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信長の庶子  作者: 壬生一郎
津田所司代編
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第百三十四話・それは美味なるのか

 「何故この俺が今更関白や上杉如きに引き下がらなければならぬのだ!」

 怒鳴り声をあげる父を見て、俺は早々に説得を諦め、茶を所望した。


 「近衛前久如きが何であるというのだ!? 奴も上杉の者らと同様に首を刎ねその首帝に差し出してくれるわ!」

 「剛毅なことですね」

 言いながら出された茶を啜る。温かい茶だ。


 更にひと月が経過し、織田家は再度上杉追討軍を発した。三七郎が大将となり西国からわざわざ北陸越後まで遠征だ。ご苦労なことで頭が下がるが、本人は軍神との手合わせに胸躍らせているようですらあった。そして俺は、父上が荒れているので宥めて欲しいという周囲の嘆願を受けて安土城までやって来た。


 「この俺は正二位右大臣、平氏長者であるぞ!」

 「相手は従一位太政大臣、藤氏長者であらせられますからな」


 位でも役職でも父よりも上だ。氏長者としての格であれば藤氏長者よりも上はない。実力はどうであれどちらの方が偉いのかという話をするのであれば間違いなく近衛前久卿の方が偉いという結論は出ている。


 「今すぐ勘九郎を源氏長者に就ける! 公方の猶子となり武家の棟梁となったのだ、奴に源氏長者となる資格はあろう」


 小首を傾げた。父は勘九郎に『足利信忠』を名乗らせてはいない。本人も名乗ってはいない筈だ。足利将軍の十五代目としてではなく、織田将軍家を、平氏長者としての家を継がせるおつもりではなかったのであろうか?


 「貴様も橘氏長者とする。原田は橘の支流である。官位も高い貴様がそう名乗ったところで誰も文句は言わぬであろう」

 「それはそれは」


 確かに源平藤橘、日ノ本に名高き姓にはそれぞれ氏長者がいるものであるが、源氏や平氏と違い武家の棟梁という意味合いを持たない橘氏はその存在理由の多くを藤原氏に吸い取られ、今更橘氏長者という立場の者が現れたからといって何があろうかという気がする。


 「三七郎も今や藤原氏だ。近衛前久の首を刎ねてでも三七郎を藤氏長者に付ける。これで氏の長者は全て織田が独占する。二度と俺よりも上の立場を得て俺に対抗しようとする馬鹿者も出てこないであろう」

 「三介だけ仲間外れで少々可哀想ですな」


 茶をもう一口啜った。温かいものが美味しいと感じたのは久しぶりだ。九州はとにかく暑く、食べ物でまで温かいものを摂っていたらたちまちのうちに倒れてしまう。


 「奴には別の姓を朝廷から下賜させる。かつて藤原不比等が藤原の名を新しき姓としたように、三介にも新しき姓を得させ、その長者へと就任させればよい」

 悩むことなく、父が俺に言って来た。父らしい気宇壮大な考えだ。父が本気で動けば出来ない事でもないだろう。


 「そうなれば、殿上人も織田家が独占ということになるのでしょうかな? 帝は如何なりましょうか?」

 「帝など、替えは幾らでもきく。俺は既存の権力になど囚われぬ。尚俺に逆らうようであれば廃位。そして俺に忠実な者を帝の位に就ける。いっそ勘九郎でも貴様でも三介でも三七郎でも良い。帝や朝廷なるものを滅ぼしてしまったところで何も問題はない! 連中がこの戦国で行ってきたことなど官位を売って小遣いを稼ぎ糊口を凌いできたくらいの事であろうが。あのような連中がいなくなったところで天下万民の誰が困ろうものか!」


 成程畏まりましたと言いながら、俺はそれから暫く話を聞いた。こうなった時の父に対してそれは間違っておりますとか、それはこうした方が良いのではと言ったところで無駄なので、ともかく全て吐き出して頂く。




