第百二十三話・真実に辿り着いた者
「十兵衛殿」
「お久しぶりですな、帯刀殿」
俺が話しかけると、十兵衛殿はかつてと同じく、俺の事を名前で呼んでくれた。
「相変わらず、少しも老けませんね。不老長寿の薬でも飲まれましたか?」
「ここだけの話ですが、昔人魚の肉を食べたことがございましてね」
俺の冗談に、本気で言っているかのような口調で乗っかって来る。中身も変わっていないことが嬉しく、俺は笑った。
安芸には一日だけ滞在し、俺達は再び船上の人となって海路宇和島港へと向かった。賢秀殿や弥三郎殿らは引き継ぎの手続きがある為残り、戦場大将として父親の名代を務める忠三郎や、一足先に新領地へと向かう千雄丸とその目付に付いてきた弥七郎殿らも同行した。
「此度の戦にても三七郎を助けて頂き感謝しております。お陰で三七郎が天下に恥をかくことなく一端の武将となれました」
「何の、拙者の手伝いなどなくとも立派に大将を務めておられました。拙者がしたことなど。精々が移動の為の船を用意したり糧食が尽きぬよう手配したりと、その程度のことにございます」
「我々のような若輩には、それが何よりも難しいのです」
俺が頭を下げると、にっこりと笑った十兵衛殿がそういえば、と手を打ってから居住まいを正した。
「妻子がお世話になっております。京都所司代屋敷を使わせて頂きましたること、感謝してもしきれない事にて」
「いやいや、当方としましても広い屋敷を持て余していたところですので、寧ろ殺風景な屋敷に突然花が三輪も咲いた心持ちにて。感謝すべきはこちらの方でござる」
「そのように言って頂けて安心致した。して」
その時、十兵衛殿の表情が少しだけ、ほんの少しだけ歪んだ。普段すました顔しか見せない十兵衛殿の、珍しく俗っぽい表情であった。
「我が家の女子達、どちらがお好みでございましたか?」
言っている言葉の意味を捕らえかねて、暫く首を傾げてしまった。間抜け面を晒す俺に対し、十兵衛殿が『年がいった方の女子は拙者の妻にござるゆえ、譲れませぬが』と言われ、ようやく得心がいった。
「娘御はまだ十一や二でございましょう?」
「左様にござる。既に十一や二になってございますれば、今が丁度嫁に差しあげ時ではないかと思うております。親バカかもしれませぬが、娘二人とも中々の器量良しにて、妻の薫陶もあり武家の娘として恥ずかしくないだけのものを備えてもございますぞ」
その為に、俺の家に妻と娘を送り込んだのか。道理で煕子殿が娘達に俺の手伝いをさせたがった訳だ。ハルは気が付いていただろうか。いただろうな。何も言ってはこなかったが、邪魔もしなかった。
「珠も華も、帯刀殿の事を気に入っていたようですぞ。どこぞの馬の骨に持っていかれるくらいでありましたら、いっそのこと如何です? 二人とも同時に閨に招いて」
「話が早すぎます十兵衛殿」
娘の話で、よくそうも下世話な話し方が出来るものだと驚く。しかしそういえば、この涼やかな貴公子然とした人物は人生経験という点で織田家にて筆頭、それどころか群を抜いていると言って差支えのない人物だ。この程度の下世話は大したことではないのかもしれない。
「十兵衛殿は拙者が婿で宜しいので?」
「その質問は天下にて並ぶものとてない愚問にございますぞ。今日ノ本で帯刀殿との知遇を得たくないものがどれだけおります事やら。惟任の家とて、直接織田家との姻戚関係があるわけではないのです。譜代の御家臣家は次々に殿の御子や親族衆を家臣に取り入れ結束を固めているではありませぬか。拙者とて人並みに焦りも致します」
全然焦っている様子がない十兵衛殿が艶やかな髪を揺らしながら言う。大概、こういうことは父上のご存念次第。という言い訳で逃げて来たのだけれども、十兵衛殿に対してそう言い訳したら即座に許可を取ってきそうだ。或いは既に許可は取った上で俺がそう言うのを待っている気もする。
