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信長の庶子  作者: 壬生一郎
津田所司代編
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第百二話・幕府の残り火

 元亀五年、十一月、京都細川屋敷。



 「ようこそおいで下さいました、所司代様」


 二十代半ばの、少々小太りで明らかに育ちが良く、平和を具現化したような青年に言われ、俺は努めて柔らかく微笑んだ。


 「いえ、京に戻りましたついでに右京大夫殿と茶でもと思ったまでにございます」


 彼は長岡藤孝殿と同族の細川一族が一人であり、同時に藤孝殿とは比べ物にならない高位の人物である。名を信良と言い、細川京兆家、即ち細川本家の人間として育ち、そして今その細川本家の当主となっている人物だ。


 「右京大夫とはまだ気が早うございます」

信良殿の表情が綻び、少々頬が赤らんだ。その信良殿に、いえいえと俺は笑いかけ話を続ける。


 「そこもとは細川京兆家の当主にございます。寧ろ今そう呼ばれていないことが遅すぎる事であると存じますぞ」

 言うと、信良殿の表情がさらに綻んだ。


 室町幕府における三管領の一つであり、摂津・丹波・土佐などの守護職を世襲したこの名門中の名門は、代々当主が右京大夫の職に就くことが慣例として決まっており、その右京大夫を唐名で京兆尹と呼ぶところから細川京兆家と呼ばれるようになった。だが、応仁の乱以降多くの名族が没落した例に漏れず、細川本家も往時の力を失い、今では当主たる信良殿も本来就くべき官位を得られずにいる。


散々にいがみ合って来た将軍家と細川家であるが、再び元の鞘に戻り主従となった。そして今、織田家が官位を餌に取り込みを図り俺がこうして出向くことで関係の強化を図っているのだ。元の名は昭元と言ったが、義昭公の昭の字から父の信の字に変え、更に代々細川家当主が使っていた元の字を使わず良とすることで足利幕府ではなく、織田家に組する意思を示した。


 「但馬の山名や丹後の一色への調略はどうですかな?」


 名族の常として、畿内周辺の大名豪族との繋がりは強い。管領細川家の本家筋を家臣化させることにも織田家の格を上げる意味がある。そして、彼個人が持つ繋がりには天下統一を早める実益がある。この細川信良という人物は、戦には弱く騙し合いも苦手な生まれついてのお坊ちゃまである。だが率直な気質と名族にしては珍しい偉ぶらないという美徳により、交渉人としては優秀であった。


 「正直に申さば、万事滞りなくとはとても申せませぬ。ですが、国人衆や小領主を中心に手紙を書き続けておりますれば、所司代様におかれましては少々お待ち頂きたく」


 この時も、信良殿は問題ありませんともお任せくださいとも言わず、正直に答えた。自分を大きく見せようという気持ちも持ち合わせていないようだ。


 「典厩殿は如何でござろうか?」


 質問を重ねると、懐から取り出した布で丁寧に額を拭う信良殿の姿が見られた。相手の意に沿うことが出来ず、焦って汗を流す。これ程分かり易く『焦る』という行為を具現化出来る人間が他にいるだろうか。戦国の世にあって、非常な、或いは異常な育ちをした貴人なればこそだ。


 「申し訳ございませぬ。典厩めは、忠義に篤く徳の高い人物にて、そう簡単に足利を捨てられませぬ。逆に今は公方様に『大人しく織田に屈しなされ』と説得しておられる様子。ですが、典厩ただ一人、公方様や若公様を捨てて織田の家臣にとは、中々」


 細川藤賢。細川家の分家である典厩家の当主である。代々当主が右馬頭を世襲する家で、京兆家と同様に、右馬頭の唐名が典厩であることから典厩家と呼ばれている。年は既に五十半ばを超えており、先代公方義輝公が義藤と名乗っていた頃に藤の字を頂戴し藤賢と名乗るようになった。賢の字も又、典厩家の通字であり、これだけでも彼がまだ幕府を見限っていないことが分かる。だが、最早織田家が無ければ生活もままならない状態でもあり、順調に切り崩しつつある人物でもある。


