第百二十話・二代目謀聖
九州における切支丹勢力の拡大と、人身売買の有無における調査の結果が出た。結果は黒。それも思っていたよりも酷い有様だった。
切支丹の本土たるイスパニアなる国においては、肌の黒い人種を売買し、その利益で財を成すものが多くいるという。敬虔な、と言うよりも寧ろ狂信的な者らからすれば基督教の神を信じぬ異教徒は人ではなく悪魔であり、肌の黒い人種は動物である。
又、大友宗麟のみが九州の切支丹大名という訳ではなく、大村純忠なる九州北西部の大名も切支丹大名であることが分かった。というよりも、この人物こそ日ノ本において最も早く基督教の重要性に気が付いた権力者であるようだ。南蛮人の技術や知識を知った彼は、九州の西、長崎と呼ばれる港を開き、南蛮渡来の優れた文物を輸入し領土を富ませた。人物は温厚で、内治にも長け領民にも慕われている。恐らく、この人物は内政の一環として基督教を取り入れた先見の明がある人物なのだろう。事実、彼は現在九州三強と呼ばれる勢力に組み込まれることなく、辛うじてであるが独立を保っている。
この現状は既に九州の内政の一要素に『基督教の扱い』という項目があることを示すものである。彼らに日ノ本を売るつもりがなかったとしても、このままでは九州にいる日ノ本の民が次々と大陸に売られ、人としてでなく奴隷以下の存在としての生涯を送ることになる。
五右衛門達からの報告を受け、俺は取り急ぎ然るべき処置をと父に手紙を書いて送った。そして帰って来た答えは日ノ本全土における禁教令の発令と、邪教を広める大友宗麟の討伐命令であった。ルイス・フロイスやロレンソ了斎らは一時身柄を長島にて拘束するとの事。
俺は直ちにこの報せを小早川隆景殿に伝えた。八月十九日。俺が毛利家からの降伏文書を貰ってからまだ二十日も経っていないこの日、小早川隆景殿と毛利軍を主体とする織田家九州討伐軍は下関海峡を越え、九州小倉へと兵を進めた。そして、俺は家臣らを並べ決定した事項を伝えた。既に基督教に傾倒しつつあった者達のうち、長益叔父上などは『だったらすぐに棄教する』と言って、その日のうちに十字の首飾りなどを俺に差し出してきた。多くの者らが棄教することに頷き、津田家中においては大きな混乱は起こらなかった。但し、隠し切れない衝撃を受けていた者達もいるにはいた。筆頭が高山親子である。特に、右近の顔面は正に蒼白であった。
何かの間違いにございます。と俺に対して懇願する高山親子を落ち着かせ、お前達を追放するつもりも、領地を召し上げるつもりもないと伝えた。仏教を例にあげ、どのような教えであってもそれを悪用する者が増えれば堕落することもある。現在、基督教の教えを悪用し日ノ本の人間を売り捌き、ゆくゆくは日ノ本全土を支配せんとする者らの先兵が入り込んでいる。織田家は日ノ本の統括者として、侵略者の手を打ち払わなければならない。お前達が織田家に反旗を翻すとは思わない。又、善良な基督教の教えを広めんとする者のみとなれば、禁教令も解かれる。あくまで禁教令であって、追放令ではないのだ。そのような話を丸一日かけて行った。
高山親子は一時の雌伏を理解してくれた上で、和田惟政や内藤如安等の畿内に住む切支丹大名達にこれを伝えた。そうして彼らは禁教令についての通達を行うと共に、畿内の切支丹に暴発しないようにと要請する。教会の類は打ち壊すことはせず、織田家預かりということになった。
情報は途方もない速さで畿内と中国とを繋いだ。かつて瀬戸内の制海権をここまで完全に掌握した勢力がどれだけいただろうか。全ての中継地点や、これまでは関所として足止めされていた場所を素通りし、最速の小舟でもって伝えられる情報は、八十里余りの距離を僅か半日で泳ぎ渡った。情報の伝達を早めて欲しいとの小早川隆景殿の要請に応え、夜には瀬戸内全ての島においてかがり火が焚かれた。これによって夜間でも同等の速度での情報伝達が可能となり、大坂に移動した俺は朝伝えた情報の答えを、翌日の朝には北九州の小倉にいる小早川隆景殿から受け取ることが出来るようになった。
