医師たちの日常 Special Karte2
2018年7月某日 横須賀市営公園墓地
代休を満喫していた木曜日、柴田は先輩の命令で無断欠勤しているという唯川のアパートを訪れていた。しかし、彼女が住んでいるはずの一室に誰も居らず、途方に暮れていたところ、そんな彼の様子を見ていた唯川の隣人が、彼女が度々墓地へ行っていることを教えてくれた。
そして今、彼が訪れていたのは、横須賀市街地から離れたところにある「横須賀市営公園墓地」である。公園としての機能も有し、広大な面積を誇るこの墓地の中から、女性1人を探し当てるのは至難の技だった。
「・・・か〜! 暑!」
燦々と降り注ぐ日の光、首もとから吹き出す汗、自身をじりじりと焼く暑さに彼は思わず不満を漏らした。たかが1日の無断欠勤に対して、自分がここまでする必要があるのだろうか。そんな疑問を抱きながら、柴田は広大な公園墓地を歩き回る。
「・・・あっ!」
散策開始から1時間後、柴田は驚きの声を上げる。ついに唯川と思しき人物を見つけたのだ。それは、とある墓の前に座り込んでいる1人の女性の後ろ姿だった。柴田は墓石をじっと見つめる彼女の後ろから近づき、声を掛けようとする。
「・・・?」
その時、彼はとある違和感に気付いた。墓石に彫られている苗字が唯川のものとは異なるのだ。もしや人違いだろうか、そんな不安を抱きながら彼は更に女性に近づく。
「・・・!」
ある程度近づいたところで、その女性が間違い無く唯川であるということを確信した柴田は、相変わらず墓石を見つめている唯川に声をかけた。
「・・・よう」
「!」
唯川は背後からの声に驚いた様子で、ぴくっと体を動かした。しかし、こちらへ振り返ることはしない。
「無断欠勤したらしいね、珍しい。病院はちょっとした騒ぎさ。もしかして首でも括っているんじゃないかとね」
「・・・」
柴田は彼女の無断欠勤が、多くの人々に心配を掛けているということを伝える。しかし、彼女は何も答えない。
「忌引も取らなかったそうじゃないか。いくら何でもそりゃ、ちょっと薄情じゃないか・・・?」
柴田は、身内の不幸があれば取ることが普通であろう忌引すら、彼女が病院に対して申請しなかったことに対して苦言を呈した。彼女はそのことについて特に周りに説明することは無かった為、それがますます、”彼女は薄情者だ”という認識を院内のスタッフたちに蔓延させていた。柴田も、唯川に対してそんな認識を抱いていた者たちの1人だった。
「・・・祖父の葬式は、休日に家族葬で済ませました。周りに迷惑を掛けずに逝きたい・・・それが祖父の遺言でしたから。そして今はここに眠っています」
「!」
唯川は背中を見せたまま、か細い声で答えた。今まで何を言っても何も答えることはなかった彼女が突然口を開いたことに、柴田は少し驚いていた。
「・・・」
沈黙がその場を支配する。いつの間にか日は雲に隠れ、涼しい風が辺り一帯に吹いていた。柴田が言葉に悩んでいると、再び唯川が口を開く。
「私・・・両親が幼い時に亡くなって、代わりに母方の祖父母に育てられたんです。祖父母は・・・特に祖父は、厳しくも私を養う為に老齢であるにも関わらず懸命に働き、私に不自由の無い暮らしをさせてくれました。そして18歳になって、医療職に就くって決めた時、祖父は私にこう言いました。”人の命を救うという仕事を選んだ以上、もし俺に何があっても、お前は自分の使命をやり通せ”、と」
唯川が語った自身の過去、それは彼女が厳格な祖父との間に交わした”1つの約束”についてであった。その内容は、何故あの場で彼女が頑なに祖父の元へ行かなかったのかを物語っていた。
