第百十六話・鯨飲戦
天正二年三月二十六日、羽柴秀吉率いる三万は摂津より北上。丹波一国を攻め落とす為進軍を開始する。
攻撃目標は赤井直正の居城黒井城。摂津伊丹より北西三田へと向かい、さらに北上を続ける。待ち受ける国人衆は盟主である別所長治を中心に、波多野家、赤井家、更に織田家から離反した荒木村重ら、対織田家戦に戦功のある勇将が続々と集まった。
翌、三月二十七日、若狭の惟住長秀率いる一万五千が西進。更に別動隊として海路より五千が丹後へと向かう。この報を受け、丹後の一色義道は丹波戦線への援軍出兵を取りやめ、同時に但馬の山名豊国らも動きを止める。
この三月二十七日より、三日間、中国地方東部を豪雨が襲う。山間の国である丹波での土砂崩れや予期せぬ災害を恐れた織田軍は南北両軍が進軍を止めた。そして、この三日間に小早川隆景、謀聖の血を最も色濃く受け継いだ男が動く。
小早川隆景は速やかに小早川水軍を総動員し、加えて、決して毛利氏にとって子飼いとは言い難い村上水軍衆に対して協力を要請する。毛利家が敗北することは即ち村上水軍の解体を意味する。瀬戸内の水軍衆の総力を結集して難局にあたるべし。
遡る事僅か三年前、大友氏と結び毛利氏に反旗を翻した能島村上氏の去就に西国中の目が集められたが、村上水軍最大の力を持つ海賊王村上武吉がこれを承諾。村上水軍が初めて織田家と全面的な対決を決意する。
既にこれを予見していた織田家は兼ねてよりの計画通り九鬼水軍、再建した佐治水軍、更に長曾我部元親率いる土佐水軍衆を連合し、淡路島西岸に布陣。同時に、博多より大友氏に出兵を要請。惟任光秀が率いる陸上部隊も東側は小豆島、西側は今治北岸の島々、即ち村上水軍の拠点のある島々を攻撃目標とする。
小早川隆景は、直接戦闘において毛利家最強とも称される実兄吉川元春を西の大友氏にぶつけると共に水軍衆には実弟の穂井田元清を送り込む。不穏な動きがある浦上宗景に対しては毛利家本隊三万を自ら指揮し出陣。本隊には当主毛利輝元も加わり、毛利一門は一丸となって四方の敵にぶつかる。
明けて四月一日、毛利家にとって二つの許しがたい報せがもたらされる。一つ目は来島村上氏の出兵拒否。理由は当主来島通総が体調を崩し、戦闘に耐えられる状況にないというもの。これに対して小早川隆景は直ちに兄得居通幸が兵権を引き継ぎ出兵するべしと言い募るが来島村上氏は沈黙を保った。
更に丹波戦線では波多野氏が突如撤退。黒井城の南東に位置する居城八上城へと兵を引き織田家に降伏。それを受け、多くの国人衆も浮足立ち兵を引き上げる。四月五日には黒井城を羽柴軍の主力一万二千が包囲し、降伏勧告を行う。
戦国史最大の水上決戦の準備が行われていた瀬戸内海では、毛利水軍が軍船五百艘を用意し、大軍でもって四国北岸を荒らしながら東進。臆することなく淡路島東岸まで現れ、そのまま淡路島の北、明石海峡まで進む。そして四月六日、織田、毛利による水上決戦、第一次明石海峡海戦が勃発する。
織田家は毛利水軍を上回る六百艘、それも平均的に大型の船を用意し、数において有利であった。実際、開戦当初は織田家が優勢であった。だが、潮の流れが変わった午後、形勢は逆転した。瀬戸内の潮を熟知した村上武吉は潮の流れに乗って織田水軍を突っ切り、突破しにかかった。更に毛利水軍のお家芸焙烙火矢により織田の船に延焼、沈没するものが増え、遂に中央を突破される。