 「構いませぬよ、今日明日に決着を付けよという話ではないのです。また明日にでもお伺い致します。大和で良い茶器が出来上がりましたので、明日は是非典厩殿と三人で出来栄えを品評したく存じますが、如何か?」


 叱責はせず、しかし明日また来ると宣言することで、急げよと圧力をかけた。良い茶器を使えるのも織田家があってこそである。そのような意味を含ませた言葉を述べると、信良殿は茶器ですか、良いですなあと顔をほころばせた。いかん、伝わっていない。


 「……本日はお暇致します。また明日」

 そう言って細川屋敷を後にした俺はそのまま馬に乗り、摂津を見、大坂城を見、そうして日が暮れるまでに再び京へと戻った。


 父が京都ではなく安土を天下の中心とする動きを推し進め、勘九郎が本格的に美濃尾張の主となり織田家の次代たる立場を固めているその時、俺もまた拠点の重心を京都から大坂に移しつつあった。


 名目上俺は京都所司代であり、畿内統括者としての立場も得た訳であるから京都を留守とすることは出来ないが、それでもまずもって急務は大坂であるような気がしていた。是よりの戦は、紀伊が終って四国。四国が終って北陸。北陸が終って中国。というような形にはならない。ともかく同時並行で、今四国攻めの準備を進めている。時間をかければ三好勢の体制が固まってしまう。或いは長宗我部元親が独力で四国を切り取ってしまう。先に織田家へと降伏した咲岩入道殿が三好家の兵卒に四国を逃げ出すようにと言って回っている。父は今更降伏したところで三好家の実力者達を許すつもりはない。一兵卒や侍大将程度の者らを逃散させ、来るべき戦いの際に抵抗すら出来なくさせるつもりだ。かつては三好康長と名乗り、天下人三好長慶公を支えた人物であるだけに、確実に動いてくれていた。


 最も重要視しているのは、当然のことながら大坂城内の門徒衆を退去させること。技術を持つものは仕事を斡旋しつつ安土に、単なる力仕事で良いのなら荒廃した河内と和泉に、傭兵として戦うのであればそのまま紀伊に、その他戦うだけの力が無いものなどは長島に移住させている。代わりに大坂には織田の縁故者が入城し、人口そのものは殆ど変わっていない。森心月斎殿は敬虔な仏教徒であるので大坂城内の信者達に喜びを持って迎えられていた。最早、大坂城に籠城すると言っても半分程度は織田ゆかりの者となり、統一的な抵抗などままならないだろう。父の狙いはひとまず成功したと言える。


 「兵部大輔殿と式部少輔殿が、最後の砦か」


 細川屋敷を後にし、日中様々に動き回った俺は、帰って来た屋敷の中で執務をしつつ呟いた。五畿の統治が着々と進んでゆく中で、やはりままならないのは公方様であった。兵部大輔とは長岡藤孝殿の事で、式部少輔殿とは一色藤長殿の事だ。多くの幕臣や親公方派の人物が敗北し、死んでゆく中で、この二人だけは生き残り、武功も立てた。この二人さえ父に従ってくれれば流石に公方様とて手の打ちようがなくなる。若公様を人質に取り、御本人は公方御構に押し込めて、後は亡くなるまで将軍としてのんびりと過ごして頂く。


 「御両名とも、公方様の両腕として頻りに動き回っております。殿の事を味方に引き込もうと、近いうちに自ら出向いて参られるとのこと」

 俺の言葉を聞いた五右衛門が答えた。この二人が頻りに動くというのは中々に面倒なのだ。長岡殿は十兵衛殿と誼が深い。更に弾正少弼殿も旧知である。


 この二人が今更織田政権下の安定した立場を捨てて一か八かの賭けに出るような者達とは思えない。だが不本意ながら、この二人が疑われるとその上役になった俺も疑われている。巷において帯刀脅威論は既に確定した一つの説として流布されている。その裏付けになるような話はまことしやかに広まってゆくのだ。現実味があろうがなかろうが関係はない。『そうだったら面白い』という話があれば野次馬はそこに尾びれ背びれをくっつけながら広めてゆく。迷惑千万な話で、そのような話を聞くたびに父と勘九郎に対して手紙を送っている。事実であろうがなかろうが、俺と父上、俺と勘九郎の間にひびが入ることが最も危険だ。そして公方様の狙いは間違いなくそこにある。