山陰山陽、そして四国や紀伊から、陸海の総力を挙げ、十万を超す大軍をもって一気に押しつぶす。そのようなやり方で一気呵成に九州を手中に収めるべし。そう考えていた俺であったが意外にも小早川隆景殿から待ったがかかった。誰よりも速戦を必要としている人物からの待ったに俺が訝しんでいると、八月二十三日情報ではなく首が届けられた。まだ毛利家の中にいた交戦派であるとのことであった。彼らは、領土を全て奪われるくらいであれば九州勢と結び東へと攻め上がるべしと主張したらしい。その上で切支丹に組して安芸の一向宗を叩き潰し、捲土重来を期す。そしてその抗戦派の旗頭とされた吉川元春殿は彼らを一堂に集め、一網打尽にした。吉川元春殿からすれば、自分を支持する者らを自ら切り捨てたという形になる。当然のことながら毛利家の中での吉川元春殿に対しての信用は地に落ちる。だが、元就公の遺児二人は最早毛利存続の為にあり得る手立てはこれ以外にないと判断し、首に遅れること半日、抗戦派の首領であった吉川元春殿が大坂にやってきて俺に謝した。吉川元春殿は既に頭を丸め、戦後自身の首を差し出すということを書状に書き俺に手渡した。
この宰相殿の御首状を、俺はその場で焼き払い、もし今後の戦いにおいて首尾よく九州勢を降すことが出来ずとも、父上に対しての取成しを行うと約した。西国毛利最強の男はその後、九州攻めの先陣を務める必要がある故と、即座に船に乗り取って返した。
入れ違うようにやって来た毛利の使者からは、大友追討令の中に、肥前の大村純忠の追討令も加えて欲しいという小早川隆景殿からの嘆願が伝えられた。俺は理由を聞かず、父に事後承諾の許しを得る為手紙を書きつつ、大村純忠追討令を発した。追討理由は大友宗麟の時と同じだ。邪教を広め、日ノ本の人間を売る。その非道許すべからず。
織田軍と戦っていた毛利軍がそのまま九州に侵攻した為その総勢は四万に達した。大軍であるが、後方には羽柴・惟住・惟任・一条・長宗我部の織田家本隊が控えている。それらの援軍を求めることなく、小早川隆景殿は大友軍と睨み合いを続けたまま南西大村純忠の領地に軍を向けた。
九州三強。木崎原の戦いにおいて伊東家を破り九州南部の覇権を獲得した島津氏。九州北東部に威を張る大友氏。そしてその大友氏を今山の戦いにて退け九州三強最後の一つに躍り出た龍造寺氏。小早川隆景殿が大村純忠を討伐するためにはこの龍造寺氏の領地を通過する必要がある。討伐令を受けた小早川水軍が海路にて肥前の国唐津に上陸したのは八月の二十七日。武器弾薬と糧食を用意せよとの書状を携えての上陸であった。
龍造寺氏の当主隆信はこれに怒り、即座に唐津へと兵を送り、上陸軍を撃破し、押し返した。その報を受けた小早川隆景殿は吉川元春殿を先頭に大友家家臣戸次道雪が守る立花山城へと進んだ。
八月二十九日には、島津義久からの書状が俺の元に届く。文章の大意は『九州統一に協力するので大友領は分け取りにしよう』とのことだった。織田家が四国や中国の筆頭勢力であるのならそれでも良かっただろう。だが今の織田家に『分け取り』などという発想はない。従って協力すれば所領安堵。逆らえば領地没収。降伏が遅ければ一族追討だ。俺は、手紙の中で何故武家の棟梁たる平氏長者、征夷大将軍の命に従わず、大友家、大村家の追討軍を発していないのか理由を当主自ら釈明しに来るようにと命令した。今からでも兵を北上させ、功があれば大隅一国位は安堵しても良いとも伝えた。領地没収と書いても良かったような気もするが、これくらいの方が本気であることが伝わり、本気で言っているが故に島津氏の気持ちを逆撫でにするだろう。今の織田家ならばこの手紙を九州に届けるのにかかる時間は二日。八月中に結論が出る。
