第百七話・感謝祭『夜の部』
「おっ…………ほぉぉ……」
「先に『生臭くてとても食えない出来』と言われているのにも関わらず、ちゃんと大きく一口食べるところがタテ様の良いところだと思います」
「そ、んな風に、ほめ……られても、うぅえ、しくない……」
ハルが背中を撫でてくれる。吐き出した物は手早く袋に纏められて女中達が台所へ。親父殿は『帯刀でも食えなんだか』とか言っている。その、俺が食べられないなら誰も食べられない。みたいな言い方やめて。
「こんな物、食べなければ死ぬ。とでもならない限り誰も食べられませんでしょう」
俺の事をよく知る家臣達は笑い、俺の事をよく知らない与力方々はどうすればよいのか分からず戸惑っている。古左などはそのまま腹筋がねじ切れるのではなかろうかというくらいに笑い転げている。蔵人のように来客の方々に『お気になさらず、いつもの事でございます故』などと言って場を治める程度の分別はないものか。
「確かにこのままではとても可食に耐えられるものではない。鯉の旨煮と言うたが、あれは寧ろ鯉の不味煮と言うべき代物よ」
あっさりとそんな事を言う親父殿を恨めしく思って睨み付ける。俺の表情を受け、親父殿がまあまあと両手を上げて俺を制した。口元を拭ってくれるハルがいなければ親父殿の口にもこれを無理やり突っ込んでいたかもしれない。
「何も冗談や酔狂やお主の苦しむ姿を見たいという思いのみでこのような物を食わせたわけではない。比較して欲しくてのう」
「比較?」
『のみで』と言ったということはその思いも少々は入っていたということを認める事でもありますな。と問い詰めるかどうか悩みつつ、俺は疑問を呈した。
「うむ。おせんよ、あれを」
言われて、女中達がまた別の皿を持って俺達の前に現れた。先程と全く同じ見た目をした鯉の旨煮。香りも同じであるから、同じ調理法をしたのだろう。
「これは旨いぞ。儂も食っておる。食ってみよ」
箸を手渡された。先程食えなかったばかりのものと、全く同じ料理を出されたので少々気味が悪かったが、それでも思い切って箸を伸ばし食してみる。
「どうじゃ?」
「……米に合いますな」
身に臭みが無く、口の中でほろほろとほどけるように崩れてゆく。鯉の身自体は淡泊な味わいであるのか、よく煮汁の味を染み込ませている。濃くしっかりとした味わいだ。
「これと先程の物はほぼ同じ大きさで、同じ場所で育てた鯉じゃ」
旨煮を見る。片手より、僅かに大きいくらいか。
「片方は泥田から出してすぐに調理し、片方は五日井戸で泥抜きをした。泥抜きに必要な日数は二日か三日で良いかもしれぬが、鯉は生命力が強く狭い場所でもそう簡単には死にはせぬ。初めより食用として井戸の底で飼っておけば数年で腕のようにでかく太くなるようじゃぞ」
「成程、泥抜きと調理の仕方を先に周知させておけば、飢饉の際役立ちますな」
俺の言葉に、親父殿がうむと頷いた。珍しい食い物の輸入も、新しい料理の開発も、何も最初から最後まで道楽として行っている訳ではない。伊賀を所領としている間、単純に栄養が足りず死んでゆく子供や老人を何人も見た。皆、懸命に食い物を作ろうと働いてはいるのだ。これ以上彼らに頑張らせることは出来ない。そうして俺はもっと効率の良い農法や、全く新しい作物などを探すようになり、親父殿に協力を求めた。母には何か心当たりがないかと手紙を出し、そうして行き当たったものの一つが鯉だ。
「例の鴨を使った農法は失敗であったからのう、一つ結果を残せてよかったと思うておる」
「意外と手間でしたな」