「だからあの時、祖父の元へ行ってもしも患者が亡くなってしまったら、一生”後悔”する。そう思って・・・私は留まることを選びました・・・」
「・・・」
柴田は唯川の話を黙って聞いていた。彼女の口調が徐々にくぐもっていくのを感じる。
「・・・でも! わ・・・たし・・・は・・・!」
「!」
か細くも気丈に振る舞っていた唯川の声が、何かの糸が切れた様に涙声へと変わる。両手で髪を掴み、墓石に向かって顔を伏せながら、溢れ出すように涙を流す彼女の後ろ姿を見ていた柴田は、思わず彼女に近づいた。
「おい! 大丈・・・!」
「・・・!」
その時、唯川は彼の呼びかけに初めて振り返った。柴田の目の前に現れた彼女の顔には、いつもの笑顔は影も形も無かった。凛とした両目からは涙が溢れ、それらが流れ落ちる両の頬と鼻の頭は紅く染まり、両手で掴んだことで髪はぼさぼさになっていた。そこには”悲しみ”と”後悔”の感情がすぐに見て取れた。
(・・・こういう時、田淵先生なら気の利いたことが言えるんだろうな)
後輩の泣き顔を前にして、柴田は動きが止まる。慰めの言葉が出ない自身を省みることで、彼は改めて年長者の偉大さと経験値の重要さを思い知る。
「・・・あの」
数十秒後、柴田は悩みに悩んだ末の言葉を唯川に向けた。
「少なくとも・・・話を聞く限り、君のお祖父さんは君のことを恨んでいないと思うよ。君はお祖父さんの言いつけを守って、あの時手術室に残ったんだから。薄情とか言って悪いと思ってる。だから・・・あの、っ・・・!」
柴田は右手で頭を抱え、左手を空中に泳がせながら、自らの語彙力と文章力の無さを祟っていた。程なくして考えがまとまった様子の彼は再び口を開く。
「・・・オペ看が他に居なかったあの時、君を共済病院へ行かせて、助手無しで手術をするのはやはり無理だった。第一助手の手を借りなければ、乗り越えられない場面が多々あった。恐らく君が居なかったら、あの手術は失敗していただろう・・・。だから、俺が言いたいのは・・・あの事故の日は、俺の側に居てくれてありがとうってことだよ!」
「・・・!!」
柴田が述べた感謝の言葉、普段あまり笑わない、無愛想な変わり者の口からその様な言葉が出たことに、唯川は驚いていた。
「・・・違う! これじゃ何か、告白みたいになっているじゃないか! だから言い換えると・・・ごめん、今良い言い回し考えるから」
柴田はそう言うと、再び右手で頭を抱える。その時、言葉に苦悶している彼の姿を見ていた唯川の心の中に、ある変化が生まれた。
「ふふ・・・!」
「・・・!?」
唯川は、普段口数が少ない変わり者な男が饒舌になって狼狽えている様に、思わず吹き出す。柴田は、なぜ彼女が笑っているのか分からずに唖然としていた。直後、唯川は墓石の前から立ち上がると、柴田の方を向いて彼の目を見つめる。彼女の目から流れ出ていた涙は、すでに止まっていた。
「大丈夫ですよ、言おうとしていることは分かりましたから・・・。ありがとうございます、柴田さん!」
「!」
唯川は微笑みを浮かべる。彼女の顔は普段の勤務中に見せる笑顔と変わらない表情を浮かべていた。
(良かった・・・良く分からないけど、笑ってくれた・・・!)
理由は分からないが、新人看護師がいつもの笑顔を取り戻してくれたことに、柴田はほっとするのだった。
〜〜〜〜〜
現在 リチアンドブルク赤十字病院 待合スペース
「それが唯川さんと柴田先生が付き合うことになったきっかけなんですね」
田原がつぶやく。変わり者の意外な過去を耳にした彼の目は、心なしか輝いていた。
「ああ、そうらしい。実際に彼らが恋人同士になるのはもう少し後のことだけどね。2人は恥ずかしがってあまり詳しく教えてくれなかったんだよ・・・」
