第4話
――俺は、死ななかった。
力いっぱいに閉じた瞼をゆっくり開けると、目の前には呆然と佇む気多崎多聞がいた。
「は?」
「は?」
俺も気多崎も、そんな間の抜けた声を発する。
今、何があった? 何が起こった? 何も分からない。もしかして、俺の右手に異能の無効化能力でも宿ったのか。…いやいや、そんな、有り得んだろ。現実的に考えて。……では、一体、どうして、俺は、生きている?
俺は須世理の方を見遣って、訊く。
「お前……何かした……?」
まず、思い当たるのは須世理だ。須世理が何かしらの魔術を展開して、気多崎の炎を防いだ可能性。だが、須世理はただただ頭を横に振るだけだった。須世理じゃない? では、一体どんな作用が起こって、俺は、須世理は、無事でいられたのだろうか?
「何故、だ……」
ぼそっと、気多崎の声が聞こえた。
「何故、無傷でいられる?」
そして、気多崎は再び炎を放った。一瞬で、俺の眼前は紅蓮に包まれる。だが、熱くなかった。見るからに灼熱の炎を目の前にして、俺は熱いという感覚を持たなかった。
俺は払うように手を振った。――それだけで、炎は霧散した。最初から何もなかったかのように、消滅した。えーと……え? なんで?
「お前! 何者だ!? ただの一般人じゃねぇだろ!?」
「いや、一般人だけど」
「嘘つけ! なら、なんでお前にはこの魔術が通用しない。この魔術の対処法なんて須世理琴音でも知り得ないことだぞ!? それをお前が知っているなんておかしい!」
「いや、知らねぇよ。お前の魔術の対処法とか」
本当に知らない。お前の使っている魔術がどんな神話を基にしたものとかも、すべて知らない。
「なら、何故……。まさか、無意識で俺の魔術を無効化したとでも……っ!? そんな、《オームジ神話》だぜ。中学生の妄想ノートに書かれていた自作神話を魔術として適用させた、俺だけの魔術……俺にしか使えない魔術、なのに……」
……、…………、……。
……中学生の妄想ノート。自作神話《オームジ神話》。
「中学生の妄想した自作神話を魔術に適用した……? そんな、強引なこと……。いや、できなくはないけど、緻密に作られていないであろう中学生の自作神話を、魔術として使うのはあまりにも危険過ぎる……」
俺の背後で、須世理が呆れと感嘆を混在させた声でそんなことを言った。
だが、そんなことはどうでもよかった。俺は、とても看過できない言葉を聞いてしまったのだから。
《オームジ神話》。
それは、俺が中二病時代に製作した神話としても物語としても落第点の妄想録だった。
当時、中二病だった俺は、様々な〝カッコいいもの〟や〝マイナーなもの〟に目を通していた。ギリシア神話、北欧神話、アステカ神話、旧約聖書、新約聖書、クトゥルー神話……などなど、挙げればキリがない。
とにかく、俺はそんな〝カッコいいもの〟や〝マイナーなもの〟が好きだった。
《オームジ神話》はそんな中生まれた。神話などの教養を深めていくと、俺は次第に脳内で妄想し始めたのだ。全知全能の神がいて……云々、と。それらの妄想をノートに書き起こしたものが《オームジ神話》である。
気多崎は炎を扱った。ならば、おそらくその魔術は《オームジ神話》に出てくる火の神《イグニース》を基にしている。あと、夢を見せる神もいる。気多崎が都鳥さんに教えたという悪夢を見せる魔術は、夢の神《ソムニウム》を基にした魔術であろう。
にしたって……あのノートを含める自作小説・マンガは中学校を卒業したのをきっかけに、紐で縛ってゴミ置き場へと捨てたはずなんだが……どうして、気多崎はその《オームジ神話》の存在を知っているのだ? 元より、どうやって俺の《オームジ神話》ノートを手に入れたのだ? まさか、ゴミ置き場から掻っ攫ったんじゃないだろうか。
俺は、高校生になって極力自らの黒歴史を隠してきた。なるべく中学の同級生と同じ高校にならないよう無理して偏差値の高い高校へ入学し、黒歴史時代に製作した神話、小説、マンガ、その他小道具は一切を処分。振る舞いだって、普通の振る舞いというのに徹した。唯一の汚点と言えば、沼名河歌恋に俺の黒歴史がばれたことだ。だが、それ以外は完璧と言っていいほどに俺は普通である。それなのに……今、それが壊れつつあった。気多崎が、俺の黒歴史を握っている。処分したはずのものをこいつが持っている可能性がある。
――完全に処分しなければ。
流布する前に処分しなければ! でないと、俺は世間を歩けないではないか! あまりの恥ずかしさに!!
