第百八話・帯び刀を抜く時
「では父上、俺は行きます。次会う時までご自愛下さい」
「…………」
「どうしました? 別れ際に憂い顔など、父上らしくもありませんが」
「帯刀よ」
「はい」
「繰り返すが、万が一にも貴様が死ぬようなことがあってはならぬぞ」
「繰り返しますが、万が一にも死ぬようなことにはなりませぬ。決定権は我らに、この俺にあるのです。難しいと判断すれば諦め、倒幕を成せば宜しい。それでも天下は纏まるのですから。何一つ、心配は要りませぬ」
「心配だ、兄上、俺は」
「何が心配だと言うのだ勘九郎」
「肚を決めた時の兄上は頼もしいが、どこか儚いのだ。以前、宗教問答を行った時もそうだった。頼もしかったが、負けたらそのまま消えてしまいそうな儚さがあった」
「はは、よく見ているな勘九郎は」
「笑い事じゃないぞ、心配事だ」
「まあ、多少は心配してくれたら良い。戦場に出向くようなものだ。何もかもが安全とは当然いかない」
「……一切は、貴様の存念次第だ。よく見極め、そして決めよ」
「ありがとうございます。では」
元亀五年十一月十一日、京、本能寺。
「雪か……」
早朝からの雪は僅かにその勢いを増していた。酷く乾いた砂のようなその雪は、掌に乗った瞬間、体温に溶かされ音もなく消えた。
「快晴であればと願っておりましたが」
背が高く、右目の下に傷がある男が言った。赤母衣衆筆頭、前田又左衛門利家、又左殿だ。
「うむ。このような時、父上であれば天候をも味方に付けて来られたが、流石に父上程の天運は我が身に宿っておらぬな」
俺も最早どこに行っても大男と呼ばれるようになったが、そんな俺よりも背が高い稀有な男又左殿は、俺の言葉を聞いて困ったように微笑んだ。
「ですが、これだけ乾いているのであれば濡れる事もありますまい。京の雪は水分量の多い雪となることが多いと聞き及びます。所司代様の天運とて、満更捨てたものではございますまい」
又左殿とは逆側の隣に立つ、佐々内蔵助成政殿。又左殿や俺よりは背が低いが目方では最も重い。みっちりと全身に筋肉が詰まっており、相撲などとらせれば織田家中でも随一の強さだ。
「気を使わせてしまったか、すまんな義兄上」
内蔵助殿を見て、笑いながら言った。今度は内蔵助殿が困ったように笑う。内蔵助殿の正室は村井の親父殿の娘でありハルの姉でもある。加えて、弥介こと大木兼能とも懇意にしており、俺との結びつきは強い。
「織田家への忠勤に感謝する。二人とも、来年か二年後には十万石取りは固いな」
俺が言うと、二人が顔を見合わせた。嘘ではない。二年後には少なくとも紀伊に四国、北陸二ヶ国と中国東部を得ている予定だ。十万石ではなく、一国の主かもしれない。
「もし二年後にそうなっていなければ俺が父上か勘九郎様に直訴しよう。『忠義者に相応の褒美を』とな」
雪は降っているが、空はそれほど曇っておらず、青い色が見える場所も多かった。風が吹いて雪が流されて来ているということでもない。どうにも不思議な天候だ。
「本日は両名とも宜しく頼む」
言うと、二人が深々と頭を下げた。この二人に、今の俺は儚げに見えているだろうか。少しだけ、気になった。
本能寺会談は、将軍足利義昭公主導の下、織田家と仏教徒との間で行われた。義昭公はこの会談において公家衆を一切招くことなく、そして公家衆も、この会談に嘴を突っ込むような真似はしなかった。帝を始めとする公家衆は、あくまで武家と寺社の争いを、武家の棟梁たる足利家が仲介し収めるという見解であった。武家よりも寺社よりも上位にある自分達は高見にて見下ろしている。という立場だ。公方様も又、天下に存在する勢力間の仲介役という立場を護持する為に、最終的には勅命講和としなかった。織田家の態度は傍若無人の一言だ。利害が一致するのならば膝下に組み伏せる。しないのならば叩き潰す。
