第百九話・本能寺の変とその後
室町幕府十四代将軍、公方足利義昭公が、その生涯を終える前に画策していた手について俺は知らない。来たる父上との決戦までに仲間を増やそうとしていたと考える者が多く、庶長子である俺を味方に引き込もうとしていたと考える者もまた多い。或いは織田信長を暗殺する機会を伺っていたのだと言う者もいた。だが、俺はそのうちのどれが正解であったのか、或いはそのどれもが正解でなかったのか、知ることは無い。後の調査により分かった事実を繋ぎ合わせてそれらしい結論を付けはしたものの、己から納得しようとしたことも調べたことも無い。確実であることは、この俺の手が、俺の刃が、足利将軍家を断ったということ。
膝からゆっくりと崩れ落ちてゆく公方様は、倒れながら柔らかく微笑み、手を広げ、俺にもたれかかった。それはまるで母親に縋りつこうとする子のようでもあり、親友と抱きしめ合う友のようであり、全ての罪を許す開眼人のようでもあった。
「公方様……」
返り血を浴びながら、俺は公方様の身体を受け止め、支えた。
「公方様!」
直後、教如らと向かい合っていた一色藤長殿がこちらの様子を見て駆け出し、長岡藤孝殿がそれに続いた。そのまま、一色藤長殿は自らが流す血だまりに沈まんとする公方様の身体に手を伸ばし、
「所司代……!!」
公方様の身体を突き刺し、引き抜いたばかりの脇差に貫かれた。
今度の一撃は、藤長殿の右の脇腹の辺りから斜め上に、左の肩口までを貫通する角度で突き刺さった。まともに戦えば勝てるかどうか定かでない相手であったが、俺に警戒することなく近づいてきた藤長殿は致命傷となる一撃を避けられず、低く呻き声を上げた。
「おのれ……血迷ったか……!!」
一色藤長殿の生涯における最後の言葉を、俺は一顧だにせず、公方様の身体を捨て、藤長殿の顎を掌底で突き、そのまま、太刀を振りかぶって長岡藤孝殿に切りかかった。
三人目、最後の一人である藤孝殿は、俺の一撃を抑えた。上段、お互いの顔の前で二つの刃が火花を散らす。剣術の技巧では藤孝殿と俺では藤孝殿の方が上であっただろう。だが、前進した勢いと、何が何でもここで殺さねばならないという覚悟の差で、俺は藤孝殿を後退させ、上体を崩すことが出来た。
膝を崩し、体勢を低くした藤孝殿。その藤孝殿に、上段に構えた太刀を振り下ろす。藤孝殿は避けられぬと見て、最後の反撃を試みた。低い位置から刀の刃を上に向け、そのまま突き出して来る。喉元を貫かれると見た俺は、首を左に捩ってかわした。ほんの薄皮一枚、首筋に刃が当たったのが分かった。そのまま、俺は距離を取ることなく刃を振り下ろした。
切り下ろす俺と、切り上げる藤孝殿。顔の右側が、何か熱いものに覆われるような錯覚を覚えた。俺の太刀は藤孝殿の首元、鎖骨の辺りを切り、そのまま身体を袈裟がけに切り下げた。同時に振られた藤孝殿の刀は、俺の右顎の僅かに横を通り、頬をなぞり、右耳を切り飛ばし、そして振り上げられていた。
「やはり……先に殺すべきは倅の方であったか……」
末期にそう一言遺して、当代有数の文化人にして、その生涯を公方義昭様への忠義に捧げた男、長岡藤孝殿は前のめりに倒れた。
「馬鹿を言え、殺すのであれば両方よ。戦うのであればどちらの事も凌ぐくらいの覚悟を決めろ」
三人を切った直後、俺は荒い息を吐きながらそう言った。公方様を刺し殺してから正味十呼吸も経過していない。首尾は、上手すぎる程に上手くいった。
「殿!」
蘭丸が駆け寄り、胸元から取り出した懐紙で俺の右耳を抑えた。
「たてわき! 無事かいな!?」
「見ての通りだ」
走り寄って来た教如に笑いかけた。耳を一つ削ぎ取られた。音の聞こえ方がおかしく右側からはほとんど何も聞こえなくなっている。浴びた返り血の分も合わせ、俺の全身は真っ赤に濡れていた。