「確かに、二人とも愛らしい娘でありましたな」
「そうでしょう?」
男で十歳そこそこの年など鼻たれの小僧であるが、女で十歳を超えれば中身は最早一人前に女性だ。俺はあの可愛らしい子供達を抱き上げて頬ずりなどしたかったけれど、恥じらいというものを知っている女子を相手にそれは出来ない。頭を撫でたり、肩を叩いたりということも恥ずかしい年頃の娘達だった。
「しかし、拙者又左殿辺りと違って初潮が来たか来ないか、程度の年齢の娘を女としては見られませぬ。今は二人とも可愛い親戚の子供として見ておりますれば、そういうつもりにはなれませぬな」
十兵衛殿が相手であるからと、赤裸々に自分の志向を伝えてみる。十兵衛殿は特に驚くことも無く頷いた。加えてもう一つ、これは言わないでおくが、俺は余り美人が好きではないらしい。父も正直、育ちが良くお姫様然とした娘は好まないようなのでその辺りは父譲りだろう。そんな事を言うと草葉の陰から表から何が飛んでくるか分からないので生涯口にはしないが。
「ほうほう、娘達が言っていた通りですな」
「娘達というのは?」
「珠と華にございます。『所司代様は私達の事をエロい目では見ていなかった』と」
「エロい?」
「何でも安土にて直子様から教わった言い回しであるそうです」
「それはそれは」
あの可憐な娘達が母の影響を受けていたとは、申し訳ない限りである。
「又左殿や藤吉郎殿、筆頭家老様辺りは十分エロい目で見てくれていたと、嬉しげに話しておりましたが」
「権六殿まで……!?」
名誉幼女趣味の又左殿は分かるし、身分が高い娘なら全員大好きな羽柴殿も分かるが。それと、あの二人が己が性的な目で見られていることを満更でもなく感じる娘達であったことに衝撃を禁じ得ない。十兵衛殿に似たか。いや、案外煕子殿も中々のお方なのかもしれない。
「帯刀殿のお気持ちは分かり申した。今は引き下がりましょう」
「妻に迎えよと命が下ればいつでも祝言を上げても良い程度には考えております」
武家であるのにも関わらず、婚姻するにあたって『両者の気持ち』を重視してしまうのは俺が強く母から影響を受けたところだ。無意味な考えであるとは思っていない。家名を残す為に初めて会った相手と結婚し子を成す。当たり前の武家の習いではあるが、目的がはっきりしているからこそ両者の気持ちが問われる。端的に言ってしまえば、妻となる女が夫を嫌っている場合、膣に布を詰めるなり、酢を染み込ませるなりして子を産まないという方法も取れる。もっと残酷な方法として別の男の種を仕込み、人知れず血脈を絶やすというやり方もある。そうならない為、婚約する前から丁寧に相手の心を解きほぐすことが重要なのだ。勘九郎などはそれが出来ている。実家を滅ぼされた武田家の姫松姫はそれでも勘九郎の傍を離れない。長きに渡った手紙作戦の成果であろう。
お優しいですなあ、と笑う十兵衛殿は、最後に一つ、朗報がございますと言って来た。何でしょうと耳を傾けると一言。
「ハル殿ほどではないですが、妻も中々です。あの二人も、実ると思いますぞ」
「……………………」
それは朗報である。
その後俺達は九州戦役の後の仕置きについての話をしつつ、宇和島港に滞在を続けた。三七郎からの挨拶を受け、十兵衛殿は一旦新領地へと向かい、千雄丸も、後からやって来た長宗我部家の面々と共に中国へと向かった。九州では戦闘が始まり遠く関東からは北条氏の小田原開城が目前であるとの報が聞こえて来た。
「殿、間もなく御客人が来られます」
新次郎が襖を開けて声をかけて来た。分かったと頷き、手にしていた紙をたたみ、机においてからもう一度紙を開き、既に読み終えた文章をもう一度読む。