 一色藤長殿は、これらの工作を、最後に残された好機として行っているように見える。長岡藤孝殿は、同じように動いてはいるもののどこか『これだけ使える自分を高く買いはしないのか?』と値踏みさせているように見える。となれば篭絡すべきは長岡藤孝殿であるのだが、油断して会合に及べば最後、次の日にはまるで俺が公方様と手を組んだと既成事実化させられているような気がしてならない。


 「殿、そろそろお休みになられては如何でしょうか?」

 手紙を読み、書き、そして思案に耽っていると五右衛門から控えめな声がかけられた。ここには恭もハルもいない。俺が無理をしないようにと言われているのだろう。


 「大丈夫だ、五右衛門。日が落ちてからも執務に励んでいる故無理をしているように見えるかもしれないが、日が落ちるのが早くなったからそう思えるだけだ。毎日必ず三刻寝ておる。この蝋燭が消えたら眠る故、その方も誰かと交代し、眠ると良い」


 俺がそう言っても、五右衛門は平伏するだけで身体を下げようとはしない。本当に毎日三刻寝ているし、絶対に三食食べている。起きてすぐ、日が昇り切ってから、夕暮れ前。その他菓子を食うこともあるし、今日のように領内を馬で見て回ることもあるのだ。健康には留意していると自負している。


 「心配するな。俺は死なぬ」

 書類から視線を上げ、五右衛門の目を見ながら言うと、五右衛門が何とも辛そうに表情を歪めながら俯いた。忍びには不釣り合いな、雄弁な表情だった。



 恭が死にかけている。



元々体が弱い娘だった。そこに加え、父親の死や俺の生死が分からない時間が長く続いたこと、そしてその期間、妊娠をしていたことが恭の身体から体力をごっそりと奪った。永田徳本先生が面倒を見てくれているが、その先生から『覚悟だけはしておいて欲しい』という手紙が来た。理由を求めると、元々体力が足りていない。そして身体が細い。骨格から小さく細く、生来出産に耐えられるかどうか疑問符が付く体格なのだそうだ。


 手紙を読んだ時には、目の前が暗闇に閉ざされたような気持ちになった。それから毎日、恭の事を考えては胸が痛んだ。恭が出して来る手紙には体の不調など書かれていたことは無く、日々大きくなってゆく腹や、俺の活躍についての話を書き実に楽しそうなのだ。


 一度、勘九郎に直接会って話をする機会があり、岐阜城へと向かった。勘九郎とお話を終えた後、久しぶりに会った恭は腹の子に栄養を吸われ、いつもよりも更にやせ細っていた。俺は恭に対してよく食えと叱りつけ、そして泣いた。誰もいない二人だけの部屋で、死なないでくれ、お前に死なれてはどうやって生きてゆけば良いのか分からない。そんな風に、情けなくも縋りついて泣いた。みっともない夫の姿を見た恭はひとしきり笑った後、『頑張ります』と言ってくれた。


 あの姿を見てしまった俺は、出産の場に立ち会えなくて良かったのかとすら思った。毎日が出産の日に向けての戦いの日々であり、しくじれば死ぬ。俺達が常在戦場の覚悟でいる以上の深く強い覚悟を感じた。そんな場に、ずっと近くで、しかし何一つ役立つことも出来ずに過ごせと言われたら途中で俺の方が病んでしまう。


 思えば、母が出産するまでの経緯を俺は間近で見ていた筈であるのに、女の苦労というものを何も分かっていなかった。母が妊娠した時、俺は待っていれば勝手に弟か妹かが産まれると思っていたが、弟も妹も産まれず、母親が死ぬということだってよくあることなのだ。母体を殺す忌み子とも呼ばれる双子を、母はあっさりと産み落とし、そして二人とも死なせず自分もすぐさま体調を回復させた。しかも後に家督争いなどにならないよう男子と女子を産み分けてもいる。誠に、我が母ながら見事であると言わざるを得ない。