「危なかった……教如が現れるのがもう少し早くても遅くてもこうはいかなかった」
早ければ藤長殿が公方様から離れることは無かったであろうし、遅かったならば公方様が答えに辿りついてしまったかもしれない。
礼を言って頭を下げようとすると、軽く意識が遠のいた。膝を突き、項垂れる。
「もう少しで顔持ってかれるところやったんや。少し休めや」
教如が言い、蘭丸が肩を貸してくれた。有難い。だがそんなことをしている暇はない。最低限なさねばならないことは終えた。あとは、ここから次の手をどれだけ迅速に行えるかだ。手にしていた太刀の切っ先を、炎の中に突っ込みながら質問する。
「又左殿と、内蔵助殿は?」
「鬼やな、あの二人。とんでもない槍を振るうとったで」
教如の言葉に、頷く。それでいい。今回の暗殺劇、下手人は寺社勢力だ。寺社に対して強硬姿勢を崩さなかった織田家であるが、公方義昭公と懇意であった京都所司代は織田家の当主である織田信長、そして織田信忠の意向に逆らい、寺社勢力を許し寺社領の安堵を認めようとしていた。日没直前までの話し合いにより両者は合意に達しようとしていたが、その時畿内周辺の僧兵が大挙して本能寺に押し寄せる。彼らは和議の会談を利用し、幕府と織田家、そして本願寺の首脳を一網打尽にし、そのまま織田家に対して反撃を開始しようとしていた。
対寺社穏健派であった公方義昭公は側近と共に戦死し、京都所司代津田帯刀も又、重傷を負う。その他、本能寺に集まっていた穏健派の坊主坊官達がほぼ全員討ち取られる。それが、今回の事件『本能寺の変』で行われた事実となる。
「ホンマに、上手くいったって言えるんか? どこかでぼろが出たりせえへんのか?」
「全ての……矛盾は後に、辻褄を合わせる」
会談に現れた者は殺し、後に俺が用意した人物に『本能寺の変の生き残り』として証言をさせる。生き残りの連中は皆一様に『京都所司代は和議を成立させようとしていたにも関わらず裏切られた』と証言をする。何故本能寺を僧兵の大軍が取り囲むまで織田家が気付かなかったのか、主犯は誰であるのか、それらは全てこれから決める。最後には必ず織田家に非はなく、公方義昭公は寺社の横暴により犠牲となった。という結論を導き出す。調べる人間も証言する人間も当事者も、皆協力しているのだ。どのような結論であろうともでっち上げることは出来るだろう。
「直ちに、紀州征伐を行い、直ちに、四国を制圧する。邪魔者は消した。最早織田が大義を探す必要はない。公方様の仇を討つ。織田が正義、織田が大義よ。真実など誰も知る必要はない。必要なのは歴史であり事実だ。どちらもこれから俺が、いや、織田が書き出す」
言うと、一瞬教如が怯えたような表情を作り、そうして唇を噛んだ。
「織田に……己にとって都合が良いようにか?」
「その通りだ」
笑った。視界は赤く、チカチカと明滅して見えた。
「ジブン……絶対まともな死に方出来へんで」
「だろうな」
言いながら、太刀の切っ先を炎から取り出した。真っ赤に焼けた鉄を、俺は顔の右に押し当てる。肉が焼け、焦げる香り。近距離とも言えない距離の無い場所からジジジジ、という音が脳天に直接響き渡る。出血により朦朧としかけていた意識が無理やりに起こされる。
「止まったか?」
蘭丸を見る。青い顔をした蘭丸がコクコクと何度も頷いた。立ち上がり周囲を見回すと、教如達も皆、蘭丸と同じような表情をして俺の事を見ていた。
「……俺は死なぬ。織田家の為に人身御供となるつもりもなく、織田家を踏み台に天下を奪うつもりもない。生き延びて、必ずや太平の世を成し遂げる」
口の中で、誰にも聞こえないように呟いた。柱が倒れる。本当に逃げなければなるまい。又左殿と内蔵助殿が逃げられたかが気になったが、あの二人も簡単に命を捨てるような人物ではない。生き延びれば褒美の確約があるのだ、這ってでも逃げ出すだろう。俺達は一塊になって走り出し、その場から離れた。
