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信長の庶子  作者: 壬生一郎
津田所司代編
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第百三十一話・九州仕置き

天正二年の終わり七十日程、九州の土地は血に塗れた。九州の南半分を手中に収めた島津氏の当主島津義久は、薩摩・大隅・日向の領有を認めれば降伏すると家臣鎌田政近を小倉に派遣してきた。それに対して俺は、当主島津義久以下、義弘・歳久・家久の弟三人を含めた四名の首を用意すれば降伏を認める。降伏後は島津氏の領地は全て没収するが帰農することは許す。又、家臣や親族衆は戦後別家において仕官することも許すと答えた。


他家に対しての対応から、俺としては本気でこれ位の処置が妥当であるとは思っていた。十ヶ国の太守であった毛利氏がこれだけの手柄を上げて二ヶ国や三ヶ国という話をしているのだ。ここで島津氏に三ヶ国を与えたら寧ろ織田家に対し不満を持つ家臣が多く出てしまうだろう。


交渉決裂。両家は直ちに戦闘となった。織田家は使者が薩摩に帰るのを待つことなく、戦いを開始した。

島津軍が率いた兵は約三万。対して、織田家が前線に送った兵は七万。主力は毛利家が率いる三万。そこに、外様の複数国持ち大名となった長宗我部家が当主元親殿を大将に一万の兵を率いて出陣。竜造寺家からも五千余りの兵が用意された。更に、秋月種実や筑紫広門、宗像氏貞など、茶会の後漸く織田家の出す条件を全面的に受諾した九州国人衆らが志願して合流。最後に山中鹿之助率いる尼子再興軍が加わり、連合軍を形成した。毛利家は当主輝元を豊後府内城に入城させ、更に前線にも自ら出陣させることで烏合の衆となりつつある大軍の取り纏めを計る。


戦端が開かれてすぐに、肥後の阿蘇氏・相良氏・隈部氏ら島津氏に服属した国人衆から降伏の申し出があった。肥後から薩摩への道案内をする故、本領安堵をと。それに対しての俺からの返答は島津氏と同じ。全領地の没収と、当主の首でもって降伏を認める。九州南部四ヶ国、この国々を、現状家臣として戦ってくれている者達への褒美とする。その考えに変わりはなかった。


緒戦より、戦いは泥沼化した。小早川隆景殿は九州西岸、肥後方面の戦いにおいて降伏した九州国人衆を使い、同じく降伏を打診し受け入れられなかった肥後の国人衆と戦わせた。隣人であるが故に長きに渡る不倶戴天の敵。という事象はどこにでもあり、両軍は共にとても統制が取れたとは言えない戦いを繰り返し、織田軍の中では秋月種実や筑紫広門が戦死。島津軍でも隈部親永・親泰父子が戦死、阿蘇惟光も乱戦のさ中行方知れずとなり、後日死体で発見される。北は大牟田、東は阿蘇から南へと攻め、熊本を征した後宇土、そして八代までを攻め落とす。九州の南中央部人吉、或いは海岸沿いから水俣を攻撃目標とするようになったのは十一月の七日。海路からは有明海、島原湾を征し天草を占領。陸海共に、島津の本領薩摩を攻撃する手前まで来ていた。


日向戦線においては、既に島津に攻め滅ぼされていた伊東氏、肝付氏の加勢を得て緒戦を優勢に進め、九州東岸延岡から更に南進を続けた。ここでは長宗我部水軍が大いに活躍を見せ、終始優勢であったが、羽柴殿より一隊を借り受け戦場にいた仙石秀久が周囲の諫めを無視して突出し敵からの包囲を受け部隊が壊滅。その際、長宗我部元親殿の実弟、吉良親貞殿が討ち死にする。一方、諫めを無視した仙石秀久は撤退に成功し逃げ帰った。長宗我部家飛躍の立役者であった実弟を、死ぬ必要のない勝ち戦で失った長宗我部元親殿は激怒。一時兵を豊後府内まで撤退させるという事態となる。