高野山・熊野三山・根来寺・粉河寺辺りの、最早この講和会議にて活路を見出せなければ滅亡必至な者達は当然出席した。それぞれがそれぞれの本拠地を既に取り囲まれている状況にある為、織田家が認めた僅かな人数を連れてやって来ている。それぞれが十人程度だ。雑賀衆は既に本拠地雑賀城が陥落し、鈴木重秀ら首脳陣も逃げどこにいるのか分からない状態であり、事実上壊滅している。その為代表者との話し合いには及ばなかった。
それ以外でやって来たのは比叡山延暦寺の者達。延暦寺再興を求めやって来た。但し第百六十七代天台座主尊朝法親王はお見えになられず、どこか楽観視している風でもある。
本願寺からは俺が指名した教如が宗巴と、下間頼龍を連れてやって来た。公方様は信良殿や藤賢殿ではなく、股肱の臣たる長岡藤孝殿と一色藤長殿を連れてやって来た。
会談は、代表者とその近習が二名、計三名ずつでと決められた。やって来た勢力は八勢力である為合計二十四名の代表が堂宇にて和議の話し合いを行った。
この会談の内容自体に、取り立てて真新しい点はない。俺は直ちに全山退去以外に道はない。本日の日没までにそれを了承しなければ焼き討ちにする。織田家としてできる最大の譲歩は明日一日。退去の為、準備する時間を与えるのみ。延暦寺再興についてはあり得ぬ。の一言のみで叩き潰した。
高野山の僧侶は聖域という言葉を多用し、仏罰が、末法が、と既に耳にタコが出来ているような話を繰り返した。俺は、存じているがそれが何か? と、まともには取り合わなかった。熊野三山は三山の存続を認めるのであれば寺領は譲ると言い、俺はそれでは交換条件にならないと答えた。織田家が言っているのは寺領の没収と三山の退去であり、ここが最低条件。その退去の最終的な刻限が明日である。最低条件を呑んだ上でもう少し待って欲しいと言うのならば一考の意味はあると答えた。
「本願寺はそのような無体に従うのか!?」
「従うのかも何も、既に従うとるやんけ。ウチらはもう長島に行って長島の戦いで死んだ連中の供養をしとんねん。それに必要な費用やったら織田家が出してくれとるんやぞ。これまでは寺社領で稼いでたもんを、織田家からの小遣い銭で貰うようになったってだけや。やることは変わってへん」
「俗世の者に阿るとは、仏門に帰依する心を忘れたか!?」
「帰依する心を忘れたんと違うわ。王法為本の心を思い出したんや。将軍は足利で、畿内の統治を行っとるのは織田家の所司代はんやろがい。それに従うて何が悪いねんな?」
俺に対して取りつくしまもないと思ったのか、他宗派の者達が教如に噛みついたが、教如は飄々と、顔色一つ変えず受け答えた。
その後も、織田家に従えば仏教の独立性が奪われるであるとか、歴史伝統格式がどうだとか、話は長らく続いた。俺はなるべく体力を失わないようにそれらの話を受け流し、ただただこれまでも述べていた通りの主張のみを押し通した。ここから織田家が引くことは無い。そちらも引かず、明日の朝になれば焼き討ちが始まる。
このような調子であるから話が纏まる筈もなく、日の出からそう時を経ずして始まった会談は午前中に一度、正午に一度、更に午後にも一度と、都合三度の休憩を挟みながら一切の進展を見せないまま、時間だけが過ぎていった。そうして。
元亀五年十一月十一日、申の中刻過ぎ、その時が訪れた。
「外が……明るくなってはおりませぬか?」
