関東と東北南部、そして佐渡ヶ島を加えて都合二百万石というのが現在の上杉領だ。越後一国、領国の八割を奪い取った上での服属を認めるというのであれば確かに天下の織田家としての面子も立つであろう。
「そうなった場合、近衛前久卿や公家衆は如何なります?」
「勅命講和を俺が受け入れるのだ。上杉家の処遇という対立問題が無くなる以上、あえて俺が連中を潰す理由もない」
その言葉を聞いて、思わずふう、と息が漏れた。安心した。俺は父が一度言い出したことは引っ込めない人間だと理解していたから、今後は朝廷との争い、京都の内裏を焼き討ちにする。という行為を自分が行うものかと思っていた。だが、それはせずに済んだようだ。
「勘違いするなよ。先程までの言葉は、出来もしないことを愚痴にして言った訳ではない。本気で俺がそれを行おうと思えば造作もなく出来ることだ」
俺が露骨に安心した顔をしてしまったからなのか、父が言葉を付け加えた。
「貴様が俺の言葉を聞き、賛同するようであれば他の連中を押しのけて実行に及ぼうと思っていたのだがな。黙って聞きながらも、貴様はずっと嫌そうな表情をしておったわ」
「それはそれは」
俺が表情で内心を見破られてしまうのは相変わらずの事であるようだ。今日ばかりは良かったと思う。
「勿論、公家諸法度については厳しくするぞ。近衛前久はもう二度と京都から出られないようにしてやる。今後法度に逆らうようなものがあればその者の身分がどうであれ容赦なく罰する。織田家の庇護が無ければ、生きてゆけぬ存在であるということは明確にしておかねばならぬ」
それはそれで、朝廷の思う通りであるような気がした。父からそのような圧力を押し付けられた時、日ノ本の名族達は皆ふざけるなとその手を払いのけ、父と戦い、そして滅んだ。最も顕著であったのが足利家であり公方様だ。そうやって相争い、最も強いものが栄えそれに屈しなかった者達は滅びる。そうやって生存競争を行って来たのが武家だ。
もし公方様が実権を全て父に奪われてもそれに納得していたのであれば、或いは征夷大将軍という職は織田家の家臣である足利家の家職という扱いになったかもしれない。或いは勘九郎が足利を名乗り、その代が十五から十六、二十、三十と伸びていったかもしれない。
一方で公家は、とりわけ天皇家は時の実力者と混じり合い、権力や武力を求めることなく権威を高めながら生き延びて来た。今こうして、織田家の庇護のもとそれでも存続し続け、実権はなくとも天下の頂点に君臨すると言うことになれば、帝という存在は又権威を高める時を得る。
「父上は、帝というものをどうお考えです?」
「あんなものは鰯の頭と変わらぬ。皆が有難いと言っているから、ならば有難いのだろうと誰もが有難がる」
気になって質問してみると、即座に返答があった。父上らしい思い切った回答だ。
「否定しようと思えば、いつでも否定してしまえるとお思いで?」
「お思いだな。実際、俺達は似たようなことを一度しておるではないか」
父に言われ、何の事であろうかと首を傾げた。暫く考えていると、叡山を焼き討ちにしたであろうがと言われた。
「連中、御仏の権威に縋り焼かれる直前まで自分達がそのようなめに遭うだなどと想像すらしておらぬであったろうが。あの時も言われたぞ。鎮護国家の大道場を焼いては仏罰がとな。そのようなことをしては織田家が滅びるとな。実際にどうだ? 織田家は滅びるどころか天下まであと一歩だ。御仏の権威を否定したことで、逆に道が開けた。それ以前にもそれ以後にも、そのようなことをしてはならぬと言われたことを行って実際にそれを恐れていた連中が言ったようなことが起こった試しなどない。自分達には権威があるから。などとせせら笑っていた連中は、どいつもこいつも今は俺の前で顔も上げられないような者ばかりであろうが」
