第百二十六話・魔王を継ぐもの
見た目と態度が逆な二人だなという感想を覚えた。
目の前に並んでいるのは大熊と仁王。大熊たる龍造寺隆信殿は大きくそしてふっくらとしており一目見ると何とも言えない安心感を与える。眉も太く少々垂れ目で頬も分厚い。俺は母親の影響で、熊という生き物は大きくて可愛らしい、それでいてどこか間の抜けた印象を覚える動物だと認識していたが成長するにしたがってそれは一般的でないことを知った。熊という生き物はめったに見られるものでなく、森や山の奥など、人里離れた霊験あらたかなる場所に生息する神聖な生き物だ。肥前の熊たる異名は越後の龍や甲斐の虎と同じく尊称であり敬意である。そんな肥前の熊殿は今その福福しき顔を歪め、悔しそうにしている。それはもう悔しいのだろう。隠し切れない無念を感じる。
一方で、仁王像の如き威容を持つ鍋島左衛門大夫はとにかく頑強そうである。人が皆彼のようであれば『なで肩』などという言葉は永遠に生まれなかったであろう直角に張った肩も、表情にまで筋肉を感じられる目元や鼻筋も、どこからどう見ても歴戦の強者そのものである。彼の表情に名を付けるのであれば、一言で言って安堵だ。鬼の目にも涙。仁王の顔にも安堵。そう言った風である。色々とあったが、ともあれ龍造寺家を滅ぼさずに済んだ。そのように思っているのかもしれない。
熊が憤り仁王が安堵する。そんなちぐはぐな様子を見つつ得た感想は『そりゃあそうだろうな』である。ただ父親が天下人であるだけの小僧の前に座らされ、御機嫌伺などしなければならないだなんて冗談じゃない。そんな風に考えているのが龍造寺隆信殿であろう。
などと、そんな風に相手の気持ちを慮って『わかるわかる』などと考えてしまうのが俺の悪い所だ。こんな小僧に、などと思われているうちは舐められているということ。弾正尹であろうと、京都所司代であろうと、顔に傷を負い迫力が出ようと、そんな事で今目の前に座っている肥前の覇者は怖じることはないのだ。同様に、天下は俺の事を織田信長の息子以上の存在として見てはいない。
「はて、座るべき席を間違えたか?」
脚を組み、扇で仰ぎながら俺は首を傾げる。今の俺は、二十そこそこの小僧ではない。天下人の名代だ。何人たりとも俺に畏怖と敬意を払わなければ許さない。それくらいの態度でいなければ。俺が舐められれば西国の織田勢全員が舐められる。それを認めてはならない。
「てっきり、降伏の口上を述べに来たものと思うておったが、ここにいる者、未だ戦意を失っておらず、今すぐにでもその爪牙を振るわんとする気概が見えるな」
隆信殿を見据えながら言った。慌てて身を伏せる隆信殿。構わんぞとその頭に向かって声をかけた。
「織田家は和議でも戦でも構わぬ。この津田弾正尹と戦いたいと申すのであればそれでも良い。今日は宣戦布告の口上を述べ、再び肥前へと帰るがよい。帰路の安全は約束しよう。しかる後に、肥前一国悉く焦土と成すことも、約束しよう。内蔵助」
視線を動かさないままに声をかけると、内蔵助が吠え猛るような声で『はあっ』と返事した。
「中国と四国に貼り付けてある兵を、肥前国境まで動かすのに何日かかる?」
「三日あれば」
頷いた。隆信殿は平伏したままだ。左衛門大夫は緊張の面持ちをしたまま、俺とは視線を合わせず中空に目を向けている。
「では一両日中には帰してやろう。龍造寺殿、此度はお目にかかれて幸いであった。貴殿の武運長久を」
「龍造寺家は、織田家に伏し、今後一切は右府様、亜相様、並びに弾正尹様のご存念に従いまする。何卒、お許し頂けますよう」
唸るように、低い声で隆信殿が言った。その言葉に合わせるように、左衛門大夫が頭を下げた。
