第百五話・魔王の決意
「俺の許可を得てからでよいので、寺社との和議の席に出席するようにと、公方から頼まれたのだな?」
安土城に呼び出されてから二日後、俺は築城の為に父が拵えさせた安土城下の屋敷において、父と対面を果たしていた。
「はい。俺が公方様からの誘いをハッキリと断り、織田家の絆に些かの不安も無しと伝えたその直後のことにございます」
公方様との会話を、俺は父に事細かに伝えた。あの時俺が感じた背筋の冷たさや喉の渇き、茶室内の空気感が漏れることなく聞こえるよう、出来得る限りの言葉を尽くしたつもりだ。
別れ際の公方様の態度や口調を父にお伝えし、父がどう感じたのかを教えて貰いたかった。期待する答えは、『さしもの公方も織田家に抵抗することを諦めたのであろう。お前のお陰だ、よくやった』くらいのものである。そうであれば、遂に公方様を降した織田家は最早後顧の憂いなく、内憂に悩まされることなく、詰め将棋の如くと村井の親父殿が表現した天下統一に立ち向かうことが出来る。
「あの公方が天下人たるを諦めることはあり得ぬ。何をかまでは読めぬが、何かを狙っておることは間違いない」
だが、俺の話を聞いてから父が述べた結論は俺の希望とは真反対のものであった。
「あの男こそ足利幕府が遺した末期の悪あがきよ。戦国の世における自分の行動について間違いを認めることがあろうとも、征夷大将軍たることを辞めようとは決してせぬ。織田の天下を目指す以上、決着はどちらかがどちらかの首根っこを抑えつけるか、或いはもっと端的にどちらかの首が刎ねられるか、それ以外にはあり得ぬと心得よ」
父は父なりの公方義昭公についての評価を下し、それから俺に釘を刺した。あわよくば戦いを避けて良い関係を構築したいという俺の思いを見破られたのかもしれない。ははっ、と答え、頭を下げる。
「貴様の言葉を聞き、それまでと口調が変わったのだとすれば、それは天下を諦めてのではなく、決意を新たにしたのだと考えよ」
「決意を新たに、とは具体的にどういうことでございましょう?」
「そこまでは読めぬ。だが『鬼にならねば天下は取れぬ』と言ったのであろう。それが気になるな。何かを暗喩しているような気がしてならぬ」
眉間の前に拳を構え、コツコツと、額に打ち付けながら父上が考える。胡坐をかいた状態で、俺はあの時の公方様の表情や態度を思い出す。余裕の仮面が剥がれ、その内側から公方様の本心が顔を覗かせていた。
「『鬼にならねばならぬ』という言い回しから察するに相当に思い切った、織田家との立場を逆転させるような起死回生の一手であるのかもしれぬ」
読めぬ。と、顔を上げた父からそう言われて、背筋が冷たくなった。織田家以外の勢力が天下を獲る為の起死回生の一手、それこそ俺には父が死ぬこと以外に考えられない。違うとするのであれば一体何があるというのか。
「何をどう狙っているのかが分からぬ。だが、その狙いの対象は誰であるか分かっている。帯刀、貴様だ」
「俺、ですか?」
頷かれた。茶席において俺は終始織田本家との関係について突かれ、畿内の津田家を、ひいては俺に従う織田家武将らを糾合し離反することを求められた。あの茶席においての狙いは確かに俺であっただろう。だが、ハッキリと断った筈だ。
「幾ら断られたとしても、貴様が力を持っているのは事実であるのだ。どうにか味方に引き込もうとはするであろう。三好家と和議を結ぶくらいのことであれば、今でも公方は平気で行うぞ。他に手が無ければな」
後半の言葉については確かにと納得が出来たので、頷いてそうですねと答えた。ともかく油断せず、気を付けろと言われた。
「寺社との和議の席に、俺が出席するかしないか、如何にしたら宜しいでしょうか?」
