第百十七話・魔王の下知
ケッケッケッケ、と、怪鳥の如き長い笑い声が、安土城の天守閣に響き渡っていた。
「お加減も宜しそうで、安心致しました」
「誰が言ったのだか知らんが俺の体調が思わしくないなど気の回し過ぎよ。健康な者であろうと躓くことくらいはあろう。それを見て俺の足腰が弱っているだの何だのと」
楽しげに笑い、部屋の外に立ちながら城下を眺めていた父が戻って来てドカリと座った。
「飲むか?」
「では、一献」
言うと、父が瓶を傾け硝子の器に酒を注いだ。葡萄を発酵させて作った酒だ。濃い紫色をしていて、美しく引き込まれるようだ。それを入れる硝子の器は薄く背が高く、これまでに見て来たどのような硝子よりも透明度が高い。まるで宙に紫色の液体が浮かんでいるようである。
「どうだ? 旨いであろう?」
「はい」
酒はあまり飲まない。父も余り酒に強くない。これまでの酒精が強過ぎる澄酒などは余り量も飲めないし、突然酩酊してしまうのでいつ何時何があるか分からない武家には不向きだと俺は思っている。だが、母が作り最近では織田領内に安価な値で広まっている炭酸の酒や、この葡萄酒などはそれなりに量が飲めるし、酔えるだけでなく味を楽しめる。
「陶器だけでなく、硝子製の食器などもこれからは売りに出せるかもしれません。そば殻などの緩衝材も需要が増えるでしょう。発酵させず、ただ絞っただけの汁は子供が好きでしょうし、今後は様々な果実で酒を作れば、それらの木々を庭で育てているだけで収入になります」
「また始まったな、聞こえたか勘九郎。こやつはもう既に金儲けの事を考えているぞ」
「今更驚きはしませんよ。昔から兄上はこうです」
父の後ろから、ゆっくり近づいてきた勘九郎が笑いながら答えた。その言葉を聞いて父が更にかん高く笑う。機嫌は良さそうだ。食事は食べているようであるし適度に酒も飲んでいる。医者や母の言うことをよく聞き最近では生活習慣を整えているとも聞いている。今回の戦役においても、父が安土から動いたのは四回。京都と、越前一乗谷に一度ずつ、そして岐阜に二回。それだけで味方を鼓舞し敵に圧力をかけるのには十分な効果を発揮した。
「毛利は、いや、小早川隆景はどうであった?」
「強かったですね。とても敵わないと思いましたよ」
「貴様は勝っておろうが」
「勝ったのは織田家であって、俺ではありません」
降伏文書が届いたところで、戦闘は一旦中断となった。毛利家は、織田家に譲り渡すと言った因幡・美作・伯耆・備中・出雲のうち、山中鹿之助らが暴れ回っていた因幡・美作・伯耆から撤兵。ご存念次第にと言って来た。同時に、備中備後からも織田家の兵が進駐するのと同時に兵を引き上げる準備があるのでいつでも言ってくれと言われた。今は織田家の停戦命令を無視して長門へと攻め上がっていた大友宗麟と戦っている。見事な采配だと思う。
「俺は敵に倍する兵を動かすことが出来、しかも向こうは一致団結しているとは言い難い状況でした。こちらはいざとなれば父上の一言でどのような命令でも聞かせることが出来ます。これ程有利な状況で戦えたと言うのに、五ヶ月戦って毛利本家の兵は殆ど損なわれておりません。いっそ全て小早川隆景の掌の上なのではないかとすら思います」
毛利本家が全力で戦闘を行ったのは、西の吉川元春軍を除けば浦上宗景を攻めたただ一度のみ。備前と美作の、毛利家本領の二国を労せず奪い取れるのではという腹積もりだったが見事に当てが外れた。あれで味方の士気が下がり、俺は父に京都へお出まし願うのと共に自身も前進した。数日だが、摂津と播磨の国境まで出陣もした。あの時が、俺と小早川隆景が最も接近した時であっただろう。
