第百十二話・安土城竣工
恭が亡くなった次の日の朝は、前日の夜に引き続き晴れ渡った。冥福を心配なく信じさせてくれる優しい色の天の中に、恭は還って行った。それから三日間、俺は恭の喪に服し、そうして再び織田家の武将にして京都所司代、津田帯刀信正という立場でもって戦線に復帰することとなる。
「所司代様、奥方様の喪に服するがたった三日であるなど短すぎまする。今暫くの間喪に服したところで家中の一同、誰一人文句など言いませぬぞ」
家臣一同に召集令を発した父の言葉に応じて岐阜から安土へと向かう道中、羽柴殿に会い、そのような事を言われた。
「喪に服すという名目で休んだのは三日だが、それ以前に傷を癒すという理由でふた月休んでおる。これ以上は休み過ぎというものであろうよ」
「癒すべき傷は体ではなくお心にございましょう」
馬を並べる羽柴殿は、心配そうな表情で俺の顔を覗き込んできた。その羽柴殿に笑いながら答える。
「右府様は妻である吉乃様を亡くされても喪に服すようなことはせず天下統一にまい進されておられた。他に、戦闘で家族を失った者も多くおる。自分だけぬくぬくはしておられまい」
「そうは仰せになられますが」
「何だ、筑前殿はこの俺が妻を失った程度で半年も一年も引きずるような軟弱者に見えていたのか」
「見えまする。尤も、それを軟弱者とは思いませぬが」
そんなはずはあるまいと、反語表現的に使った言葉であったのに真っすぐな表情で肯定されてしまった。苦笑し、心配は御無用だと答える。
「確かに、俺は人の死に対して必要以上に心を痛めてしまうところがある。誠戦国の世に向かぬ性格であると自覚はしておる。だが、此度妻を失ったことについては、出産前に出産後にと、覚悟を固める時間が長くあった。その分の休みを先に頂戴したのだと思っておる。幸いにして直接の戦闘が少なくなる冬場に全て済ませることが出来た。これよりは再び京都所司代職を務めさせてもらう。この俺とて、それなりに貴殿らの役にたてよう?」
「それなりになどと、支柱にして最大の戦力にございまするぞ」
羽柴殿の言葉にカッカと笑った。本気で言っているのか世辞であるのかは分からないが、この男にそう言われると本当にそうであるような気持ちがしてくる。
「いつ何時右府様がお倒れになられるかもわからぬ。最早織田に従わぬ者らの最後の望みはそれ以外あるまい。その日が来るまでに、この戦国将棋、とっとと詰みにしておかねばな」
笑みを浮かべながら言うと、筑前殿が真面目に頷き、急ぎましょうと答えた。
「さしずめ、織田家の龍王たる所司代様に従い、この歩兵たる羽柴筑前、全力を尽くしまするぞ」
「俺が龍王であると言うのは過分であるが、それにもまして貴殿が歩兵というのは謙遜が過ぎるというものよ。百歩譲ってもと金と呼ぶのが相応しかろう。出世頭の羽柴殿にピッタリだ」
言うと、羽柴殿が嬉しそうに笑い、俺は又カッカと笑った。
気持ちは、不思議と落ち着いており引きずるようなことはなかった。完全に整理がついたということでもないのだが、最後の瞬間まで一緒にいられたということが大きかったのかもしれない。心を通わせることが出来た。これ以上ない程に。恭が、俺の子供を、男子を産めて本当に喜んでいることが分かったし。自分の死を受け入れ、その上でその短い生涯に満足していること、そして幸せを抱いていること、それらがよく分かった。結果、俺は妻を早死にさせてしまった男となってはしまったものの、同時に、妻を最後まで幸せに出来た男でもあるのだと、胸を張ることが出来た。
「お互い、子は大切にせねばなあ」
「誠ですな。所司代様は言うに及ばず、某とてまだまだ若いのです。二人三人と言わず五人十人と、右府様を見習って子を成し、育てねば」