先程の鯉は、田んぼに放しておけば勝手に雑草を食べてくれる為農業効率が上がり、その上食用にもなるという一石二鳥の方法であった。同じように、鴨を使った農法を教わったのだがこれは中々難しかった。鯉と違い、水に潜れない鴨を田んぼに入れておくとタヌキにキツネにイタチにカラスにと、様々な害獣を呼んでしまうのだ。鴨自身も勝手に田んぼから逃げてしまい、これを防ぐ為に網を用意する必要がある。更に、鴨は確かに雑草を食べてくれはするもののそれだけでは栄養が足りず別に餌を与える必要がある。それにも費用が掛かる。結果、エサ代を支払ってイタチを太らせることになることも多かったようだ。
「鯉農法もまだまだ完全とは程遠いがな。ここは一つ、直子殿のやりように従って、直ちに次のやり方を模索する意外にはあるまい」
親父殿が言い、俺は頷いた。失敗ではなくて学習だと母は言っていた。母には面白い点が沢山あるが、掛値なく尊敬できる美点はその前向きさにあると俺は思う。
その後、親父殿と俺は五畿内の統治や、天下統一後どのように京都や大坂、堺などを中心とした都市圏を運営してゆくべきかなどを、摂津衆の客人らと共に話し合い、そうして夕方日暮れ前に解散した。
「皆満足しておられたか?」
「はい、殿の心尽くしは十分に伝わったものかと」
そうして夜になり、俺は与力ではなく、俺の忠臣・家族と呼べる者らを集めた。
もてなしの会は盛況のうちに終わった。女房衆や古左達当家の数寄者連中に相談をし、それぞれの客人に合わせた物を用意した甲斐もあって、土産の品にも満足してもらえたようだ。嘉兵衛からの報告に、俺は満足し頷いた。
「古左と右近は引き続き弾正少弼殿の監視を頼むぞ。いつ尾を出すか分からぬし、牙を剥かれては或いは食われるやもしれん」
「心得ております。織田家からも津田家からも警戒されているをよくご承知なのでありましょう。弾正少弼様は戦の準備どころか馬や甲冑を売り払い、その金を荒廃した田畑の再開発に充てるなどしておりまする」
「あの弾正少弼様がなさる事とは思えぬな」
古左の言葉に嘉兵衛が続け、確かに、と小さく笑いが起こった。蔵人が、であるからこそ、油断ならぬと呟く。
「今は身銭を切ってでも『織田家の為、天下の為に尽くしまする』と内外に主張することが最も己の為になる行為だと分かっておるのでしょう。松永家は御子息も優秀であると聞いておりまする。下らぬ手落ちで領地を没収されるようなことはなさいますまい」
頷く。蔵人の言葉に古左、右近両名が表情を引き締めた。
「叔父上の事も頼むぞ。あの方を放っておいては知らず知らずのうちに松永殿に引き込まれ片棒を担がされているという結果にもなりかねぬ」
続けた俺の言葉に、引き締まったばかりの一同の表情が緩んだ。
長益叔父上は、古左よりも右近よりも、或いは弾正少弼殿よりも数寄者の才において優れているように思う。頑固なところがなく、敵味方の区別なく良い物は良いと言う。それでいて己の好みがぶれることも無い。今が泰平の世であれば織田家において名を後世に残すのは長益叔父上であろう。だが、だからこそ節度というものは余りない。三介と違い、織田家がまだまだ弱小であった時代や、包囲網を食らいあわや滅亡という時期を体験して来た者の一人であるので軽率な行動は多くないが、それでも相手が弾正少弼殿ともなれば全くもって安心は出来ない。
「……公方様よりの手紙は今もって届くのか?」
引き締まり、緩んだ空気を、親父殿の一言が再び引き締めた。はいと答え、親父殿の表情を見る。深刻そうな様子ではない。だが、口元を真一文字に引き締め考えている様子だ。
「細川家の御当主、右京大夫様と、犬姫様がご婚約成された。帯刀よ、お主はこれをどう見る?」
親父殿が話を変える。恐らく、変えたように見えて本質は変わっていないのだろう。俺の頭の中に、あの人の良さそうな細川京兆家御当主の顔が浮かぶ。