後から入ってきた情報によれば。戦いの前、毛利家の中で最初に降伏すべしと論陣を張ったのは当の小早川隆景であるらしい。亡き元就公の遺言に従い、毛利家は身の程を知り天下を伺わぬ。天下人たる織田信長の家臣たることが、最もご遺言に叶う。
これに対して戦わず降伏するなど武門の恥とする者達の旗頭となったのが吉川元春であった。話し合いの結果、戦って、勝てぬと誰もが納得した段階で降伏。勝てると判断した場合は天下を獲る。このような結論を見たようだ。この辺りの対立や話し合いの結果を聞くと、吉川元春と小早川隆景の兄弟は性格が逆であるものの仲は良いという印象を受ける。
降伏派筆頭の小早川隆景、戦端が開かれてよりの彼がどれだけの活躍をしたのかは天下が知るところだ。備前と摂津で睨み合っていた時、『今が勝てる最初で最後の機会である』と言い、一気に播磨から摂津へと雪崩れ込み、全軍で俺の首を獲るべしと進言した。電撃的に京まで攻め上がり、そのまま父の首も奪う。そうすれば西国から五畿までを奪い取れる。
その話を聞いた時、首筋がゾッとした。不可能ではないと思ったからだ。そこに吉川元春がいたならばこの策は決行され、成功していたかもしれない。だが、実際にはそれまで主戦派であった連中は『もし失敗し敵地で孤立したら』という理屈でもって二の足を踏んだ。大将たる毛利輝元も、決めることが出来ないまま宇喜多直家が裏切り、第二次明石海峡海戦により毛利家が瀬戸内の制海権を失った。
これらの戦い、五ヶ月の攻防、村上水軍の壊滅は小早川隆景の『降伏しかないが宜しいか?』の一言を満場一致のものとする為に必要なものであったのかもしれない。村上水軍は壊滅したが小早川家の水軍はほぼ無傷で残っている。小早川隆景は、本領の兵を殆ど損ねることなく、主戦派の心だけを折って見せた。織田家は勝った。勝つべくして勝った。だがその勝ち方はやはり、小早川隆景の掌の上であったような気がしてならない。
「大友宗麟が調子に乗っているようだな」
葡萄酒を飲む父が不意に話を変えた。不機嫌そうな表情ではない。多分だが、好都合と思っているのではないだろうか。
「どうも、切支丹による千年王国とやらの建設を夢見ているようで」
その為に九州の博多や、長門等の大陸に近い貿易港となる土地が必要であるようだ。毛利領を奪い取り、一条家の後援を受けて西の竜造寺、南の島津を討ち取る。そうして九州を切支丹の楽園に。そういう筋立てで大友宗麟の夢は続く。
「切支丹の力を、抑えねばなりませぬ」
葡萄酒を入れている瓶も、それを注ぐ器も、南蛮人即ち基督教徒が持つ技術が高いことを示している。技術が高いということは比例して軍事力も高いことに繋がる。瀬戸内の如き内海ではなく、唐や天竺まで続く大海原を渡ることの出来る巨大な船を操ると聞く。いつの日か大軍でもって日ノ本に攻め寄せて来るかもしれない。その際にもし九州が既に基督教のものであったならば元寇の折が如き神風が吹こうとも無意味だ。
「南蛮人には同族の者ら以外を人として認めぬという強硬な考えを持つ者もおります。日ノ本の人間が人ではなく物と見做される可能性もあります。不確かな情報ですが、既に九州の一部では日ノ本の人間が売られているという話もあります。少なくとも真偽をただし、真実であるのならば然るべき対応を」
幸い、織田家の切支丹は皆父に忠実だ。宣教師のルイス・フロイスも、ロレンソ了斎も、父との関係は悪くない。
父がチラリと横を見た。視線の先には宣教師から貰った地球儀。その地球儀を見ると日ノ本は余りに小さく、海は途轍もなく広く、そして宣教師たちが途方もない遠路を経て日ノ本に辿りついているのだと分かる。もしすぐ隣に南蛮人達の国があったのならば、日ノ本など忽ちの内に侵略されているだろう。