「身の危険さえないのであれば出席しろ。そして、織田家の条件を改めて伝えるのだ。特に高野山に対しては『一両日中に全山退去』を厳命しろ。一両日中に同意するかしないかではない。織田家は二日後には高野山を占拠する。その際に立ち塞がる者があれば、何人であろうとも排除し、切ると伝えるのだ」
「畏まりました」
頭を下げると、父は『勘九郎には俺からもよろしく伝えておく』と言った。
「貴様が、自分の力が増し過ぎて織田家にとって内紛の種となり得ると懸念する気持ちは分かる。だが、貴様は畿内百五十万石の旗頭とされただけであって五畿全てを領地としたわけではないのだ。そこまで過剰に心配する必要はあるまい」
父が、珍しく優しい声音を出した。抹茶ではなく、乾かして砕いた茶葉を湯で、煮出した茶を俺の湯飲みに注ぐ。ありがとうございますと頷いて頂戴すると、軽く肩を叩かれた。
「ですがやはり俺は心配です。いつか自分と勘九郎が仲違いしてまんまと相争ってしまう日が来るのではないのかと」
「三介や三七郎であるのならばいざ知らず、貴様と勘九郎であれば多少の揉め事があったところで話し合って解決出来よう」
「俺と勘九郎であればそうです。実際に昔からそのようにして参りました。俺は勘九郎が自分に対して無体なことはしないと信じておりますし、勘九郎も俺を信じてくれています。ですが、今後勘九郎の周囲に侍る家臣達が俺を信じるかどうかは分かりません。俺の周囲の家臣達が勘九郎を信じるかもわかりません。そうなった時、俺達は家臣達の言葉に流されて互いを疑ってしまいはしないでしょうか? それでも俺達の世代は良いかもしれませんが、勘九郎の子はどうでしょうか? 俺の子はどうでしょうか? そこに、公方様が介入し、暗躍するとなればどうでしょうか?」
父を責めたわけでもなく、まして勘九郎を責めた訳でもなく、俺は単純に疑問として、そして悩みとして父に思いを打ち明けた。父は黙り、何か言おうとして、しかしやはり口を噤んだ。父の口から言葉が見つからないなどというのは実に珍しいことだ。
「生意気な言葉ながら、父上は俺達倅どもに少々甘すぎるきらいがございます。我が家には我々や、羽柴兄弟等の例外がある故勘違いしがちですが、元々腹の違う兄弟など仲違いして当然なのです。今は仲違いしたところで最後には父上という重しがございます故解決を図れましょう。ですが、三年後にはどうなるか分かったものではありませぬ」
後三年で自分が死ぬと言い切っている父は、『まだまだお若いです』とか『長生きして下さいませ』などという励ましの言葉を嫌う。三年で全ての結果を出す故、お追従の言葉など考えている暇があるのならば動け、ということである。故に、俺も何か発言をする時には向こう三年以内かそれ以後かで考え方を別にしている。即ち父がいるかいないかだ。
「父上がおらぬ世において、公方様はどう動かれるでしょうか? 一度しっかりと話をしてみて、公方様の御人格を多少知りました。公方様は人の心の隙間に付け入ることが上手く、絆や信頼などというものが如何に脆いものであるのかをこの上なく理解しておられる方であると認識しております。あのお方は、危険にございます」
恐らく、生まれ育ちが強く影響していることだろう。公方様の周囲には常に、その存在を利用して立身出世しようと画策する者達がいた。各大名は時に足利を神輿とし、時にあっさりと足利を見限った。そこに『利』があるかどうかによって信頼など簡単に覆る。そこに『疑い』の種を撒けば、絆など脆くもひび割れる。己がされてきたことでもあろうし、してきたことでもあろう。
「勘九郎が美濃に、或いは安土におり俺が京都にいる事も、付け入る隙であると見做されているように感じられます」
「そんなことはあるまい。俺と三郎五郎兄とがやって来たことだ。貴様は勘九郎の名代。隙ではなくむしろ関係が強固である証左ではないか」