間もなく日の入りの時刻となり、外も暗くなりつつあった室内。明かりが灯され始めた頃合いに、一色藤長殿が低く、しかし不思議とよく通る声で言った。
「はて? 外にも提灯を付けさせましたかな? 京都所司代殿」
その言葉を受け、長岡藤孝殿が外を見、それから俺に聞いた。確かに先程までよりも確実に外が明るくなっている。俺は、雪は止んだのだなと思いつつ、いいえと答えた。
「元よりここまで長く話し合いが続くと思うておりませなんだ故。あれほどの明かりは用意が無く」
俺の言葉が、不気味な程空虚に響き、そして、それまでの喧騒が嘘であるかのように空間が静まり返った。そして。
「所司代様! 敵襲にございます!」
まだ声変わりのしていない男子特有の高い声を響かせながら、蘭丸が室内に入って来た。
「敵襲!? 旗印は!?」
「定かなりませぬ! ですが、皆僧形にて薙刀を持ちたる者との事!」
「僧形じゃと」
蘭丸の報告に、驚いた顔を見せたのは公方様だった。藤孝殿と藤長殿が僧侶達を見る。
「おのれ騙し討ちか坊主共!」
「どの者の策じゃ! 叩き斬ってくれる!」
敵襲と聞いた瞬間、素早く壁にかけておいた槍を取り、俺の左右を固めた又左殿と内蔵助殿が相次いで吠える。虎の咆哮が如き声に、僧侶達が一瞬で怖じた。口々に、自分達は知らない。何もやってないと言い訳を始める。
「話し合い何ぞ甘いこと言うとらんと、所司代の首を獲ってまえ。ってなはねっかえり共が暴発したのかもしへんな」
立ち上がり、教如が言う。その言葉を聞いて心当たりがあったのか僧侶達が口々にそうだそうだと言い募る。直後、銃声と共に、タタタタタ、と、矢が壁や木に突き刺さる音が響いた。クンクンと鼻を鳴らす、何か焼けこげるような匂いが漂って来た。
「犯人捜ししとる暇はなさそうやな。京都所司代はん。どこからどないにして逃げたらええねん。それとも戦うか?」
戦うか、という言葉の直後、周囲を見回す。誰もが疑心暗鬼に陥った表情を作り、まともに協力して戦うことなど出来ないということはすぐに分かった。
「正門以外から分散して逃げる。周囲全て取り囲まれていては万事休すだが、纏まって一網打尽にされるよりはまだ良かろう」
既に一座は統率が取れなくなり、三々五々、勝手に散らばってゆく者も多くいた。逆に、別室にて待たされていた者のうちの何人かが、異変に気が付いて集まって来てもいた。
「アカンわ、燃えるのごっつ早い」
障子紙がメラメラと燃える様子を見ながら教如が言い、供の二人と、集まって来た本願寺の者らを纏め、駆け出した。延暦寺の者達が、それとは別の方向へと駆け出す。
「軽々に扱うことが出来ぬものもおる故、又左は本願寺の者らを、内蔵助は延暦寺の者らを追い、可能な限り助けよ」
「ははっ! あ、いやしかし、それでは所司代様が」
「構わぬ、勝手知ったる本能寺だ。俺は公方様と共に裏門から逃げる」
又左殿と内蔵助殿が表情を見合わせる。これでいいのか? という感じの表情だ。
「こちらには蘭丸がおる。心配致すな」
蘭丸の肩を叩きながら言うと、蘭丸が大きく頷き、お任せ下さいと言った。これ以上いてもと思ったのか、そこで二人は頷き、早くも火が炎になりつつある寺の中を駆けて行った。
「お待たせいたしました公方様」
「構わぬよ。逃げるのであれば、そなたと共にが最も安全であろうからの」
さしもの公方様も、この状況においては余裕の笑みという訳にはいかず、素直に俺に応じてくれた。こちらに、と言いながら三人の間を抜け先導する。木造りの床柱に火が燃え移り大きな火柱となりつつある。掛け軸が燃え尽き、畳が灰へと変わってゆく。煙を吸い込まないよう、それでいて外からの攻撃を受けないよう、庭には出ず、廊下の外側を進んだ。俺を先頭に、脇に蘭丸が、後ろには一色藤長殿が続き、公方様を挟んで最後尾が長岡藤孝殿。