俺は一歩、足を踏み出した。とにかく、気多崎を拘束して、《オームジ神話》をどこで手に入れて、今どこにあるのかを聞き出さねばならぬ。気多崎が、少し慄き、一歩ほど下がった。
「……お前、何者なんだよ?」
気多崎が言った。俺は、気多崎の質問にどう答えるべきなんだろう。お前の使ってる魔術の基となる神話の製作者だコノヤロー、と答えるべきなのだろうか。いやいや、嫌だよ。わざわざ自分から黒歴史を曝露するなんて、恥ずかしくてできない。今でさえ、恥ずかしさで爆発しそうなんだ。
「何でもねぇよ」
俺は低い声でそう言った。
「一つ、訊く。どこでその神話を知ったんだ?」
「聞いてどうする?」
「殴る」
俺は端的に答えた。
「殴られるのなら、教えねえよ」
答えようと答えまいと、殴るものは殴る。殴る前に、《オームジ神話》の入手経路を聞いたって、後で聞いたって、聞けるのであればどちらでも構わない。
だから、俺はもう一歩前へ出る。――が、俺はそこで後ろから引っ張られる。よって、三歩目が踏み出せない。
俺は振り返った。須世理が俺の服の裾を掴んで離さないのだ。一体、どういうつもりなんだろう? 俺を行かせないためなのか、ただ怖いから傍にいろと言う意味なのか。
「素人の拳で、敵う相手じゃないわ。たとえ、あなたに彼の魔術が効かないのだとしても、敵わない。あなたでは、単純な喧嘩でも彼には勝てない」
こいつは、俺を先へと行かせる気がないのだ。
「気持ちは分かる。でも、だからって無謀なことはしないで」
ああ、須世理琴音はすべてを察したのだろう。俺の言動で、そのすべてを。俺が《オームジ神話》の製作者であると、彼女は察した。でも、お前に俺の気持ちは分からない。これほどの辱め、一体誰が理解する? ここは無理してでも、前へ行くべきだ。これ以上、こんな辱めを持続させるわけにはいかない。したくない! 顔から火が噴き出そうなほど恥ずかしいのに、ここから動くなと言うのか! ふざけるな。気多崎を殴らせろ。そして完全に俺の黒歴史に終止符を打つのだ!
「行かせないから。絶対に、行かせない」
「行かせてくれよ。とにかく、俺はあいつを殴りたいんだ。殴って、俺の黒歴史を今度こそ終わらせる」
とは言ったものの、須世理はさらなる力で裾を掴んだ。そんなに強くつかむな。皺になってしまうだろう。
「……待て、お前」
と、矢庭に気多崎が声を出す。
「今の話から推察するに、お前は……お前が《オームジ神話》の製作者!?」
何を今さら。て、そうか俺は直接的に《オームジ神話》の製作者であることを言っていない。俺の言動を見た須世理がそう言ったのだ。俺はまだ肯定も否定もしていない。でも、須世理の言ったことは正解だ。気多崎は須世理が正解を導き出す力を有していることを知っている。だから、気多崎は断定した。俺が《オームジ神話》の製作者だと。
「だから、なのか……。だから、お前にこの魔術が通じない?」
気多崎がほざく。それに呼応したのは、なんと須世理だった。
「ええ、おそらくそうよ。杵築くんはあなたの使ってる魔術の基になっている神話の製作者。つまり、創造神、主神。その……《オームジ神話》における、主神の性質を得ている。おそらく、《オームジ神話》の主神は他に追随を許さない絶対的なものなのでしょう。主神以下の神のお話に基づく魔術を使用しているから、あなたの魔術は杵築くんには効かない」
つまり、俺は《オームジ神話》における主神・全知全能の神《オームジ》の性質を持っているということだ。
須世理の言い様では、製作者=主神というわけだ。主神たる者、常に最高で最強でなければならない。故に、《オームジ神話》の製作者(主神)には、《オームジ神話》を基にした魔術の一切が通用しない。別に俺に異能を無効化する特殊能力があるわけではなかった。
そもそも、《オームジ》っていう名前はIZUMOを逆さから読ませたOMUZIが由来である。……まさか、須世理はこのことにも気付いているのだろうか? だから、俺に主神の性質があるなどと言っているのだろうか?
「それに、その神話は製作者の名を冠している。だから、製作者=主神の方程式は成り立つと断言してもいいわ。アナグラムを使ってばれないようにしているつもりなんだろうけど、安直なアナグラムだからすぐに分かった」
……やっぱり、気付いていた。しかも散々な言い様だ。し、仕方ないだろう。中学生が考えたものなんだから。
「……、」
気多崎の目が蠢いていた。動揺している証拠だ。
さぁ、どう出る?