神崎は2本目の煙草に火をつけながら、南京で出会った2人の仲睦まじい姿を思い返していた。
「でもその恋人と、捕虜への虐待に何か関係が・・・?」
田原が尋ねる。彼が柴田に対して抱いている疑念は、彼が東亜戦争後に世間を騒がせた“捕虜虐待の医官”では無いかということである、自身の疑問とは全く関係の無いことを説明する神崎に、彼は純粋な疑問を抱いていた。
「東亜戦争が始まった時、柴田と唯川さんの2人を含め数人の医官や看護師たちが横須賀から南京へ派遣された。そこで・・・彼女は亡くなったんだ」
「!」
恋人の死・・・柴田の身に起こった悲運の過去に、田原は驚く。
「戦死ですか・・・」
恋人が敵軍の攻撃によって殺された。確かにそれならば”虐待”も辞さないほどに柴田が”反乱軍”を恨んだ理由も分かる。本来ならジュネーブ条約によって保護・尊重されているはずの”負傷者の救護に当たる衛生要員及び施設”、すなわち軍医・医師、看護師、衛生兵だが、新中国を名乗った人民解放軍の”反乱軍”は度々、明らかに野戦病院を標的とした爆撃を行うことがあったのだ。これが日本国内、そしてアメリカ国内の世論にも火をつけ、アメリカ軍が本格的に支那大陸へ上陸するきっかけの1つともなった。
「違う・・・」
神崎は田原の推測を静かに否定した。彼は再び天井に向かって煙草の煙を吹き出す。
「”自殺”・・・したんだ、彼女は」
「・・・えっ!?」
彼の口から放たれた驚愕の事実、田原は思わず声を出す。
「一体、何で・・・!?」
混乱する田原は彼女が自ら命を絶った理由を神崎に問いかける。しかし彼はそれに答えず、別の話題を切り出す。
「その話の前に・・・順序が逆になってしまったが、前哨戦である”尖閣事変”の話をしないといけないね・・・」
「・・・!」
話の舞台は2019年へと移る。神崎は日本、そしてアメリカをも巻き込んだ「あの事件」について語り出すのだった。
〜〜〜〜〜
2019年1月12日 横須賀市 自衛隊横須賀病院
正月の陽気も覚めやらぬその日、日本中を恐怖と怒りに包み込んだ、あの忌まわしい”事件”・・・否、”事変”が起きた。
『番組の途中ですが、臨時ニュースをお伝えします』
事件の一報が日本中に届けられたのは午後2時、ほとんどの人々が勤務中だった為、事態に気付いたのがそれから2〜3時間後だった人もいたという。
彼もそうであった。一般人にも開放された全国の自衛隊病院にはそれまで以上に多くの患者たちがやって来る。そんな人々を診察している最中に、同僚の武崎が血相を変えて、柴田が居る診察室に飛び込んできたのだ。
「おい、柴田! お前の出身、石垣島だったよな!?」
「・・・!?」
武崎はただ成らない雰囲気を醸し出ていた。柴田の元を訪れていた親子も、不安そうな表情を浮かべている。
「今・・・テレビで・・・!」
「・・・!?」
武崎は息を切らしながら、今、日本に何が起こっているのかを柴田に説明した。彼の言葉を聞いた柴田は、業務を放りだし、テレビが設置してある待合所へと走った。
待合所のテレビの前には、すでに患者の人だかりが出来ていた。第2次世界大戦が終結して70年以上、他国からの戦火を浴びることなど無く保たれてきた”平和”に終止符が打たれたその歴史的瞬間を、人々は衝撃と恐怖の表情で眺めていた。
柴田と武崎の2人は人混みを強引にかき分けてテレビの前に向かう。白衣を着た医者が患者に対して少し乱暴な行動を取ることに対して、怪訝な目線を向ける者もいたが、今はそんなことを気にしている場合ではなかった。
『石垣、宮古の2島に中国艦隊から発射された対地ミサイルが着弾したとの情報が入って来ております!