元親殿は小倉にいた俺に直接談判に訪れ、秀久の即時処分を求めた。俺は羽柴殿を呼び寄せた上で処分を検討。軍監らからは、明らかな秀久の軍令違反であるという報告を受け、まず羽柴殿が秀久の領土全没収を決定した。その後、切腹という処分も決定するが本人からの嘆願により薩摩攻めが終了するまでは士分として戦うことを認める。俺は元親殿に対し、仙石秀久の処分内容を直接伝え、不満があるのであれば戦後に、必ず悪いようにはしないと伝えた。元親殿は俺からの確約を得て一応納得をし、日向戦線は継続する。


仙石秀久が汚名を返上する機会は直後に訪れた。形勢逆転を狙う島津家は次男義弘と四男家久を大将に二万の兵を日向方面に派遣。高城川原にて織田軍三万五千と決戦に及ぶ。


兵力に劣る島津義弘は必殺の戦法『釣り野伏』にて織田軍に壊滅的打撃を与える事を目論む。釣り野伏は、野戦における戦法であり、全軍を三隊に分け、そのうち二隊をあらかじめ左右に伏せさせるという陣形をとる。中央の一隊は寡兵でもって大軍にあたり、その後撤退する。戦場において撤退戦が最も困難であることはよく知られており、壊滅せず、自然に撤退をするという行為を行わなければならない中央軍には高い士気、同じく練度の高い指揮が必要となる。


首尾よく撤退に成功したならば左右に伏せていた軍が挟み撃ちにし、中央の軍も反転して攻撃する。これにより三方よりの攻撃が可能となり、包囲殲滅を行う。初めてこの戦法の存在を聞いた時、虫じゃあるまいしそんなに簡単に命を捨てられるものなのだろうかと、俺は大いに慄いた。だが、これをお家芸としてしまうのが薩摩隼人なる人種だ。


後に耳川の戦いと呼ばれるこの決戦において、仙石秀久は中央最前線、一兵卒として参戦する。敵中央の大将は島津家久。共に決死の覚悟の出陣であったと思われる。

予定通り、戦闘開始直後は織田軍が優勢。中央を大いに押し、撤退ではなくあわや壊滅かと思えるところまで押し込んだ。


戦闘中盤においても、予定通り島津軍の左右部隊が織田軍を押し包み、反撃に転じる。乱戦の中で仙石秀久は殿(しんがり)にて撤退。味方を壊滅させることなく戦い抜く。

戦闘終盤、押し込まれた織田軍の左右から、戦場より離脱していた長宗我部軍が現れ、島津軍を挟撃にする。織田軍の中央も反撃に転じ、三方より包囲、殲滅を計る。


恐らく戦国史上において初であり、そして最後になるであろう『二重釣り野伏』戦法。一旦優勢、後に劣勢となり撤退。その段階で尚壊滅せずに部隊を撤退させるという離れ業を成功させるのに必要な練度は計り知れない。


戦後、戦場にいた誰もが、一度は激怒の後撤退した長宗我部元親殿らですら、二重釣り野伏成功の大功、第一は仙石秀久と言った。一族の者らを引き連れていたとはいえ、名目上はただの一兵卒に対してそのような評価が下された例を俺は知らない。常に最前線、同時に最後尾で戦う仙石秀久の戦いぶりはそれほどまでに常軌を逸していたのだと伝わる。


殊勲の仙石秀久はしかし、再度の追撃戦の際に島津家久と刺し違えるようにして戦死。汚名返上をして尚余りある大功をあげ、日向においての、そして九州戦役においての大勢を自らの武功によって決定づけたことを知らぬまま帰らぬ人となる。

島津軍二万は戦死者三千とも一万とも言われる被害を出して撤退。地盤の薄い日向は支えきれず、大隅まで撤退する。


薩摩・大隅二ヶ国に減じた島津はここにおいて漸く降伏を受諾。耳川の戦いにおいて重傷を負いながらも撤退を果たした島津家次兄義弘は、己の命が長くないことを察して切腹、降伏の証として自らの首を差し出し、大隅の放棄、長兄義久の隠居でもって島津の降伏を受け入れて欲しいと伝えて来る。