分断された織田水軍を、毛利水軍は各個撃破し、淡路島や明石に撤退する船が増えたと見るや更に東進。大坂湾の港を電撃的に荒らした。僅か半刻にも満たない時間であったが織田家の領地に確かな傷跡を残した毛利水軍は、村上武吉を先頭に南下し、大胆にも淡路島の南鳴門海峡を通過して撤退。小豆島へと戻った。この戦いの結果、今もって淡路島以西の制海権が毛利側にあることが確定する。
同日、丹波黒井城を囲む織田家も敗北を喫していた。調略により織田家に降ったはずの波多野一族が再び反旗を翻し、黒井城を包囲する羽柴勢に襲い掛かった。奇襲により撤退した羽柴勢であったが、黒井城包囲に先んじて撤退した筈であった国人衆らが撤退路を塞ぎ追撃。一時は大将の羽柴秀吉すら最早これまでと討ち死にの覚悟をするほどの大敗の後、四月六日、陸海において連敗した織田家は摂津で合流。京都より足を運んだ京都所司代と会い、大坂本願寺において戦果を報告した。
ここまでは織田家の連敗。天下は『織田よりも毛利の倅の方が勝るようだ』と噂した。だが、三つあった戦線の最後の一つにおいては織田家が勝利を収めていた。
織田家が丹後の盟主である一色義道を攻める名分は僧侶を匿っていた咎であった。そして一色義道は丹波や播磨のように国人衆を纏めることが出来ず、戦闘に至るよりも先に多くの離反者を出してしまう。戦わずして丹後を征した惟住長秀はそのまま追撃を続行。但馬の山名豊国を頼って亡命しようとしていた一色義道を中山城に追い詰める。
中山城城主沼田幸兵衛は織田家に内応しており、前後を挟まれた一色義道は最早これまでと自害して果て、丹後は攻撃から僅か十日余りで制圧された。
更に惟住長秀は自害した一色義道を匿おうとしていたという咎により山名豊国討伐を決定する。各地で戦端を開く毛利勢に山名豊国を援護する余裕はなく、但馬一国も約半月後の五月の頭には制圧される。中国地方の残りは十三ヶ国となった。
二つの敗戦から織田家が体勢を立て直した時間は、そのまま毛利家が備前を鎮静化するのに必要な時間となった。丹後但馬の陥落により半孤立状態となった丹波は六月に入ると赤井直正の黒井城と波多野秀治らが籠る八上城を含めた僅かな城のみを残して織田家の手に落ちていた。播磨の豪族も毛利氏の後援なしにしては丹波救出の軍を出せず、鍵は備前の浦上宗景であった。その浦上宗景が家臣宇喜多直家の策によって失権した。
宇喜多直家は小寺氏預かりとなっていた宗景の兄、浦上政宗の孫久松丸の存在に目を付ける。小寺政職に久松丸の引き渡しを求め、これを成し遂げると即座に久松丸を備前国主として擁立し、浦上宗景に従う者らを離反させた。
千載一遇の好機に、毛利家は三万の大軍で備前を攻撃、家臣の離反が相次ぎ戦うことも出来なくなった浦上宗景は領地も城も捨てて逃げ出し、以降行方知れずとなる。宇喜多直家は備前一国の領有を毛利家から認めさせ、中国四国畿内、これらの地の真ん中にありゆるがせに出来ない勢力を持つ人物として、一躍重要人物に躍り出る。
六月七日、毛利輝元が備前に入る。兵数三万五千。
六月八日、津田信正が大坂城を出、野田城へ入城。兵力四万。
織田・毛利の本隊は播磨を挟み丹波を救出するか陥落せしめるかの瀬戸際となり、戦局は膠着しかかる。膠着をさせなかったのは織田家側。
津田信正の命を受けた本願寺顕如が安芸門徒衆に文を発した。内容は王法為本に立ち返れというもの。即ち、今回の戦いに参加するなという命令である。安芸は中国地方最大の浄土真宗の本拠であり、同時に毛利家の本拠でもある。毛利家は末端の兵から有力国人まで、門徒衆の離反者が続き戦わずして兵数を減らすことになる。