長らく不妊に悩まされていた羽柴殿も、男子が産まれ、そしてその子は今岐阜にいる。羽柴殿程の人物から人質を取る織田家ではないが先の戦役などの関係から避難をした関係で羽柴殿のご家族は偶々岐阜城にいた。その後名医永田徳本先生が岐阜に来られたことや、俺にも男子が産まれたことなどから、長々と岐阜にて過ごしている。如才のない羽柴殿の事であるから、岐阜に自分の嫡男がいれば万が一にも謀反などの疑いをかけられることはあるまいとか、岐阜の方が良い教育を受けることが出来るだろうとか、油断のない狙いがあるのではないかと勝手に邪推している。
「竹中半兵衛にも男子が産まれたそうではないか。吉助と言ったか? 小一郎殿は如何している?」
「小一郎は駄目ですなあ。何故だか女子を寄せ付けませぬ。女子から好かれぬわけではないのですが」
小一郎殿の顔を思い出す。朗らかで、誰からも警戒心を抱かれない面立ちをしている人物だ。それでいて仕事にそつはなく、誰にでも公平で気配りも出来る。爆発的にモテはしなくとも、女子から嫌われる要素は一つとして無い。
「筑前殿に気を使っているのかもしれないな」
「どういうことか、お教えくださいませ名刀様」
久しぶりに名刀と呼ばれ、頬が緩んだ。よく聞け孫悟空よ、と笑いながら言うと、ウキィ、と答えてくれた。面白いな。話自体はあまり面白いものではないが。
「端的に言って俺と亜相様の関係にしたくないのではないか? 既に後継の嫡男がいるとは言え齢三つを数えるまで石松丸とてどうなるか分からぬのだ。無論勝若丸とて同じこと。故に、筑前殿がもう何人か男子を成すか、或いは石松丸が無事三歳を迎えるまでは子を成さないつもりではないのかと思う」
淡々と語りつつ、それを聞く羽柴殿の表情を見ていた。驚いてはいない。自分でも同じような予想をしていたのだろう。考えてみれば小一郎殿と仲が良い羽柴殿がその程度の事を読めない筈もない。
「まあ、貴殿とて既に従五位下羽柴筑前守秀吉だ。殿上人となり、面倒ごとも増えよう。そのような細やかな気遣いが出来る者が周りに多くいるのは羨ましき事よ」
小一郎殿と竹中半兵衛は勿論のこと、羽柴家では羽柴殿の妻や母御などもよく発言をするという。女子の発言を馬鹿にせずしっかりと聞き取る羽柴殿の人柄があってこそだが、そんな羽柴殿だからこそ周囲にも人が集まる。
「幼き頃から散々に面倒ごとを蹴散らしてこられたお方が言うと、説得力が違いますなあ」
羽柴殿の言葉に、俺は笑った。
天正二年三月三日。この日織田家家臣達はその大半が落成した安土城に集められた。集められた会場においては、今後の織田家の方策発表と、織田家家臣の者らに与えられた官位のお披露目が行われた。
惟住長秀殿を総奉行とし、普請奉行に木村高重、大工棟梁に岡部又右衛門、縄張奉行には羽柴秀吉、石奉行には西尾吉次、小沢六郎三郎、吉田平内、大西某、瓦奉行には小川祐忠、堀部佐内、青山助一と、長秀殿を筆頭に錚々たる者どもが一冬をかけて作り上げた巨城は、一目見てかつての観音寺城を凌ぐ豪華さだと分かるものであった。
琵琶湖に面する安土城の階層は地上六階建て地下一階建て、正に天下の主が住むに相応しい天主には父やその家族達が住まい、安土の街並みが一望出来る。十分な広さを取った城下町には筆頭家老の権六殿を始め、主だった家臣達の屋敷も建てられている。
使われている物の豪華さ、安土という立地、天下一の高さを誇る天守閣、帝の行幸を視野に入れているであろう様々な建築物。安土城を評するのに、褒めるべき点は幾らでもあるが、俺はこの安土城が天下の城であることを示す第一の証拠はこの城の防御設備の少なさにあると思う。九十九折の道などなく、全て道幅は広く作り、前述した家臣の屋敷と天守までの道のりも分かり易い。物を運びやすくそして見通しも良い。居住性の高さと防衛設備の充実を天秤に比べた時、ほとんど例外なく居住性を重視されたのが安土城であるのだ。