「天候の悪化や行き違いから、こうしてお目にかかることが遅くなったことをお詫びいたしまする。又、弾正尹様におかれましては九州までお出まし頂きましたこと恐悦の至りにて、これよりは織田、龍造寺のみならず、津田、龍造寺の両家も良き知遇を得たいと希う次第にございまする。これより九州の戦においては龍造寺家に道行きの先導をさせて頂き、戦功を得る機会を賜りたいと存じまする」
うむ。と頷き、先発隊の一員となることを認めた。これで肥前の大半は落ちた。残るは南の大村純忠と有馬晴信。そして松浦党だ。
「九州の戦役が終るまでは肥前の領地はそのままにしておく。島津までを討ち滅ぼした後、国替えを命じる故それまでに石高台帳や周辺地図などを纏め、速やかな国替えが出来るよう準備を怠ることの無いようにせよ」
俺の言葉に二人が同時に返事をする。二人とも、一瞬間があった。仕方なしと納得してはいても、住み慣れた故郷を奪われるのは辛いのだろう。
「龍造寺家の家督は速やかに嫡男太郎四郎が継ぐべし。貴様は準備が整い次第直ちに安土へと向かうこととなる。こちらも速やかに準備を終わらせよ」
返事をした後顔を上げた隆信殿に伝えた。今度こそ諦めたように大きく息を吐いた隆信殿が、畏まりましたと頷いた。これでいい。かつて平家討伐の兵を興した源頼朝公は、一万六千の大軍を率いて駆け付けた上総広常に対して追従の言葉を述べるどころか遅参を咎めたと聞く。結果、頼朝公は大将としての威厳を示し頼もしき御仁であるとの評価を得た。俺は甘い男であるが故に『嫌われない事』を重視してしまうが、『舐められない事』はそれと同等かそれ以上に重要だ。土下座外交を展開してくれればその首を刎ねることは逆に出来ない。龍造寺家の降伏が無事成立する。
九州三強の一つ目が漸く片付いた。三強の内、元々の家格は最も低く幕府御家人であった少弐氏を倒すという下剋上を成して大きくなった家だ。それだけに家中の基盤は安定していなかった。後十年、時が与えられていたならばどうなっていたかは分からない。後は父が当主や重臣らの首をと言い出さないことを願うのみだ。そうならないよう三七郎を派遣しているので、最早信じるしかない。
「治部大輔。案内ご苦労であった」
俺が言うと、毛利元就公の四男穂井田元清殿がははっ、と頷き頭を下げた。毛利三本の矢の四本目、ご長男隆元殿亡き後の実質的な三本目として働き続けている人物。細身かつ小柄で、迫力とは無縁の人物であるが交渉役としては極めて優れている。
「そこもとらも宜しいな。織田家に従うにあたっての条件は皆同じである」
俺が言うと、筑前・肥前・豊前・筑後辺りから集まり織田家に従属することを約束した国人領主達が一堂に頭を下げた。秋月種実・筑紫広門・原田隆種・宗像氏貞・城井鎮房等々、本人ではなく名代が来ている者らもいるが、概ね織田家に降るか大友氏を捨てるという態度を決めた者達だ。細々とした話は幾つもあるが、最も重要なことは戦後の国替えについてだ。織田家に対して人質を出す事や今後の軍役などについてはそれでも皆頷くことが出来るようであるがただ一点、故郷を奪われるということだけについては頷けないものが多い。例外は二つ。織田家臣の原田家に組み込まれる形で畿内に領土を得た九州原田氏と、今後土地ではなく金銭で遇され、宗像大社大宮司としての立場を正式に認められた宗像氏。それ以外の者達は正直に言えば今もって流動的と言わざるを得ない。秋月種実殿などからは、手柄を立てるから所領の安堵だけは確約して欲しいと言われている。確約は出来ないと返答している。というより、そう言う人物から順に国替えを行う必要があるのだ。
「詳しい話は茶会の折にでも行おう。今茶道具を畿内より取り寄せている最中である故、もう二日三日で催すことが出来るであろうからな。北九州は焼き物が有名であると聞く。皆良き器があれば見せて貰いたいものだ」