「名代ではなく、二頭政治と見做されるかもしれませぬ」
父の反駁は、どこか寂しそうだった。鬼だ魔王だと世間から言われる父は、子供らを始めとした家族に対しては甘すぎるほどに甘い。その息子達が争いあうかもしれないなどと、当の俺の口から聞くのが辛いのであろう。俺も父を悲しませるのは辛い。だが、それでも続けた。
「二頭政治といえば足利尊氏公と弟君直義公の先例がございます。御兄弟は良く協力して難局に立ち向かい、楠木正成公、北畠顕家公、新田義貞公らを次々と敗死せしめました。一時は九州まで落ち延び、何度となく命の危機に晒されながらも最終的な勝利を得られたは誠、兄弟の絆によるものでございましょう。ですが、その御兄弟ですら観応の擾乱においては不倶戴天の敵同士となってしまいました。室町幕府がこの失策から体制を立て直すには、三代義満公のご登場まで待つ必要がありました」
父が唸った。観応の擾乱は、決して単純な兄弟喧嘩ではない。高師直・師泰兄弟の存在、対立する南朝と北朝、それを支持する武家や公家、はたまた武家どうしの確執、様々な要素が複雑に絡み合った結果に生じた内紛だ。だが、尊氏公と直義公の御兄弟が共に最高権力の一端を握っていたという隙が争いを助長させてしまったという事実は間違いのないことであると思う。
「あの公方様が三年以内にぽっくりと逝く、などということはあまり考えられぬことと存じます。ということは、我ら兄弟はこれからも公方様と相対してゆかねばなりませぬ。父上亡き世において、あの、公方様と」
父上ありし三年間の中で、俺達は取り急ぎ織田の領地を拡大させ天下を統一させるだろう。だが、統一した天下はまだまだ安定とは程遠い筈だ。俺達が天下へと駆け上がる三年間は、そっくりそのまま公方様が地下へと根を伸ばす三年間にもなり得る。
「父上、いっそのこと、四国と北陸辺りまでが織田に降った辺りで、俺の京都所司代職を取り上げ、領地召し上げの」
「ならぬ」
俺が言いかけた言葉を、父が強い口調で否定した。
「貴様には何の落ち度もないのだ。何故そのような罰を与えることが出来ようか」
「理由など幾らでも作れます。林のご家老殿と戦って以降、俺が織田家簒奪を狙っているなどという噂は幾らでもありました。それらのうちで最もそれらしい一つを取り上げてそれを理由にすれば宜しいのです」
「そのようなでっち上げなど必要ない」
「父上、俺は何も自己犠牲の精神から、織田家の為に人身御供となりますと言っている訳ではないのですよ。村井家・原田家・津田家。この三家を獲り潰すことなく、俺の子らに跡目を継がして頂けるのでしたら、俺の血脈は織田家に色濃く残ります。同腹の妹である藤は筒井家の正室です。今は人質となっている御坊丸も勘九郎に取り立てて貰えればいずれ一国の主となれるやもしれません。俺は長島辺りに捨扶持を貰い、戦から離れ学問の輩として余生を過ごします」
恭やハルを呼び寄せ、日々心安らかに過ごす。大した贅沢は出来ないだろうが、悪くない過ごし方であると思う。
「それを、日陰暮らしというのだ。俺は二十を迎えたばかりの息子をそのような目に遭わせるつもりはない」
意外と悪くない解決策なのでは? と思っていたのだが父は少々の怒りすら込めた表情で否定してきた。
「父上……」
拗ねたように、父が首を曲げて天井を見ていた。その様子を見て、俺はこの父親を何とも愛らしい人物であるなと、改めて慕った。残り三年の命と定めてより、父はその美徳も悪癖も、これまで以上に分かり易くなり、今までよりもまして『織田信長』となったような気がする。
「お気持ち、息子としては忝く存じますが、出来ぬさせぬと問題を先送りしたところで解決とはなりませぬぞ」
だからこそ、俺は少々厳しい言葉を父にぶつけた。