「分かった。安土・美濃・京都。それぞれの土地の宣教師に話し、是非を問う。三十郎が戻るよりも前に納得のいく回答が無ければ禁教令や教会の打ちこわしも視野に入れる」
「叔父上が戻られるまで、ですか?」
「うむ。もうじき甲斐の仕置きも終わる」
この五ヶ月で、西の大国毛利は織田に降った。東では駿河と伊豆が徳川・今川連合軍によって陥落し、北条家は相模の小田原城まで撤退した。泥沼の戦いの末能登は織田が奪い取り、そして、甲斐源氏武田家は滅んだ。
四月、俺が毛利攻めに苦戦しているさ中に、織田対武田の先端も開かれた。織田家が最初に攻撃目標としたのが飛騨高山。実入りの少ない飛騨国において唯一とも言える重要な地域に、織田家は二万の大軍を動員する。指揮を執ったのは又左殿と内蔵助殿、それと指揮能力の高さを買われた金森長近殿。一旦北陸攻めから離れ、初の大軍指揮であった。当時誰もが飛騨に二万を送る戦略的意味がどれだけのもであるのかに半信半疑であった。武田勝頼は飛騨に大軍を送る余裕が無く、諏訪に二万の兵を動員。南北から攻め寄せる織田軍を待ち受けた。
結果として、武田勝頼が行った戦力集中の方針が勝敗を決した。例え武田家に編入されて間もない小領土であったとしても、これを見捨てたという事実が武田家家臣らの離反を招いたのだった。最大の衝撃をもって伝えられたのは武田信玄の娘婿である木曾義昌の離反。これに激怒した武田勝頼は兵一万でもって木曽谷へと向かう。だが、時を同じくして南から織田本隊四万が北上を開始した。
もし仮に、鳥のように信濃・甲斐を真上から見下ろせるのであれば、両国の中心に諏訪湖が存在し、三方に平地が伸びているのが分かる。北は信州松本を中心とする地域で、その西が飛騨である。南東には甲斐国があり、武田信玄はこの甲斐と信濃を跨る平地から北上し勢力を伸ばしていったのだと分かる。そして、南に伸びるのは上伊那郡と下伊那郡。織田家の本隊はこの平地から一気に北上した。戦場には征夷大将軍としての初陣となる勘九郎が向かった。副将には三介もおり、軍監として、実質的な戦場指揮官の主座には彦右衛門殿が座った。
武田勝頼は織田本隊を撃滅した後飛騨侵攻軍を討ち果たさんと、要衝高遠城を超え、武田股肱の家臣らや実弟仁科盛信と共に伊那郡を南下、伊那上郷において両軍は激突する。離反や高遠城留守居の兵を差し引き、武田軍は一万四千余り。織田軍はその三倍。
毛利家が、村上水軍が父の編み出した最新兵器である鉄甲船により討ち果たされたように、武田家も父が編み出した新戦法により壊滅した。
武田兵の強さの秘訣は幾つもあるが。その内の一つに騎馬隊運用があるというのは疑問の余地がない所である。山道に強く小柄な木曽馬を使い、敵よりも早く戦場に辿りつき、地の利を得る。『速きこと風の如く』の真骨頂とも言えよう。この真骨頂を、父が奪い去った。
父が三千丁用意した鉄砲を並べ、近づいて来る騎馬兵に向け一斉に発射した勘九郎。この一斉発射により、まず最前線にいた騎兵が倒れ、そして、戦場にいる全ての武田騎馬隊が混乱に陥った。地面を揺るがす轟音に、臆病な馬達は怯え、主を振り落として戦場から逃げ出したのだ。
甲斐の虎が育てあげた、文字通り虎の子の騎馬隊を失い、無力化された武田兵は、混乱した状態で三倍の兵との正面衝突を強いられた。それでも天下最強と名高き武田兵は劣勢なれども戦線を維持していた。だが、織田の調略を受け内通していた武田家家臣穴山梅雪が彦右衛門殿配下の忍びと共に後方の高遠城を占領、退路を塞ぐ。
これにより戦局は一気に傾き、武田家は鬼美濃馬場信春や内藤昌豊を始めとした信玄股肱の家臣を失い、潰走する。潰走した武田家を追いかけたのは、織田家にあって鉄砲の音に慣れた馬達を駆る騎馬隊だった。