日向まで出陣していた毛利輝元は即日これを拒否した。俺は予め、『最初に宣言したよりも甘い処分を認めるつもりはないので、そのような嘆願があった場合一切の検討はせずに使者を返す事』と伝えてあった。又、ここまでの島津家との戦いで毛利家も多くの被害を出しており、元就公の五男、毛利元秋など、一門衆にも戦死者があった。その為、事ここに及び甘い裁定を許せる状況にもなかった。


以降の戦いは更に凄惨を極めたものとなる。一門衆の島津義虎や、その十歳の嫡男忠辰(ただとき)。島津四兄弟の三男、島津歳久。四兄弟の従兄弟である島津忠長。彼ら島津家の一門衆は悉くが戦死した。

悲劇であったのは、彼らのうち誰一人城を出、逃散することが無かったということだ。結果、大隅攻めの際には将兵皆決死の覚悟の城攻めを繰り返す必要があった。


士気が高い城を攻め落とすことがどれだけ困難であるかは先だっての筑前の例を掘り返すまでも無く明らかであり、前線に出された九州国人衆にも大量の死者が出た。

十一月から十二月の半ばにかけてのこれらの戦いの中で、織田家にとって都合の良い死が続いた。九州の国人衆の死、そして尼子氏直系の者らの死。


尼子家の再興を図る山中幸盛・立原久綱らに擁立されていた尼子勝久と、その弟通久、そして尼子豊若丸が相次いで戦死し、尼子氏再興の芽が断たれる。これらの死は勿論表立っては痛恨事として広まったが陰では誰がともなく織田家の持つ豪運だと言った。九州の南四ヶ国はほぼ領主無しで織田家のものとなり、北部九州も当主が死に改易となる地が激増した。更に出雲と伯耆についても外様の尼子氏に与える必要が亡くなった。しかし、現場を知る人間からすればこれは豪運ではなく、必然であると言わざるを得ない結果だ。


日向攻めの後、尼子氏旧臣らは前線にての武働きを志願した。ここまでの九州攻めでの武功の無さに流石に慌てたのだろう。そして小早川隆景殿はそれを認め、城攻めの最前線に置いた。当主となり得る三名の死はその結果だ。尼子再興軍は寡兵であり、玉砕覚悟で突撃を仕掛けられた時にこれを跳ね返せるほどの軍容を持ってはいなかった。三名の訃報が届けられた次の日に小早川隆景殿から届けられた手紙に書かれていた内容には『最早御安心を』との一文が書かれていた。九州三強は悉く九州から姿を消し、多くの国人衆も領地を失う。そして山陰の盟主たる尼子氏も再興の芽が断たれた。故に『御安心』なのであろう。悪辣だ。毛利一門を守り抜く為、少しでも強い毛利であり続ける為、他家の悉くを利用し尽くした。恐ろしい男であるし、それを理解した上で『良きに計らえ』と全て自由にやらせた俺こそが最も悪辣だ。戦後の国替えにおいて、俺は毛利本家、輝元に対して肥前を与えた。長門と周防を足して三十万石程度、肥前は一国で四十万石を超す。更に一門衆にも別家を立てさせ、吉川元春に対しても毛利の家老たることを許した。一門衆併せて六十万石余り、但し、領地はかつて切支丹が支配した地域が多分に含まれ統治は極めて困難である。外様であるが故、統治に誤りがあった場合温情はない。そのような仕置きである。


島津氏の本城、内城の降伏は十二月の二十四日。城主義久の切腹でもって戦闘はすべて終結し、九州戦役、薩摩征伐も終わりを迎える。島津家久の嫡男でまだ六歳の豊寿丸も首を切られ、一族では唯一、家久の次男で二歳の鎌徳丸が門跡に入れられる形で命を長らえた。




明けて、天正三年正月の十日。



「対馬の宗氏と連携し、朝鮮との貿易は密にせよ。時はかかるだろうが両国間の通訳が出来る人間を増やすのだ。もし現状でそれが可能な人間がいるのならば教師として雇え。百石取りの士分として雇っても良い。文法や発音を纏め、誰もが学べば簡単な会話、買い物程度ならば出来るようにするのだ。長崎港も同じく。天草辺りからの港からも交易が出来るよう場所を探せ。薩摩と大隅が安定したら琉球との貿易も始める。そのまま唐国とも交易路は広げる。薩摩や大隅からならば瀬戸内を通らず土佐を通って大坂湾へ、或いは紀伊半島へそのまま向かい尾張へ向かわせることも出来る。新しい交易路を作るのだ。対馬からは日本海を使い若狭から近江に向かう道もある。瀬戸内を渡れる船であるからといって安心をするなよ。外海の波は瀬戸内の波どころではないと誰もが口を揃えて言う。百度渡航して百度戻って来られる船を作るのだ」