着弾したミサイルの数は現在確認された情報に依りますと7発。民家群にも直撃し、犠牲者も多数出ているとの情報も入っています!』
「・・・!」
2人はテレビの前に立つ。アナウンサーの言葉を聞いた柴田は呆然とした表情を浮かべていた。
「おい・・・、大丈夫か?」
武崎の問いかけに柴田は答えない。故郷・石垣を襲った悲劇、それを目の当たりにした彼の心には、武崎の声も周りの喧騒も何も届かない。
石垣島の親族から、彼の両親の死亡が伝えられたのは、それから間も無くしてからのことだった。
「日中尖閣諸島沖軍事衝突」・・・中国の武装船による海上保安庁への攻撃と尖閣諸島上陸に端を発したこれは、海上自衛隊と人民解放軍海軍の初の軍事衝突に発展した。
最終的にこの局地戦闘は、在日米軍の介入によって1週間後に終息した。人民解放軍海軍は在日米軍の参戦後、直ちに退却したため、経済の失速により増幅する中国国民の不満不信を抑えるための中国共産党による一種のパフォーマンスだったとも、または南京軍区の独断だったとも云われている。
しかしこの後、日本と中国は国交が断絶。最大の貿易相手国を失った日本政府は、1番の懸念であり、国民の不安が爆発寸前だった国内の食糧事情を、アメリカやオーストラリアからの食糧輸入量の大幅な増大と、国家的プロジェクトとしての大規模農業生産を行うことで、何とか切り抜ける事となる。
経済については、一時的にリーマンショックを越える損失が出たが、中国に生産拠点を置いており、国交断絶によってそれらを失う羽目になった車メーカーなどの大企業が、日本政府の一時的な援助を受け、それら失った生産拠点を埋め合わせる為の工場を日本国内に建設・開業し、これら失業者の受け皿となった為、程なくして落ち着いていった。
またこの事件をきっかけに、日本国民の意識は大きな変貌を遂げることになる。世論の大幅な右傾化により、憲法9条第2項の改正、自衛隊の国軍化が成されるまでは、さして時間はかからなかった。
しかし一方で、中国側にとってもこの事件で得た利益などほとんど無かった。故に人民解放軍上層部には、この軍事衝突の結果に納得せず、日本に対して更なる軍事行動を取るべきだと唱える者たちが多くいたのだ。しかし、米国との全面衝突を避けたかった中国共産党はそれら過激な要望に対して、一切首を縦に振らず、むしろ軍の声を押さえ込む姿勢を取ったのだ。
その結果、同年12月、更なる衝撃の事件が幕を開ける。人民解放軍の主力の大部分を有する”瀋陽軍区”が主であるはずの”中国共産党”に反旗を翻し、北京への侵攻を開始したのだ。後に「中国内戦」と呼ばれるこの紛争によって北京軍区は敗北。中国共産党は北京を追われ、チベット・成都へ逃れて「成都臨時中央政府」を樹立。反旗を翻した瀋陽軍区、及びそれに合流した軍区を「反乱軍」と位置づけ、チベットに保管されている”核”を盾に抵抗を繰り広げることになる。
内戦勃発から3年後の2022年11月、北京を掌握し、チベット・成都軍区や東トルキスタンを除く中国全土のほぼ半分を支配下・同盟下に置いた反乱軍は、北京を首都に定めて「新中華人民民主共和国(新中)」の建国を宣言。同時に瀋陽軍区と深い関係を持つと言われていた北朝鮮との同盟関係を明らかにした。その後、新中・北朝鮮同盟は周辺諸国のベトナム、フィリピン、日本、台湾、韓国に宣戦布告。これにより”大東亜”は再び、戦火渦巻く戦乱の地と化すことになった。
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現在 リチアンドブルク赤十字病院 待合スペース
柴田の身に降りかかった第一の不幸を知り、田原は当時の彼の心中を察していた。
「・・・まさかご両親も亡くされていたとは。・・・ん? では先生はそれが原因で、例の凶行に及んだのですか?」
田原の問いかけに対して、神崎は再び首を横に振る。
「いや、そうじゃない。南京に来てからの彼は、私情を挟むことなく”反乱軍”の捕虜もちゃんと治療に当たっていたよ。言わば”両親の仇敵”を治療することに関して思うところもあっただろうが・・・、”両親を殺した者たちと、ここに来る者たちは関係無い”と言っていた。彼は反乱軍を”団体”ではなく”個人”と見ていたのさ。だから、捕虜に対して恨みを向けることはしなかった。だが、そんな彼の意識を変えてしまったのは、その後の”悲劇”だ」