《オームジ神話》による魔術が封じられた以上、気多崎は何もできないはずだ。
気多崎は以前、通常の既存の神話・伝承に基づいた魔術を使って須世理琴音を襲ったことがあるというが、結局返り討ちにされている。よって、《オームジ神話》を捨てて普通の魔術を使ったところで須世理により防がれるだろう。つまり、気多崎には為す術がない。
もしかしたら、肉弾戦に持ち込んでくるかもしれない。そうしたらどうする。
須世理曰く、俺では単純な殴り合いでも気多崎に敵わないという。それはつまり、気多崎が武術にも長けているということなのだろうか。それとも、俺が一度も殴り合いの喧嘩をしたことがないと推察してのことだろうか。
まあ、実際、俺は人を殴ったことがない。殴り合いの喧嘩をしたことはない。だから、気多崎とタイマンを張って、勝てるという自信がないのは確かだ。でも、やる覚悟はある。気多崎と俺の実力にどれほどの差があるのかは知らないが、俺の黒歴史に終止符を打つため、はたまた須世理琴音を守るために、俺は自身の拳を奮う覚悟はできている。
――不意に、耳元で須世理が囁いた。
「応援はすでに呼んである。たぶんもうすぐ来るわ。――彼女が来れば、気多崎多聞は何もできない」
よく見ると、須世理の手にはスマフォが握られていた。気多崎の目を盗んでメールでも発信したのだろう。
気多崎の方を見遣る。彼は、何をするでもなくただ呆けていた。いや、もしかすると次の一手を考えているのかもしれない。となると、まだ油断はできない。
それにしても、応援とは誰のことだろう? 「彼女」と言った時点で、女だということは分かった。でも、それ以外は分からない。
――ふと、気多崎の目つきが変わった。動揺により不安定に蠢いていた目はちゃんと定まる。
その視線は、俺を、須世理を鋭く突く。
「そうか。俺は、須世理琴音に復讐ができればいいんだ。そうだ。そうだよ。別に、魔術が封じられたからって、それで悲観になる必要はない。俺は、須世理を殺せればそれでいいんだ」
ぶつぶつ、と。気多崎は呟く。
「殴り殺せばいい」
気多崎は笑った。不気味に不敵に、ニヤリと笑った。
惨憺とした嗜虐的な笑み。
その笑みを見て、俺は自身の背筋に嫌な寒気が走るのを覚えた。それは須世理も同じなのか。彼女はグイッと俺の服の裾を引き、俺を自分の手元に寄せる。俺を盾にするつもりなのか。いや、違う。怖いのだ。俺は背中に彼女のぬくもりを感じた。振り返って見るまでもない。彼女は俺の背中にぴたりと密接しているようだ。――大丈夫。心配しなくても、俺はお前を守る。
自然、拳に力が入る。いざとなれば、須世理を振り解いてでも、俺は気多崎に殴り掛かるだろう。
気多崎がゆっくりと、こちらに足を踏み出してきた。一歩ずつ、リノリウムの床を破かんばかりの力強い足つきで迫る。
「――」
ゆっくりとこちらに迫り来る気多崎の口が動いた。その動きから察するに「覚悟しろよ」と彼は言ったのだろう。そして、口を裂いて笑う。もう本当に悪役だ。その様子は悪役と呼ぶに尽きる。極悪と言ってもいい。決して必要悪とは呼べない。
気多崎は迫る。俺は須世理の前に立ち、なるべく彼女を隠すようにする。
気多崎は敵意ある目で俺を見る。俺はキッと敵意剥き出しで、彼を睨む。
気多崎は近づく。俺は拳を握り、迎え撃つ覚悟を決める。
張りつめた空気が漂う。こつこつ、と。気多崎の足音だけが聞こえる。その音がますます緊張を高めて行った。
そして、刹那――
「――こっち向けよ。出来損ないの魔術師」
と、些か乱暴な言葉が聞こえた。俺でもない。須世理でもない。気多崎でもない。では、誰が言った。
そう――それは須世理が呼んだと言っていた『彼女』だ。そして、俺はこの声に聞き覚えがある。
気多崎が声に反応して、後ろを――病室の入口の方を向いた。
「お前!」
と、気多崎は声を荒げた。
俺にはまだ気多崎が何を見ているのか分からない。気多崎の背が邪魔で、何も見えないのだ。とはいえ、声からして誰かは分かる。気多崎はそいつの名を言った。同じ魔術師ということもあり、知っていたのだろう。
「沼名河、歌恋……っ!!」
須世理の呼んだ応援。それは沼名河歌恋だったのだ。にしても、どうして沼名河が応援なのだろうか?