父はこの安土城を建築することで、最早織田家の領土を攻撃出来る者などおらぬであろうと宣言したように思える。戦国の世において、防衛施設としての山城が多く建築され、開発されてきたが、そうではなく天下泰平の世における富と繁栄の象徴たる城を、父は作り上げたのだ。
その安土城の大広間において、俺達家臣一同は父と勘九郎に頭を下げ、改めて得た官位を発表された。
正二位右大臣織田三郎信長
従二位に内大臣と来て、あっという間に更にその上に登った父。正二位に相当する官職は右大臣と、その上の左大臣のみ。従一位は太政大臣であり、更にその上の正一位は関白だ。関白のすべき仕事とは即ち帝の補佐。これでもって位人臣を極めたという事になる。そうなるまで、父上は最早あと数歩のところにまで来ている。
正三位大納言征夷大将軍織田勘九郎信忠
父に次ぐ地位を得たのは、当然勘九郎。大納言の呼び名は亜相であるので、今後は亜相様、或いは亜相公と呼ばれる。征夷大将軍としての呼び名勿論あるが、公方様では、足利の色が色濃く出過ぎてしまうようだ。それならばまだ上様であるとか御屋形様と呼ばれた方が良いだろう。父の前職である内大臣との間には蔵人別当という職があるが、父の官位が上がれば勘九郎の官位も更に上がる筈だ。父の官位はそのまま勘九郎に対しての先例となる。
正三位権大納言北畠三介具豊
従三位権中納言一条三七郎信孝
伊勢と四国のうち三ヶ国を領する弟二人が、北畠家と土佐一条家の当主が就く官位を得た。二人の年齢を考えれば異例の出世であるが、二人については今後これ以上官位が上がることがないと明言されている。先例を重視しない父ではあるが、若いうちから身に合わぬ高位を得た者が呪われるという位打ちについては少々気にしたらしい。二人のこれまでの働きに対しての褒美ではなく、一族の長としての官位であるということも言っていた。今後、二人が家督を子に譲る際にはこの官位が世襲されることとなる。
従三位弾正尹京都所司代津田帯刀信正
弾正尹なる、既に名誉職となり形骸化していた官職を頂戴した。京都所司代職が官職ではなく織田家が勝手に作ったものである以上、今もって俺は文章博士と呼ばれることがあった。だがそれもようやく終わる。それが良かった。最後まで気恥ずかしさが抜けなかったのだ。
さてこの弾正尹職、閑職であったもののその職が持つ権能は中々に優れている。非違の糾弾、弾劾を司る。それのみに留まらず、二官八省から独立して監察を行う。役人の不正を摘発する。この文言における役人とはたった一人太政大臣を除く全員であり、この職を持つことにより俺の京都所司代職としての職能は格段に広く、高い立場のものとなった。
正五位上修理大夫柴田権六勝家
正五位下弾正少弼松永久秀
正五位下右近衛権少将徳川家康
正五位下越前守浅井新九郎長政
正五位下宮内小輔長宗我部元親
家臣一同の中で、最上の席次に座ったのは筆頭家老である権六殿。弾正少弼殿は持ち前のしぶとさで再び大和に返り咲いたが特に功を認められることはなく現状をそのままということになった。徳川殿もかつて自らの力で三河守を得、官位相当から、従五位下の位階を持っていたのだが、これまでの働きに対しての功として正五位下と右近衛権少将の官職を下された。同じく、浅井長政殿には領国である越前守と正五位が与えられた。北陸制覇後にはもう少し上がるであろう。長宗我部元親殿は、自称していた官職をそのまま渡したということだ。同盟者から事実上傘下に降った徳川殿、浅井殿や、新参の長宗我部殿には気を使ってか従五位が相当であっても正五位の位階を用意した。