そうやって質問をすると、一同が小首を傾げた。
「弾正尹様、北九州の焼き物とは、唐物のことにございましょうか?」
他の諸侯らと織田家に伏し、こうして膝下に控えている秋月種実殿が、一同を代表するかのように質問してきた。この辺りでは中々の集物家として有名であるらしいが、その彼をして、知らぬらしい。
「いや、伊万里焼に佐賀焼に、有田焼といった名を聞いたことがあるので、さぞかし美しい名品揃いであるのだろうと思ったのだが、皆知らぬか?」
俺の質問に対し、誰もが知らないという表情を作った。人が住んでいる訳であるから、器を作ることはあるが有名とまでは。だそうだ。唐物は名の通り唐よりの舶来品である。朝鮮半島から渡って来たのであれば確かに北九州で手に入れやすいだろうが、それを九州の土地名を使った品とはしないだろう。
「それは、京や大坂において言われていることでございますか?」
「いや、我が母が」
言いながら、ハッと気が付き合点がいった。成程、そういうことであったか。
「いやいや、唐物を勘違いしていたか、それとも記憶違いであろうな。すまぬ、忘れてくれ」
言って、はっはっはと笑い誤魔化す。そういえば古左や右近、長益叔父上ですらそれらの焼き物については知らないと言っていた。俺はてっきりまだ地元でしか知られておらず京都まではその名が届いていないだけだと思っていたが違うようだ。まだ名が知られていないのではなく、これからそれらの作品が生まれるということであるのなら、母のみが知っているとして不思議ではない。
「左衛門大夫よ、肥前や筑前で有名な窯場や良き土が採れる場所などを知っておるか?」
「いえ、聞いたことがございませぬ。某朴念仁にて、そのようなものごとにはとんと疎く」
ふむ。と、頷く。元々の土が良いわけではない。或いは良い土であったとしてもそれが一般に知られている訳ではない。ということであれば。
「壱岐並びに対馬から朝鮮との貿易は行っておろうか? 貿易は国を富ませる上で欠かせぬ。今後は瀬戸内の海を通り安芸や讃岐、播磨に摂津、そして大坂京都と多くの都市に直接物が伝わるようになる。海上路を整備し、良き物や技術があれば取り入れるようにせよ。新しき名物が肥前や筑前にて生まれれば即ち九州や日ノ本の栄えとなる」
元々あったのでなければ、多分輸入したのだろう。朝鮮半島か、ないしは直接中国から伝わったものを工夫したのだと思う。案外美濃焼を元にして九州で作り、それを大陸に売った。等というのが答えであるのかもしれないが。
急に出てきた突拍子もない俺の言葉に一同が少々あっけにとられた。気恥ずかしかったので言葉を加える。
「長崎の港が落ち、残る松浦党が滅べば北九州に憂いはなくなるであろう。右府様は大陸にも領地を得んとしておられる。又、元寇のようにいつまた日ノ本が攻められるか分かったものでもない。備えおけということである」
今度は一同が成程と頷いた。戦を絡めて説明するとよく分かる。武士らしい者達だ。
「筑前の戦もようやく進展が見えた。治部大輔、小早川左衛門佐に伝えよ。働き見事と。これよりも九州の戦は左衛門佐の存念次第である」
「はっ、ここにおらぬ兄の代わりに、御礼申し上げまする。弾正尹様よりの援軍たる方々のお力によるところも大きく、併せて感謝いたします」
筑前五城将の城が漸く落ち始めた。鷲ヶ岳城主・大鶴鎮正。荒平城主・小田部紹叱。両名最早援軍は来ずと降伏し、開城。柑子岳城主・臼杵鎮続は討って出ようとしたところを読まれ、銃の一斉射撃により倒れた。城に残っていた武将木付鑑実は臼杵鎮続の遺族らの身柄を保証することを条件に降伏し、同じく開城した。残るは高橋鎮種が籠る宝満山城に、戸次道雪が籠る立花山城の二城だ。毛利軍はこの城をそれぞれ五千の兵で囲み、降伏した諸将らを使者として送り込み、両城以外既に残っていないことと、大友本家の援軍は来る見込みが薄いことなどを理由に降伏を促している。