俺は既に九州を安定させ、完全に織田家のものとするべく動いていた。結果として、中国と九州は一年足らずのうちに織田家に屈した。性急に得たものは失うことも又早い。なればこそ、統治は丁寧に。新しい支配者はこれまでより良い支配者であると思われなければならない。


四国は三七郎がいる。中国と畿内、中国と安土の繋ぎには準一門とも言える惟住殿がいる。中国に羽柴・惟任両将がいるので、このうちのどちらかを九州に送り、更に出来れば九州探題に三十郎信包叔父上を任じ統治をと思っていた。だが父からは『暫くはお前がやれ』という命が下された。亡き義父上と同じように父の名代として様々な仕事をこなすことが出来る信包叔父上には代わりがいない。加えて、小倉での茶会以来、九州においての俺の知名度は高い。今年一年は俺がやった方が効率が良いそうだ。後者についてはともかくとして、前者については俺も同意見だ。これまでの戦いで失われていった織田一門衆が如何にも痛い。


「右府様は何と仰せですか?」

「急ぐ必要はない、丁寧にやれと。同じ事を言い返したがな」


武家において極めて珍しい、戦場に出ない筆頭家老松下嘉兵衛。戦後武働きよりも内治に力を注ぐ必要が出て来たのにあたり、招き寄せた。どのような活躍をしているのか、と嘉兵衛の仕事について理解しない武者共から問われることもあるが、嘉兵衛の仕事は『他の家臣が活躍出来るようにすること』である。故に、津田家家臣の武功は全て嘉兵衛の手柄でもあるのだ。そんな嘉兵衛であるので事務仕事を任せた時の安心感は抜群である。


「禁中法度でございますか?」


嘉兵衛が言う。頷く。日ノ本の武人は間もなくその全てが織田家に伏する。寺社勢力との和合も成った。或いは成らなかった者らは屈服させた。残るは公家ということだ。禁中での法、公家衆としての法、これらを守らせ守ることが出来なかった者らは罰する。


「鎌倉幕府は皇位継承について下手に嘴を突っ込んだがために滅んだ。平氏政権も公家の真似事をしたせいで脆くも崩れ去った。承久の乱が如き武家勢力勝利の例もあるにはあるが、まだ早いのではないかと思う。まあ、言っても聞きはしないだろうが」


決めかねていることについては積極的に多くの人間の意見を取り入れるが、一旦決めた方針については誰が何と言おうと変えることがない。それが父だ。


「弾正少弼様は無事御隠居なさいました。畿内の安定は保てております故、寧ろこの勢いで行ってしまった方が良いのかもしれませぬ」


嘉兵衛の言葉を聞いて苦笑した。我が命と同等だと言って大切にしていた平蜘蛛を盗まれた弾正少弼殿は大慌てで小倉までやって来てその返還を求めた。俺は小倉までやって来たということは小倉に領地を得る覚悟を決めたということであるなと言い、その場で小倉周辺の直轄を認めようとしたのだが、それを拒否した弾正少弼殿はすぐに隠居を肯んじた。ならば京都に戻り、村井貞勝の命令を待てと伝えるとスゴスゴと取って返し、そうして、後日俺から送られてきた平蜘蛛を、新しい屋敷の奥の奥へとしまい込んだという。最早、梟雄松永久秀の行動の逐一は織田に監視されている。悪いことをしたとは思うが、松永家は存続し、弾正少弼殿も殺されたわけではないのだ。後から見れば笑い話だろう。


「北の雪が溶ければ上杉攻め。それで終わりだ」

九州とはいえ、一月の空気は冷たく、家族から遠く離れた土地での越年は寂しくないと言えば嘘であった。


明日からは七時に投稿します

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