「・・・?」
何時まで経っても答えが見えない神崎の話に、田原は疑問を抱く。その後、話は2023年の「東亜戦争」へと舞台を移す。
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2023年10月 ユーラシア大陸 南京市 戦場病院
東亜戦争勃発から10ヶ月後、紛争地における被災者支援を組織の標榜とする「赤十字国際委員会」は、東亜戦争における戦争被害者の救済の為、「多国籍軍」が上陸した大陸沿岸、及び沿岸よりやや内陸の各主要都市に医療施設を設置して医療従事者を派遣、同時に日本を含む各国の赤十字社や多国籍軍の各軍からも、各施設へ医療従事者が派遣されることとなった。
そして此処「南京市」にも、戦場病院が設置されていた。
「うう・・・」
「痛い・・・助けてくれ・・・!」
「爆弾が・・・襲って来て、足を・・・!」
負傷患者たちがうめき声を上げる。今日も此処には、負傷した大勢の者たちが運ばれて来る。13億人が住まう国が戦場となっている。故に、東亜戦争における犠牲者の数は、それまでの地域紛争を大きく上回るものとなっていた。
初めこそ奇襲に近い一方的な開戦によって、押せ押せの勢いで周辺国の領土を占領していった「反乱軍」だったが、元々クーデタによる政権故に、地盤が脆弱で北朝鮮を除く海外との繋がりも無い彼らは、米国を主体とする「多国籍軍」が本格的に参戦すると、物資の枯渇や、本来の戦力に見合わない多方面への進出も祟って、瞬く間に劣勢になっていった。
彼らが切り札としていた「北朝鮮の核」は、北朝鮮側が出し惜しみした上に、主要なミサイル発射施設が米軍による爆撃を受けたこともあり、最後まで使用されることは無かったとされている。元々、反乱軍と北朝鮮との間には目的や認識の相違があり、開戦から日が経つにつれて早々に”負け戦”を感じていた北朝鮮は、核を自分たちだけの盾、及び敗戦後の協議における切り札にしようと考えていたようだ。
故に、この時すでに切り札も失っていた反乱軍は、勢力範囲を大きく失っており、南京は多国籍軍の配下にあった。しかしそんな街でも、反乱軍やその残党によるゲリラ戦闘やテロ行為が後を絶たず、双方、そして民間人に大きな被害を出していた。
「・・・」
病床に並べられる反乱軍兵士たち。柴田が捕虜として病院に連れ込まれた彼らに触れて思ったのは、彼らは自分たちと”同類”であるということだった。
上からの命令で、無茶なゲリラ戦や自爆テロに近い攻撃にかり出される。そんな彼らの姿は、防衛省からの命令書1つで、危険な”大陸”へと派遣されている自分たち自衛隊員と通ずるものがあると彼は考えていた。
彼らのうわごとに耳を傾ければ、人の名前を呼んでいる。それは味方側の多国籍軍の兵士も同様であった。敵味方関係無く、彼ら1人1人に家族がある。その家族の元へ彼らを帰す。それがここでの使命だと彼は考えていたのだ。
「・・・ここでこうして落ち着いていられるのも、彼女のおかげかな」
そうつぶやく柴田の視線の先には、自身と同じように負傷者の経過観察を行っていた1人の女性看護師の姿があった。肉親を亡くした悲しみ、そして敵への恨み。それらに囚われ、軍事衝突以降しばらくは普段の業務にすら支障を来していた彼を救ったのは、恋人であり、同じく肉親を亡くしていた唯川亞里砂の存在だった。
毎夜毎夜、自宅の中で生気を失っていた彼に、彼女はいつも寄り添っていた。彼女は背中から彼を抱きかかえると、優しく彼に語りかけた。
”貴方はあの時、私を救ってくれた。だから今度は私が貴方を救う番。親の代わりにはなれないけれど、私は貴方の傷を癒したい。だからいつでも頼って欲しい。私は貴方の前から消えはしないから・・・”
彼女の優しさと言葉が、理不尽に肉親を亡くした悲しみと恨みから彼を再生させた。唯川の存在は、まさに彼の”心の一部”となっていた。「日本赤十字社」所属の総合内科医である神崎志郎が2人に会うのは、柴田と唯川が南京へ派遣されてからしばらく後のことだ。