 「父上、茶をお持ちします。それとも湯漬けでも食われますか? 沢山話をして腹が減ったでしょう」


 怒涛のような怒りを俺にぶつけること一刻少々。話を聞き終えた俺は漸く落ち着いて座ってくれた父に対し、諭すような声で言った。


 「……腹が減ったな」

 「そうですか。久しぶりに卵かけご飯でも食いますか? この辺りでももう食えると聞いております。流石父上、品質の向上に努めておったのですな」


 露骨におべっかを使ってみると、父がほんの少々、寂し気に笑った。


 「そうだな。卵かけを食うか。温かい飯と共にな。具のたっぷりと入った味噌汁も飲みたい。肉が入ったやつだな」

 「トン汁ですね。すぐに用意致しましょう」


 応え、外に向かって指示を出す。小姓達がすぐさま走り去っていった。彼らにも苦労をかける。


 「先程の話、周囲の方々にはお話されているのですか?」

 「ああ、した」


 問うと、すぐに答えが返って来た。親友である惟住殿は畿内近郊にいる。心月斎殿は安土にて悠々自適の隠居生活に入った。京都には村井の親父殿もいるわけで、相談相手には事欠くまい。


「三左や五郎左にすら反対されたな。貴様らを氏の長者にすることは構わない。近衛家を敵に回すことについても、仕方がないことである。勅命講和を黙殺し、上杉家攻めを断行することも武家なればこそ致し方なし。だが、天皇家を滅ぼすということについてのみは、それだけは御考え直しをと皆口を揃えた」

「そうですか……」


そうでしょうね。とは言わない。父が寂しそうであったから。父上とて公家衆に友人もおり、公家と姻戚関係を結んだ家臣もいる。それでも対立するようであれば処分を断行する。織田家が数ある名族に対してこれまでも行ってきたことだ。それを理解してついて来てくれていた筈の惟住殿や心月斎殿にまで否定をされてしまい、悲しいのだと思う。


「何故、誰もが既存の権力にこうも囚われてしまうのであろうな」


そうですね、と答えつつ。それは貴方とて同じ事ですと思った。勘九郎の将軍職、ご自身の従二位右大臣平氏長者、この度俺達を押し込もうとした橘氏長者に藤氏長者、そして新しい姓と、全て日ノ本という国の人間が千年かけて築き上げてきた既存の権力だ。もしも完全にそのようなものは関係なく、織田家はそれらに囚われることがないというのであれば、単純に父が織田家の中での序列を決めた紙を配り、それに従って行動をすれば良い。一番三郎信長、二番勘九郎信忠、といった具合に。天下人であっても、天下人であるからこそ無視できない。それが権威というものだろう。


お待たせいたしました。と言って、飯と卵が持ってこられた。旨そうだ。ザルに乗せられた卵を取り、別の皿に割る。黄身が濃く、赤味がかっている。二つ割って掻き混ぜていると、父が動かないでいることに気が付いた。


「面倒になった。貴様が俺の分も作れ」

「童のようなことを仰る」


笑いながら、卵を溶き十分に混ざったらそこに醤油を加え、更に少し掻き混ぜる。先に父へ。父は飯の茶碗に卵を加えるのではなく、飯を掴んでそれを溶き卵の椀に放り込んだ。


「この方が自分で味の濃さを変えられて旨いのだ」

「成程面白いですな。既存のやり方に囚われておりませぬ」


言うと、父が嬉しそうにであろうと言った。


「卵かけご飯を教えた者は皆少しずつ違うやり方を見つけますな。多いのはこのように、飯の中央に穴をあけて流し込むやり方ですが、こうして全体になじませる者もおります。醤油も、たった今某は一旦混ぜてからかけましたが、卵を割ってすぐにかける者もおり、米にかけてから垂らす者もおりましたな。醤油ではなく味噌を好む者も、塩を好む者もおり、中々面白いものでございますよ」

「己の自由に出来、自由に味わうことが出来るのだ。皆、己の心に従い最も美味く味わうやり方を見つけるであろう。それは工夫というほど大した話ですらない。人が人なるが故当たり前に行う事だ」


思いがけなく深い言葉を言い返されて少々戸惑う。父上に落ち着いて頂こうと思い行っただけの何の深みもない世間話であった筈なのだが。何故だかたった今していた天下の話と類似性が見えてしまった。


「だが、時として使いたいと思っていた調味料が見つからないということもある。そのような食い方は行儀が悪いと周囲に止められることもある。速く食い終わらなければならないと時間に追われ、味わう間もなく腹に詰め込まねばならぬこともある」