ここに至るまでに俺は小早川隆景殿と毛利家存続の為の必要条件を話してある。九州三強の討伐と、切支丹大名の討伐。これを毛利家主導の元本年中に成し遂げること。それが出来れば、その他中小の国人領主らに対して調略を仕掛けることは認めている。元々、毛利家が最も得意とするところは謀である。九州三強のうち支持基盤が弱い龍造寺の家臣達と、大友氏によって領地を奪われた筑前の諸豪族達には今頃様々な調略が行われていることだろう。
「あの男、四ヶ月で九州を征するという言葉、本気であったか」
八月中に行なわれた様々な動きを見て、珍しく村井の親父殿が驚き、肩を震わせていた。今回は俺が親父殿を訪ねるのではなく、親父殿が大坂の俺を尋ねに来た形だ。どうやらそのようです。と俺は答える。俺も驚いている。
「可能かどうかは別として、これであと四ヶ月、毛利軍はただ勝ち続ければ良いだけになりました。可能かどうか、は別ですが」
「が、可能かどうかの話が出来る程度には、可能性が生まれた。そういうことであるな」
頷く。後方との情報網を確立させ、内部の不穏分子を速やかに抹消した毛利家。毛利家存続の為、あともう一つ恐れるべきことは敵との和議であった。和議となり、九州の残存勢力がそのまま残るようなことがあれば、俺との約束は履行されない。小早川隆景殿個人の武功は認められるが大名としての毛利家は取り潰しだ。そして北九州において大友と龍造寺は犬猿の仲である。不俱戴天と言っても良い。ここ数年来は大友家の筑前五城将と呼ばれる名将達が龍造寺家を始めとした筑前・筑後・肥前・豊前の諸勢力と戦い、優勢を保ち勢力を伸ばしていた。場合によっては織田家に対して即座に降伏し、九州攻めの先鋒として手柄を立てますので所領の安堵を、と言ってきかねない。そして、九州三強の中で最も所領が少なく、基盤も脆弱である龍造寺が相手であれば、父がそれを認める可能性が僅かながらあった。
本来、毛利家が九州に勢力を伸ばすのであれば龍造寺家を始めとする反大友勢力と結ぶのが上策。だが、此度の戦いにおいては他の小勢力ならばいざ知らず龍造寺氏にだけは即座に降伏されては困る。毛利家の力で討伐したという状況を作らなければならない。そこで使われたのが大村純忠。彼を討伐するために領地を通らせろという無礼を働いた上で真っ向から敵対するという態勢を作った。
「援軍に待ったをかけたのも、兵を挙げさせる為か」
「毛利軍単独ならば、押し返せると思ったのでしょうな」
もし、俺が十万の兵を率いて後詰として長門に進出していたとする。そうなったならば毛利軍の申し出に対しても従っていた可能性がある。
「いずれにせよ、八月中に、毛利家は手柄を立てる為の必要条件をすべて満たしました。残り丁度四ヶ月。九州三強と毛利氏、四家が生き残りをかけ、血で血を洗う戦いが始まります」
「上手くいくと思うか?」
楽しげに笑った親父殿に聞かれた。正直に答える。分かりませんと。俺も、笑っていた。
「親父殿は?」
「分からぬ。分からぬのだ。小早川隆景程の男であったとしても、不可能であるとこれまでは思っていた。例えば今年中に九州のうちの半分を奪い、その戦の中で毛利家の主だった武将らが戦死する。というようなことが起これば殿とて『今の毛利に一国程度であれば』と考えを変えた可能性は高い。小早川隆景もそれを狙っているものかと思った。しかし違う。少なくとも、九州北部の接収はあり得る。本来長き時をかけて仕込まねばならぬ調略を、彼の二代目謀聖は一瞬で成して見せた」