「お忙しゅうございますか? しばし待って頂くことも」
「いや、大丈夫だ。行こう」
会わなければならない人間が多いせいで目立たないが、今回の遠征には当然津田家の家臣も連れて来ている。従者として林新次郎もいるし蘭丸もいる。五右衛門以下忍びも連れて来ているし俺の直臣の兵もいる。
「この手紙の返事は明日にでもしたためて羽柴殿に返す。五右衛門に伝えておいてくれ」
言うと、新次郎が短く返事をしながら頷いた。手紙の内容は黒田官兵衛についてだった。
俺に騙され安土に向かった後中国戦役が終了するまで帰国を許されなかった小寺官兵衛。その実家である黒田家も、主家である小寺家も滅んだ。俺が滅ぼした。抵抗した城兵を皆殺しとした城もある。官兵衛の親戚筋も、降伏しない限り容赦なく切り捨てろと命令を下した。そして小寺家も黒田家も、父が降伏を認める時機を逸し一族もろともに壊滅した。
手紙には『京都所司代様のご存念に従って』と書かれている。播磨攻撃の際、黒田家や小寺家の女子供がいた場合は『宜しく頼んだ』と伝えておいたのだ。詳しくどうしろとは伝えていない。しかし羽柴殿は分かったと言ってくれて、その上でご存念に従ってと書いてきた。そこに救いがあることを願うばかりだ。
「さぞかし恨まれておろうな」
呟く。黒田に名を戻した官兵衛は、共に京都へと登った家臣らを率いて九州へと向かったという。小勢にて、毛利軍に対しての援軍が認められた形だ。ほんの僅かでも武功を立て、黒田家の再興を目指している。
「行こう」
雑念を振り切って、立ち上がった。音も無く、新次郎が付いて来る。
小早川隆景と竹中半兵衛、いまここに黒田官兵衛が加わる。皆俺が智で足元にも及ばぬと思った者達だ。天下に名うての英知を持つ者らが続々と九州へ向かう。そして、更にもう一人。
「久しいな……随風」
「天海と名を改めてよりは初お目にかかります」
俺が百度口喧嘩をして百度敗れる相手、僧随風こと天海。風の随にという名から、また随分と思い切った変更をしたものだ。
「息災であったか?」
「惟任様との知遇を得てより、過分なお引き立てを賜っておりまする」
俺が丸山城に籠っていた頃、大坂本願寺を説得に向かった随風はそのまま野田城へと向かい、同じく野田城へと籠った十兵衛殿と知遇を得た。随風はその弁舌で共に籠る門徒衆らを相手に説法を行い城内の士気を大いに上げた。
戦後、十兵衛殿は自領に随風を招いた。既に領地替えをされてしまったが、当時十兵衛殿は近江坂本に領地を貰っていた。延暦寺も程近い場所だ。延暦寺の再建は認められていなかったが、十兵衛殿の領地で活動することを認められ、暫く滞在していたのだという。そうして今回、それらの縁と恩に応え、九州の門徒衆を味方に付ける為海を渡る。
「本能寺にて、怪我を負ったというは誠の事であったのですな」
「僧侶に、いや、賊徒にやられてな」
本能寺の変の真相は既に闇から闇だ。歴史として語られる事実は対寺社穏健派の帯刀を寺社勢力が騙し討ちにし、巻き添えを食らった公方様が殺された。である。
ふと、随風が脇に控えている新次郎を見た。人払いでもしたいのだろうか。構わんと答え、話をさせる。
「公方様を弑したのは、誠に寺社の者であったのでしょうか?」
用意した茶も辞し、ただただ着の身着のまま俺の前に座る随風は、何の前触れもなくそう一言俺に聞いてきた。
「そうだ。それがどうかしたか?」
答えた。分からないとか、その場に俺はいなかったとか、そのような答え方はしない。明確に嘘を吐いた。
「帯刀様が、公方様を弑したのではありませぬのか?」
二言目に、正解を尋ねて来た。名を改めても、中身は全く変わっていないと俺は却って笑う。真実に辿り着くことが出来る英邁さも、それを口に出せば自分がどうなるのかを考えない無鉄砲さも、俺が知るこの男そのままだ。