「細川家当主を織田家当主の妹と娶せる事で、織田家の家格を更に上げんとする父上の策であると」
「その際の、細川家が得る利点とは何ぞや?」
「織田家との強い血縁が出来まする。浅井や徳川が朝倉や今川らを食らい大きくなれたのも、ひとえに織田家という巨大な後ろ盾があったればこそ。そして父上は市叔母上と同様に犬叔母上を大切にしておられます。既に往時の力を失いたる細川家としては、これ以上ない良縁にございましょう」
周囲に並ぶ顔を見ると、皆頷いている。最近では軍議の様子を聞かせるようになった蘭丸も、知ったかぶりではなくしっかりと理解しているようだ。勉強熱心であるし、学識が高い者も周囲に多くいる。遠い話になるが、ゆくゆくは家宰や家老となってもらいたいと思っている。
「織田家が、細川家を取り込み、又一枚足利家から衣を剥ぎ取ったと、そのように見ているのだな?」
親父殿が、確認するかのように問うてきた。親父殿は違うと思われるのですか? と逆に問い返した。それ以外にはないと誰もが思う。父上からして、それを狙って行動しているのだ。
「細川家に、織田家が取り込まれたと考えることは出来ぬのか?」
「細川家にですか? まさかそのようなことが」
「あり得ぬことなどこの戦国に一つとして無い」
あり得ないと言いかけたところで、厳しい口調でそう言い返された。
「細川家の御曹司、儂も会うたことがある。人が良く、見目も良く、治世においては人からの受けもよく好青年と評される人物であろう。だが、だからこそ苦労を知らず、何を考えているのかは簡単に読める。乱世においては利用されるばかりの人物。誰もがそう思うであろう。儂もそう思った」
そうですねと答える。空気を読むことは出来ない。だが悪気はない。相手に対して悪意を持って接することも無いので、父上も安心して味方に引き込もうとしたのだろう。犬姉さんからも手紙を貰っている。お忍びで何度かお会いしたそうだ。今は亡き信方とは全く性格の異なる相手だが大丈夫かと問うた。返事には『あれだけ戦の匂いがしない人であれば、戦死して寂しい思いをさせられることも無い』と書かれていた。その一言に心打たれたこともあり、俺は今回の婚儀に対し極めて協力的だ。父の決定を覆す事などそもそも出来たものではないが。
「あの者、右京大夫様の母親は六角定頼の娘、即ち六角義賢の妹じゃ。六角家はこの程の戦いで一族の殆どが討ち取られるか自ら果てた。六角義賢も又首を晒されたが、それを恨みに思っているということはあり得ぬか?」
「あり得ぬ、とは申せませんし、よくある話でもありますが」
叛服常ない戦国の世であるからこそ、怨恨という動機は根強い。だが、親子兄弟親戚に姻戚など、身内で相争い合うことなど応仁の乱を例に挙げるまでもなく極ありふれているのだ。加えてあの信良殿を知る身としては、あのお人が恨みを持って謀略の手先となっているということがどうも繋がらない。
「儂としても、考え過ぎであるとは思うが、考え過ぎてしまう理由が二つばかりある。一つは、あの者が細川京兆家当主であるということ。本当に単なる世間知らずの御曹司が、あの細川家の当主となり得るのか? 世間知らずの御曹司を演じておるだけで、中身は虎や狼ということは考えられぬか?」
「その点に関しましては、だからこそ細川家の当主になったのではと考えております。跳梁跋扈する蟲毒の巣たる都で覇権を争い続け、結果力を落としてしまった細川家であります。せめて家名だけは存続させねばと、次なる権力者に疑いを持たれぬ毒気のない人物を当主に据えたということも考えられませぬか?」
「十分に、考えられる」