先程、一刻をかけてぶつけられた怒りと違い、その言葉は冷静だった。冷静に語っているが故に、その内容は恐ろしいものであるが、父らしい考えだとも思えた。
「誓って言えるが、織田家が公家と戦い、これを殲滅したとしても何も変わらぬ。そんなことをすれば大変なことになる。などというのは、そうであって欲しいから言うだけの事。そうなることが己の好みであるから、思考を停止しているだけの事。武家も公家も、仮にいたとしてもいなかったとしても、天下の形が少々変わるだけでしかない。天下万民にとって、天下を獲った武家が織田家であろうが上杉家であろうが天皇家であろうが大した差は無いであろう」
「この国の歴史というものは、殆ど天皇家の歴史と言っても過言ではないものですが」
「それもまやかしだ。征夷大将軍という職があるではないか。蝦夷を征討する大将軍であるぞ。朝廷がそれを任じたのだ。かつて日ノ本には帝の権威を認めない民がいたということではないか。それで、奥羽がひっくり返ったか? 平定された後、東国が急激に平和になり、大地に花が咲き作物が豊かに実ったのか? 何も変わらぬ。当時そこに住んでいた民からすれば朝廷という侵略者に支配されたに過ぎぬ。奥州藤原氏にせよ同じだ。奥州藤原氏は朝廷からの国司を受け入れ、欠かさずに貢物を送った。その代わりに藤原氏が欲したのは朝廷の庇護ではない。朝廷からの不介入だ。自分達の存在は決してそちらにとって損ではない。だから放っておいてくれと言っていたのだ。朝廷についても帝についても『要らぬ』というのが奥州藤原氏の答えだ。当時の奥州の人間が朝廷の権威を、帝の神通力を必要として生きていたとは思えぬ。それでも奥州藤原氏は百年に亘り栄華を誇った。故に」
鰯の頭と変わらぬ。と、父は最初と同じ言葉で締めた。
「語り過ぎたな。もう良い。行け。貴様も忙しい身の上であろう」
言い終えた父は、胡坐をかきがっくりと肩を落としていた。哀愁に塗れた肩だった。
「安心しろ。帝を切ることも廃位を迫ることもせぬ。近衛前久の、ひいては近衛家の手綱を引き締めることだけはするがな。今年の雪が積もるまでは攻撃を続け、それ以降は勅命講和をし、東国の武士団を織田家の家臣に引き込む。戦国乱世は天正三年までよ」
「父上……」
「この戦が終れば、俺は隠居する。後は貴様らに任せた。三十郎達と協力し、よく勘九郎を助けてやってくれ」
苦労をかけたなと、父が俺を見て笑った。父には似合わない、優しげな微笑みだった。
「もし……三七郎が敗れるようなことがあれば」
そうして、項垂れた父に対し、俺はゆっくりと声をかけた。
「ん?」
父が、呆けたように俺の事を見た。そんな穏やかで緩やかな父の動きを見たくはなかった。
「上杉攻めの話です。もし万が一、三七郎が敗れる事があれば、俺は織田家の西国攻めの大将として、三七郎の後見をしなければならない身でもあります。故に、多少の尻拭いは致します」
「そうかありがとう!」
「え?」
シュバッ、と音がしそうなほどの速度で父が俺に近付きその手を取った。
「貴様がそう言ってくれたお陰で俺も安心だ。いや良かった。三七郎の後の大将がこれで決まった」
「いや、戦場に向かうと言った訳では」
「流石、貴様は良い兄であるな。三郎五郎兄に似たのであろうか。弟の尻拭いとは。そうだな。三七郎だけでなく、三介も敗れたあの軍神に対して一泡吹かせる事が出来るのは貴様しかおらぬな」
「いえ、そうではなく外交や調略といった」
「勘九郎も言っておったのだ。最早帯刀兄しかおらぬ。とな。貴様ならば安心だ。いや良かった。安心だ安心だ」
「ちょ、父上」
「すまんな、俺はもう寝る時間だ。後事一切は貴様に託したぞ!」
言いながら、父は俺の制止を振り切り駆け出すように逃げていった。先程までの弱弱しい動きが嘘であるかのような。というか、まぎれもなく嘘であることが分かる動きだった。
「……しまったぁ~~」
そうして俺は膝から崩れ落ちる。この帯刀、生涯の不覚。