 もう一つ、覚悟を決めておかねばならないことがある。勘九郎に会った後、安土で再び父と会った。安土城築城において、自ら陣頭指揮を執る父は上機嫌で、お前も手伝えと言って来た。俺は一日だけ父と並んで陣頭指揮を執り、勘九郎としたような話をした。勘九郎も色々悩んでおるのだと言われ、分かっておりますと答えた。そう、俺達は全て理解し合っている。しかし、その中に権力や領地といった人一人が抱えるには余りにも大きなものが割り込んでくると、それらの信頼は余りに脆く崩れる。であるから俺はこれからも筆まめに父や勘九郎に手紙を書き続ける。


 帰り際、俺は早速手紙を書いた、父にではなく、勘九郎に。『父上が後三年と言っている意味が分かった』そういう内容の手紙を書いた。元気がないという訳でもなく、急に老け込んだということでもない。だが、あの姿を見ていられる時間はもう長くないのだと、何故だか理由なく確信してしまったのだ。


 「ん……?」


 書を読みつつ考え事に耽っていると、まだ背の高い蝋燭が突然揺れ、そして消えた。暗闇になった室内で苦笑する。


 「五右衛門」

 「火が、消えましたな」


 どのような方法でそうしたのか知らないが、大した技だ。そして、消えたら寝ると言ってしまった手前、五右衛門は本気で俺を眠らせにかかるだろう。


 「恭は岐阜でハルは京都だ。一人寝は寂しいものなのだがな」

 「蘭丸殿がおられますぞ」

 「母上のようなことを申すでないわ、戯けが」


 五右衛門はたまに、唐突な冗談を言う。冗談で言っているのかどうなのかもわからずにいると『冗談でございます』と言ってくる。


 「一人寝にならぬよう、もう一人二人と妻や妾を設けられても宜しいと存じまするが」

 「京大阪に来てからよく言われるようになった。今はともかく、いずれはそういう日も来るかもしれぬ。だがまだ必要ない。妻が二人おり、二人とも気が合う。後妻にあてがわれた女を愛せなければ、その娘が哀れよ」


 夫に愛されない妻は可哀想だ。心から思う。


 「明日は、ここにいれば長岡藤孝殿が来られような」

 「公方様とお会いする日取りを決めると仰せになられるでしょう」

 「ならば、日の出と共に屋敷を出よう。喜三郎と話をし、朝のうちにそれから細川屋敷へ向かう。供を致せ」


 それだけ伝え、眠った。

 



 翌朝、俺は予告通り日の出と共に起き出し、朝早くから原田家の生き残りにして本来の当主喜三郎安友に会った。安友は敗戦の責任を取って蟄居し、そしてそのまま隠居、武士を辞めると言った。余りにも多くの死を見過ぎて嫌になったそうだ。そういうことを言い出す者はよくいる。喜三郎は子供を助けられる医者になりたいと言い出したので、近いうちに永田徳本先生の元へ送ってやることとした。


 そうして喜三郎との話を終え、細川屋敷へ。


 「……お見事、ですな」

 「ほっほっほ、そなたにもそなたの父親にも、情報戦ではいつもしてやられていたからのう。このところ細川屋敷によく出向いているという話を聞き、一か八かでやって来たのよ」


 二日連続でやって来た屋敷には、昨日いなかった細川藤賢がいた。初老の藤賢は心配そうに俺達を見据えながら、話に加わることが出来ず座っている。


 「人一人と会うに、これ程の苦労をするのである、誠、世はままならぬものよの」

 「……仰せ御尤も」


 昨日はいなかったもう一人の客人に対し、俺は深々と頭を下げ、京都所司代、津田文章博士と名乗った。その様子を見て、客人がうんと頷く。



 「公方である」



 征夷大将軍、足利義昭公と、相まみえた。


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