「蘭丸と言うたな」
裏門に差し掛かる直前に、公方様が蘭丸に声をかけた。蘭丸が驚き、直立する。皆それに釣られる形で立ち止まった。
「僧兵達はどれ程の数がおった?」
その質問に、蘭丸の目が泳ぐ、俺と視線が合い、どうしたらいいのかという表情を作った。
「直答を許されておる。お答えせよ。何千人いたであるとか、本能寺を取り囲む程度はおったとか、分かる範囲で良い」
俺が助け舟を出してやると、蘭丸は頷き、十重二十重に本能寺を取り囲んでおりまする。と答えた。それを聞いて、公方様が腕を組む。
「十重二十重に取り囲まれては、裏口であろうが正面玄関であろうが変わらぬな。所司代よ。今は危急の時である。ともかく一刻でも半刻でも、隠れられる部屋か或いは隠された逃げ道などはないものか。援軍がやってくるまでの時を稼げれば良い」
ゴクリと、生唾を呑み込んだ。蘭丸が、どうしたらいいのかという表情をしている。暫く考え、ならばこちらにと方向を変える。
「この本能寺を、十重二十重に取り囲むとなると、どれだけの兵数が必要となるものかのう?」
先程と同じ並びで来た道を戻る。戻り始めてすぐに、公方様がそんな質問をした。俺の後ろにいる藤長殿が少なくとも数千と答えた。
「そうよのう。もしかすれば一万、或いはそれ以上となるやもしれぬ」
「それが、如何なさいましたか?」
再び立ち止まり、会話になった。遠く近く、悲鳴と怒号が聞こえてくる。今日一日聞いていた声と酷似している声も幾つか聞こえた。
「それ程の兵を今の京都に入れられる寺社がどこにあるというのか」
公方様がそう言った瞬間、心臓がドクンと跳ねたのが分かった。口が渇き、生唾を呑み込む。
「いずれの寺社も、既に織田家に追い詰められ虫の息じゃ。よもや本山を取り囲まれた寺の者らが、その本山を無視して京都に集結などするまい。となると、いや……」
そのように言った時、遠くから、たいとう! という声が聞こえた。廊下の向こう側に、教如の姿があった。周囲を、血に塗れた僧兵達が固めている。
「石山本願寺ならば……」
そう、公方様が呟いた瞬間、一色藤長殿が公方様を追い越し、長岡藤孝殿に並びかけた。公方様も腰の刀に手を伸ばし、俺は脇差と太刀とを両方抜いた。
「公方様、お逃げ下さい!」
教如の周囲にいる僧兵の数は五名。皆屈強に見える。一色藤長殿も長岡藤孝殿も音に聞こえた達人である。或いは二人で今いる五人を倒すことは出来るかもしれない。だが、もし外にいる万余の兵が石山本願寺の手の者らであるというのならば、いずれ数に押し潰される。
教如達が近づいて来る。俺は、本願寺の僧兵に立ち塞がらんとする二人と、その手前にいる公方様の背中を見ていた。左手の脇差、右手の太刀を握り締める。
「公方様」
公方様を呼ぶ。公方様が振り返る。そうして振り返った胸元に、俺は、
左手の脇差を突き刺した。
「お?」
息が漏れるような声を発した公方様の胸に脇差が突き刺さり、そのまま背中から貫通する。地面とは平行に、あばらの隙間を通して心臓を貫くよう、完全に押し込んだ。そうしてから、左手の脇差を引き抜く動きと同時に、右手の太刀を公方様の首に押し付け、滑らせた。
皮と肉と、太い血管とが切断される感触が手に伝わり、公方様の首から血が噴き出す。返り血を浴びながら、俺は公方様を見ていた。公方様も又、俺の事を見ていた。
「成程のう」
そうして、膝から崩れ落ちてゆく公方様は、どこか救われたかのような、解放されたかのような表情を作りながら、そう呟いた。