「考えてみれば、俺もしたことなのですがね」
切支丹大名の領地において最大の不穏分子とは何か、それは即ち異教徒であり日ノ本においては仏教徒がその筆頭である。小早川隆景殿は俺に密書を送り、下間一族らの坊官を九州に派遣して欲しいと頼んできた。彼らを説得に当たらせ、大友領や大村領で一斉に蜂起させることを取り計っている。
「王法為本の考えは敵の戦力を削ぐには有用であっても、味方の戦力に加えることには不向きな考え方であると思っておりましたが」
「王の法ではないからな。異教による侵略である。これに抵抗することは吝かであるまいよ。安宅船はどうなった?」
「既に下関に」
質問に答えた。村上水軍の命脈を奪った大型軍船である鉄甲船。俺との会談を終えた小早川隆景殿は、その直後に安宅船を売って欲しいと俺に言って来た。一隻につき二万貫、五隻買うので合計十万貫。俺は売却の許可を父から得ると、五隻を譲り渡した。残る五隻は大坂湾にて修築され、陸路安土まで運ばれた十万貫は新たな鉄甲船造船費用となり、今後の北陸、或いは関東攻めに使われることとなる。
毛利軍が上陸した豊前から龍造寺家に攻撃を仕掛ける為には筑前を超えなければならない。前述した通り、筑前には筑前五城将と呼ばれる者らがいる。その中でも戸次《べっき》道雪と高橋紹運は名うての戦上手であり、それ以上に忠義に篤い好漢であるという。
これらの強敵をやり過ごし、同時にこれらの強敵を孤立させる為、今もって健在な小早川水軍を率いて肥前の長崎や浦戸、島原などを攻める事を小早川隆景殿は画策した。使用するのは毛利家がその脅威を誰よりも味わった鉄甲船。九州の誰も見たことがない巨大軍船を持って戦意を削ぎ、得意の調略でもって離反者を出し、そして龍造寺家と大友家を一手にて追い詰める。
「そんなに全てが上手くいくものか、と思わずにはいられませんが」
「しかし、全てが上手くいけばひと月で北九州は落ちる。全てが上手くいかずとも、どれかが上手くいけば毛利家四万で十分に北九州を相手に出来る。故に」
「「分からぬ」」
言葉を重ねてから、やはり俺達は笑った。決死の思いでお家存続を図る毛利家中の者どもからすれば何を笑っているのだと言いたくもなるだろう。だが、面白いと思わざるを得ない程、小早川隆景殿が立案した戦略図は機知に富んでいる。
「親父殿、俺はこれより四国へと向かいます。親父殿は、俺の留守中弾正少弼に対しての対応をお願いいたします」
「うむ。隠居するように言い、大和を出、京都に屋敷を構えよと命ずるのであったな。任せておけ。尾張美濃、近江に伊勢は大半を身内で固めた。五畿内からも、梟雄の類は追い出しておかねば」
胸を張って答えてくれた親父殿に頭を下げる。親父殿には暫くの間ご苦労をかけてしまう。申し訳ありませんと言うと、肩を叩かれた。
「まあ、これが上手く行けば西は片付くのだ。我が悠々自適の余生も間近と思えば、多少の無理はしようぞ」
ありがとうございますと答える。そして、九月一日に俺は大坂を出、四国へと向かう。四国に五万、そして中国にも五万、それぞれ兵を集めて出兵の準備をしておく。毛利家の手柄を奪いはしないが、しかし十万の援軍がいつでも出られる状態にあるのだという威圧は九州諸勢力の戦意を削ぐだろう。小早川隆景殿が行う調略も、成功の確率が高まる筈だ。
「小早川隆景との口約束通りに動くのであれば、十万の威圧も、京都所司代の出兵も不要なのであるがな。その上でお主は中国と九州の殺し合いを見ていても良いのだ。本来ならばな」
「それが出来ぬから、俺はいつまでも織田信長の庶子なのですよ」
そうして俺達は又、声を重ねて笑った。