『余に勝ったのだ。必ずや成し遂げられよう』
後ろから聞こえた声に、立ち止まり振り返る。そこには、倒れ伏し動かない公方様の亡骸があった。柱が倒れ、御遺体にのしかかり、その体が焼け焦げてゆく。
「殿、如何なさいました?」
「……いや、何でもない。行こう」
それが、俺が公方義昭公を見た最後の瞬間だった。
その日、元亀五年十一月十一日日没後から、織田家は眠ることなく動き続けた。本能寺炎上の報告を安土にて確認した父は直ちに寺社勢力の討伐を宣言。既に準備万端整えていた兵達を行軍させ、日の出前には各地で戦闘が始まった。
夜が開けて十二日には早くも各宗派の本山が陥落、焼失、放棄という報が次々に届けられ、十四日までに紀伊及び南大和は織田家によって平定される。
紀伊平定に先んじること一日、十一月十三日には父信長が京都に入る。同日、勘九郎は越前にて浅井長政に加賀平定を命じる。主軍は浅井家の二万。援軍大将に惟住長秀が任じられ、蜂屋頼隆、金森長近といった母衣衆から出世した者らも与力に加えられた。総兵数三万。
京都へ入った父は直ちに公方様の死を公表し、その葬儀を執り行った。更に、朝廷より内大臣兼右近衛大将を叙任され、同時に正三位の位階を得る。これに伴い平氏長者に就任する。平氏一門において最も高い位階を持った父は、従三位であった生前の義昭公を超えた。
氏長者の立場を得た父は、武家の統率権を得、即ち征夷大将軍の任命権をも得た。父は未だ幼年の若公様に征夷大将軍は務まらぬと、前将軍足利義昭公の猶子である勘九郎信忠に対し次の征夷大将軍となることを命じる。越前より急ぎ京都へと入った勘九郎は、十一月十五日、紀伊平定の報が入り戦勝に湧く京都にて征夷大将軍となる。就任の際には勘九郎と共に越前より上京した浅井備前守、そして駿河方面に兵を集めていた徳川三河守も共にこれを祝った。平氏長者である父と、その父に任命を受けた征夷大将軍である勘九郎に臣下の礼を取った形だ。
俺はその時大坂にいた。実際に大怪我であったのと、公式上にも奇襲を受けて重症であると発表された俺は、勘九郎の征夷大将軍就任に出席しないことが許された。これにより出来た一日を使い摂津に和泉に河内にと、近隣からかき集められるだけの船をかき集めた。十一月十六日には九鬼水軍が大坂湾木津川口に集結。同日の夕刻には三好討伐の命が下され、総大将を神戸三七郎信孝とする討伐軍が編成された。
十七日、前軍である二万が淡路に上陸、翌十八日にはこれを接収し、淡路は僅か二日で織田の手に落ちる。三好家、そしてその分家である十河家は降伏の使者を出してきたが織田家は足利将軍義輝公殺害と、それ以降の行いをもって降伏を認めず、阿波の三好、讃岐の十河に対し合計六万五千もの大軍でもって攻撃を仕掛ける。この三好討伐軍に対して最初から味方をしていた四国の大名は長宗我部元親と極わずかの小領主だけであり、大半の中小国人衆は国人衆が得意とする日和見と値踏みを行い、出兵要請に従わなかった。
四国のみに限らず、例えば織田と毛利に挟まれた中国東部の国人衆や、北条と上杉に挟まれた関東北部の国人衆など、反覆常ない小勢力は多くいる。生き残りの為に態度を鮮明にしないという方法は決して間違っていない。だがこの時ばかりはその生存戦略が裏目に出る。出家して咲岩と号している三好康長殿の調略により三好家は最早まともに組織だった抵抗を出来なくなっており、織田家の大軍は無人の野を行くが如く悠々と阿波、そして讃岐東部を接収する。その段階で織田に従っていなかった国人領主は悉くが領地没収の憂き目を見ることとなった。長宗我部元親は逃げ出した三好家重臣の追捕等にも奔走するが、まずもって嫡男千雄丸を連れ、三七郎に拝謁することを願った。その後、元親は土佐のみならず四国の案内役を積極的に行い、織田家直臣として認められる。戦後には父を千雄丸の烏帽子親にと頼み、信の字を賜って信親とするなど土佐一国の領主としての立場を固めた。