俺の反論を、親父殿は深く頷きながら妙にあっさりと受け入れた。少々肩透かしに思いながら親父殿を見ていると、だがもう一つ、と親父殿が指を立てた。
「公方様の狙いが読み切れぬ。公方様は、『鬼にならねば天下は獲れぬ』と仰せになられたのだな?」
「はい」
「公方様は、己が危ない位置にいるようで、その実将軍職に守られていることをよく理解しておられる」
「そうですね」
かつて将軍殺しをした赤松満祐は、討伐軍により滅びた。そして義輝公を滅ぼした三好家は織田家が滅ぼす。皮肉なことであるが、織田家が三好を許さないと言っていることが『将軍殺しの家は滅びる』という先例を強化してしまっている。今織田家が公方様を殺せば毛利と上杉は大喜びで非難し、織田討伐を諸大名に呼びかけるだろう。三好は当然そこに乗る。中国地方東部の諸豪族が敵に回り、織田家が不利になれば武田家は約束や協定など全て無視して攻め寄せるだろう。そうなってくると、織田家とて苦戦は免れない。父の余命について考えると、どうしても公方様を殺すことには二の足を踏まざるを得ないのだ。
だが、それらを全て理解した上で、父上は征夷大将軍足利義昭討伐を断行すると言った。泥沼の争いに引きずり込まれるのではなく、自ら泥に手を突っ込み、日ノ本の諸勢力に『織田か反織田か』の選択肢を強いる。父上らしい、思い切ったやり方であると思う。これが父なりの鬼と成る覚悟である。
「殿の狙いはまず寺社、返す刀で足利将軍家、そして四国に中国じゃ」
恐らく、俺と同じようなことを考えていたのであろう親父殿が言う。そして続けた。
「殿のお考えは分かる。であるのならば、公方様の狙いは何であろうか?」
「公方様の狙い、ですか?」
「左様。まさか思わせぶりに『鬼にならねば』などと言うておきながら、ご自身は何もせず手をこまねいていることなどあり得まい。客観的に見れば追い込まれているのは織田家ではなく公方様であるのだ。放っておけば遅かれ早かれ天下の大勢は早晩織田に決まる。それまでに何か手を打つはず。その手が或いは」
右京大夫。と、親父殿と俺の声が重なった。
「儂の考え過ぎであるという可能性も勿論ある。以前、徳川殿に気を付けよと言うたが、今もって徳川殿は織田家に実直なる同盟者である。儂は元々考え過ぎて結果杞憂に終わることが多い。が、杞憂に終わった方が良い杞憂というものがある。今の場合がそれじゃ。右京大夫様が誠に単なる善人で、織田家が細川京兆家を取り込むことに成功したというのであればそれで良し。そうでないのならば予め対策を打っておかねばならぬ」
「誠に僭越ながら、御隠居様の仰せになられた話が事実であるのならば、狙われておるは殿にございまする」
その時、黙って話を聞いていた嘉兵衛が口を開き、頭を下げた。然りよ、と親父殿が頷く。
「公方様よりの手紙の内容は味方をしてくれというものなのであろう?」
頷いた。手紙の多くは、俺の疑心暗鬼を誘うような言葉を含んでいた。
「我らは、殿がどのような御決断を成されても従うつもりでございますが、今後公方様がどのような策を殿に対し弄するかは分かりませぬ。注意の上にも注意を重ねられませ」
蔵人が言い、そして今日まだ一言として言葉を発していない百地丹波に視線を向けた。百地丹波は何も言わなかったが、しっかりと皆を見回してから平伏した。
「まず考えるべきは本能寺よ。己に不利な状況であると承知の上で、お主を招いておるのだ。我らが思うていたよりも公方様が浅慮にて、深き思惑が無いのであればそれで良し。足元を掬われぬ為には、そうでない前提で動いておくべきよ」
頷いた俺の脳裏に束の間、『うそじゃ』と言い嗤った公方様の顔が浮かんだ。