「まさか、気多崎くんがまだこの街にいたとはねー。そして、まだ琴音のことを恨んでいたとは……って、これはまあ予想通りか。でも、こうやって実力行使に出るのはまさかだね」
「……お前、須世理の味方するのか。お前だって、あいつに壊された人間だろう! なのに、なんで、あいつの味方するんだよ! おかしいだろ! お前にプライドというのはないのか!?」
「ないねー」
即答だった。
「そんなの、持つだけ無駄だもん。そういう無意味に高いプライドを持つから、無意味に嫉妬して、無意味に人を恨むんだよ。大体さぁ、嫉妬して天才になれると思ってるの? 復讐して天才になれると思ってるの? はは。なれないなれない。そんなんで天才になったら、この世の人間みんな天才。いいこと教えてあげようかー。――気多崎くんのやってることって、ものすごーっく無意味なことなだよー」
「……ぁ、あ……。無、駄……? 俺のやっていることが無駄、だと……。そんなはずない! こいつが死んで清々する奴は、俺だけじゃないはずだ! みんなのためなんだよ!? 俺はみんなのためにこいつを殺す。才能の芽を摘んでいるのは、紛れもなく天才なんだ。天才がいるから、他の才能ある者が育たない。目立たない。みんなのために、俺はこいつを殺すんだ!」
何を言っているんだろうか? 俺にはよく分からない。
「はあ」
沼名河が溜息を吐き、そして言う。それはまるで俺の言いたいことを代弁しているようだった。
「何言ってるのか全然分からないよー。そりゃ、確かに琴音に死んでもらって清々する人間もいるかもしれない。でも、同時に琴音に死んでもらっては困る人間だっているわけだよ。そして、あたしとそこのいずもんは琴音に死んでもらっては困ると思っている人間。つまり、気多崎くんは、今この場においてはとても不利。だって、ここにあんたの味方は誰もいないんだからね。ここにいるのは琴音の味方だけ」
「どうして……一体、何故……。沼名河、お前はあいつに壊された。今の助手だっていずれ壊されるに決まってる。それなのに、どうして? お前らはあいつに何の魅力を感じている。どうして一緒にいて普通でいられる?」
「あたしたちは自分のことをよく知っている。自分には才能がなく、どんな努力をしてもそれが実らないということを知っている。嫉妬して、努力して、それでも天才に及ばないのだと知っている。だから、あたしたちは天才への嫉妬は無意味だと悟り、努力が無駄だと悟り、凡才だと悟った。そんなあたしたちだからこそ、天才と釣り合える。つーか元より、友達だから、釣り合うのかな」
「……信じられん。お前らには欲がないのか? 向上心がないのか?」
「向上しても天才には勝てない。努力が報われるのは天才だけなんだからね。普通でいいんだよ。凡才でいいんだよ。その方が楽じゃん。つーか、そもそも努力とかそういうのめんどくさい」
俺と同じようなことを考えているんだな、沼名河よ。そうだ。結局はそこに尽きるのだ。
努力をするのは面倒臭い。嫉妬をするのも面倒臭い。
つまり、
「面倒だから何もしない。努力も嫉妬も復讐も」
沼名河は言った。その通りだと俺は思った。彼女は続けた。
「さ、そろそろいいかなー? あんたみたいに無意味にアツい人、あたし嫌いなんだよねー。というわけで――」
刹那、沼名河が動く。炎を出現させるためか、気多崎が腕を振る。――が、気多崎の魔術が発動するよりも速く、沼名河が右手で彼の執事服の襟首を掴み、左手で右袖を掴む。そのまま、沼名河は華麗な足さばきで、気多崎の懐に潜り込み、彼を背に負う。
「――投げさせてもらうよー」
そして、気多崎は投げられた。
つまり、気多崎多聞は沼名河歌恋に背負い投げをされたのだ。
リノリウムの床に肉が叩きつけられ、痛々しい音が響いた。「がぐぃっ」という気多崎の短い叫喚が聞こえた。
俺の耳元で須世理が言う。
「歌恋は、柔道部に所属しているのよ」
なるほど、だから須世理は沼名河を応援に呼んだのか。
沼名河の綺麗な背負い投げにやられた気多崎は、床に叩きつけられた際に頭を打ったのか、白目を剥いて泡を吹いている。
それにしても俺は見てしまった。沼名河が気多崎を投げたとき、彼女のスカートがひらりとめくれ、俺はその中身を不可抗力ながら見てしまったのだ。
「……あ、ピンク」
呟くと、須世理に背中の肉を抓られた。