「俺が公方様を弑したわけではない。質問がそれだけならば、これで終わりだが」
随風には取り急ぎ九州へと渡って貰わなければならない。様々な交渉の結果、最終的には本願寺法主顕如が九州へ向かうことが決定している。畳みかけるのならば早い方が良い。
「今暫く。その耳の傷は、いずこの兵にやられましたか?」
「坊主共と切り結んでな。斃しはしたが、こちらもやられたということだ」
「であるのならば、獲物は薙刀か槍か、ということになりますが。その傷であれば、切り下げられたではなく、切り上げられた。ということで宜しゅうございますか?」
「そうだが、なぜわかる?」
「切り下げられたのでしたら、肩口にも傷があって然るべきです。しかし帯刀様が肩に怪我をしたとの話を聞いたことはございませぬ」
冷めつつある茶を飲んだ。驚きはしない。随風であればこれ位のことはしてのけるだろうと予想はしていた。
「されど、切り上げられたとなればまた違う疑問が湧きまする。槍や薙刀の刃は分厚く、切り上げたとなれば、例え右の肩に乗せたとして、刃は耳の辺りまで到達し、頬から切り裂くということは出来ませぬ。又、剣と違い、槍や薙刀に切り上げという攻撃は極めて少なくございまする」
「さすれば何とする?」
細い薙刀を使った敵がいた。たまたま切り上げられた。切り下げた一撃が偶然にも耳だけを削ぎ落した。幾らでもそれらしいことは言えたが、俺はそれを言わない。言ったところで、随風は既に答えを見つけてここに来ているのだ。俺の言い訳など聞かず、随風は俺の表情を見て己の仮説が正しいのか間違っているのか判断するだろう。現に、話をしながら随風の眼は俺の顔を捉えて離さない。
「帯刀様は、剣の使い手と、それも、達人の域に達したお方と戦い、これを下したのではございませぬか?」
表情を変えず、話を聞き続ける。随風の眼は尚俺を捕らえたままだ。
「拙僧の知る限り、あの日本能寺には剣の達人が多くおられました。帯刀様もそうでございましょうし、織田家の母衣衆を率いた前田様に佐々様も達人と呼ぶにふさわしきお方。されど、由緒正しき剣術家は三名のみ。即ち、公方様、一色藤長様、長岡藤孝様の御三方」
「耳の傷一つで、大したものであるな」
俺が率直な感想を述べると、耳の傷一つではないと言い返された。
「本能寺の変が起こった後、天下にて誰が最も得をしたのかを考え、想像したまでにございまする」
「成程、最も得をした者が黒幕か、単純で良い」
俺はあの時期色々なものを失ったような気がするが、周囲から見れば、歴史から見ればその通りだろう。
「天海」
それまでは随風と呼んでいた相手を、俺は天海と言い改め呼んだ。天海が俺を見ているように、俺も天海の様子を見ている。激情家のこの男だ。上手く隠してはいるものの、その根底には明らかに、怒りの感情が見て取れる。当然だろう。教如をして一度は『まともな死に方が出来ない』と言わしめた暴挙だ。全ての罪を押し付けられ、堂宇を悉く焼き払われた寺社の者達であれば怒り心頭に発し、腸が煮えくり返って当然である。であるからこそ、俺は言うつもりだ。お前の考え通りであると。そして、俺は反省も後悔もしていないと。織田家の為、天下の為、必要なことであったと。
「得意げに己の見識をひけらかしているようだが坊主よ。今貴様がした想像が正しかったとして、だから何だと言いたいのだ?」
そうして口から吐き出そうとしていた言葉は、後ろからかけられた声によってかき消された。振り向く、そこで、それまで控えていた筈の新次郎が天海を見て座っていた。
「ご無礼は、平にご容赦」
腰に帯びていた刀を俺に差し出しながら、新次郎が一度頭を下げた。