もう一つ、尼子の忠臣、山中鹿之助が独自に動くことを認められた。山中鹿之助は、これまでの戦いの中で黒井城撤退の際には殿を務めて奮戦するなどの功績をあげ、織田信長より賜りし名馬四十里鹿毛を駆って戦場を暴れまわっていた。津田信正は山中鹿之助に対し、因幡から伯耆、出雲までを攻め取れば、尼子氏守護の地である雲伯の領有を認めると文をしたため手渡す。尼子再興を目指す旧臣千を味方につけた山中鹿之助は独力で因幡攻めを開始した。これ以降、山中鹿之助率いる尼子再興軍は味方に数倍する敵軍を相手に勝利を重ねてゆく。
後顧の憂い、北方の憂い、備前進駐後にも毛利輝元は播磨丹波への進軍が出来ずにいた。そうしている間に、六月十二日、人知れず、大坂湾に織田家の新兵器が浮かぶ。
兼ねてより織田信長が立案していた、大型軍用鉄甲船である。九鬼嘉隆監修の元製作が進められ、明石海峡海戦において敗北したことで作成を早めたこの常識はずれな兵器が六隻、六月十四日大坂湾に現れた。
絶対の勝利を確信する水軍大将九鬼嘉隆は直ちの攻撃を津田信正に対して上申し、津田信正はこれを受け入れる。そして六月十六日、再び明石海峡にて両水軍が相まみえる。結果は前回とは異なった。
戦象が騎兵の群を蹴散らすが如く、鉄甲を張り付けた安宅船は毛利水軍の船を次々に蹴散らしていった。毛利水軍ご自慢の焙烙火矢は全て鉄板によって遮られて効果はなく、寧ろ跳ね返って味方の船を焼いてしまう有様であった。第一次会戦が四刻にも及ぶ激闘であったのに対し、第二次会戦は一刻程度で勝敗が付き、毛利水軍は小豆島へと逃げることになる。
この海戦に先んじる事二刻、津田信正の前に一人の降伏の使者が現れた。宇喜多直家の弟忠家である。忠家は所領の安堵と引き換えに、織田家への臣従を誓った。
この時の織田家中国方面軍は、丹波でいまだ頑強に抵抗する赤井、波多野がおり、毛利の後援を信じ反織田で旗色を統一した播磨勢がいた。ここでもし再び水軍衆が負ければ、戦がズルズルと長引きかねない状況であった。逆に、ここで織田家が何か一つ決定的な勝利を収めてしまえば、最早備前一国の宇喜多直家など敵をしようとも味方をしようとも大局に影響はなくなる。その絶妙な間隙を突き、梟雄宇喜多直家は主家を二度裏切ることで備前一国の立場を得んとした。
津田信正はこの条件を飲み、宇喜多家の所領安堵を認める。それから三刻後、織田水軍は毛利水軍に勝利し、宇喜多直家の裏切りにより毛利本隊は撤退、本陣を備中まで下げた。
これより約一ヶ月の間、小豆島は凄惨な殲滅戦の場となる。攻撃軍の大将はこれまで見せ場を持てずにいた一条信孝。小豆島防衛の千五百余りはよく戦い抜いたが、二万のもの兵に攻め立てられて流石に抗しきれず、ほぼ全滅となる。島に生えていた木々の多くは焼け落ちた。
小豆島陥落が目前となった七月中旬までには、播磨の国人衆も追討された。大勢が決してからの降伏は許さない織田家は小寺氏やその家臣家の黒田氏などには温情なく領地没収と追放の処分を下した。当然別所長治の降伏は受け入れられず、別所長治は戦死後首が二条河原に晒されることとなる。荒木村重は厳しい捜索にも関わらずその行方は杳として知れない。
こうして、完全に孤立した丹波の波多野秀治と赤井直正もとうとう降伏を受け入れた。一度は調略を受け入れた後に裏切った波多野秀治は、弟二人と共に斬首とされその首が晒された。終始敵対し最後まで戦い抜いた赤井直正には切腹を許し、その家名存続を約した。