讃岐の国人領主達と同様に、出兵要請に従わなかった伊予の国人衆も多くがその領地を奪われることとなる。そして、戦国三司の一つ、土佐一条家は当主一条兼定が家老の土居宗珊を無実の罪で殺害したという事件により、労せずして自潰していた。この事件により家臣からの信望を失った一条兼定は、家老である羽生、為松、安並など重臣の協議により強制的に隠居をさせられていた。これはわずか二ヶ月前、九月の出来事であり、織田家にとってもっけの幸いであった。
父は一条兼定に対し、三七郎を養子にするよう迫り、その代わり京都にて隠居料を約した。土佐一条家は阿波・讃岐・伊予三ヶ国の太守となり土佐は長宗我部家に。これらの交渉はこの年の冬の間に全て纏められるに至った。
十二月に入ると、四国は早くも織田に呑み込まれ、残るは領地替えや先に言った一条家の家督についての話し合いだけになった。北陸では加賀一国を制圧したのとほぼ同時に雪により戦闘継続が難しくなり、能登攻めは雪解けを待つことになった。丹波丹後のみならず播磨但馬更には因幡辺りの国人衆は多くがこの状況を見て織田家に協力的な姿勢を見せるようになる。彼らを先手とし、毛利攻略の軍を発する準備も始められた。それでも余力のある織田家は、今度は東、武田家に対して圧力を強めてゆく。武田信玄がかつて天台座主を自称し、父を非難した事を槍玉に挙げ、本能寺の変において裏で指示を出したのは武田家ではないかと文句をつけたのだ。
これは全くもって無理筋ないちゃもんに他ならなかったが、既に平氏長者でもあり征夷大将軍でもある織田家は大義名分作りに困らない立場となっていた。この一冬で織田家が得た加賀・紀伊・大和南部・淡路・四国だけで武田家の総石高を超えており、戦力差はいかんともしがたい。
力押しで一気に戦国を終わらせようとする織田家がこの年最後に行なったのは改元であった。元亀の元号は義昭公の色が強過ぎる。元々元亀という元号を快く思っていなかった父は勘九郎の将軍就任前後から既に朝廷へと働きかけていた。当然費用は全て織田家の持ち出し、公家衆にとっても得することだらけである改元は、朝廷としても願ったり叶ったりの慶事であった。話はとんとん拍子に進み、表向きは朝廷の意向を汲み、その実天下の主が変わったのだと知らしめる改元は何と年内に成し遂げられた。
元亀五年は天正元年と改められ、その天正元年は僅か半月にて暮れた。
こうして、怒涛の元亀五年・天正元年を終えた織田家であったが、これらの出来事の内、俺が活躍したと言えるのは大坂にあって船を用意したくらいまでだ。その時の俺は長岡藤孝殿に耳を切り飛ばされたことを教えておらず、痛みを堪えながら船の差配を取り仕切っていた。それが露見し、父からの厳命を受けた又左殿と内蔵助殿に捕まったのは三七郎が淡路へと出向した翌日のこと。俺は姫君の如くに、静々と揺れの少ない籠で安土まで運ばれた。
対面を果たした席で、俺は父と勘九郎、二人分の睨み付けを食らい少し怯えた。勘九郎、お前は父と同程度の迫力を出せるのだなと言いたかったが言ったらどれだけ怒られるか分かったものではないので口を噤み、『無理をするなと言っただろうが』という一言に集約出来る説教を粛々と受けた。
長引きそうだなと思ったので、俺は『大声で怒られると傷に響く』と言って何とか長時間の拘束を免れることに成功する。言ってやりたいことは山ほどあるのだと口を揃える二人は俺に対して古渡での療養を命じ、俺はそのまま籠に乗せられて故郷古渡に戻り、恭、そして母上に再会することとなる。