黙った。危うく手が止まりそうにもなった。言葉の中に込められている意味を、深く探り出さなければならない気がした。


「旨い。やはりこの食い方が最も旨いな。貴様が溶いた卵も良い。流石我が倅よ」


美味しそうに、父が卵かけご飯を食べる。俺もそれに続いて卵かけご飯を食べた。飯に穴をあけ、ひと垂らし、一旦止めて米に卵が染みてきたらもうひと垂らし。それでもまだ卵が余っていたら上から回すようにしてかける。俺はこのやり方が全体に均一な味を付ける為に最上の方法であると思っている。


「貴様は、何か美味いものを向こうで食ったか?」


話は一旦終わりということであるのか、父が引き続き食事の話をしてきた。はて、九州の美味いもの。沢山あった気がするが、印象深いのは冷やした味噌汁を飯にかけて食った記憶だ。最初は犬や猫ではないのだからと思っていたが、食ってみたら涼を取るのに丁度良かった。冷たい味噌汁はしょっぱさが際立って飯が進む。


「それは美味いものではなく、何とか食えたものではないのか?」

「そうかもしれませんが、慣れてくるとあれが食いたい、となってくるものなのですよ」


二人して笑う。それから俺は、最近覚えた料理について語った。炒飯(チャーハン)という食べ物だ。


「取手の付いた鍋に油をたっぷりと敷きまして、火で良く温めてから飯を放り込みます。そこに、細かく切った葱や肉、溶き卵などを加えて一気にこう、ガシャガシャと煽るのですよ。火力は強ければ強い程よく、そして油の量は飯が浸るほどにたっぷりと。この調理法をして作った料理を炒め物というそうです。炒飯については米を油で揚げる、くらいの気持ちで作った方が旨くなります。唯一ハルよりも上手に作れる料理がこれなのですよ」


ハルが作ると油を節約してしまい、そして思い切って鍋を煽ることが出来ないのでべっちゃりとした出来になってしまう。『タテ様のやり方では幾ら油があっても足りませんわ』とハルは言うが、しかし俺が初めて炒飯を作った時、一番多く食べたのはハルだ。九州から京都に戻ると、炒飯を作ってくれとねだられる。


「けったいなことをしよるな。今度俺にも食わせろ」


ケッケッケと笑った父に命じられて、安土で炒飯を作ることが決まった。それから間もなくトン汁が運ばれてきて、俺達は真夏に汗をかきながら熱いトン汁を食った。この時期に所望するものではないなと、父は笑った。


「貴様、九州にて」

「又飯の話ですか?」


トン汁の大根を咀嚼している時に聞かれた。違うわたわけ。と言われてしまったので首をすくめる。


「自ら悪魔を名乗ったそうであるな」

「自ら、と言いますか、そう言われてしまったからじゃあそれらしい名前を使うことにしよう、と思った次第で」

「何故そんなことをした?」


汁を啜るのを止め、父を見た。今日の父は随分と話がとっ散らかる。


「貴様はそういうことをする性格ではあるまい。己が悪魔だと言われたならば、そのような事を言ってくる輩に対して貴様はどうであるのだと言い返すのがこれまでのやり方であった。弁明せず開き直るのは俺のやり方だ」

「よくご存じで」


最早同じ場所で過ごすことも殆どなくなった父だが、それでも俺の事をよく理解している。

「大して深い理由はありませんよ。当時既に大勢は決しておりましたのでね。津田帯刀が自ら悪魔を名乗ることで、分かり易く切支丹に対しての踏み絵になると思いました。ああ、急いでいたからというのは理由としてあるかもしれません。後強いて言えば、寂しがり屋の父親を一人にしておくのは可哀想かと思いまして」

「何?」

「天下でただ一人魔王の名を頂戴したお方です故、たった一人ではお寂しいでしょうが、倅も悪魔であれば楽しくもなれようかと」


そんな事を今まで考えたことは一度もなかったが、口に出して言ってみるとしっくりした。本当にそう考えていたような気持ちすらしてくる。そして一瞬、父が嬉しそうに口元を綻ばせた。


「この虚け者が」

「父親に似たのです」


立ち上がった父がわざわざ俺の傍までやって来て俺の頭を叩いた。笑顔で頭を叩かれた経験はこれまでにあまりない。


「一つ、貴様に尻拭いを頼みたい」

「尻拭いですか?」


俺が問うと、父が頷き、浅井の事だと言って来た。又話が飛びますね。とは思わなかった。重要な話だ。

浅井長政殿に男子が産まれた。産んだのは市姉さんではなく、側室である八重の方。嫡男輝政以来の男子誕生に浅井家は喜んだ。父も男子誕生については喜び、大いに祝った。長政殿が安土に来られ、祝いの席が設けられ、そしてそこで父が一言、決してしてはならない失言をした。