こうして七月二十五日までに中国十五ヶ国の内丹波・丹後・但馬・播磨・備前は織田家の領地となる。津田信正はこの段階で京都へと戻り、中国攻撃軍は羽柴軍と惟住軍を併せた五万が備前へと進軍。山中鹿之助に援軍一万を与え、山陰地方の切り取りを行わせた。
鉄甲船を得た織田水軍は大小様々な規模の戦闘を繰り返しつつ西へと進軍し、瀬戸や四国の宇多津港を超えた。そして、備後灘を挟んだ諸島を一望出来る位置にて、毛利水軍との最後の決戦に及ぶ。
実質上の大将として君臨する村上武吉は、これまでの戦いで鉄甲船を一隻ずつ丁寧に沈め、前の戦いにおいて六隻全てを沈めていた。そして、戦場は自分達の庭である備後灘だ。ここから反撃をするべしと望みを繋げた瀬戸内の海賊達は敗走してきてなお意気盛んであった。戦闘開始までは。
七月二十八日。この日、瀬戸内海を東から西に、新たに建造された十隻の鉄甲船が進み、そして、備後灘に姿を現した。
以前よりも多く、そして大きい鉄甲船を見て戦意を失った村上水軍。更に戦闘開始直後に来島村上氏が離反し、後方から攻撃を仕掛けてきているという情報を得る。こうして備後灘の戦いは戦闘開始と共に狩る者と狩られる者とに分かれ、この日、海賊王村上武吉を含めた村上水軍の棟梁達の多くが瀬戸内の海に沈む。村上水軍が歴史からその名を消した日であった。
こうして瀬戸内の海をほぼ接収した織田軍は、津田信正の名をもって大友氏に毛利氏への攻撃を辞めるように命じる。備前からは宇喜多直家を前軍とした兵が西進し、既に毛利家の統治から離れつつある因幡・美作・伯耆にも織田の大軍が雪崩れ込む。そして、八月二日、毛利家の外交僧安国寺恵瓊より、毛利家降伏の文書が届けられる。
「まあ、こんなところか」
長い文章を書き終え、俺は溜息を吐いた。中々難しいものだ。書くこと自体は楽しいが。呼び名を諱で統一したかったのだが、後から読んでみると通称で書かれている者もいる。山中鹿之助とか。
長かった。五ヶ月と少し、大国毛利を降すのにかかった時間としては短いと思われるかもしれないが俺にとっては長かった。特にあの羽柴殿が敗走していると聞いた時には生きた心地がしなかった。本当はもっと大量の離反者を出して安芸の手前までは速やかに進むつもりであったのだが、殆どが小早川隆景にかわされた。圧倒的な国力の差を前提に取り囲むと言うやり方であったから国を切り取ることが出来たが実際には毛利家本領には殆ど手を付けられていない。ここを奪い取るとなれば毛利家も今まで以上に必死になるであろうから一年や二年は覚悟しなければならないだろう。
ともあれ、降伏だ。長門と周防、それと石見に安芸。この四ヶ国以外は譲ると言っている。瀬戸内の海運も織田家の存念次第。悪くない。
これに対して俺は長門か周防か安芸のうち、どれか一国の安堵と返すつもりだ。少なくとも石見は奪い取る。そこまでは相手も織り込み済みであって欲しい。最終的な決着は、本拠地たる安芸から引き剥がして長門と周防の二ヶ国、といったところではないだろうか。
「五右衛門」
考えを纏め、虚空に向かって言った。すぐに、大柄な男が現れて俺の前に跪いた。
「毛利は屈した。間もなく武田も滅ぶ。俺は亜相様と共に右府様にお会いして来る。留守の事、一切は村井家に」
指示を出すと、五右衛門が頷いた。その五右衛門にもう一つ話を続ける。
「例の物は、上手くいきそうか?」
「難しゅうございます。ですが、必ず」
「無理はしなくて良い。出来るのであれば、だ」
肩を叩く、再び五右衛門が頷いた。
父の具合が思わしくないらしい。まだまだ体も動くそうではあるが。安土にて、新しい天下の話し合いだ。