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現在 リチアンドブルク赤十字病院 待合スペース
「殺伐とし、治安も崩壊している都市の、設備も碌なものがない病院で、彼女は笑顔を絶やすことはなかった。彼女の存在は、もちろん柴田にとっても、そして俺たちにとっても、精神的に大きな支えになっていたんだ」
戦争の記憶・・・その忌まわしき過去すらも、和らげ、懐かしき思い出に変えてしまう程の存在、神崎は柴田ほどではなくとも、唯川に”依存”していたことを改めて自覚していた。
「そのまま2ヶ月ほどが過ぎ、彼ら2人は派遣期間を終えてそのまま日本へ帰るものだと思っていた。・・・あの”事件”さえ、無ければ!」
「・・・!」
田原は過去を語る神崎の声質が、突如変わったことに気付く。彼の右手を見れば、腱が浮き出し、持っている煙草を握りつぶすほどの力が入っていた。
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2023年12月9日 夜 ユーラシア大陸 南京市 戦場病院
月の光が静まり返った南京の街に降り注ぐ。月の光は戦争も平和も、変わることなく照らし続けていた。インド軍の参戦によって勝敗が確定し、この時すでに反乱軍(新中)の降伏まであと2ヶ月を切っていた。すでに南京、上海、大連、寧波を初めとする各主要都市からは反乱軍の勢力はほぼ掃討され、各都市の治安は回復しつつあった。
そしてこの日、柴田と唯川をはじめとする横須賀から派遣された医官や看護師たちは、派遣期間の終わりをついに3週間後に控えていたのだ。
「・・・」
柴田は自身に割り当てられていたベッドに横になっていた。彼は間も無く任務を終える。柴田は窓の外を眺めながら、ここまで命の危険も無く、無事に業務を行えて来たことに対して、一種の感謝の感情を抱くと共に、今までの出来事を思い返していた。
運び込まれて来る患者たち、その中には多くの捕虜たちがいた。もちろん彼らの中には、非戦闘員である自分たち医療団にすらも、当を得ぬ罵倒を述べる者が少なからず居た。ただ、多くの者たちは、退院して収容所に移される際には頭を下げ、礼を言って去って行った。
命の恩人に敵も味方もない。それは”反乱軍”だろうが”多国籍軍”だろうが同じことなのだろう。そんな思案に暮れている彼の元に、1人の男が血相を変えて現れた。
「トモカズ、大変だ! ユイカワが消えた!」
「・・・何!?」
男の言葉に柴田の顔色が変わる。彼の同僚で、アメリカ陸軍から派遣された軍医であるベンジャミン=リチャードソンが持って来た知らせ、それは、唯川が就寝前にトイレへ行ったきり、この時間になっても宿舎に戻ってきていないという”異常事態”だった。
戦場病院 屋外
程なくして病院外へ集まった医療スタッフや多国籍軍兵士たちは、行方不明となった看護師を探す為、病院となっている建物とその周辺の捜索を始める。
「居たか!?」
「いや、こっちは違う! 反対側も探そう!」
「俺は薬品庫の方へ行ってみる!」
捜索に参加している医療スタッフや兵士たちの声が、夜の街にこだまする。
(一体何処へ・・・? 無事なら良いが・・・)
捜索隊の1人である神崎は、懐中電灯を片手に建物の裏手を歩き回りながら、同僚の無事を心から祈っていた。
病院から300m 公園跡
反乱軍と多国籍軍の戦闘によって荒廃した公園跡、本来なら市民の憩いの場であるはずのそこは、遊具には銃撃の跡が残り、草木は枯れ果て、地面には瓦礫が転がっていた。とても子供が遊べるような状況ではない空間、柴田は懐中電灯を携えて、そこを訪れていた。
「・・・薄気味悪い」
誰も居ないその空間で、彼はぽつりとつぶやく。万が一にも近くに反乱軍ゲリラが居ては大変だ。そんな恐怖に囚われた彼は、すぐさま公園を出ようと足を反転させる。
その時・・・
「・・・?」
公衆トイレの方から声が聞こえる。否、これは声というより”叫び声”であった。そしてその声に、彼は大いに聞き覚えがあったのだ。
「亞里砂・・・!」
声の主、それが誰か気付いた彼は、懐中電灯を投げ捨てて声が聞こえて来る公園内の公衆トイレへと走る。
(そんな・・・そんな、そんな! まさかまさか、まさか!)