『跡継ぎはどうするのだ?』



どうするも何も、浅井家には既に十二歳となる浅井輝政殿がいる。それを差し置いて跡継ぎは? とはどういう質問であるのか、それを理解出来ない人間はその場に一人としていなかった。


かつて、浅井輝政殿は祖父である久政殿に担がれて反織田連合の一端を担った。その後その責任は全て久政殿のものとなり、幼少であった輝政殿にお咎めはなしと決まった。更に、その後例え市姉さんが男子を産んだとしてもその男子が輝政殿を差し置いて浅井家の当主となることはないという取り決めもなされた。それらの前提があった上で『跡継ぎをどうするか』という質問は、今もって、父が輝政殿に対して良い感情を抱いていないという証拠であった。『俺に逆らった輝政を跡継ぎにするのか? それとも輝政を廃し、産まれた赤子を継子とするのか? どちらであるのだ?』そういう質問である。


その質問を、二人だけの場所でしたのであればまだ良かったかもしれない。長政殿が直接、『息子輝政は二度と右府様に逆らいませぬのでどうか御信頼を』などということも出来た筈だ。だが公の祝いの場で言ってしまった。浅井家全体に対して去就を問い、その答えを天下に明らかにせよと言ったようなものだ。


父とてこの失言にはすぐに気が付き、何でもないと話を流し、祝いは表向き和やかに推移した。しかし、帰国後長政殿はすぐさま家臣全員に嫡男輝政殿に対して忠誠を誓わせる血判状を差し出させると共に、産まれたばかりの次男万寿丸は直ちに別家を立てその跡取りとする事を決定した。父もそれを認め、祝いの品を送りはしたが、うっかり出た言葉であるが故、それが父の本音であるということは隠しようもない。それ以来父と長政殿の間にはどこか冷たい空気が流れている。厳しい言い方をするのならば、これまでの父上であれば決してしていない程度の低い間違いだ。


「初を、勘九郎の養女とする」

「成程、確かに某の養女にするよりも良いでしょう」


茶々の妹で、市姉さんが産んだ娘だ。浅井家と織田家の間が冷え込んでしまうと、その真横にいる上杉家や近衛前久卿の暗躍もあり少々物騒な想像が働いてしまう。そして俺と浅井家の繋がりが強くなりすぎれば、そこに西国勢も加わって、などという後世の人間であれば面白いことこの上ない想像が働いてしまう。勘九郎の養女となるのならば、浅井家は織田の本家にも分家にも繋がりがあると、準一門の地位を固めることが出来る。


「輝政を元服させ、烏帽子親を俺が務める。京都の久政も、浅井家に帰す。貴様には、その旨承知した上で、織田家と浅井家の間が安定するまでをしかと見届けて貰いたい」


反織田家として戦った際、元服も初陣も済ませた輝政殿であるが、織田家の中にあっては憚られる内容であったので黙殺されていた。父が烏帽子親を務め改めて元服させるというのであれば関係が良好であると内外に知らしめるのに十分だろう。ついでに、父から一字を貰って信政とするか、勘九郎から一字貰って忠政とでもすれば尚良いのではなかろうか。


「仰せ、しかと承りました」

俺が平伏しながら答えると。父がうむと頷いた。そうしてもう一つ、と父が指を立てる。


「上杉だ。天下取りは後一歩のところまで来ている。事ここにおいて躓くわけにはいかぬ。かといって俺は出陣出来ぬ。勘九郎は関東攻めをさせた。いざという時には奴を大将に送るがその前に、済まないがもし次があるのであれば、貴様に上杉攻めの大将を頼みたい」


予想はしていた事だった。勘九郎には死なれては困るし、手傷さえ与えられては困るのだ。父と勘九郎がいなければ残るは三十郎叔父上と俺達兄弟で、俺以外の三人は皆既に出陣した。

妥当な判断であると思い、そして父上の心情も良く分かった。平伏していた俺は頭をあげ、そして、微笑みながら大きな声で答えた。



「いやです!」

軍神が超怖いからです!



そうして俺は、上げる前よりも低く頭を下げ、畳に擦り付けた。武士(もののふ)としての誇り? 何だそれは? 炒飯よりも美味しいのか?


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