「父上がご自身の矜持を守り我々息子を守ったところで、父上の余命は最早長くないのです。棚に上げておいた問題を、棚から取り出して解決しろと強いられるのは勘九郎です。庶子ではなく嫡男を、分家ではなく本家を大切に思うのならば」
「公方を殺す」
拗ねるように俺から視線を逸らしていた父が、カッと目を見開き、低い声で言った。
「全てはあの室町の亡霊がおる故に起こることよ。我が目の黒いうちに殺し、幕府に止めを刺す。さすれば問題なかろう。二頭政治であろうが何だろうが、そこに介入し、利用しようとする者がおらねば隙たりえぬ」
そう言った父と視線を交錯させ、情けないことながら俺は少々気圧された。俺を睨み付けている訳でもあるまいに。この辺りの気迫は流石の織田家当主と言わざるを得ない。
「公方様は消せても、天下を敵に回しますぞ」
「構わぬ。その天下を呑み込む為の戦いだ。敵味方が分かり易くなり丁度いいではないか」
かつて将軍弑逆を成し遂げた赤松家も三好家も、将軍家に成り代わることは出来なかった。赤松家は滅亡し、三好家も早晩織田が滅ぼす。戦国乱世とはいえ、あるいはだからこそ、僅かに残った秩序を守ることは重要視されるのだ。下剋上という言葉が有名であるのは、逆説的にそれが滅多に起こりえないことであるからの証左でもある。
「公方は、鬼にならねばならぬと言ったのであろう? ならば俺がなる。元々魔王となった身だ。今更悪名が一つ二つ増えたところで誰も気にするまい」
そうですね。と軽々に言うことは出来なかった。
「暗殺し、病死したことになさるのですか? それとも永禄の変の如く、攻め滅ぼすのですか?」
赤松満祐による足利義教公殺害、所謂嘉吉の乱は騙し討ちであった。永禄の変も、奇襲と言ってよいだろう。どちらも当事者達による大義名分はあったにせよ、その行為が天下に受け入れられたとは言い辛い。
「安土にて討伐令を発する。理由は、俺を暗殺しようとしたから。でよい」
父上が俺の予想を飛び越えて来た。いつもの事と言ってしまえばいつもの事であるが、
「殿中掟書の無視に御内書の濫発、加えて、俺に刺客を差し向けたる事、看過すること能わず。公方足利義昭に将軍たる資格なし。直ちに猶子足利信忠に将軍職を譲り、引退するべし。送る手紙の内容はこのような所だろう」
それで言うことを聞くならば殺さず、聞かないようであれば攻め殺す。安土には徳川や浅井の兵も呼び寄せ、武田にも協力を求める。父はそう続けた。即ち、織田と足利とどちらの味方であるのかを選ばせるということだ。
「以前俺が勘九郎を将軍猶子とし、若公の十五代就任を急がせた時、どういう狙いがあるのか、貴様は聞いてきたな」
頷いた。天下の誰もが、織田弾正忠は誠に公方様の御為忠節を尽くしておられる。と言っていた。父をよく知る者達は皆、そのような筈が無いと首を傾げていた。
「あの頃から考えていたのだ。公方を殺すか、将軍職を引き剥がす。そうして、征夷大将軍職を猶子となった勘九郎に継がせる」
「成程」
あの時父は自信をもって任せておけと言っていた。あの時よりも更に、織田家の力は強まり将軍家の力は弱まっている。
「止めぬのか?」
「止めませぬ。決行はいつにございますか?」
危うい賭けであるとは思う。従わなければ将軍を殺す。と宣言した上で兵を集めるのだ。場合によっては武田も徳川も浅井も味方をしてくれないかもしれない。だが、それも含めて父は丁度良い機会だと思っているのだろう。
「年明けだな。上杉が動けぬ冬の間に終わらせてしまいたい。まずは紀伊の仏教徒共を黙らせる。貴様は予定通り、寺社勢力を屈服させよ。しないのならば攻め落とし、攻め落としたらそのまま三好攻めだ」
頷いた。父がケッケッケッケッケ、と笑う声を、懐かしく感じながら聞いていた。