柴田は平常を失っていた。祈る彼は程なくして彼は公衆トイレへたどり着いた。
「亞里砂・・・!」
「!?」
「・・・」
彼が目にしたもの、それは3人の男と1人の女。そして栗の花の臭い・・・
その後のことは、彼の記憶にはない。
「・・・おい、落ち着け! 止めろって!」
「・・・!」
神崎に羽交い締めにされ、我に返った彼の目に飛び込んで来たのは、鼻から血を吹き出して床に倒れ込んでいる下半身を露出した3人の男と、彼らと同じく半裸状態になりながら、虚ろな目をして仰向けに倒れている彼女の姿だった。
〜〜〜〜〜
現在 リチアンドブルク赤十字病院 待合スペース
「それって・・・!?」
田原は愕然とした表情でつぶやく。神崎はしわくちゃになった煙草を脇に置いていた灰皿へ押しつけると、悲痛な顔で口を開いた。
「・・・犯人の所属は、彼らが身分を証明できるものを何も持っていなかったから実際には分からなかった。ただ状況的には、反乱軍側のゲリラである可能性が1番高かったのは、まあ確かだ」
神崎は事件の結末について説明する。唯川に起こった惨劇、柴田に起こった悲劇、それについて述べる神崎の心にも、ざわつきが起こっていた。
「それ以降彼女は口も聞けず、ものも食べられなくなった。まさに”生ける屍”さ・・・。柴田は精神科医も持っていたから、彼女にあらゆる治療を行ったんだが・・・。命が戻ってくることはないように、死んだ彼女の心を呼び戻すことは出来なかった。そして・・・」
神崎は言葉を飲み込むように話を一度切ると、3本目の煙草に火を付ける。それを口に咥えると、再び口を開く。
「事件から3日後、彼女は自ら命を絶った。”笑顔”を取り戻すこともなく・・・!」
神崎は”結末”を語る。平常を粧う彼の横顔の奥に、田原は底知れない悲しみを感じていた。
「・・・柴田先生は」
「荒れたよ・・・、彼女が亡くなってから3日間ね。だが・・・」
含みのある表情を浮かべながら、神崎は悲劇の続きを語り始める。
〜〜〜〜〜
2023年12月15日 夜
野戦病院のスタッフたちが宿泊している宿舎2階の一角に、1人の看護師が自ら命を絶ったあの日から叫び声と泣き声を上げ続ける男が居た。
「何で・・・、何で何で何でだ!!」
髪を掻きむしりながら、男は叫ぶ。彼は本来の業務を3日も放棄していたが、周りの同情もあり、それについて苦言を呈されることは無かった。
(君は・・・いなくならないって言ったじゃないか! なのに!)
彼の記憶の中には、恋人が遺した言葉が何度もこだまし続け、それに反応するように、3日前に目にした”彼女”の首つり遺体の映像が何度もフラッシュバックしていた。彼は三日三晩、心の支えを失った苦しみに苛まれていたのだ。
「彼はまだ落ち着かないのか・・・」
宿舎の1階にある給湯室では、三日三晩絶え間なく聞こえる叫び声と物音に、この病院に所属するアメリカ陸軍軍医のベンジャミン少佐が苦言を呈した。
「・・・致し方ない。唯一無二の心の支えを失ったんだ」
神崎はコーヒーを片手に答える。彼の言葉にベンジャミンも”確かに”といった感じの表情を浮かべる。果たして柴田は立ち直れるのだろうか、そんな予感と不安が2人を覆っていた。
「・・・?」
その時、突如音と声が止んだ。
「・・・おい・・・!?」
「!」
神崎の呼びかけにベンジャミンは頷く。直後、最悪の想定を思い浮かべた2人は急いで2階へ駆け上がった。そして2人は柴田の前にたどり着く。神崎は呼吸を落ち着かせると、扉に向かって話しかけた。
「おい! ・・・しば」
「!?」
呼びかけと同時に部屋の扉が開いた。2人の前に姿を現したのは、先程まで正気を失っていた男である。
「・・・大丈夫か?」
突如様子が変わった同僚の様子を不安に思った神崎は、柴田に”正気なのかどうか”を尋ねた。
「ああ、心配要らない」
先程まですさまじい形相で泣き喚いていたのにも関わらず、柴田はけろっとした表情を浮かべていた。
「すまん・・・明日から仕事に戻る。迷惑掛けたね」
彼はそう言うと、何事も無かったかのように2人の横を通り過ぎて行く。
「・・・!??」
神崎、そしてベンジャミンは豹変した柴田の様相に、得も言われぬ恐怖を抱くのだった。
〜〜〜〜〜
現在 リチアンドブルク赤十字病院 待合スペース
「三日三晩悲しみ続けた彼は、3日目の夜にいきなりぴたっ・・・と落ち着いてね。その後は涙を見せることなく、残り任務を終えて他のスタッフと共に日本へ帰っていった」
神崎は”その後”を語り始める。