従五位上右近丞森三左衛門可成
従五位上若狭守惟住五郎左衛門長秀
父上の親友であり、譜代である二人が揃って従五位上を賜った。父は能力のある者であれば誰であっても登用するが、身内と譜代、そして新参者という区切りはしっかりと分けている。故に、こうして譜代衆の中でも特に信頼されている二人に高い地位を与えるということであろう。既に引退した森心月斎殿に官位を与え、世襲にしてしまう狙いだ。五郎左殿も、領地や兵数では劣るものの、譜代家臣の中で権六殿と双璧を成す人物としての働きを期待されている。
従五位下日向守惟任十兵衛光秀
従五位下筑前守羽柴藤吉郎秀吉
従五位下紀伊守滝川彦右衛門一益
己の力で、腕一本でのし上がってきた三人は揃って従五位下と国司の官職を得た。立場は寧ろ低く抑えられているように思えるが、十兵衛殿は近江に、羽柴殿は摂津に、彦右衛門殿は紀伊に領国を持ち、石高で言えば五郎左殿よりも多く貰っている。彼ら頼りになる外様衆には何より領地や銭で報いるのがこれまでの父のやり方だ。
これ以外には母衣衆筆頭の又左殿や内蔵助殿、蒲生の忠三郎に村井の親父殿と、多くの者達が官位を頂戴し、出世争いに悲喜こもごもの様相を見せた。だが、それでもこの時安土城にいられた者らは勝ち組と言えた。遡ること半月前、父は二人の重臣を追放した。一人目は佐久間信盛殿。戦にての戦功が無いことなどが直接の追放原因だそうだ。中国攻め北陸攻め、関東攻めなどで討ち死に覚悟で戦う以外に汚名を晴らす機会はなし。などと言われ、結局戦いに身を投じることなく追放を受け入れた。
二人目が安藤定治殿。かつて西美濃三人衆と呼ばれた安藤守就殿の長男だ。こちらの追放理由は武田家との内通である。全く根も葉もない言いがかりではなかったらしく、切腹や最悪の場合一族斬首という話にもなったが、妹婿である竹中半兵衛からの懇願を受けた羽柴殿の取りなしにより追放という形で収まった。疑わしきことをすることすら許さぬという父の厳しい態度が露わになった一件である。
その他安藤殿と同じく武田内通の咎を受けた東美濃の遠山氏と、敗戦を重ね戦功無しと見做された譜代の平手家がそれぞれ断絶となるなど、尾張美濃における織田家直轄領化は一段と進んだ。
これらの人事を受けて、織田家は口うるさい譜代や元々名のある家の出身であった家臣達を蔑ろにし、自らが引き上げた新しい家臣連中ばかりを評価していると言われたりもしたようだがとんでもない。確かに譜代家臣に対しても厳しいことは認めるが、あの二人が追放されるまでの間にその数百倍の新参者達が荒野に屍を晒しているのだ。譜代武将にだけ厳しいなどと言うことは決してない。
従四位下左京大夫姉小路頼綱
ただ一人、特別枠として従四位下という高い官位を得た姉小路殿。戦国三司が一つという肩書は戦国の世も煮詰まりつつある今においても十分に価値を発揮する。姉小路殿は安土において叙任と共に飛騨一国を任せるという言葉を賜ると、即座に、二万の兵を率いて飛騨へと向かった。甲斐源氏武田氏を滅ぼしたくなかったのか、公家衆が裏で何か動いていたのだと聞いたが詳しくは知らない。答えは近いうちに出るだろう。
こうして、二ヶ月の休息を終えた俺は新しい立場を得、再び一回り大きくなった織田家の中で働くこととなる。五畿を任される俺にとって急務は西国。それも毛利家の本領ではない東中国地方の五ヶ国。
この五ヶ国を速やかに攻め落とし、今年いっぱいで毛利家との決着を付けるべし。そう決意を新たにしていたところ、目的としている五ヶ国が一つ、播磨の国から使者がやって来る。仲介してくれたのは羽柴殿で、見どころと先見の明がある若者であると書かれていた。
「黒田孝高、通称官兵衛か」
更なる戦いの火ぶたが、切られようとしていた。