伊那郡は接収され、諏訪湖の北も、別動隊の手によって落ちた。諏訪湖岸に集結しつつある織田家の追撃を受け、武田家残党は更に東へと撤退。
武田軍にはこの時二つの選択肢があった。甲府へと撤退し、籠城戦を行う事。もう一つは北東佐久郡へと逃げる事。最早武田家の全力を結集したところで甲府と佐久郡とを両方守ることは不可能であることは自明であった。そして、甲府を守るということは南の徳川からの攻撃も受けなければならないということであり、佐久郡に逃げるということは、更にその北、五度に渡って川中島にて争った上杉家の後援を受けるということである。
生き残った者らは佐久郡を目指した。これにより放棄された甲斐は労せずして織田家の手に落ち、織田家はひと月かけずして飛騨と信濃の半分、そして甲斐一国を奪い取ることに成功する。
それから俺が毛利を降すまでの間、織田家は武田領の仕置きを優先させた。武田氏は当主勝頼が討ち死にし、弟の仁科信盛が生き残った。武田信玄が頼りにした最後の支柱、山県昌景も生存が確認され、彼らは織田家に対して徹底抗戦を主張し上杉家に降る。
信濃や飛騨とは異なり、武田信玄の善政により武田家への気持ちが篤い甲斐を統治するのも簡単ではないという理由もあり、武田攻めは一時中断となった。北陸の能登戦線、そしてこの時まだ決着が着いていなかった伊豆・駿河の攻撃を優先させた。その間は三十郎叔父上が勘九郎の名代として甲斐に居座ることとなった。三介も、『少し苦労をさせろ』という父の言葉により甲斐に止め置かれている。
「九州攻めも急ぎたいですが、一旦西の兵を引かせることも出来ます。まずは武田上杉を完全に討伐し」
「いや、西の兵は引かぬ。寧ろ増員をする」
甲斐信濃には、関東管領職を得た彦右衛門殿が入国することとなっている。北条家は降伏すると言ってきている。北関東の豪族達も、既に人質を送って来ている者がいる。切りが良い西国攻めを切り上げて、まずは東と思ったのだが、父上は首を横に振った。
「毛利家降伏の条件に付いて聞きに来たのであったな。俺が出す降伏の条件を伝えておこう。領地全ての没収だ」
「え……」
間抜けな、息が漏れるような声が出てしまった。父が言った言葉の意味が理解出来ず、その顔を唖然としながら見据える。
「俺が平氏長者となり、勘九郎が征夷大将軍となった時点で、武家は皆俺の家臣だ。今の段階で、日ノ本にて俺に従わぬ武士は全員謀反人である。謀反人の追捕は、武家の棟梁として当然行わねばならぬこと。良いな帯刀。毛利家に領地は認められぬ。毛利の外交僧が次現れた時にはそう伝えよ。そして、伝えるまでに兵を可能な限り西へと進めておけ」
「北条家に対しては、如何なさいましょうか?」
固い口調で、勘九郎が問うた。毛利家と同じく。という返事だった。
「早期に降伏したことを評価し、織田家に対して弓を引いた者らの首は求めぬ。又、優秀な人材を織田家の者らが家臣として迎え入れる事も許す」
「た、武田上杉が今より降伏したとして、その場合はお許しにならないのですか?」
問うと、無論だと頷かれた。
「連中は滅びるまで攻め続ける。降伏したとしても追い、草の根分けてでも滅ぼす。九州の大友も同様だ。我が命令を無視し長門を攻撃するとは言語道断。長門は既に織田家の領地、直ちに大友追討の軍を発する」
父の言葉を聞きながら、俺は最早峠は越えたと勘違いしていた自分の迂闊さを叱責していた。大勢力を大勢力のまま残し、後の世の火種とする。そんな室町幕府がした失策の二の舞を父が犯す筈もないのだ。戦国の世において唯一、鬼でも龍でも虎でもなく『魔王』と呼ばれたこのお方が。
「御意のままに」
魔王の息子たる俺は平伏し、これより最も残酷な一年が始まるのだという認識を固めた。