「俺はその後もしばらく南京に残っていたんだが、彼が帰国して1週間後くらいのある時、一部の患者たちの様子がおかしいことに気付いたんだ。戦闘から来るストレスによって精神的な障害を発症している患者たちの症状が、著しく悪化していることに・・・。俺はそのことを上に報告したんだ。それが切っ掛けだった・・・!」
「・・・!?」
神崎の口調が再び変化していく。同時に彼は手に持っていた煙草を、再び握り潰していた。
「俺が報告した患者たちは皆、柴田が病院に復帰してから帰国するまでの2週間の間に、彼が治療を担当した者たちだったんだ。外科医として外傷はもちろん、精神科医としての精神面の治療も含めてね・・・」
「・・・!」
「彼はシェルショックやPTSDに罹った捕虜たちを優先的にターゲットとして、その”精神状態”を故意に悪化させたんだ。彼女の”心”が殺されたように・・・。彼の担当になった捕虜たちは、体の傷は治っても、心に回復出来るかどうかという程のダメージを負っていた・・・」
「・・・な」
神崎より語られた真実、それは田原の心に暗い影を落とす。一時期、誌面を騒がせた”医官による捕虜虐待”とは、1人の医師に降りかかった度重なる悲劇と、全てを奪われた怨恨の末に成された”悲しき凶行”だったのだ。
「・・・でも、それが柴田先生のせいだということを立証するのは極めて難しいのでは・・・?」
田原は1つの疑問を呈する。身体的な虐待ならば、目撃証言なり防犯カメラの映像なり出れば確定的な物証となるが、暴力に依らない精神的な虐待となると、物証で立証するのはかなり困難だろう。
「・・・彼は日本に帰ってから、”捕虜を精神的に虐待したか否か”を防衛省の上層部に尋問され、そして自分で認めたらしいんだ。降格処分にされたのはその後のことだよ」
「・・・! それがゴシップ誌にリークしたと・・・」
「そういうこと。正確には、元々捕虜を虐待した医官が居るという噂が立っていた所に、理由不明の降格処分を受けた医官が現れたという感じだったが・・・まあ状況証拠から、確実だと言える」
神崎は再び握り潰してしまった3本目の煙草を、灰皿に擦り付けながら答える。
「どの誌面にも、彼の”異常性”が過剰な脚色の元に描かれ、”唯川の存在”は一言も書かれていなかった・・・。彼の行為は与党や自衛隊に対する攻撃材料にも使われてね、“大陸から帰還する隊員には英雄しか居ない”という方針を固めていた防衛省や政府はその事実を認めることはなかったが、世間は右左関係無く、疑惑の医官に対して壮絶なバッシングを浴びせた。彼が日本に帰りたがらないのはその為だ。だから1年前、彼が日本へ帰って来たことを知った俺は、責任を感じて彼を”日赤”に誘ったんだ」
神崎は、柴田が海上自衛隊から日赤へ身を移した経緯について述べる。”リチアンドブルク赤十字病院勤務”は、自分が提出した”報告”の為に、柴田が自衛隊内での居場所を失ってしまったことに大して責任を感じていた神崎から、せめてもの”贖罪”として持ちかけた話であったのだ。
「確かに彼のやったことは許されることではない。でも誰も彼を責めることは出来ないと思っている。あいつは今は落ち着いている様に見えるけど、やっぱりまだ傷を抱えているんだと思う。勝手な想像だがね。だから俺は唯川の代わりにはなれないけれど、可能な限りあいつを支えてやりたい」
神崎は持論を述べる。
「俺・・・柴田先生の事を誤解していました」
田原は柴田に対して常に猜疑の眼差しを向けていたことに、申し訳ない気持ちを抱いていた。
「いや、君は間違っていない。・・・さ、話は終わりだ」
神崎はそう言うと、3本の吸い殻が入っている灰皿を持って椅子から立ち上がり、ゴミ箱に捨てた。
「もう昼休憩も終わりだ。午後の診察が始まるぞ」
「・・・えっ!?」
神崎の言葉にはっとした田原は、すぐに腕時計を確認する。彼はそこで初めて、神崎の話を聞いている間に1時間半も時間が経っていたことに気付いた。
「・・・い、何時の間に!」
呆気にとられている田原に、神崎は1つの疑問をぶつける。
「・・・ずっと俺の話を聞いていたけれど、昼は食べたのか?」
「!」
指摘された直後、田原は異常なまでの空腹感に急に襲われる。
「・・・す、すぐ食べて来ます!」
そう言うと、田原は自分の弁当が置いてある検査室の前のロッカーへと走る。廊下の向こうに小さくなっていく後輩の後ろ姿を、神崎はじっと見つめていた。
つらい過去を描いた今回の話ですが、話の内容としては「例え集団全体から抱く印象が”悪”でも、集団を構成する個々を見れば良い奴もいれば、悪い奴もいる。それはどの国も変わらない」というスタンスで描いています。