陥落せしめた三城はいずれも残る二城よりも西側にあり、柑子岳城などは福岡湾西岸に位置する城である。即ち最早肥前側や北部の海側も敵の勢力範囲であり、両城既に敵の領地の中にポツンと残された陸の孤島である。これらの城を、大友氏を盛り立てて来た立役者達を、まともな援軍すら出せず見殺しにしたという話は大友宗麟の名を大いに下げるだろう。勿論大友宗麟はただ見捨てたわけではない。本願寺勢力による一向宗の蜂起。隙があればすぐにでも渡海し、大友領に攻め寄せる構えを見せている宇多津港の織田軍。調略により次々寝返る国人衆。これらの存在が大友宗麟の足元を揺るがし、有効な打開策を打てずにいる。これらの策を執り行ったのは俺だが、立案し俺に進言して来たのは小早川隆景殿だ。
「諸将の所領は、島津攻めが終了するまではこの津田弾正尹が保証する。それ以降の領地が現在の領地よりも広きものとなるか狭きものとなるかはこれよりの働き次第である。小早川左衛門佐の指揮に従い各々武功を立てよ」
俺の言葉を聞き、諸将らが頭を下げ、俺の九州での顔見せは終了した。
「ドン普蘭師司怙、フランシスコか。かの宣教師と同じ名を使うのだな」
その二日後、大友宗麟から批難の手紙がもたらされた。
大友宗麟なる人物は、直接戦闘においての評価が極めて高いという人物ではないものの、外交戦略については毛利元就公すら一歩譲らねばならぬほどに長けた人物である。大内氏、尼子氏の中国地方における二大勢力を打ち滅ぼしたかの謀聖をして、九州撤退を余儀なくさせた男。いかばかりの人物か分かるであろう。だが、事ここに至っては俺に対しての非難状も、九州全土にいる切支丹に対しての檄文も効果は半減だ。俺の事を悪魔であり、これを討伐することが神の御意志であると言われても、そこに仏教に対する批判まで込めてしまっては味方が増える分だけ敵も増えてしまう。
「父上の二番煎じではあるがな」
その大友宗麟に対して返す手紙の名前には『驕慢之悪魔嗟嘆帯刀信正』と書いてやった。以前聞いた聖書の話と、この手紙を書くにあたって質問をし得た知識とで、どうやら基督教における悪魔の最上位がサタンなる人物であるということが分かったからだ。ルシファーやらベルゼブブやらデモンという名も出て来たのだがよく分からなかったので。とりあえず最も偉く、悪いのだろうと思われるサタンの名を拝借した。父上の『第六天魔王』という先例があるだけに面白い皮肉であろうと思う。
後日の話になるが、俺がこうして自ら悪魔を名乗ったことにより、『天下人、覇王の器は信忠に、魔王の御名は帯刀に』と戯れ歌を歌われるようになる。『尚武の器は信孝に虚けの御名は三介に』という続きも作られ、最後のオチを聞いて大いに笑った。
「殿」
新次郎が静かに声をかけて来た。近づいてくる音も聞こえない静かな所作だ。その手には手紙がある。うむと頷き手紙を受け取る。差出人は三七郎だった。なかなかに分厚い手紙だ。その手紙を俺は都合三度読んだ。一言一句違いがないかを確認し、間違いないと分かってからひと言。
「でかした三七郎!」
言いながらバシン、と手紙を机に叩きつけた。思わず立ち上がっていた。驚いた様子はなく新次郎がジッと俺を見据えている。その新次郎に頷き、一両日中に三七郎がやって来る。出迎えの準備をと伝えた。御意にと頷く新次郎。
「これで少なくとも北九州は落とせる。島津との決戦に及びこれに勝てば、場合によっては時が余るかもしれんぞ」
激動の天正二年は、まだ三ヶ月残っていた。




